「サグメ、サグメはどこに?」
月の都。その最深部にて豪奢な着物を身に纏った女性、ツクヨミは一人の少女の名を呼びながら館を歩く。早足で歩く彼女の手元には、数枚の書類が握られていた。
それらは地上で起きている一連の騒動についての報告書であった。
現在、秘密裏にではあるが、月の民から複数名の監視者が地上に派遣されている。地上で不穏な動きがないかを監視するためだ。
ここ数年における地上の動向は、一部例外を除いて静かなものであった。
だがつい先ほど届けられた情報には、無視できない異常事態が記されていた。
「サグメっ!!」
曲がり角の先。
ふと、廊下の奥から僅かに布が擦れる音がした。間もなくツクヨミの瞳は、ゆっくりと近づいてくる稀神サグメの姿を捉える。
するとツクヨミは自然と周囲が静寂に包まれていく感覚を覚えた。彼女がもつ独特な雰囲気のおかげとも言えるのだろうか、それに当てられると自分がどれだけ焦っていようとも冷静にしてくれる。
先ほどまであれだけ焦っていたことで羞恥に駆られたのか、赤面しつつも少し落ち着きを取り戻した様子のツクヨミは、一つ咳ばらいをしてから言った。
「ああ、サグメ。先程から姿が見えないものですから、探しましたよ? 貴方がおらぬ間に、私の元へこんな報告書が届けられました」
サグメの前に突き出した報告書には、細かい字でびっしりと詳細に事態が記されていた。
「八雲紫が想定外の行動を取りつつあります。このままでは、計画に支障をきたしてしまう」
「……」
上に立つ者として常に冷静でいるようにと側近の者から日々指摘されているものの、依然としてツクヨミには未熟さが垣間見える。
つい先程だって自分が来る前までは取り乱し気味であった。そんな主君の姿に溜息をつきながらも、何時ものように口を押えるようなポーズのまま、サグメは無言で書類を受け取った。
「先代との思いを断ち切れないからこそ、御しやすかったというのに。あろうことかあっさりとその未練を捨てたのです。アレは、まともな神経をしていませんよ。一日でがらりと人が変わったとでも? ありえません……」
確かに、かつてサグメは八雲紫が遠い過去から時を越えてきた存在である可能性について、そして彼女と先代ツクヨミの間の関係性についても語った。
それらの情報と八雲紫の監視状況を照らし合わせれば、八雲紫が先代ツクヨミに対して何らかの未練を持っているという結論に至ってもおかしくはない。だが目の前にいるツクヨミは、古の神がもつ責務を未だ取り戻していないがゆえに知らないのだ。
「…………そうでは、ないのです」
舌禍を招く能力をもつサグメが、口を開く。
「表向きには活動していませんが、彼女は日々、異分子の排除に奔走しているのです。そうして歪を正すべく異分子を排除するたびに、彼女の自我は時々刻々と削れていく」
彼女の声は耳を傾ける者を魅了する確かな力があった。当然、ツクヨミにサグメの言葉を遮ることはできなかった。
「私やあの神霊とは異なり、彼女は自我の境界が曖昧。中でも多くを占めるのはおそらく二人分でしょうが、彼女の心境も変化していくのは当然と言えましょう」
八雲紫が絡んだ事象を逆転することをできない。ゆえにサグメは口頭でツクヨミに答えた。
「そしてはなから、我々の中にまともな神経をしている者などいません」
自嘲し気味にサグメは笑う。
「(まともであれたのなら、どれだけよかったか……)」
聞こえないほどの小さな声であった。ツクヨミからは、俯き書類に目を通しているようにしか映らない。けっしてサグメは、自らの内心を外に出そうとはしない。
彼女はツクヨミの方を向き、一通り読み終えた書類をツクヨミに手渡す。彼女が目を通し終えるまでの時間は、ほんの少しであった。彼女からすれば、想定外であることは想定内であったからである。
「書類、確認いたしました。こちらの思惑からは外れて行きましたが、問題ありません。当初の手筈通りに進めます」
「なんと……!」
「そもそも、初代博麗の巫女は、私が地上へ放った布石の一つ。八雲紫ならば、いずれ彼女という餌に食いつくだろうと予想した上でのものです。まあ、交渉を持ちかけたまでは良かったのですが、我々にとっても思いがけない要素である“伊吹萃香”。彼女が一つの障害となった。だが、たったそれだけです」
「あの、小鬼ですか……? あのような小鬼一匹に、狂わされたと?」
「ええ、アレもまた、運命を狂わせるだけの器の持ち主だったということでしょう。しかし彼女の登場はむしろ好都合であったのかもしれません」
「異分子でなく、ということはつまり…………っ!?」
何かを納得しかけたツクヨミであったが、驚きのあまり静かに唾を飲み込んだ。そういえば、サグメは
しかし彼女はたった今、それら皆に関係ないはずの『伊吹萃香』について言及したのだ。
「(サグメ……、貴方は何かを知っているのですね? 私に話していない、何かを)」
サグメの瞳は何を映しているのだろう。漠然とツクヨミは思った。
そして溜息をついた。月の戦の折も然り、ここまでで己の未熟さは自覚しているつもりである。彼女も少しは冷静になれたのであろうか、むやみやたらに賢者に尋ねるのではなく、自分で彼女の思惑を見通そうとしていた。
「(古の神と、祝福されし子……そして、異分子。それら三つの要素が絡んでいることは間違いない)」
しかし、ツクヨミはそれら三つの存在について詳しく知っているわけではない。
把握しているのは、対立構造を呈していることぐらいである。
「(古の神の数は、四柱であるはず。後戸の神、地獄の女神、魔界の女神、そして、もう一人。それが私である可能性は十分にある。しかし、これまでサグメは一度も私のことを古の神とは呼んでいない。つまり、私が古の神としての責務を知らないことと、何らかのつながりがある?)」
疑問は古の神についてだけではない。
「(さらに一柱の古の神と契約できるの者が一人であるとすると、祝福されし子の数もそれに対応して四人いることになる。……そう、本来であるならば)」
今分かっているサグメの狙いは、八雲紫という特異点を使って均衡を崩し、歪を修正するというものだ。そのため、彼女をいかに制御して事態をこちらの思惑通りに進めるかという点に重きを置いているのだとツクヨミは理解していた。
すると、やはり八雲紫が暴走するのはいただけない。だが、見方を逆転すればこうともとれる。
『手に負えないほどに事態が混乱すれば、サグメの能力は問題なく発動する』
確たる証拠はない。
しかし、あながち間違ってもいないとツクヨミは思う。何時かのように、彼女は己を導いてくれる。それだけは確信しているし、彼女を信頼していた。それゆえにツクヨミはサグメが動き出すのを待つことにした。
彼女は何かを待っているのだ。確信をもって、事態を逆転させる何かを。
「……そんなに、心配そうなお顔をなさらないでください。ツクヨミ様」
しかし顔には出ていたらしく、サグメは少し微笑みながらツクヨミを案じた。
「まったく。貴方には、敵いませんね」
ツクヨミの表情が和らいだ瞬間。
何かの因果か、それはタイミング良く起きた。
「っ!?」
サグメの目が大きく見開かれる。
片翼の翼を広げ、数枚の羽がツクヨミの手元へ舞い落ちた。
まるで何かを感じ取った様子に、ツクヨミは声に出さずにじっと見守る。己の信頼する賢者が何を目指しているのか、見届けようとしているのだ。
「——————」
ぽそりとサグメは呟く。
それほど長い言葉ではなかった。しかし何かの合図であったようである。
天秤のようにバランスをとっていた運命の均衡は確かに崩れ、二つに一つの答えが直にやってくるのだ。
「ふふっ」
サグメが、笑った。
かすかに漏れ出たのはわずかな喜色が混ざった吐息だった。紅潮する頬はやけに艶やかで、まるで熱に浮かされているようにも見えた。
「……ああ、ツクヨミ様。貴方様は、もう直に全てを理解されることでしょう」
「なんですって……?」
独り話を進めていくサグメが何を言わんとしているのか理解が追い付かないが、彼女が口を開いたということは、彼女なりに何らかの見通しがついたということであろう。
喉を鳴らして唾を飲み込んだツクヨミの視線の先で、サグメは宣言する。
「——今、このとき」
「——運命は逆転する」
*******
古くから、人間は地底のことをこの世ならざる別世界として認識してきた。その理由の一つとして、恐怖の象徴たる暗闇の存在が欠かせない。
人は活動時間を夜から、太陽が出ている昼に移して久しい。進化の過程で人間は夜目を失い、夜は外に出ることなく大人しくするようになった。暗闇に対して根源的な恐怖を感じるのである。
懐中電灯などない時代、昼夜問わず暗い地底は人間達にとって身近な恐怖の対象であった。それゆえ、地底は人が死後に行き着く地獄としても考えられてきたのだ。
四季映姫・ヤマザナドゥが閻魔を務める地獄は、まさに地底に存在している。
しかし、今まさにその地獄に異常が発生していた。
怨霊が大量発生したのである。
人は死後、幽霊となって三途の川を渡り、うち罪を犯した者達は地獄に堕とされる。そして閻魔によりその罪の重さを裁定され、罪を償い続けることとなるのだ。
当然、その地獄に流れ込む魂の量は、常に管理されていなければならない。よって、許容量を超えることはまずありえないのである。加えて、もし仮に魂が溢れることになったのだとしても、地獄にはそれなりの応急処置を行う用意があった。
そもそも、怨霊が大量発生すること自体がまずおかしいのだ。
怨霊とは、魂が生前の負の感情に引き寄せられて現に具現化し、悪意のままに行動する厄介な代物である。本来であればどんなに罪を犯した人間であれ、妖怪であれ、怨霊となるには相応の怨念が必要となるはずだ。簡単になっていいものではない。
だというのに、現在、地獄は怨霊で溢れかえり阿鼻叫喚となっている。明らかな異常事態であった。
【神無月 一日 深夜】
「(怨霊が大量発生するなど、自然に起きるはずがない。一体何が、起きている……?)」
この騒動の発端は、処理できない量の魂が流入し、その多くが怨霊と化したことによる。鬼の四天王たる伊吹萃香が焼き殺した城下の防衛隊の者達。そして妖怪の山での戦闘で命を失った人妖の魂。それら皆が地獄に押し寄せてきたのだ。
無論、地獄に務める者達は必死に抗ったが、それも焼け石に水であった。
好転する兆しすら見せない状況に、地獄の閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥは表には出さずとも悪態をついた。
「(上層部は何をしているのですかっ! この状況で何の指示も送らぬなど、具の骨頂。一体何を躊躇している!!)」
こうなっては何時になるか分からぬ指示を待ってはいられない。
ただでさえ状況は刻一刻と悪化の一途をたどっているのだ。少しでも早く事態を鎮静化する必要がある。このままでは正常な魂まで汚染され、ますます手が付けられなくなってしまう恐れすらあるのだ。
報告書を両手に事態の把握をしていた映姫は、思索から脱して辺りを見回す。すると、どの死神も心なしか仕事に身が入っていない様子であった。
緊急事態に際して彼らが焦ってしまうのも納得できるが、そのまま放っておくわけにもいかない。
「手の空いている者は即刻、溢れ出た怨霊の確保をっ!! 負傷者は後退し、医療班は優先順位から治療を施すように!! 裁定を止めるわけにはいきません、残りの者は私について来なさいっ!!」
不安と動揺が蔓延していた広間に、映姫の声が響き渡る。事態が深刻であるゆえに、彼らにはいつも以上の働きをしてもらわなければならないのだ。
彼女の一声で多数の死神が正気に戻り、慌てて己の職務を果たすべく行動を開始した。視界の隅では、腕に自信のある者達がそれぞれの獲物を持って怨霊の確保へと向かい、またある者は負傷者の元へ駆けていく姿が見受けられる。
「(他の方の状況がまだ把握できていない……。上層部には期待できませんが、せめて連携ぐらいなら見込めるかもしれませんね)」
彼女以外の閻魔も、それぞれの持ち場で指示を出しているのだろうが、現在は連携が取れていない。まずはここから解消していく必要がある。そう判断した映姫は追加で他の閻魔と連絡を取るよう指示した。
「(しかし処理できる上限がこれでは、いくら裁定しても追いつかない。秩序の崩壊は必死。なんとかせねば……)」
できる手を全て打ってもなお、好転の兆しが見込めない状況。
地獄からすれば、まさに未曽有の災害であった。さらに状況が悪化すれば、この地獄を放棄することも考慮に入れなければならないだろう。
なおさらに、上層部との連絡が取れないことが彼女をいら立たせていた。
「……上層部との連絡は?」
「依然として取れません。継続して試みてはいますが、まったく。これでは、
「周辺に不審な者がいないかを再度確認するように。見つけ次第、警告なしで排除しても構いません」
「はっ!!」
思わず肩の力が入りそうになる映姫であったが、それを必死に堪えた。ここで自分が取り乱していては、部下に余計な動揺が広がってしまう。これ以上、士気を下げるわけにもいかないのだ。すぐ傍についていた部下に一通りの指示をし終えると、誰にも気づかれないように溜息をつき、映姫は自室へと入った。
かと言って当然、彼女の仕事がなくなったわけではない。
机には山積みとなった書類の数々。その多くがほんの数分の間で生じたものである。
とてもではないが、簡単に処理できる量ではない。『相変わらずこの仕事には不満が絶えませんね』などと映姫は今日一番の深いため息をつく。けっして閻魔という責務自体にではなく、地獄という体制についての不満は募るばかりであった。
今回の件も初期対応に明らかな不備があったのだ。それは現場の責任でもあるが、現場の柔軟な対応を制限している今の体制にも大きな問題があった。
地獄の上層部は腐敗している。
それは、映姫が閻魔となってから長年感じてきた不満であった。
「(それにしてもこのような事態、偶然とも考えにくい。しかしこのような大掛かりな戦を仕立て上げることなど可能でしょうか? そもそも、此度の戦の発端は三年前にまで遡りますし……)」
体制への不満はそこそこに、映姫は黒幕について考えを巡らせた。無論、彼女の目は資料に向けられており、着々と仕事を進めている。
「(三年前の戦。確か、戦嫌いと噂であった領主が突如として宣戦布告し、泥沼になりましたね……)」
元々は、二国間の戦であった。
それが周辺の小国を巻き込んでの大戦となり、二国の間で休戦協定が結ばれるまでに他の小国があまねく滅んだ。
今回の件を裏で手引きした者がいるならば、その者の目的とは一体何か? 黒幕を見つけたところで、いかにして対処するか?
考え出せば止まらないが、早急に手を打つ必要がある以上、そうそう時間をかけてはいられない。
とはいえ、情報も少ない。黒幕を判断するだけの情報が揃っていない今、無駄に時間が過ぎていくのもまた確かである。
「(はぁ、ここで私が悩んだところで、どうにかできるわけでもないですがね……)」
頭を回転させながらも、手元の資料を着々と片付ける映姫。
傍から見れば仕事に集中しているように見える。しかし実際のところ彼女は今回の件に首謀者がいると仮想して、ああでもないこうでもないと考えを巡らせていた。
「(地獄に対して真向から敵対できるような存在、なんているわけがありませんよね……)」
地獄を敵に回すなど、命知らずにも程がある。いるとすれば、余程の化け物に違いない。
そんなことを考えながら、書類を一枚一枚処理していく。
カサリ、と紙の資料同士がすれる音。先程から彼女の私室で聞こえる音は、それくらいのものである。必要事項を記入し終えた資料を机の端に置こうと視線を逸らし、再び視線を前に戻す。
「(ん? これは……?)」
どこから混ざって来たのか、彼女の手に握られてたのはかつて目にした“祝福されし子”のリストであった。
「(どうしてこんなところに? いいや、待て……!!)」
背筋が凍り付いた。
「(——心当たりが一人いる……!!)」
今回の騒動を引き起こすことのできる人物に思い至る。
だからこそ、一瞬だけ気づくのに遅れた。
侵入者がいたのだ。
映姫が『何時の間に』などと問う暇もなく、侵入者は口を開く。
「ご機嫌麗しゅう、四季映姫様。どうやらお困りのようですわね?」
今、映姫が最も恐れ、今回の騒動を引き起こしたと思われる者。
境界の妖怪。八雲紫がそこにいた。
******
ここのところ、八雲紫の監視状況は頗る良好といってよかった。
彼女が不穏な活動している様は見受けられなかったし、何より西行寺幽々子を通して彼女の目論見は筒抜けだった。
魔多羅隠岐奈は幽々子のことを疑っているらしいが、彼女もまだ確信にまでは至っていないようで、直接手を打ってくる様子もない。
紫が一人スキマを開いて何処かへ転移するのも、目的が明らかだった。
彼女は異分子と疑わしき者の元へと赴き、直接その手で排除しに回っていたのだ。
ついひと月前などは、異分子の存在によって盲目となってしまった少女を救うべく大陸にまで渡っていた。八雲紫は例外的な存在であるからこそ、異分子を即座に抹消し、その拡大を抑えることができる。そんな彼女の行動はある意味わかりやすく、監視をつけたことでより正確に行動を予測することができていた。
よって地獄は、彼女の行いが自分達にとっても有益であるとして別段妨害するなどという方針はとらなかった。
そうだ。此処までは良かったはずなのだ。
しかし思い返してみれば、映姫は幽々子の定期的な報告から違和感を覚えていた。
八雲紫は、本当にこのまま一人ひとりずつ異分子を排除していくのだろうか、と。異分子の数は正確には分かっていないが相当数いるとされている。したがって、紫一人で全滅させるにはあまりに時間がかかり過ぎてしまうのだ。サグメや純狐と手を組むにせよ、彼女たちと歩調が合うとは到底思えない。すると、彼女は必ず異分子抹消にかかる時間の短縮に踏み切るはずだ。
時間の短縮、つまり彼女は周囲一帯を管理下に置くことで異分子を一か所に集め、一網打尽にしようと考えているのではないだろうか。
そこまで行きついた映姫は八雲紫を今回の騒動の主犯であると考えたのである。
油断なく視線を向ける映姫に、紫は余裕たっぷりに笑った。以前、映姫が会ったときとは纏う雰囲気がまったく異なる。互いの立場自体は変わっていないが、力の均衡は完全に崩れていたのだ。
そして彼女は背後に、妖狐の従者まで連れている。
足手まといとなることを承知の上で、である。それはつまり、彼女の余裕を表してもいた。自らの置かれている状況を把握できない映姫ではない。
突如として自分の根城に侵入され、そして外界への救援を要請する手段まで奪われている。不利どころの話ではない。このままでは一方的に嬲り殺されてしまう可能性すらある。
ただでさえ映姫は命令とはいえ、幽々子を洗脳しているのだ。紫がその報復にと、この機に乗じて地獄に攻め込んできたのだとしてもおかしくはない。
「……八雲紫、一体何のようでここに?」
努めて平静を保ち、映姫は眉をひそめて答えた。
それが彼女のなりの精一杯であった。
「今、私は忙しい。貴方に構っている暇などありません。ここから早く立ち去りなさい」
「まあまあ、そんなことは仰らずに。それは大層お困りになっているようでしたから、提案をもって参ったのです」
「提案、とな?」
「ええ、そうです。それはそれは、きわめて建設的な提案ですわ」
紫は地面に降り立ち、瞬きする間に映姫のすぐ近くまで転移する。努めて冷静に振舞う映姫であったが、彼女は内心恐怖していた。
紫の表情は一見、豊かなようにも見える。しかしよく見ればそれは外見を取り繕っただけの仮面に過ぎなかった。仮面の下に潜む、隠しきれない狂気を映姫は感じ取ったのだ。
彼女の纏う禍々しさが、以前よりも増している。何より、彼女の目はここまで黒く濁っていただろうか。数週間前に受けた西行寺幽々子からの報告とはまるで違う、未知なる脅威が目の前にあった。
「以前と同様。率直にお伝えします」
紫の冷たい声が映姫を現実に引き戻す。
「——地獄を、移しましょう」
彼女の一言に、映姫は戦慄した。何を言っているのかを理解しようとすることを拒むかのように頭は思考を停止する。もはや『何を』という、たった三文字ですら口から発することができなかった。
それに、自身は閻魔の一人に過ぎない。映姫の権限では、そのような重大事項に頷くことなどできないのだ。どうしてこのような重要な件を一閻魔である己に持ち掛けているのか? 現時点では、映姫には皆目見当がつかなかった。
しかし、八雲紫は気にも留めていない様子で続ける。
「すでにお判りでしょうけれど、ここは直に怨霊で溢れかえります。しかし、地獄が機能を停止してしまえば裁定を待つ魂の数が増え、輪廻転生の理に影響をきたしてしまうでしょう。それでは余計に運命を狂わされてしまう魂が増えてしまいますわ。ですからその前に地獄を別の場所へ転移させてしまえばよろしいのです」
紫の提案には思い当たる節があった。
「(強引に移転させて、それ以降に流れ込んできた魂は切り捨てる、ということですか)」
もとから紫はそのつもりであったのだろう。多くの人間の魂が怨霊となろうとも、地獄を移転させるだけの覚悟があるということだ。
だが、映姫にとってそれは当然、そう易々と看過できるようなものではなかった。
「……簡単に言いますね。貴方は自分で何を言っているのか分かっているのですか?」
「ええ。しかし初めに言ったはずですわ。これは、きわめて建設的な提案なのです。それに映姫様、貴方様ならば私の能力のことなど、きっと誰よりもお詳しいのでは? 地獄を移し、事態を収束させることなど造作もない」
彼女の目は本気であった。嘘偽りなどまったく含まれていない真っ直ぐな目。
単にそれだけであるならば多少、信ずるに値したのかもしれないが、今の紫は表情を取り繕っているだけで、自らが発する禍々しい妖気を隠そうともしていない。人妖問わず心身を狂わせる迷惑な妖気である。
言葉や外面上では腰の低い態度を取っているが、実際、脅迫染みたことをしているのに他ならないのだ。
「……」
続く言葉が見つからず、沈黙する映姫に紫は言った。
「きっと、何故? とでもお思いになっていることでしょう。それは至極当然な疑問ですが、貴方様には心当たりがある」
映姫が唾を飲み込んだ。
やはり八雲紫は全て知っているのだ。現在、映姫が西行寺幽々子を洗脳して手駒にしていることから、地獄の内情までの全てを。
「貴方様の一存で決められるようなことではない。それも承知しています。そして貴方様もどうやら板挟みになっている様子」
紫は静かに、映姫の隣に移動した。
そして、耳元で囁く。
「……はい、そうです。なればこそ、映姫様。お覚悟があるのでしたら、私と取引をしませんか?」
心を読み、甘美で万人を惑わす瞳。
脳髄を溶かし判断力を鈍らせるような魔力を孕んだ声。
危険だ。このままでは呑み込まれる。
閻魔である四季映姫でさえ抗えなくなりそうであった。
「共に、地獄を変えてしまいましょう。今の地獄は腐敗しています。本来、為すべきは魂の裁断であるはず。なのにも関わらず、彼らは要らぬことに手を出し、挙句事態を余計に混乱させている。この地獄が機能不全に陥っているのも、彼らが内部に注力しなかったからでしょう? いい機会ではありませんか、貴方と同じような思いを持つ方は、他にも多くいますわ。貴方が一声挙げれば、誰も反対などしません」
「……その見返りに、私に何を求める?」
「これから作る、“楽園”の閻魔になってもらいたく存じます。勿論、交代制で構いませんわ。ただ私が要求するのは、四季映姫・ヤマザナドゥ。貴方が幻想郷の閻魔となるということ」
「たった、それだけですか」
「はい。しかしそれが私にとっては肝要なのです。貴方がいなければ、
「……っ」
映姫は言葉を飲み込んだ。
これ以上は問うても無駄だと理解したのだ。彼女は本気だろう。映姫に向かって、これから紫が作る“幻想郷”で、閻魔につくだけで今回の件を収束させると言っている。
たった一人の妖怪の力で、地獄そのものを移すことなど不可能と誰もが思うかもしれない。しかし八雲紫であれば話は違う。
そもそも、彼女は自分がやったと明言していないが、今回の騒動を引き起こしたのは十中八九、八雲紫だろう。彼女自らが引き起こしたのだ。それなら彼女は騒動を収束させるだけの手段を有しているに違いない。
彼女にとっては朝飯前であろう。
そこまで行きついたところで映姫は、紫の提案を呑むべきかを改めて考えた。
「(今の地獄に、とてもではないが価値は見いだせない。たしかに彼女の言う通り、秩序は乱れ、本来あるべき姿からかけ離れてしまった今の地獄がこの事態を打開できるはずもない。それなら彼女の提案に乗るというのも手ではある……。しかしこれが、この選択が本当に正しいと言える確証もまた、ない)」
強引ではあるが、紫は地獄の改革を行うと宣言している。穿った目を持たずにいれば協力することも吝かではない。上層部の腐敗を取り除ければ、そして彼女が望むのなら幽々子を開放してもいい。むしろ喜んで開放する。
だが、今の彼女は以前と比べて信ずるに値するかと問われれば、難しい。ゆえに西行寺幽々子という最終手段を手放すわけにもいかない。彼女の身一つで八雲紫を抑えきれるかは不安だが、確実に足止めはできるのだから。
「(そういえば)」
ほんの数日前に、ヘカーティアが再び自身の元を訪れてきたときのことを思い出す。
「(ヘカーティア様から聞いた話によれば、摩多羅隠岐奈が表立ってこちらの邪魔立てを行う様子は見受けられていない。となると八雲紫も、まだ彼女にそそのかされてはいないのかもしれない)」
それは希望的観測である。
「(しかし……)」
彼女を信じるには、危険すぎる。
判断するには材料が少なすぎるが、彼女が時間を与えてくれる様子もないため、ここで全てを決さなくてはならないのだ。
決めてしまえば、もう引き返せない。
「……私は——」
映姫が口を開こうとしたとき、先に背後から気配がした。
咄嗟に振り返った映姫の表情が驚愕に染まっていく。まさか、こんなタイミングで現れるとは思ってもいなかったのである。
八雲紫にも引けを取らない、圧倒的存在感であった。
大きく、暖かく、万物を照らし眩い光を放つ存在。
それはまるで、太陽のように。
「——これ以上、好き勝手はさせないわよん」
僅かな間、紫の表情が切り替わった。
明確な敵意をもって映姫の背後に立つ者を睨みつけたが、すぐに表情は元に戻る。
「好き勝手、とは?」
「その娘にちょっかいをかけることよ、八雲紫。臆病な貴方にしては随分と、肝が据わっているんじゃない?」
内心で紫は舌打ちをした。隠岐奈が派手に動いている間に行動を開始したというのに、この地獄の女神はどうやら、耳が早いらしい。
そして何より厄介なのが、四季映姫に精神的な余裕を与えてしまった点である。映姫の顔に、僅かな安堵の色が混ざったことを紫は確認していた。
これでは有利に交渉を進めることが難しくなってしまう。
「もちろん、それ相応の覚悟をもっているのよね? 具体的には、私を一人で相手取るくらいの」
今の自分でも、まともに相手をするには分が悪い“古の神”の一柱。
それも、最も敵に回したくない存在である。
隠岐奈と手を組めば万全であるが、彼女は現在手が離せない状態にある。紫は微笑みを湛えたまま声の主に答えた。
「うふふ。こんなところまでご足労頂かなくても、私自ら伺いますのに。よほどこの方のことを気にかけていらっしゃるのね? ヘカーティア・ラピスラズリ様」
「ええ、でも残念。今は遊んでいる暇はないの。貴方達の所為でね、せっかく休暇を楽しんでいたのに忙しくなってきてしまったわ。おかげでこちらもなりふり構っていられなくなった」
「それは、そちらが日和見だからでございましょう? いつでも手を下せたというのに、様子見ばかり。貴方は自らの使命を全うしようともせずに、事態を悪化させた。だから私が代わりに動いだのです」
「ほう、なるほどね。随分と仕事熱心なこと。感心したいくらいだわ」
ヘカーティアは強張っていた映姫の身体を優しく抱き留め、されど視線は厳しく紫に向けたまま、言った。
「八雲紫。貴方、過去に飛ばされた後の記憶を、全て取り戻したようね?」
「……」
「そして取り戻した力を残して、記憶だけを手放そうとしている。確かに、マエリベリー・ハーンとしての記憶を捨てさらなければ、貴方は未完成のままだわ」
依然として厳しい眼差しを向けるヘカーティアは、努めて声を低めて言った。
「私は別に、過去の自分を斬り捨てる行為自体を悪いことだとは言わない。自分自身の選択だもの。それで貴方の気が済むのなら、それはそれでいい。けれどね、自ら破滅に突き進むのだけは見過ごせないわ。貴方はどうしてその身をすり潰そうとするのかしら? 貴方が足掻いたところで、宇佐見蓮子はこの世界にはいない。全てを投げうっても、手遅れなのに」
一瞬、時が止まった。
「はは、本当に、おかしいわぁ」
八雲紫は笑っていた。
「まったく古の神が言うことはいつも同じなのですね。どの方も口を開けば、その名ばかり。彼女の名を出せば、私が止まるとでもお思いで? もしもそうなのでしたら、随分と浅はかですのね」
「違う、私は——」
「古の神よ。私の祈りはただ一つ。この世界の歪を正すことです」
紫はヘカーティアの目を真っ直ぐと見つめ、はっきりと言い切った。
すると彼女の背後にスキマが開く。奥には無数の目がヘカーティア達を覗いていた。
「私は、この身がどうなろうと構わない」
紫の足元から、地面が黒く染まっていく。
よく目を凝らせば、何かの顔が浮かび上がって見える。これまで紫によって排除されて来た魑魅魍魎の怨念であろうか、それとも単に取り込まれた者達の末路なのか、一片の混じりもない黒い瘴気は、強力な呪いとして二人に迫って来た。
少しずつ、這い寄って来る。
獲物を探すように、ゆっくりと。
幻聴だろうか、映姫の耳元で、呻き声が聞こえた。
「ひっ!?」
小さく声を上げた映姫は、こちらを見つめる無数の目と目が合ってしまった。
気づかれた。
彼らは映姫を見止めるや、にたりと嗤った。
気づけば映姫は瘴気に周囲を取り囲まれ、視界が真っ暗に染まっていた。
否、瘴気は黒い肉塊となって映姫を押しつぶそうとしていた。
「(なんですかこれはっ!? 呼吸が、できない……!?)」
途端に映姫は呼吸に喘ぎ、吐き気を催した。
声も出なくなるような冒涜的な光景に、映姫の瞳が濁り始める。
「ぜひっ、ぜひっ、ふ、ふぅっ、ふぅ」
息が上がる。
逃れられない。
身体が動かない。
だが、忘れてはならない。
映姫の隣には、彼女がいる。
「目を瞑りなさい。目に見えるものは皆、其処にはいない。居るのは貴方。其処には誰も、やってこない。深呼吸をするの」
気づけば映姫は、ヘカーティアに抱きしめられていた。
耳元でするヘカーティアの声は、狂気に支配されてしまいそうになっても、聞き取れた。
「ヘカーティア、様……」
「ごめんね、映姫ちゃん。巻き込んじゃって」
そう答えるヘカーティアであったが、視線は変わらず八雲紫に向いていた。どうしてここまでの混沌を受けてなお、この地獄の女神は正気を保っていられるのか? 閻魔である映姫ですらうかがい知れなかった。
「……貴方はこれまで、この世界で何を学んできたのかしら? 一体何のために私達が貴方と彼らと引き合わせたと思っているの?」
ヘカーティアの声は心なしか、震えていた。
恐怖からではない。悲哀の籠った怒りからであった。
途端、徐々に侵食してきていた瘴気を食い止まり、ヘカーティアから発せられる眩い光が押し返した。
「前の貴方は力だけを望んではいなかった。だからこそすぐに記憶を捨てたりはしなかったし、五年の間も悩み続けていたじゃない!」
「むしろ五年をかけて、決心したのよ」
「それは、決心ではないわ。諦念よ」
言葉の応酬と共に繰り広げられる両者の力のぶつけ合い。
しかし互いが全力で衝突しないのは、双方にそれなりの理由があるからであった。
一対一で分が悪い紫は当然ながら正面衝突を避ける。一方でヘカーティアは背後にいる映姫を巻き込むわけにいかず、全力を出せない。
「(ここで二人が争えば、間違いなく状況は悪化する)」
一人、苦しみに耐えながら立ち上がる映姫は、対峙する両者を前に冷静さを取り戻していた。
すでに状況は、ひっ迫しているのだ。いつまでも黙っているわけにもいかなかった。
地獄の命運は、自分の答えにかかっている。答えなど、半ば分かりきったものであるが。
いずれにせよ、何も手を打たなければ無数の魂が溢れかえり、怨霊となってやがて地上へ流れ出ていってしまうことだろう。そうなればもう、取り返しのつかない大災害となる。
それだけは絶対に阻止せねばならないのだ。
「やめて、くださいっ!!」
彼女の叫び声に、虚を突かれた紫とヘカーティアの両者が動きを止める。
映姫の『白黒はっきりつける程度の能力』が発動したのだ。
それは、彼女が“決意”したことの表れでもあった。
「はぁ、はぁ」
先ほどまで意識を奪われかけていたせいか息がまだ荒い映姫であったが、言葉はしっかりとしていた。
「八雲紫。貴方の、提案を受け入れます」
「……映姫ちゃん?」
さすがのヘカーティアも思っていなかったらしい。目を丸くして映姫を茫然と見つめていた。
「ヘカーティア様、申し訳ありません。現状のままでは、この地獄は必ず崩壊します。我々には他に手段がない」
「だ、だからって——」
「一閻魔である私からしても、地獄の上層部の腐敗を許すことはできないのです」
「っ!」
再び映姫は紫の方に向き直り、顔色が悪いながらも毅然とした表情で言った。
「八雲紫……。
「……っ。承知しましたわ、映姫様」
内心、人質など意味をなさないと分かっているのにと自嘲する映姫であったが、予想外なことに西行寺幽々子の名を出したことが効いたのか、紫は一瞬表情を歪めた。
「ふふ、私としたことが、少し熱くなってしまいましたわね」
しかし、次の瞬間には元のにこやかな表情に戻っていた。
「私は早速、事態の収拾に向かいますわ。それでは御機嫌よう」
後方でずっと控えていた従者を連れ、紫はスキマの奥へと消えていく。
途端に瘴気も威圧感もどこかへ行ってしまった。
つい先程までの光景が幻であったかのように、映姫の私室は静寂に包まれる。
肩に入っていた力が抜けてしまったのか、崩れ落ちるように椅子に座り込む映姫。
「もう、勘弁してほしいですね。こんなことは……」
だからこそ彼女の口から出てきたのは普段外には現れない彼女の本心であった。
「……ごめんね、映姫ちゃん」
ヘカーティアにしては珍しく、重々しい声色である。
映姫が振り返ると、そこには普段よりも表情の暗いヘカーティアがいた。
「私も、少し熱くなり過ぎていたわ。映姫ちゃんが地獄の崩壊を望んでいないのは当然。どうかしているわよね、地獄の女神ともあろう者が地獄の崩壊を見過ごすだなんて」
「いいえ、ヘカーティア様。貴方様がいらっしゃらなければ、彼女にあのまま呑まれていました。本当に助かりましたよ」
「ありがとう……。でも違うの。私はあの娘を止めるために地獄を、ひいては貴方も犠牲にするところだった」
ヘカーティアの言葉に違和感を覚えた映姫。
一体、彼女は何を知っているのだろう。そんな疑問も次の瞬間にはどこかへ雲散していた。
「映姫ちゃん、全てを貴方に話すわ」
「……?」
小首をかしげる映姫に、ヘカーティアは遥か昔を思い出すかのように言う。
「あの娘……。八雲紫はね、私達が歪めてしまったの」