時が止まったかと思った。
それはあまりにも突然で、形容しがたいほどに彼女が美しかったから。
こちらからは表情がうかがえないが、その光景は、高名な絵法師が描いた絵巻物の一面みたいだった。
不思議な形をした傘をさして、あの桜を見つめている彼女。私は心を奪われ、ぼんやりと彼女のことを見つめていた。
館に無断で侵入した者がいるのだから、警戒するのが普通の反応なのかもしれない。しかし元々この館を訪れる者は少なくなく、日中は常に庭を開放しているため人がいても珍しいわけではない。
それに父が亡くなってからというもの、館を訪れる者は何かに取り憑かれているみたいに皆あの桜に引き寄せられている。
彼女もそんな者の中の一人なのだろうか。
はじめ私はそんなことを考えながら、呆けてうまく働かない頭に鞭を打ち、彼女に声を掛けようとした。しかし自分でも驚くぐらいに声が出なかった。
「ねえ、あなたは誰?」
幾ばくかして、やっとのことで声が出る。あまり警戒させないよう努力しているつもりだが、体が強張ってしまって思うように微笑むことができない。
気づけば私は、拳を強く握りしめていた。どうしてこれほどまでに緊張しているのだろうか。
今までこんなことはなかったと思う。
人と話す機会が余りなかったからか、それとも彼女が発する異様な雰囲気の所為か。どちらにせよ、こんなに緊張したことはなかったはずだ。
彼女はこちらに振り返ると、紫色の瞳で私をじっと見つめてきた。
「(——っ)」
人間離れした美貌、それが私の彼女に対する第一印象だった。透き通った白い肌が妖艶な雰囲気を醸し出し、日の光に照らされて輝く金色の髪と相まって、思わず見とれてしまいそうになる。
静かに佇む彼女はまた、美しかった。
そして私は気づく。
彼女は人ではない、妖怪だ。
これで異様な気配の説明がつく。
姿、形は人間のそれで間違いないのだが、放つ威圧感は人間とは明らかに異なっている。
肌がぴりぴりと痺れる緊張感、背筋を冷たいものが撫でるような感覚。
間違いない。伝え聞いていた妖怪の気配そのものだ。
妖怪と相対するのは初めてだったが、確信に近かった。
逃げたい、早くこの場から離れたいという衝動が私を襲う。
父の知り合いの者達は皆、妖怪と人間は相いれないのだと口々に言う。
妖怪は人の生を脅かし、人は妖怪を退治する。この関係は長きにわたり、ずっと変わってこなかったのだと。
どれだけ妖怪が恐ろしい存在か、彼らからうるさいほどによく聞いていた。そして妖怪の中には人間離れした美貌を持つ者がいるとも。その美しさで、人を惑わすのだという。
まさに、目の前にいる彼女そのものではないか。
途端に恐ろしくなり固まってしまった私は使用人を呼ぶか、呼ばざるかを悩んだ。
頼れるこの館の庭師兼剣術指南役が張った結界があるのに、どうやって入ってきたのだろうか? そんな疑問も浮かんだ。
しかし、そんな思考も全て彼女が口を開いたことによって吹き飛んだ
彼女の声は冷たいけれど、澄んでいて耳心地がよかった。
「これは失礼しましたわね。私の名は、八雲紫と申します。桜が綺麗だったから、ついお邪魔してしまいましたわ」
心奪われそうになったからこそ、私の胸の中で警戒感がさらに増した。
妖怪であるということに加えて、目が合った瞬間、こちらの全てを否応がなく見透かされているような不快感が走ったのだ。何だか恐ろしくて恐ろしくて、今にも声を上げたくなった。
しかし、必死に堪える。ここでは声を上げてはならないと思った。
「そう、でしたか……こちらこそ無遠慮に声をかけてしまい、失礼しました。私はこの館の主、西行寺幽々子といいます」
彼女は他の者のように、死に誘われて来たわけではない様子。すると彼女は、まったく異なる目的で来たと思われる。それに、冷静になってみればここで使用人を呼ぶのは悪手だ。
私を襲いに来たのなら、すぐにでもそうしていただろう。それをしてこないということはつまり、彼女は例え私がここで使用人たちを呼び、この館を取り囲んだとしても逃げ切れる自信があるということだ。
だというのに使用人達を呼んで、むざむざ犠牲を出したくはない。それに、彼女の先ほどの言葉。あれは恐らくそのままの意味ではない。
そこで出される結論は、彼女の目的があの桜にあるというものだ。少し、探りを入れる必要があるだろう。恐ろしくて足が竦んでしまいそうだが、ここで逃げるわけにもいかない。今や私は、この館の当主なのだから。
……とはいえ当主としての矜持なんてあったのか、と私は少々自嘲した。
「その桜がお気に召しましたか?」
「そうですわね」
彼女は桜に近づき感慨深そうに見上げた。
「なんだか見ていてうっとりとしてしまいましたわ」
「何か感じるものでも?」
「人を引き付ける、何かがあるような気がします」
「なるほど」
その感想は正しい。初めから全てを知っていたかのような口ぶりだ。白々しい物言いでもある。
「……その桜は、ひときわ美しく咲くのです。亡き父は、その桜を愛していました」
「そう、ですか。なるほど確かに……これまで、さぞ愛されてきたのでしょうね。愛するがあまり、きっとこの桜の下で、最期を迎えたいと思ってしまうほどに」
「っ!?」
ついには全身に鳥肌が立ち、動揺してしまった。
彼女の言ったとおりなのだ。最近、父が愛したあの桜の下で最期を迎えたいと望む者が後を絶たない。今は死人が出ていないが、この先が不安で仕方がなかった。
なぜ、そのことを知っているのだろう? やはり、彼女は何か目的を持って此処にやって来たのだろうか?
「あの、もしよろしければですが、もうしばらく私とのお話しに付き合ってはいただけませんか?」
彼女をこのまま放っておくことはできない。
どこまで知っているか、もっと探る必要がある。だって、一目見てあの桜の本質を見透かすだなんて、只事ではないのだから。
ふと、恐ろしい考えが頭をよぎった。
『もし、この恐ろしい妖怪である彼女が、あの桜を使って悪意ある目的のために用いようなどと考えていたら——』
この上ないほどの恐怖が私を襲った。
だからこそ。このまま彼女を放っておくという選択肢はないに等しかった。そもそも、彼女があの桜の起こす怪現象に関わっている可能性だってある。誰よりも私は、知る必要があるだろう。
こうして私が動揺を隠し、表情を取り繕っていると彼女は傘を閉じてこちらに向かって歩いて近づき、
「ええ、こちらこそ。私でよければ」
と微笑んだ。
魂を奪われそうになるほど美しい微笑みだった。
******
二人で白玉楼の庭を歩く。いつも眺めているはずなのに、まるで別の場所に来たように感じた。植わっている桜一つ一つが、まるで異なる様を呈しているようにも見えた。
それに、なぜか今日に限って、この庭園には他に観覧者がいない。
使用人たちの気配もない。まるでこの広い庭が、二人だけの窮屈な空間になってしまったかのようで、ますます私は彼女が恐ろしく感じた。
そんな私の気も知らず、隣を歩く八雲紫という少女の姿をした妖怪は、庭に咲く桜をどこか遠い目で見つめており、表情を変えることなく、優雅にたたずんでいる。
じっと顔を見つめるのも失礼なのだけど、時折吹く、暖かく弱い春の風に彼女の睫毛が少しだけ揺れているのが、何とも印象的だった。
彼女と私の間に横たわる沈黙。
さすがにこのままずっと無言でいるのは少し気まずく感じたので、私から話しかけてみることにした。
「——あの」
「はい、どうなされましたか?」
「八雲様は……何処よりいらっしゃったのですか?」
「そうですわね……。私は各地を旅してまわっているものですから、何処からという質問には答えづらいのですが、強いて言うのであれば丑寅の方角から、とでも言いましょうか」
「丑寅、ですか?」
東北の地から来たということなのか。確かあそこは未開の地であったはず。一体どんなところなんだろうか? 昔、父を慕っていた者から聞いた話によれば、美しい山々がそびえ立ち、清らかな川が谷を流れるという。
そして丘の頂上まで辿り着けば、鷹のさえずりが山全体に木霊しているのだと、楽しそうに語っていた。
彼女が妖怪であることを考えれば、この国の外であることも十分にあり得る話だ。東北の地よりももっと遠く、ひょっとすると海の向こうの大陸から来たのかもしれない。
別に妖怪になりたいというわけではないが、各地を自由に行き来できる彼女が素直に羨ましいと思った。私は体が弱いので、気軽に外出することができないから。
「まあ。ずっと、旅をしていらしたのですか。道中のお話をお聞かせいただいても?」
「ええ。勿論」
それから、私は八雲様の旅の道中のお話を聞いた。なんと思った通り、彼女は海の向こうの異国にも赴いたことがあるらしい。異国の話はどれも興味深いものだった。初めは彼女がどうしてあの桜の異常に気づいたのかを聞き出すために会話をしようとしたのに、気づけば彼女の話を素直に楽しんでいる自分がいた。
さっきまで彼女が恐ろしくて、緊張していたというのにも関わらず、今や彼女の語る旅の話に胸を躍らせながら耳を傾けている。
こうして自覚できるのに、まるで意識の外に追いやられるかのように警戒感が薄れていくのだ。
「海の向こうの国は、それはそれは大きく、豊かですわ。都の大きさもこの国とは比べ物になりません。高台に上っても都全体が見渡すことができないくらい」
「そうなんですかっ!?」
しまった、つい油断してしまった。
「し、失礼しました。わ、私ったら、つい興奮してしまって」
「ふふっ、いいえ。私も初めて見たときは驚いてついつい大きな声を上げてしまいましたわ。未知の事柄はいつも興味深いものですもの」
しかし慌てた私を八雲様は気遣ってくださった。
恥ずかしい。
全てが事実なのかは分からない。仮に八雲様が嘘をついていても、私では見抜くことなんて、できやしないだろう。でも、旅の話をする彼女の目は、きらきらとしていた。彼女は纏う妖しい雰囲気に反してとても楽しそうに、無邪気に話していた。
こんなにも楽しそうに話している彼女が、はたして嘘をついているのだろうか? 私は彼女の一面を意外に思いながらも、徐々に違和感を覚え始めていた。
妖怪である彼女と、人間である私が今こうやって他愛のない会話をしているという事実。彼女がこれまで伝え聞いていた“妖怪”と異なるのではないかと私が思ってしまうのも必然だった。
薄れていく警戒感もそうだ。
彼女と出会った当初の私は、何か大きな思い違いをしてしまったのではないだろうか。
庭を軽く歩きながら八雲様の旅の話を聞いた後、私たちは館の縁側に腰を掛けて休んだ。久しく誰かとこんなに話しに花を咲かせたことがなかったので、私自身、いつの間にか疲れてしまっていたようだった。腰を掛けると、吐息が自然と音を立てて漏れる。
運動不足な私を差し置いて、隣で八雲様はふわりと、まるで重さがないかのように腰を掛けてこちらを向き、わずかに微笑んだ。
そんなふうに微笑みかけられたら気を許してしまいそうな自分がいて、私は今一度気を引き締めようと心に決めた。
「(まだよ。まだ大事なことを聞いていないわ)」
そう、本題はこれから。
私は彼女に聞かなければならないことがある。半ば確信に近づいてきているけれど、これだけは確認しなければならない。たとえ、私の命がかかっているのだとしても。
「ところで、八雲様」
「はい?」
ああ、でも怖い。
こんな風に優しく応えてくれている彼女を目の当たりにしてもなお、私は彼女が牙を剥くのではないかと未だに震えてしまう。
「私……」
……いや、それでは駄目だ。
受け入れるのだ。この恐ろしさも、全部。その上で、問えばいいのだ。
だから、迷ってはだめだ。
「どうして、どうしてあの桜が特別なものだとお分かりになったのですか?」
聞いて、しまった。
決定的な問いだ。
この次の八雲様の反応で、私の命運は決まると言っていい。
八雲様はあの桜に目をやった。そして予想通り、彼女はすぐに私を襲いはしなかった。
しばらくの沈黙の後、八雲様は口を開いた。
「……そうですわね。案外、私もあの桜に誘われてしまったのかもしれません」
「えっ……」
予想外の答えが返って来た。
「そんなに警戒なさらないで。いいえ、それもまた難しいやもしれませんが。しかし、これだけは。少なくとも、私はあの桜をどうこうしようなどとは思っていないことを先にお伝えいたしましょう」
私がしていた警戒や、覚悟はあっさりと崩れていった。
驚いた。自ら誘われていることに気づいていながら、ここにやってきたのか。そしてあの桜に関与しているわけではないのか?
もしも彼女の言っていることが本当なのだとすれば、という話ではあるのだが。
すると私の胸中を察したらしく、八雲様は補足を加えた。
「まあ、私のような人外が一目見れば、あれが異常なのは分かりますわ。あれはもうただの桜ではありませんもの。こう見えて、“目”には自信がありましてよ?」
「……なるほど」
「それに、その、どうやら妖気を発しているようでしたし」
つまり、彼女は察知能力に優れた妖怪ゆえに、妖気を発するあの桜が特別であると分かったということか。
言われてみれば、それは確かに単純なことであった。まさか私の抱えていた不安は杞憂だったのだろうか。
——などと思っていたら、
「ふふ、ご心配なく。貴方の想像したような最悪の事態には、決して至りませんわ。繰り返しますが、あの桜を操って何かをしようなどとは考えてもいませんし。それどころか、そもそも干渉すること自体が恐らく不可能かと」
「あっ、えっと…………え?」
一体彼女はどこまでお見通しだったのだろう?
途端に私は緊張が解け、同時に羞恥心に駆られた。
こちらの考えていることは完全に見透かされていたらしい。全部、私の空回りだったということなのだろう。
そして不意に彼女の目を見た私は、言葉に詰まってしまった。発する雰囲気に反して、なんて真っすぐで、綺麗な目をした方なんだろうと思ったから。
狼狽する私に構わず、つづいて八雲様は言う。
「あの桜は私と同じ、いいえ、近しい“能力”を持っているようですから、そう易々と手出しはできません」
「それは……?」
「まあそれは、——にも言えることかもしれませんが」
『手出しはできません』とまでは聞き取ることができたが、その後に続いた言葉は上手く聞き取れなかった。しかし壮大な勘違いをしてしまったことで羞恥に駆られていた私はそれどころではない。
そんな中、八雲様は私の方に首を向ける。決意の籠った眼差しだった。
「——西行寺様」
「……はい?」
「こちらも、単刀直入に聞きますわ。貴方は私が、怖くはないのですか? すでに気づいていらっしゃるはずです。私が人間ではないことを」
その目は真剣そのもので、まっすぐ見つめられると言葉を失ってしまいそうになった。しかしここで目を逸らしてはいけない。それをしてしまえば、彼女が遠ざかってしまうような気がしたから。
かと言って、すぐには答えられなかった。
確かに、私は八雲様のことを『怖い』とも、『恐ろしい』とも思った。今でも少し足がすくんでしまっているし、ちょっと前まで悲鳴を上げたくなっていたのも、事実だ。
「(ああ、でも私は知っている……目を離したら遠ざかってしまうと思ったのは、私が私を心から嫌ってしまうからなんだ)」
彼女の話を聞いているうちに、そして今、彼女のこの目を見て分かったことがある。私の境遇と、どこか似ているのだ。
この方はきっと、自分と周囲の違いに振り回されてきたに違いない。
彼女を見た者は——私も含めて——誰しも初めに謎の警戒感を覚え、そこから彼女に対して先入観を形成してしまう。その先入観が一度、形となってしまえば、印象を変えることは難しくなるだろう。
加えて彼女は純粋だ。あまりに純粋で、そして一途であるからこそ逆に他者に対して警戒感を与える結果となってしまう。警戒感を覚えた相手が気安く接してきたならば、それは余計に不気味に映ることだろう。
ましてや、妖怪と人間の間には埋めようのない溝がある。彼女に対する先入観に、さらなる拍車をかけてしまっていたのかもしれない。そして誰にも打ち明けられず、他の者にずっと避けられ、理解されてこなかったのだ。
近づこうとすれば、拒絶され、独りにならざるを得なかった。独りになってしまったがゆえに、他者との距離感をなかなか掴めないでいる。
自惚れでなければ、彼女はだからこそこうやって会話が成り立っている私に、打ち明けてきてくれているのではないだろうか?
一人の人間である、この私に。
辻褄は合う。
やはり私は、警戒する必要なんてなかったのだ。
あれこれと考え込み過ぎて彼女の本質を見誤ってしまったのかもしれない。きっと彼女は言葉の通り単純に桜が綺麗だったからこの館に来たに過ぎないのだろう。
もうここまで来れば、この方を警戒する理由なんてない。
だって。
本当は私、すでに彼女のこと——。
「綺麗ですね」
私の口から自然に漏れ出た言葉。
間違いなく、本心だった。
「えっ? は、はい。この桜、確かに綺麗ですわね」
今までずっと表情を崩さなかった八雲様の眉が少しだけ動く。
「いいえ、貴方が」
私の一言に八雲様は固まった。思わず口に漏れ出てしまった言葉を、今更なかったことにはできない。本心なのだから尚更。
しょうがないけれど、やっぱりこの沈黙はつらいなぁ、などと考えていると。
「………………えっ、……えぇっ!?」
急に、八雲様が素っ頓狂な声を上げた。
今まで彼女が抑え込んでいた感情、それが一気に漏れ出たような様子だった。私も内心、『随分あっさりとぼろを出してくれたなぁ』などと少々驚いている。
みるみるうちに八雲様の顔は朱に染まり、親しみやすい表情に変わると纏っている雰囲気に反してとっても可愛い。
……変わらず発している妖力とその威圧感は相当なものだが。
裏を返せば、それだけ取り乱しているということなのかもしれない。
やっぱり、外見を取り繕っているだけで中身は私達と変わらない一人の少女だったのだ。少し踏み込むだけで、こうも違う彼女の姿を見ることができたのだから。
先ほどまでの凛々しい表情から変わって、今は恥ずかしそうに顔を赤くして手で覆っている。手の隙間から私をちらちらとみている姿が愛らしい。それはまさしく私と変わらないくらいの年頃の少女の姿だった。
これは驚きだ。まさに予想以上。驚きすぎて笑いがこみあげてきた。
「ふふふっ」
なんだかさっきまで警戒していたことが、本当に、本当に馬鹿らしくなってきた。
「な、なにをきゅ、急にっ!?」
「やっぱり。貴方が人間でないのだとしても、私は気にも留めません。怖い方なら、そんな風に赤くなったりしませんし」
「そ、そんなことっ!」
「あら、まあ」
確かに、彼女は今まで恐れられてきたかもしれない。事実私も、はじめは恐ろしくてたまらなかった。でも、今日初めて会った私ですら彼女と打ち解けることができたのだ。きっと他にも彼女を理解してくれる者達は現れてくれることだろう。
もし仮に誰も歩み寄ろうとする者がいなかったのだとしても、私が彼女の側にいてあげればいい。彼女は、私に似ている気がする。素直になれないところなんかとっても似ている。何というか、もう他人事などではなく、放っておけなくなってしまっている自分がいた。
——私はもう、彼女に惹かれてしまった。
もっと知りたい、もっと近くで触れ合いたい。
「八雲様。貴方がもしよければ、なのですけれども」
だからこそ。叶うのなら。
「——私とお友達になってくださいませんか?」
「え?」
八雲様は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。ころころと表情が変わって面白い。
そしてすぐに我に帰るやいなや、また顔を赤くして、
「も、もちろんっ! 私のことは紫と呼んで頂戴! よろしくねっ、幽々子!」
と、太陽みたいに彼女は笑った。
邪気のない、暖かい笑みだった。
父が亡くなってからというもの、
運命だとか、神だとかは信じられなくなった私だけれども。
今日だけは、この出会いに、
感謝したい。
******
あの後、お互いに色々と勘違いをしていたと話して、ひとしきり笑いあった。紫からすれば私の勘違いは、『何それ?』である。
他愛のない話をしていた私達だったが、漸くこの館の庭師兼剣術指南役が帰ってきた。私の隣で座っている紫を見ると、彼は初め険しい目をしていたが、すぐに不思議そうな表情に変わった。
彼ほどの者ならば紫の持つ“違和感”に気づくことができるのだろう。私が内心で『流石だなぁ』などと感心していると、彼は私の元へ歩み寄り、
「ただいま戻りました。幽々子様」
「お帰りなさい。妖忌」
「こちらは?」
「私のお友達よ」
「これはこれは……そうでございましたか。私は幽々子様に仕えるこの館の庭師兼剣術指南役、魂魄妖忌でございます。以後良しなに」
「八雲紫ですわ。こちらこそよろしく」
何か納得したのか、妖忌は挨拶を終えるとお茶の仕度をしてくると言ってその場を発った。
紫も私と同じことを考えていたのか、感心したように彼の後姿を見つめている。
「彼、ただ者ではないわね……。穏やかな見た目と違って、一切隙が無かった。それに私が妖怪だって分かっているのに幽々子の一言で取り乱さなかったし、すぐに納得していたわ。ずいぶん信頼されているのね」
「ええ、私が小さい頃からずっと仕えてくれているから。それに妖忌はすごいのよ。家事はもちろんのこと、剣術の腕も良くて歴代剣術指南役の中で、最強と呼ばれているわ」
「なるほど、納得したわ」
ちなみに紫と私はお互い堅苦しい言葉遣いをやめにした。
おかげでもっと距離が縮まった気がする。
「そういえばこの館、大きい割には人が少ないわね。それも彼が理由?」
「いいえ。父が亡くなって、辞めていった人が多かったの」
「それは……大変だったんじゃない? 桜の手入れなんかもあるでしょう?」
「桜については妖忌がいてくれるから問題ないわ。彼は庭師でもあるから。まあ、今のところ屋敷は上手く回っているわね…………」
幸い辞めていった使用人たちのほとんどは入って間もない者達であったので、それほど問題はない。むしろ前よりも妖忌が張り切っているので庭がより美しくなった気がする。
しばらく世間話をしていると、妖忌がお茶をもって帰ってきた。
「幽々子様、八雲様。お茶でございます。熱いうちにどうぞ」
妖忌はお茶とお茶請けを置くとそのまま後ろに控えた。この短時間で準備したとは思えないほど立派なものだった。まったく彼には頭が上がらない……。妖忌が持ってきた茶と茶請けに一瞬目を丸くした紫だったが、優雅にお茶に手を持って行った。
しかし、
「ありがとうございます。妖忌様…………あつっ」
飲もうとして、すぐに舌をひっこめた。
そして何もなかったかのようにふぅふぅと息を吹きかけて冷まし、再びお茶に口をつけている。
妖忌と私は目を合わせた。彼も少しだけ顔が引きつっており、これは無視するべきかどうやら悩んでいるようだった。妖忌は私にしか聞こえないように耳元で囁いた。
「幽々子様。失礼ながら、八雲様は少々抜けているようですな。この魂魄妖忌、不覚にも驚いてしまいました」
「本当よね。見た目からだと想像もつかないもの。まったく、面白いでしょう?」
紫は猫舌だった。恐らく誰かから歓迎してもらうことや、お茶を出してもらった経験がなかったのだろう。慣れない故に焦って口に運んで舌を火傷したところか。
これはなんとも。
「な、なんの話をしているのかしらっ!?」
「紫は面白いわねぇ、って話よ」
「っ!? なによぉ、今までお茶を出されたことなんてなかったんだから、仕方ないじゃない……」
へぅ、と紫は項垂れた。今だけは、彼女が残念な妖怪にしか見えない。
胡散臭い雰囲気はどこへ行ったのやら。
私は暖かい目で紫を見守った。
「くくっ」
小さく押し殺すような笑い声が聞こえた。
振り返ると珍しく妖忌も笑っていた。こうして初対面の相手の前で、それも妖怪の前で彼が表情を和らげるのは本当に珍しい。私もつられて笑う。
「あはははっ」
「もう、笑うことないじゃないっ」
そんなことを言いつつも『し、仕方ないわね……』と紫も笑っていた。
今日は本当にいい日だ。
体をじんわりと染み込むような感覚。私は久しぶりにお茶の温かみを感じた。
******
不思議な少女と出会った。
彼女の名は西行寺幽々子。聞くところによれば彼女はわずかな使用人たちと、この大きな屋敷に住んでいるらしい。道理で人の気配がしないわけだ。
ただ、私のように屋敷を訪れる者も少なくないと言っていた。だから来客には慣れているのかもしれないが、そうだとしても私は驚きを隠せないでいた。
彼女は私を拒絶しなかった。
二人で庭を歩いていると、彼女は私がどこから来たかを尋ねた。その問いに答えるのは難しいので、曖昧な返答になってしまったがそこから私の旅の道中の話に変わった。
それからだ。
彼女は聞き上手で、時折相槌を打ってくれるため私も話しやすかった。
今まで誰もまともに話を聞いてくれなかったので、ついつい話し過ぎてしまったが、誰かと話せることが私は本当に嬉しかった。彼女は表向きには出さないようにしながらも警戒していることは分かったが誰か使用人を呼ぶとか、すぐさま帰らせるといった明確な拒絶を示さなかった。
ここでようやく気づいたのだが、彼女は恐らく何かしらの“能力”を持っている。それ故に、私を前にしても嫌悪感を持たずに平静を保っているのだろうか? そんな仮説を立てながら、甘い考えが頭をよぎる。
しかし、同時に胸がちくりと痛んだ。
独りで生きていくことへの疑念は、未だ晴れない。いっそのこと、もう拒絶してくれた方が、よっぽど諦めがつくのかもしれない。信じて裏切られるより、今すぐ拒絶してもらった方がずっとずっと傷つかないだろう。単純に私は怖かった。私はまた、自身の存在を否定されるのかもしれないと。
だから私は、正直に打ち明けてみることにした。
気づいてはいないかもしれないが、私やあの桜と同じ、“能力”を持った彼女に。
敵意を向けられると思っていたが、ことは私の予想から外れた。
初めこそ動揺する素振りを見せていたとはいえ、私が妖怪であると告げると、彼女はあろうことか私をからかってきた。
完全に不意打ちだった。
まさか、こんな恥ずかしい思いをするなんて。
誰かにからかわれたのは、八雲紫として長く生きてきて、初めての経験だった。まるで“ゆかり”だった時に戻ったみたいで。むず痒いのに、どこか心が温まる感覚だった。
気づけば出会ってそれほど経ってもいないというのに、私は彼女に癒しを求めてしまっていた。無条件に彼女のことを信じたいとまで思ってしまっていた。
また次も来て、いいのだろうか? もう、ここへは来ない方がよいのだろうか?
そんなことを思い悩んでいると、彼女は言った。
「——私とお友達になってくださいませんか?」
世界が色めいた気がした。私は絶対、今日という日を忘れないと思う。
「も、もちろん——!」
この日、私に初めて友と呼べる存在ができた。