それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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人の章:語られたもの

『幽霊が増えた理由が、六十年に一回くらい起こるのです。花はその結果です。地震、噴火、津波、戦争。何かは判らないけど』

 

 ——東方花映塚 四季映姫 Episode Final “無縁塚” より

 

 

 

 

 

 地底の奥深く、地獄。その広大な敷地の中に用意された映姫の一室で、しばし沈黙が続いていた。

 心なしか憔悴した様子で背もたれつきの椅子に座る映姫の目の前には、地獄の女神たるヘカーティア・ラピスラズリ。ことの発端は、彼女が先ほど口にした言葉にあった。

 

『あの娘……。八雲紫はね、私達が歪めてしまったの』

 

 映姫は少なくない衝撃を受けた。

 たしかに、彼女たち古の神々と八雲紫の間には、何らかのつながりがある。それが何かと問われても答えられないほど巧妙に隠されている、何かがだ。

 とすればこれからヘカーティアが映姫に語ろうとしている情報は、それだけ重大なものなのではないだろうか。間違いなく、一度聞いてしまったら部外者ではなくなるだろう。

 

 そう直感したからこそ。

 言葉を選びながら、映姫は慎重に問う。

 

「……失礼ながら、ヘカーティア様。八雲紫を歪めたとは、一体どのような意味なのでしょうか? 私は、果たして……それを聞いてしまってもよろしいのでしょうか? 地獄の、中途採用のしがない一閻魔の身に過ぎぬ、この私が」

「——っ」

 

 咄嗟にヘカーティアは何かを言いかけ、口を噤んだ。

 ほんの一瞬に見せた彼女の様子からは迷いが見え隠れしていた。

 想像した通り、自分が耳にしてよいものではないのかもしれない。少なくともヘカーティアが躊躇するだけの理由があるはずだ。

 

「や、やはり私などが聞いてよい内容では——」

「いいえ、ごめんなさいね。貴方が懸念しているような理由ではないわ。もっと単純で、些細な問題……」

 

 映姫の言葉を遮ってから、一つ深呼吸をするとヘカーティアは答えた。

 

「貴方を巻き込んでしまった私が言うのはきっとおこがましいわよね? けれどもう、いまさらだわ。とっくのとうに、映姫ちゃんは真実のすぐそこまで辿り着いていた。私は……、私が、誰かに知られるのを怖がっていただけ。本当は、知ってどうにかなるわけじゃない。何かが大きく変わるわけでもなくて、ただ真実を知る者が一人増える、その程度のことなのよ」

 

 どこか自嘲気で、彼女にしては珍しく、ほんの少しばかり暗そうな顔をしていた。

 そして冷静に、自分の頭の中を整理させながら、ヘカーティアは言葉を紡いだ。

 

「……けれど、いざ説明しようと急に本題に入っても、分かってもらえないかもしれないわね。ええ、順序は大事だわ。だから、順番に、一つずつゆっくりと話しましょう」

 

 ヘカーティアは悩んでいた。どう説明すれば、映姫に伝えられるだろうかと。

 自らの知る、『八雲紫』という少女の身に起きた出来事は、けっして簡単に説明できるようなものではない。彼女を利用しようと、数多の者達の思惑が絡んだゆえの複雑怪奇。何本もの意図が複雑に絡んだ一連の物語は、自分が結論から先に述べたところで簡単に理解できるはずもない。

 まして、映姫は真実に近づいていたとはいえ、これまで部外者であったことを忘れてはならない。

 

「となると、そうねぇ。ずっとここに居ても仕方ないし、もっと落ち着いて話せる場所がいいわ。八雲紫が自分から手を回すと言った以上、後のことはきっとあの娘がどうにかするでしょうし。映姫ちゃんの仕事は今ここでひと段落着いたと言ってもいいでしょう?」

「え?」

 

 急に、ヘカーティアが部屋の扉の方へ振り向く。

 

「八雲紫にあそこまで好きにさせておいて、まさかそのままなんてことはないでしょう。そろそろ、やって来る頃合いだと思うわ」

 

 映姫はヘカーティアにつられて扉の方を見た。しかし何のことやらさっぱり分からない。

 キョトンとする映姫に対してヘカーティアは訳知り顔をしていた。

 

「っ!!」

 

 するとまるで見計らったようなタイミングで、ノックの音がした。面食らった映姫に返事ができるはずもなく、

 

「——失礼する」

 

 部屋に入って来た者達は総勢十名。

 豪奢な服に身をつつむ彼らは、無礼を咎めるどころか逆にこちらが平伏してしまいそうな、ただならぬ雰囲気を放っていた。

 先頭に立っていた男が口を開く。

 

「四季映姫殿。緊急時に際しての勤め、ご苦労であった。既に我々も事態は把握している。引継ぎのことも気にしなくていい。君にはしばしの間、ヘカーティア様の後に着いて彼女の手伝いをしてもらいたい」

「え、あ、そ、そんな——」

「ヘカーティア様? まさか、彼女にまだ伝えていなかったのですか?」

「……ええ、ごめんなさいね。丁度今、彼女に話そうと思っていたところだったのよ?」

「なるほど。それではまだ、映姫殿は我々のことも、現状の事態についても知らぬということですな。機会はこれまでに数度、あったはずですが……。まさか、ぎりぎりまで伝えないおつもりで?」

「そうともいうわね。でもしょうがないじゃない。なにせ緊急事態だったのだから」

「……はぁ」

 

 先頭に立つ男は溜息をついた。後ろに並ぶ者達も一様に呆れの混じった表情である。

 地獄の女神に対して、いささか不敬とも言えるようなふるまいであったが、不思議と違和感がなかった。しかし映姫はその理由をすぐに思い知ることになる。

 何時の間にやら正面からすぐ隣へ移動していたヘカーティアが、映姫の耳元まで寄ってきて小声で言う。

 

「そんなに身構えなくても大丈夫よ。彼らは十王だから」

「っ!?!?」

 

 むしろ大丈夫ではなかった。驚きのあまり危うく椅子から転げ落ちるところであった。

 映姫は動悸を鎮めようと胸に手を置いて深呼吸をする。しかしそれでもすぐには治まらなかった。

 十王。彼らの存在だけは勿論知っていたが、直接顔を合わせるような機会などなかったのだ。だから映姫の反応はある意味当然とも言えるのかもしれない。

 中途採用の映姫にとって、ヘカーティアと並んで十王は雲の上の存在なのである。これまで常日頃から映姫が散々愚痴をこぼしていた上層部の、さらにその上に立つ者達と言えば理解しやすいだろうか。

 言葉を失っていた映姫に、先頭に立っていた十王の一人が口を開く。

 

「こちらとの連絡が妨害されていたゆえ、対処するまでに時間がかかったが、先ほどようやく、他の閻魔たちに指示を出すことができたのだ。それからは連携して魂の氾濫の対処を行っていたのだが、さすがに対処できる許容量を超えてしまっていた。やれやれ、人口増加に伴い組織を大きくしたとはいえ、腐敗に気づけないとは不覚よな」

「然り。八雲紫の思惑通りになってしまったのは癪だが、当初我々が秘密裏に進行していた計画を前倒しして実施することに相成った。どうやら、あやつには気づかれていたらしいな。『早うせい』と尻を叩かれたような気分じゃわい」

「反省は後にせんか。とはいえ、早急に組織の腐敗を正せなかったばかりか、君には辛い選択を強いることになってしまった。本当に、済まなかったな。だから、せめてもの償いをさせて欲しいのだ。後のことはどうか我々に任せてほしい」

 

 親しみやすそうな笑顔が特徴的な男に続いて、隣に立っていた別の男が映姫に言う。

 まさか十王ともあろう者に労われるとは思ってもいなかったのか、映姫は固まってしまっていた。

 そんな映姫の様子に、十王の一人である、背の高い吊り目の女性は苦笑した。彼女は映姫が複雑そうな顔をしていたのに気づいたようだった。

 

「ああ、君の不満はまったく正しい。今更、どの面をさげてやって来たのかとも思うかもしれない。ここしばらくは安寧の日々が続いたからかしら、どうにも組織の腐敗が我々の想像以上に深刻だったようね。我々の怠慢で君や他の中途採用の閻魔たちに苦労をかけてしまい申し訳なかったと思っている。だがこれを機会に、組織の腐敗した部分を洗い流してやろうとも考えているの」

 

 彼女の一言は暗に、地獄の移転が以前から企画されていたことを示していた。

 

「だから、君が彼女に呑まれなくて本当に良かったよ。もしものことがあれば、組織の崩壊までは免れても、君という優秀な人材を失うところだった」

「は、はぁ……。し、しかし私は、何も——」

「謙遜しないで。ヘカーティア様の暴走も、この通り防いでくれたのだからね」

「ちょっと!! 本人を前にしてそれを言うのはあんまりじゃないかしら!」

 

 茶目っ気たっぷりに笑う十王の一人らしい女は、「すみません」と平謝りしつつ、一つ咳払いすると、念を唱えて宙に複数の鏡を浮かせた。幾多もの鏡はそれぞれ地獄の各所を映し出していて、死神や鬼神長などが忙しなく働いている様が見て取れた。

 

 全ての鏡が地獄の様子を映し出していることを確認すると、女性はそれまでの柔らかな雰囲気から一変して、思わず背筋を正してしまいそうになるような大声を上げた。

 地獄全体に響き、鼓膜を震わす力強い声であった。

 

『——聞けっ、我らが同胞たちよ。これまでの働き、まことに大義であった。これより魂の氾濫による被害を抑えるため、この地獄を移す。だが安心するがいい、新天地の確保は既にできている。我々が各所に派遣した鬼神の指示に従い、準備ができた者から速やかに移動を開始せよ』

 

 呆気に取られて膠着する者もいたが、数秒後には金縛りが解けたかのように動き出す。有無を言わさぬ彼女の言葉に、死神たちをはじめとして地獄に務める者達は各自が最善を尽くすよう的確に働いていた。

 

 宙に浮く鏡が映し出した地獄の各所の光景に、映姫は目を見開く。不思議なことに、混乱が起きる様子はないのだ。しかしそれは、十王の言葉の重みゆえであった。

 本来なら急な移転など誰も受け入れられないはずであるが、彼らが移すと言えばそれが真になる。十王たちの決定には、誰も口出しをしない。彼らが口に出したことは必然となる。必然であるからこそ、誰も疑わずに行動できるのだ。

 

「すごい……」

 

 思わず感嘆の言葉を口にした映姫。

 それを目にした十王の一人が彼女に向かってサムズアップをし、後ろに立っていた者に頭を引っ叩かれていた。

 

「映姫ちゃん、まずは落ち着いて話せる場所へ移りましょうか。必要な物があれば、後で運び出させるわ」

「はい…………」

 

 映姫は十王たちの言葉を頭の中で反芻していた。

 自分があれこれと悩んでいるときから、いや、それより前から十王やヘカーティアは行動を起こしていたのではないか? 自分が想像もつかないような、遥か前から。

 少なくとも、地獄が移転しなければならないような事態を想定していたことは確実であろう。ただ、そう考えると後手に回っていたことがどうにも腑に落ちない。

 

 何が何やらもうさっぱりである。さすがの映姫も、急すぎる展開と目まぐるしい情報の氾濫についていけなかった。

 もう、なるようになれ。これ以上は考えても仕方ない。

 映姫はただ頷くほかなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 十王たちから『もう行ってよいぞ』という許可が下りたこともあって、映姫はヘカーティアに連れられ部屋を後にしていた。内心で、『まさか私の部屋を指令室代わりにするのですか……!?』と動揺もしていたが。

 そんな映姫は余所にして、ヘカーティアは何やら術式を展開する。

 

「つかまって」

「は、はい」

 

 準備ができたらしく言われるがまま映姫がおそるおそる腕に捕まった途端、視界が揺らぐ。ものの一瞬でどこか別の場所へ転移していた。

 非常事態で全域に結界が張られ、そう簡単に外へ転移できないようになっていたはずだが、いとも簡単にやってのけてしまうヘカーティア。

 つい先ほど同様、『何にも驚くまい』という、映姫はどこか諦めたような表情であった。

 

「座っていて。今、お茶を出すわ」

「あ、あの……、お気遣いなく……」

「いいえ。少し長くなるわ。ちょっと待っていて頂戴」

 

 呼び止めてもすでに遅かった。

 返事も聞かずにヘカーティアは扉を開き、部屋を出て行く。一人残された映姫は深く息を吐いて気を落ち着かせるしかなかった。

 いくらヘカーティアが接しやすい性格であっても、一対一でいることに緊張はする。なにせここは、彼女の私室だろうから。確かに彼のヘカーティア・ラピスラズリの私室において邪魔は入らないと思うが、自分は冷静でいられない。ただでさえ気が動転しそうになるのを必死に押さえつけているのに、あんまりだ。

 もう一度、気を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐く。すると、少しは周囲を見回すくらいの余裕が出てきた。

 

 あまり人の部屋をじっくりと見回すものでもないとは思うが、ヘカーティアの部屋は必要最低限なものだけを揃えたような、簡素な部屋であった。それが映姫には少し不思議に感じた。女神というからにはもっと荘厳な部屋を想像していたが、思いのほか物が少なくずっと落ち着いた部屋だったのだ。

 

「(ん……?)」

 

 だからこそ、ふと額縁に飾られた一枚の絵が目に留まった。

 絵画というにはあまりに写実的で、けれど映姫からすれば現実離れしたような、見慣れぬ不思議な印象を持たせる絵であった。

 

「(街……? 立ち並んでいるのは建物? いいや、それにしては不自然な形のような……。まるで鉄でできた城のような、それにしては細くて長い。あれではすぐに折れて倒壊してしまいそうですね……)」

「——お待たせしたわね」

 

 そうして疑問に思うもすぐに帰って来たヘカーティアの声に意識がいく。

 

「いえ、ありがとうございます」

「いいの、いいの。気にしないで」

 

 テーブルにティーカップを二つ置いたヘカーティアは、椅子に座ると手に取り一口。そうしてこくりと一口呑み込んだ後、彼女は映姫の目を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「それで、早速だけど本題に入りましょうか。……ああ、そうだ。その前に改めて忠告しておくわね。この間は貴方の気持ちを尊重したけれども、今回のようなことが次にまた起きるとも限らない以上、私も貴方に言っておかなくてはならないわ」

 

 ヘカーティアの声のトーンが、少し低くなった。

 

「映姫ちゃん。貴方は大分、危ういところにいたの」

「?」

 

 映姫は少し不思議に思った。

 確かにあのままでは不味い状況にあったはずだが、どうやらヘカーティアは先ほどの件について述べているわけではなさそうである。

 すると彼女が言及しているのは、一体何なのであろうか。思案するも束の間、続く言葉でその意味を知ることになった。

 

「私はね、はじめて会ったときから気づいていたわ。貴方が、運命を恨んでいることに」

 

 彼女の言葉の意味を理解した映姫は口を強く結んだ。でなければ自分の思いの内を包み隠さず吐露してしまいそうだったからだ。

 そして映姫は納得した。やはりこの地獄の女神には、はじめからお見通しであったのだ。八雲紫の監視を任された直後、ヘカーティアが訪れてきたのもきっと映姫の内心に気づいていたからであったのだろう。

 

「そう、ですか……」

 

 幾ばくかして、映姫の口からやっとのことで出てきたのはその一言だけだった。

 

「きっと……、閻魔となる際に伝えられたわよね? そしてこう言われたはず。『私達は定められた“運命”のもとに存在している』と」

「…………」

 

 沈黙を是と受け取ったヘカーティアは続ける。

 

「人、妖、神……万物は、そうあるべき姿へと移ろっていくのだと。我々は、定められた一本の道筋から外れてはならないのだと。我々は運命の傀儡でしかない、ってね」

「……はい」

「でもそれは誤解。違うのよ。“運命”っていうものは、確かにそういう意味で使われることもあるけれど、貴方にそう伝えた者達は……、上層部にいた者達は運命というものの実際を理解していない。あるいは、理解した上で、貴方達にそうやって誤解させたかったのかもしれない」

「……ぇ」

「あるべき姿、というものは確かにあるわ。けれどそれは一つだけじゃないし、そう単純なものではない。幾つもあって、限りなく分岐するから未知数であり、『こうじゃなきゃいけない』っていうほどの強い力はないの。私達は、選ぶことができる。だから私達は、ただの傀儡じゃない。運命は精々、“修正力”でしかない」

 

 世界の秘密を、あっけなく明かされてしまった気分だった。

 それは一つの考え方、捉え方というにはあまりに彼女の実感がこもった言葉であった。

 

「だから、恨まないであげてちょうだい。そしてどうか、諦めないでちょうだい。貴方の身に起こる出来事は、貴方の選択にかかっているの」

 

 ずっと肩にのしかかっていた重りが、すっと外されたような心持ちであった。もしかしたら、映姫はずっと前から、他の誰かに、自分が傀儡でないと証言してほしかったのかもしれない。油断したら大きな声を上げて泣いて叫んでしまいそうだった。

 

 だが、素直に喜ぶこともできなかった。映姫の心境は複雑なものであった。

 ヘカーティアの言葉は、自分が抱えていた鬱憤が、知らずして自分の首を絞めていたこともまた同時に示唆していたからである。

 

「はい……。肝に、銘じます……っ」

 

 感謝と共に、申し訳なさが映姫の心を埋め尽くしていた。ゆえに返事は振り絞るようなものとなった。

 そんな映姫の心境を慮ってのことか、ヘカーティアは慈愛の籠った笑みで受け止めた。

 

「いいの。分かってもらえれば。少なくともこれから上層部は、今回の騒動で首が総変わりすることになるだろうし、なにより私が、もっと早く言っておけばよかったわ。だから……、これから話すことになるけれども、八雲紫が生み出すものに呑まれてはダメよ。あのとき、ね。八雲紫は貴方の心に生まれた動揺、迷いにつけこんで、貴方の精神を支配しようとしていたの。私達は本来、外から干渉されることなどないはずだけれど、今の彼女なら、その不可能を可能にしてしまう。……危なかったのよ? 本当に」

「うっ……」

 

 人差し指を立て、念を押して忠告するヘカーティア。

 だが映姫は、それはもっともだと思った。彼女の言う通り、あのときはかなり危険であったからである。

 境界を操る能力。やはりそれは、他者の心の隙間にすら干渉できるらしい。よりにもよって、他に干渉を受けぬ閻魔である映姫に対して。祝福されし子が異分子と同様、この世界の理が通用しないことは想像していたつもりであったが、改めて耳にすると自分の見積もりが甘かったことを痛感する。

 ふと映姫の心の中で一つの仮説が思い浮かんだ。

 

 ——もしもあのとき、自分が八雲紫に呑まれてしまっていたなら……。

 

 本当に、理解したつもりになっていただけだったのだと自覚し、映姫は身震いした。やはりあのとき、二つ返事で了承しなくてよかった。

 心底そう思いつつ、ヘカーティアの言葉の続きを待った。

 

「それじゃあ映姫ちゃん、一つ一つ話すから、よく聞いて」

 

 彼女の声はどこか緊張気味だった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 もしも一億年前に、ヒトがヒトとして高度な文明を持っていたのだとしたら? 

 

 誰もがきっと荒唐無稽だと言うに違いない。そんな昔に、人類が文明をもっているわけがないのだから。どこまで遡るかにもよるが、数百万年といったところだろう。

 

 しかし、月の民はどう説明すればよいのだろうか? 

 彼らの存在を考慮すると、はるか数千万年、あるいは一億年もの前から高度な文明をもっていたということになってしまう。となれば矛盾していると思うかもしれない。しかし答えは、ごく単純だ。我々が言うところの人類史は、月の民からすれば遥か過去の出来事であるからである。これだけでは、まだ理解しづらいかもしれないので、こう言い換えよう。

 

 

 ——この非科学が当たり前の世界は、俗に言う、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 人は空を飛べない。神様は存在しない。妖怪も存在しない。

 幻想は幻想でしかない。そんな時代がある日を境に崩壊した。おそらく予兆はあったのだろうが、じわじわと世界は変わろうとしていた。何百年か何千年か、何万年か、はたまた何億年かの周期で大きな変化が訪れるものなのかもしれない。

 きっかけは想像もつかないが、我々の理解が及ばぬ何かの力に依って、世界は大きく変わってしまった。その境目に生きていた人々は当然ながら、惑った。

 しかしやがて、彼らは彼らを縛っていた常識という鎖を引き千切り始め、人間と似て非なる“ニンゲン”へとその性質が変貌していった。

 

 “オカルト”などと呼ばれていた代物は、もはや何ら現実に起きても不思議なものではなくなったのだ。

 

 超常の力を手にしてしまったニンゲンは、やがて神を名乗り、やがて妖を名乗り、やがて人を名乗り始めた。当然、どれにも属せなかった者もいた。しかし彼らもまた、他の誰かによって神と、あるいは妖と、あるいは人と呼ばれるにつれてその在り方が変わっていった。幾星霜もの月日というのは、それだけの変化をもたらすのには充分であった。

 神や妖怪、人間などといった概念が再形成された時代。今で言う月の民達が地上に住んでいた頃は丁度、その時期に当たる。

 

 さて。ここまでが遥か昔、人の辿った長い長い歴史の一端。

 次に、この世界の“歪み”と、“運命”と呼ばれるものについて説明しよう。

 歪みとは、それまさしく不自然なもの。世の中の流れから逸脱してしまったモノを呼ぶ。小さな歪みから、大きな歪みまで。取るに足らないものもあれば、無視できないほどの異常事態を引き起こしてしまうもの存在する。この歪みが溜まってしまうと、絶え間なく変化していくはずの世の流れが滞ってしまう。ゆえに逸脱し歪みが生まれれば“運命”という名の修正力が働き、正常な軌道へと修復するのだ。

 

 ただし、この修正力は未来を一つに決定づけるものではない。もしもそうであったら、歪みなど生じないだろう。不確定性が存在するがゆえに、歪みもまた生まれるのだ。

 言ってしまえば、歪みと運命の両者は対の関係にあたる。

 

 だからこそ、半ば必然的に生まれた存在があった。

 修正力を跳ね除け、時としてその場に存在するだけで周囲に歪みを生み続ける器をもつ者たち。これこそがイレギュラー。一部の者が“異分子”と呼ぶ存在である。

 

 だが、自らがそうであると自覚している者は少ない。

 加えて、共通した特定の目的をもっているわけでもない。彼らは個々が独立した目的をもって行動している。

 ゆえに、推定される規模よりも少ない歪みを生む者もいれば、深刻な歪みを生む者も存在する。彼らには運命という修正力が通用しないゆえ、被害は予測不能でもあった。

 

 予測不能であることが、恐れを生むのもまた自明である。

 

 当時、修正力が存在するという事実に辿り着いた一部のニンゲンは、同時に異分子の存在を知り、彼らを疎み、排除しようと幾つかの手法を考え、大きく二つの派閥に分かれた。

 

 まず、自ら積極的に排除するという者達。

 彼らは異分子の排除を“救い”と称し、その脅威の大小問わず、手段を択ばない集団であった。その多くは、妖怪で構成されていた。

 

 次に、どちらかと言えば消極的で動向を見守る者達。

 彼らは常に異分子の脅威を見極め、見過ごせない大きな脅威のみを取り除こうとする集団であった。その多くは、神々で構成されていた。

 

 どちらも異分子に恐れを抱いてしまったがために生まれた派閥である。

 ただ両者は目的を同じにするも、その手段が異なっていた。相いれなかった両者の間では小規模ながらいくつかの衝突が繰り広げられ、協力することはなかった。

 しかし、これまでにない大きな歪みが確認されたことから状況が一変する。

 

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 いくら未来が分岐していくのだとしても、起こりうる出来事には限りがある。

 これは世界の歪みに違いない。それも、大きな大きな歪みだ。双方の派閥は少女を人の身から逸脱させるべく、初めて結託した。

 しかしあろうことか、そこに横やりを入れてきたのが、ツクヨミだった。

 彼女はその少女と接触し、そして彼女が地上に取り残された後に告げたのだ。

 

 ——やがて生まれてくる娘が、ある能力を持っていることを。

 

「……別に、()()()()()()()()()()()()()。たしかそのように伝え聞いています。つまり地上に取り残され生き残った少女とは、八雲紫の母親に当たる人物というわけですね」

 

 映姫の答えにヘカーティアは満足げに返す。

 

「その通り」

「一体、どのような人物だったのでしょうか?」

「そうねぇ……。どこか抜けている普通の人間だったわ。ただし彼女のもつ能力は並ではなくて、ツクヨミと出会うこともなく、放っておいてもいずれ人の身から妖へ転じるはずだった。けれど彼女は八雲紫とはならなかった」

 

 映姫はこれまで穴の空いていた情報の一つ一つが、ちりばめられていたパズルの欠片のように組み合わさっていくのを感じた。

 

「当時、私も含めた一部の神々は月の上層部を操って、妖怪達の襲撃を取り計らった。手段は強引だったけれど、彼女が妖になるようには、修正力が働くところまで持っていくためには必要だったの。けれど、ツクヨミの手出しもあって目的は達成できず失敗に終わった。結果、八雲紫になるはずだった彼女が命を落とすことになり、あの娘が生まれたのよ」

 

 

 一人の少女が命を落とし、どの世界線にも存在しない“ゆかり”が変わるように現れた。

 

 

 続いて現れた異分子に、動揺も大きかった。

 加えて“ゆかり”は霊体となった少女の張った強力な結界に守られており、神々や妖怪も手出しはできなかった。

 そして、手出しできなかった理由がもう一つ。

 偶然“ゆかり”が、異分子を排除できることが判明してしまったのだ。

 

 それは異分子の排除を訴えていた妖怪達を、暴走した“ゆかり”が結界から抜け出し引き裂いたことに端を発する。

 妖怪達は異分子に干渉し過ぎた結果、気づかぬうちに自ら“歪み”を生んでしまっていたのだ。皮肉にも生まれるはずではなかったために、“ゆかり”は同じ異分子となった妖怪達を排除することができたというわけである。

 

 神々も彼女の処遇に関して頭を抱えることになった。

 自分達も迂闊に手を出し、干渉し過ぎてしまえば妖怪達と同じ運命をたどってしまうと判明してしまったからである。

 どの神々も様子見するしかなかった状況で、先んじて一つの可能性を見出した者がいた。

 魔多羅隠岐奈である。

 

「隠岐奈は、ほんの一瞬の隙をついて結界を緩めたの。そうすれば当然、外の妖怪たちは彼女を襲おうとやって来る。そしてあの娘は、母親を失った。直後の精神が不安定な時期であれば、思い通りにしてしまうのも容易いと考えたのでしょうね」

 

 修正力を感知することのできる自分達が、『協力を持ち掛けるのと同時に首輪をかけ、歪みを制御する』。はじめに思いついたのが、あの摩多羅隠岐奈だったのだ。

 

 ただし隠岐奈は“ゆかり”を手中に収めることができなかったわけだが、それは生き残った数人の神々の間に広まった。

 

 時が経ち。

 彼らは古の神々と呼ばれた。

 自分達のような修正力に関与する力を持つ者達が“ある者達”を繋ぎ止めてやる代わりに、異分子の排除を委ね、歪みを解消する。

 ある者達とは、選ばれた異分子である。祝福されし子とは、彼らのことだ。

 

 そのため首輪をつけられた者達、祝福されし子とはいわゆる“管理者”。そして古の神々は管理者の暴走を見張るための“監視者”にあたる。この両者の実態から、異分子と祝福されし子との間にさほど違いがないことが分かるだろう。

 制御された範囲でのイレギュラーか否か、ということである。

 

「純狐のように、祝福されし子もまた、放っておけば無視できないような歪みを生んでしまう。だから私や、隠岐奈、神綺やツクヨミは彼女たちがそれ以上暴走しないよう縛り、制御し、監視しているの。契約、という形でね」

 

 なるほど、と映姫はひとまず納得した。

 しかしここで、新たな疑問が浮上する。

 それでは、八雲紫とは一体何であろうか? 

 彼女は“祝福されし子”と呼ばれているものの、誰かが彼女と契約しているかと言えば違う。あのサグメでさえ、契約を施されていたというのに。

 そもそも、古の神々と契約をしているからこそ異分子を排除することができるのではないか? 

 

 映姫は八雲紫の事情について、ある程度は聞いていたつもりであった。

 だが、ヘカーティアから話を聞き、加えて先ほどのようなことがあった今では、それも本当に正しかったのか疑わざるを得ない。

 たしか八雲紫の人格はマエリベリー・ハーンという少女そのものであると聞いていた。それゆえ、月面から帰ってくる前の八雲紫の人格は、その残滓に過ぎないのだと。

 これは何か関係があるのだろうか? 

 察したヘカーティアが答える。

 

「私達でも彼女が何者か、結論には至っていない。でもね、彼女が生まれるはずではなかったことだけは確信をもって言える。皮肉にも生まれるはずではなかったために、“ゆかり”は異分子を排除する力を生まれながらにして有している。それでは、彼女の肉体に宿っている人格は一体どうなると思う?」

「……どういう、ことですか?」

「彼女の能力が、あろうことか彼女の人格に作用してしまったら、どうなる? 他ならない彼女の異分子を排除する力によって、自我が消失するとしたら……? おかしいわよね、望んでもないのに、自分が自分でなくなるのは。だから彼女の母親は、自分の肉体を楔にして結界を作り、あの娘が成長するまでの間、私達が干渉できなくなるようにすると共に、娘の人格が浸食されていくのを抑え続けていたのだと思う」

 

 背筋が凍った。

 

「——いずれは自壊して完全に消失してしまうのよ。残滓とは、言い得て妙よね」

 

 おもむろにヘカーティアはティーカップに口をつけた。

 気づけばかなり経っていたのか、すっかり冷めてしまっていた。

 

「自分達がやってきたことに気づいたのは、大分後になってからだったわ。そのときにはもう手遅れ。『歪みを正すため』っていう変な使命感に駆られて、大事なことが見えなくなっていた」

 

 カップを机に置き、少し躊躇った後、映姫の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「軽蔑、するかしら? 地獄の女神ともあろう者が、過去の行いをずっと引きずって、周りが見えなくなって、また同じような過ちを犯そうとしただなんて……」

 

 ようやく映姫は理解した。

 祝福されし子のこと、異分子のこと。そして、ヘカーティアがこれまで語ろうとしなかったこと。

 だが、彼女を軽蔑するなどという気はまったく起きなかった。

 

「しませんよ。むしろ話をしてくださって、ありがとうございます。やっと、迷わずにこれからのことを考えられるような気がします」

「映姫ちゃん……」

 

 これまでの話を聞き終えた映姫は心中穏やかであった。

 ヘカーティアが語ってくれなければ、不確かな情報の中で自分は堂々巡りをしていたに違いない。今なら、前向きに物事を考えられそうであった。

 となると早速、気がかりな点がある。

 

「そういえば、生き残った妖怪達はその後どうなったのでしょうか?」

「えっと……、異分子を認めることのできなかった妖怪達は、結界から出てきた八雲紫に挑んだわ。それはもう、何度も何度も。でもご存知のように、あまねく返り討ちにあって生き残っているのはせいぜい一人か二人かしら」

「なるほど……。もしや、八雲紫は妖怪のみならず神までも手にかけていたのでは?」

「鋭いわね。ええ、そうよ。何人かはすでに消滅しているわ。月面にいた、“綿月”みたいにね」

「…………」

 

 映姫は考え込むように押し黙った。八雲紫の目的が読めなかったのだ。

 そんな様子に配慮したのか、ゆっくりと、確認するようにヘカーティアは語った。

 

「マエリベリー・ハーンという少女の名は、一度は聞いているはずよね? 貴方は目の前に立ったからこそ分かったはず。あの娘は、彼女は今から遥か昔、神も妖怪も存在しなかったような時代に生まれるはずだったことも。それがどうしてか、本来生まれるはずだった時代から遥か後に、“ゆかり”として生まれた」

 

 無言で頷いた映姫を目に留め、続ける。

 

「ここからは私の憶測よ」

 

 実は彼女自身も、確信までには至っていなかった。

 

「やがて八雲紫となった彼女は、記憶を取り戻した後からは積極的に異分子狩りを始めるようになった。制御されていない状態で、いつ崩れるかも分からないような境界に立って。……でもそれは、自壊していく自我を保つためなのかもしれない」

 

 だからこそ、ヘカーティアは陰ながら八雲紫を様々な者達に引き合わせ、その反応と行動から彼女の様子を窺っていた。できれば敵対したくはなかったし、協力できそうなら、それが一番いい。

 日和見と言われてしまえばそれまでだが、自身が極力ほかの者達に干渉することは控えていたかったのだ。余程のことがあれば、自分と純狐が動こう。

 だが、一度自分達が行動を起こせば、それで被害がゼロになるというわけではない。

 それゆえ、八雲紫という強力な協力者が増えることは、彼女にとっても願ってもないことであったからだ。

 

「だから彼女は空っぽになってしまわないように、異分子を狩り続けるしかない。でも彼女のやり方では、延命手段にしかならないわ」

「——っ!? それだと彼女は……!!」

「ええ、そうよ。いずれ彼女は消滅するでしょう。誰にも記憶されることなく、静かにね。映姫ちゃん、先に言っておくけれど、例外はないわ。一度完全に消滅してしまったら、私もきっと、彼女のことを忘れてしまう」

 

 

 

 

 

「彼女はね。消えるべくして、消えていくの」

 

 

 

 

 

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