それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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桜の章:桜は咲いて、そして散った

 ——花びらはひらりひらりと揺らめき、落ちる。

 

 それがただの桜であれば、さぞ風情があったことだろう。そして私と幽々子はそれを眺め、『春だねぇ』なんて言葉を交わすのだ。

 

 

 私は妖忌の連絡を受け、急ぎスキマの出口を白玉楼へと繋いだ。

 心臓の鼓動はどくどくと速く忙しくなくなっていき、慣れ親しんだ境界操作さえ覚束ない。手足の先が冷たくなり、微かに震えているのが自分でも分かった。

 

「(なぜ気づかなかった……!? 幽々子は、妖怪じゃない。人間なのよ……? 彼女はまだ、十数年しか歳を重ねていない、人間の子供だというのに……)」

 

 実のところ、幽々子自身も西行妖によって死に誘われていること自体には気づいていた。

 彼女が自らの能力に悩み、苦しむことは予想済みであったが、西行妖自体も幽々子を己が糧にしようと彼女の死への願望を増幅させていたのだ。

 

 無自覚に彼女が西行妖の誘惑に対して抗おうとしていたことも、それを私に隠そうとしていたことにも気づいていた。すぐ近くで見守る妖忌から、話は全て聞いていたから。

 だというのにも関わらず、私は彼女が胸の内にどれほどの葛藤を抱えて日々を過ごしていたのか、肝心なところに気づいていなかった。

 

 彼女は、あくまで人間なのだ。年相応に悩みもするし、苦しみもする。それに感受性豊かな時期だからこそ、『死に誘う程度の能力』が彼女の心に与える影響は計り知れないものになるのだ。

 

 愚かだ、私は。

 これでは友人失格ではないか。

 いつも彼女の近くにいながら、私は友人ができたことに浮かれるばかりで、人間と妖怪という種族の違いに意識が向かなかったのである。それゆえ幽々子の気持ちも考えず、自分の都合で動き、『きっと彼女のためになる』などと信じて疑わずにいた。

 だからこのような事態を招いてしまったのだ。もっと幽々子と向き合うべきだったと思うも、最早遅かった。彼女はすでに命を絶ってしまったのだから。

 

 私の所為だ。私が最悪の事態を招いてしまったのだ。

 ただ自分を責めるばかりで心が乱れ、まともな思考ができなかった。すべてがもどかしくてならなかった。今は一刻も早く幽々子の元へ駆けつけたかった。

 

「(早く……! もっともっと早くっ!!)」

 

 スキマをつなげれば一瞬であるはずであるのに、白玉楼へと向かうこの時間が、私には無限に続くように感じられた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 スキマを閉じて白玉楼に降り立つと、妖忌が走ってきた。式で報告したときとは異なり冷静さを取り戻した様子の彼は、私を幽々子のもとへとすぐさま導く。

 

「紫様! こちらです」

 

 風のように駆けていく彼の後を追っていると、白玉楼の庭がすっかり変貌していることに気づいた。遠くに見える西行妖以外の桜は全て枯れ、美しかった庭の面影はそこになく、見るも無残な姿であった。

 そして、

 

「…………!!」

 

 幽々子を見つけた。

 心臓を握りつぶされるかのような痛みが私を襲った。

 しかし、ふらつく足を叱咤して、私は幽々子の元へと駆け寄った。

 

 西行妖の真下で、幽々子は倒れていた。手には短刀が握られており、彼女の白い首元を中心にして、辺りに大きな血溜まりができている。幽々子の黒髪を、おびただしい血が上から赤黒く染めていて、命を絶ってから時間が経過していないからであろうか、血溜まりはゆっくりと広がり続けていた。

 

 彼女の手を取る。

 あれだけ温かった彼女の手は、氷のように冷たくなっていた。血の気が失せて青白くなってしまった指先が、彼女はもうこの世にいないのだという事実として私の頭を強く殴りつける。気づけば視界が滲み、何も見えなくなっていた。

 絶えて久しいあの喪失感が、再び私を襲った。

 

 風が吹いた。

 

 袖で涙を拭い、西行妖を見上げる。

 

 私には奴が、愚かな私のことを嘲笑っているようにも見えた。

 

 だが今はなによりも、少しでも長く、幽々子のすぐ近くに寄り添い続けていたい。気づいてあげられなかった私を、間に合わせることができなかった私を、いくらだって責めてくれればいい。私はただ、もう一度幽々子に目を開けて欲しかった。

 一言、謝りたかったのだ。

 

「紫様っ、西()()()()——!!?」

「——っ!?」

 

 妖忌が私の名を呼んだのとほぼ同時に、西行妖が突如として妖力を跳ね上げた。すると自我でも芽生えたのか、西行妖の枝は蛇のように鎌首を持ち上げ、咄嗟のことに反応できなかった私を、太い枝で横から叩き飛ばした。

 

「かはっ!?」

 

 地面を何度も撥ねながら、身体が宙に浮く。

 強い衝撃によって肺が潰され、空気が外へと漏れ出た。しかし霞む視界の中でも、私は幽々子の身体を攫う西行妖の姿を捉えていた。

 奴は、幽々子が自らにとって最大の養分となり得るのだと分かっているのだ。

 

「西行妖っ!! 幽々子を、離せっ!! 離しなさいっ!!!」

 

 鈍い痛みはすぐに西行妖に対する怒りへと変わった。

 

「邪魔をするなあぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!」

 

 私は空中で態勢を即座に立て直し、ありったけの妖気を練り上げて術を発動した。

 打突、爆破、切断、溶解、焼却。

 あらゆる手段をもって西行妖の枝の壁を攻撃した。しかしどの手段で生じた傷跡も、奴の恐るべき治癒能力によってすぐに再生してしまうため、これでは到底幽々子の元へは辿り着けない。

 一度態勢を立て直し、術を組み上げる時間さえもぎ取れば、現段階で西行妖を封印すること自体は可能である。しかし、それでは幽々子の身体も同時に失ってしまう可能性があった。

 

「——待ていっ!!」

 

 一息遅れて刀を抜いた妖忌が疾風のように地面を駆け、脇構えから逆袈裟に特大の斬撃を放つ。西行妖の大きさに匹敵するかと思われるほどの斬撃であったが、西行妖を中心として風が渦巻き、それを阻んだ。

 西行妖があれほどまでに幽々子の身体に執着する理由……。

 

「(まさか……)」

 

 私には奴の目的がすぐに分かった。

 西行妖は幽々子の肉体のみならず、彼女の魂すらも取り込もうとしているのだ。

 

「ちぃっ」

 

 斬撃が防がれたことを確認した妖忌はすぐさま刀を構えなおし、再び暴風の壁を切りつける。

 しかし一向に晴れる気配がない。切り裂く度に新たな風の壁が形成されて、入り込むことを許さないのである。

 

「——っ!? 妖忌、退きなさいっ!?」

「むっ」

 

 背筋が凍りつき、私の妖怪としての生存本能が、奴のことを脅威だと訴えていた。

 

「そんな…………」

 

 西行妖の桜色の花びらが、次々に黒く染まっていく。

 

「(……深草の 野辺の桜木 心あらば——)」

 

 自然と、ある歌を思い出した。

 この姿を例えるなら、

 

「(今年ばかりは 墨染に咲け……)」

 

 それは、墨染の桜。

 

 その黒は、幽々子の髪の色にひどく似ていた。大好きだった彼女の黒髪。それが私の心をざわつかせ、傷つける。

 極限まで高まった西行妖の妖力はすでに爆発し、遂に満開を迎えようとしていた。黒い花びらが白玉楼を包み、白玉楼の辺り一面が黒一色に覆われていく。

 そこに桜本来の美しさは無く、西行桜はあらゆる命を奪う、恐怖の権化となり果ててしまった。

 

「咲いてしまったか……西行妖……」

 

 止められなかった。私は結局、幽々子につらい思いをさせた挙句に彼女を見殺しにしたのだ。何が『幽々子を救う』だろうか。なんて愚かで、思い上がりの甚だしい。約束を一つも守れていないじゃないか。

 私は自身を許せなかった。膝から崩れ落ちた私は、自分の膝を何度も殴りつけた。

 

 しかし、

 

「(ねえ、幽々子……)」

 

 たとえこの感情を向ける先が誤っているのだとしても。

 

「(私……そんなに頼りなかったかなぁ……?)」

 

 私は同時に許せなかった。

 

「(どうして、何も言ってくれなかったの……?)」

 

 最後まで私に心の内を打ち明けてくれなかった親友が。

 

「——どうして、何も言わずに私から離れていくのよっっ!!」

 

 最後まで私に涙も見せてくれなかった親友が。

 

「私の気も知らないでっ!!!」

 

 もっと頼って欲しかった。もっと信じて欲しかった。

 

「信じていたのに……!!」

 

 苦しかったんだろう、そしてつらかったんだろう。それをぎりぎりまで耐え抜いて、そして最後の最後まで意地を貫き通すなんて彼女らしいが、私はたまらなく悲しかった。

 自分を責めるのと同じくらいに、幽々子のことも許せなかったのだ。

 

「紫様、しっかりしてください!! あれを止められるのは貴方だけなのです!!」

「……ええ……そうね……ごめんなさい……」

 

 取り乱した私に、妖忌の喝が入る。しかしなぜだろうか、そんな彼の声もどこか遠くに感じてしまった。

 その証拠に、憎き西行妖を前にしているのにも関わらず、私の身体はぴくりとも動いてくれなかった。完全に、放心してしまっていた。

 

「……分かっているわ。私が、止めなくちゃ……」

 

 膝を立てて立ち上がろうとするが、力が入らない。

 転びそうになった私の腕を、妖忌が後ろから掴んだ。

 

「無念でございますが、私ではあの桜を封印することはできません。それに幽々子様は——」

 

 一息置き、妖忌は私を引っ張り上げて強引に立ち上がらせると、私の両肩に手をかけ、力強く訴えた。肩に籠る力がさらに強さを増す。顔を上げて彼の表情を察すると、悲痛に歪んでいた。

 

「八雲紫様、幽々子様は最後に何とおっしゃいましたか? わが主は貴方に託したのですよ。貴方の手によって救われることをお望みになられたのですっ!!」

 

 幽々子が、最後に言ったこと? 

 託す? 何を? 

 ふと、昨日の幽々子の顔が浮かんだ。

 

『ねえ、紫……。私のこと、忘れないでいてくれる?』

 

 諦めの混じった寂しい表情。そのまま儚く消えてしまいそうだった。

 最後の言葉。

 彼女は、私に覚えていて欲しいと言った。あのあと、自ら命を絶つつもりであったからであろう。彼女は私の手によって西行妖諸共に封印されることを望み、私の記憶の中で生きることを望んだ。

 

()()()()()()()()()

 

 なぜあんなことを聞いたのだろう。答えなど、決まっているではないか。あのときに言った言葉に嘘なんてない。私を受け入れてくれた貴方を、忘れるわけがない。

 だって貴方は私の——。

 あのときの、幽々子の顔が頭を過ぎった。

 

『私とお友達になってくださいませんか?』

 

 ……このまま終わるわけにいくものか。彼女に会って、言わなければならないことがあるのだ。彼女の肉体が終わりを迎えていても、幸いなことに、まだ魂はこの世に残り続けている。

 事実、西行妖はまだ、幽々子の肉体と魂を取り込もうとしている最中なのだから。

 

 西行妖を封印する術はもう既に分かっている。幽々子の命を救えなかったせめてもの償いとして、私は何としてでも彼女の身体を取り戻し、西行妖を封印しなければならない。

 西行妖が満開を迎えようとしている今、状況は最悪だがまだ手立てはあるはず——。

 

「(待って……。西行妖は今、どうやって幽々子の魂を現世に固定しているの……?)」

 

 それが疑問だった。他者の魂の固定化など、四季映姫のような別次元の存在でもなければ不可能である。よって、

 

「(西行妖自体が、幽々子の魂を束縛しているわけではない……?)」

 

 肉体的な死を迎えた生物に未練などといったものが存在すれば、魂が現世にとどまる可能性は十分にある。

 未練……やはり幽々子には、未練があった……? 

 そのとき、私の頭の中を母の記憶が横切った。この記憶は、母がいなくなった日のことであった。

 

『ゆかりはここにいなさい。大丈夫よ』

『亡霊ノ分際ガ何ヲ言ウ……』

『——残念だけど、そうはいかないわ』

 

 何かが繋がりそうな気がした。全ての鍵は母の記憶にあるはずなのだ。

 

「(思い出せ……)」

 

 母はあのときすでに肉体を失っていた。

 肉体を失いながら、どうやって実体を保っていた? 

 

 そして、私は母の古い記憶に辿り着いた。

 ノイズの入った視界。母は複雑な術式を家の中に描き、その中心に立つ。そして手の先を少し切って陣の上に血を垂らし、詠唱していた。

 それは、魂を固定化する術。

 自らの骸を楔として、母は実体を持った亡霊となることで私を育ててくれていたのである。

 

「……いけるわ!!」

 

 顔を上げた私は目の前に立つ妖忌の肩を掴んだ。

 

「いかがしました?」

「幽々子に、()()()()()。彼女が望むのなら、まだ手立てはあるわ」

「なんとっ……!!」

 

 過去に母が使った、自らの骸を楔にして魂を固定化する術。そして西行妖に対する封印術を上手く組み合わせることができれば可能になる。

 後のことは、会ってみなければ分からない。

 幽々子が、本当は何を抱えていたのか。彼女の本音を、私はまだ一度も聞いていないから。

 どちらにせよ、西行妖の封印には幽々子と西行妖の繋がりを一度絶つ必要性があるのは確かであった。

 

「妖忌、これから一度、幽々子と西行妖の間の繋がりを断つわ。同時に封印術の術式を準備する。私が合図したらあの桜の発する死の力を切り払って! それまで時間を稼いで頂戴。時間が少しかかるけど……貴方なら大丈夫。そうでしょう?」

「——当然でございます」

 

 私が立ち上がるのを予期していたかのように、妖忌は素早く飛び出すと腰に差した刀を抜き、西行妖にその切っ先を向けた。

 

「私は白玉楼の庭師兼剣術指南役でございますが、それ以前に、幽々子様の従者でございますので」

 

 妖忌の刀が、青い光を帯びていく。

 眩い光を纏った刀を振りあげ、大上段に構えた。

 

「主の御為であるならば、敗けませぬ」

 

 先ほどよりも大きな斬撃が西行妖を襲った。

 地面を抉りながら進むそれは暴風の壁すら切り裂き、太い幹へ一直線に向かっていく。

 が、西行妖は枝を幾重にも重ねて妖忌の斬撃を防いだ。傷跡はこれまで同様に再生されてしまうが、瞬間的に与えた被害は、並々ならぬものであった。

 お返し言わんばかりに西行妖から放出される死の弾幕に対しても一歩も退かず、私に向かう弾すべてを弾き飛ばしている。

 

 白玉楼の歴代剣術指南役のうち最強と言われた名は伊達ではない。

 

「(彼なら、きっと時間を稼いでくれる。その間に私は)」

 

 境界操作の能力と結界生成の能力を重ね合わせ、巨大な封印術を展開する。西行妖の大きさが大きさだけに発動までには時間を要し、かなりの集中が必要となるためその間、私は動けない。

 そして平行して西行妖と幽々子との繋がりを一時的に立つための、術式も準備しなければならなかった。

 西行妖が満開を迎えるまでは、あとわずか。時間は残されていない。

 

「(集中……大丈夫)」

 

 私はそう、自分に暗示しながら印を結んだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

「せっ!」

 

 短い気合と共に妖忌は西行妖から放出された弾幕に向かって一閃する。彼は刀に薄く鋭く霊力を纏わせ、実体のない物を斬ることを可能にしていた。

 言ってしまえばそれだけだが、一度斬れば十も百も斬り伏せてみせる。『さすがは幽々子自慢の使用人ね』と、彼の実力は紫をしてそう言わしめるほどであった。

 

 西行妖は今もなお、膨大な“死”を振り撒いており、並みの者なら一瞬にして命を奪われている。にも関わらず、汗の一つもかかずに涼し気な表情で紫を死の弾幕から守り続けているのだ。

 

「む……」

 

 ふと、西行妖がその幹を大きく揺らす。すると数えきれないほどの黒い花びらが吹きあがり、死の弾幕として再び襲い掛かってきた。速さ自体は大した事がないが、その量と密度は圧倒的であった。

 刀一本で対峙しようなど、狂気の沙汰とも言える。

 

「(所詮、生まれたばかりの妖怪というわけか。妖力は凄まじいが、中身を伴っていない)」

 

 しかし、妖忌は冷静であった。

 主を失ったばかりであるというのに、彼はどこまで冷静に、ただ紫から与えられた役目を全うすることだけを考えていた。

 涙など、後悔など、後でいくらでもすればよい。彼は鋼のような精神力で動揺する自らの心を押さえつけていたのである。

 

「……」

 

 妖忌は躊躇なく前へ前へと飛び込んでいく。

 彼の覚悟とその精神力は一体どこからきているのだろうか。妖忌は、これまでに死地を幾度も乗り越えているようでもあった。

 

「(っ!? 幽々子様……)」

 

 だが、これまで冷静さを保っていた妖忌が、ほんの少しの間、硬直した。

 暴風の壁によって視界が遮られていたものの、幽々子の姿が一瞬だけ彼の眼には映ったのだ。西行妖にとっては、十分な隙であった。

 避ける間を与えずに鋭く尖った枝が妖忌の四肢を貫き、そのまま手足足首に巻き付いて拘束したのである。

 

「(西行妖め、わざと幽々子様の姿を晒し、こちらの動揺を狙ったか。この短時間で、戦い方を学んできているな)」

 

 四肢に鈍い痛みを覚えたが、彼が怯むことはなかった。彼は西行妖の注意が紫に向かっていることを視認するや、ためらわず霊力を開放した。

 

「——小賢しいわ。()()()()

 

 彼の背後に控えていた半霊が、自身に姿を変える。すると分身は紫に迫っていた弾幕を切り払い、次に妖忌の手足を貫いていた枝を断ち切った。

 刺さっていた枝を片手で引き抜くと、着物の裾を口で引きちぎり、自らの利き手と刀に巻き付ける。しっかりと固定したことを確認した彼は、分身と共に再び西行妖へ立ち向かっていった。

 

「妖忌! もう少しよ。持ちこたえて!」

「何のこれしき」

 

 紫の声に応えながら駆ける。

 顔面に向かって飛んでくる黒い弾を紙一重で避け、足を掬おうとしてくる枝を刀で切り払い、時には結界で防ぐ。

 周囲が黒一色に染まっている中、彼と紫の周りだけが元の様相を呈していた。傍からすると、妖忌の眼にも止まらぬ剣戟によって、結界が張られているようにも見えるだろう。

 

 しかし西行妖は攻勢を強め、徐々に妖忌は押され始めた。

 

 弾幕に加え、無数の枝が、根が、槍のように伸びてくる。

 なりふり構わぬ猛攻。しかし迫りくる死の弾幕の数は、ほぼ無限である。西行妖の力が弱まることはなかった。と、なれば消耗戦において敗北するのは妖忌だ。

 

「あと少しっ!!」

「……承知」

 

 下方から、あるいは横方向から伸びてくる根や枝一つ一つを後方に退きながら避け、薙ぎ払うと押され気味であった分身と共に、上空から迫る弾幕に応じる。西行妖が手数を増やしてきたため、半霊の分身を生み出したことが功を奏していた。

 

 妖忌はこれまで降りかかってきた西行妖の攻撃をものともせず、一本の刀で受け流し、斬って消滅させている。生きとし生けるもの全てに訪れる“死”をも斬り捨てられるのは、彼の意志の強さゆえか。

 そんな彼の懸命な努力によって、ようやく紫は術式の準備を終えることができた。

 

「準備ができたわ! 妖忌、お願い——!!」

「はいっ」

 

 彼は刃の軌道上だけでなく、空間そのものを“斬る”。

 

「覚悟するがいい、西行妖」

 

 妖忌の刀が、再び青い光を帯びた。

 

「私に切れぬものなど、ない」

 

 分身は消え、半霊が妖忌の背中に控えた。すると、一瞬の溜めの後に妖忌の姿がぶれる。

 溜めるために踏み出した足で、大地がひび割れた。上段に構えた彼の刀は閃光を放ち、

 

「西行春風斬」

 

 鋭い踏み込みと共に、魂魄妖忌、全身全霊の斬撃を西行妖めがけて放った。紫ですら目で追えないような鋭い斬撃が西行妖を襲い、大樹は幹を揺らして悲鳴を上げた。

 一瞬、西行妖への道が開ける。

 

「届け……!」

 

 紫は即座に術を発動した。もう一度、彼女の親友に会うために。

 

 

 

 ******

 

 

 

 辺りは光で包まれ、気づけば私は白玉楼の座敷に立っていた。あれだけ荒れ狂っていた西行妖の姿が見当たらないところからして、恐らく、ここは彼女の心の中であろう。幽々子の記憶につながる風景が辺りに広がっている。

 私は静寂に包まれる白玉楼を一人、歩いた。

 幽々子はどこにいるのか、私には心当たりがあったのだ。いつも二人で語り合った場所、きっと彼女はそこにいる。

 

 見つけた。

 

 縁側に腰かける人影が一つ。

 幽々子だ。

 彼女は私に気づくと一瞬目を見開いたが、すぐに平静を取り繕った。

 

「紫……来てしまったの……」

「ええ、来ましたとも」

 

 どこからか、琴の演奏が始まった。ゆったりとしたその音色が、水のせせらぎと相まって、静かな空気を醸し出していた。

 

 この空間は、幽々子の心の中である。だから、彼女は本音を隠すことなどできない。きっと幽々子の本心を聞くことができる、今度こそ彼女の苦しみを知り、分かち合うことができると、このときの私は思っていた。

 幽々子は私の方を向かずに、独り言のように語り始めた。

 しかし彼女の声色は、生前に聞いたような諦めの籠った悲壮なものだった。

 

「賭け……、どうやら私がまた勝ったみたい。うふふ、ごめんね、勝手なことをして。貴方が妖忌と一緒に、私のために方々で手を尽くしてくれていたことには気づいていたのに」

 

 違う……。

 

「私ね、ずっと不安だったの。このまま生きていていいのか。誰かを死に導いて、私だけのうのうと生きていていいのかって……けっして、許されることではないでしょう?」

 

 そうじゃない……。

 

「私が消えればもう誰かが死ぬことはないのだと、そう思ったのはいつからだったかしら。ずっとずっと……私は、生きているのが辛かった。でも貴方と一緒にいられた時だけは全てを忘れられて、楽しかったわ。貴方と出会えて本当に、本当に良かった」

 

 私の聞きたかったのはこんな言葉じゃない。

 

「今までありがとう。紫」

 

 こんな、嘘にまみれた言葉ではない。

 

「っ!?」

 

 私は幽々子の胸倉を掴み、その頬を張った。

 手から伝わる彼女の頬の感触は生々しく、自分の身も張り裂けてしまいそうな思いだった。

 

「——ふざけないでっ!!」

 

 私は耐えられなかった。

 

「もう嘘をつかないでよ、幽々子っ!! 心の中でまで嘘をつくことなんて、ないじゃないっ!! そんなの、幽々子が壊れちゃうよ……」

 

 幽々子は、全て自分だけが悪いと決めつけて、死ぬことでそれを償おうとしていた。それも、自分に言い聞かせてまでして。

 私の剣幕の所為か、幽々子は目を見開くと親に叱りつけられた童子にように、身を小さくした。

 そんな彼女の様子とは裏腹に、琴の旋律は次第に速く大きくなっていく。より激しく、感情的に。

 

「で、でも私のせいで……」

「違う。違うのよ、幽々子。貴方の能力が変質したのだって、西行妖の所為。少なくとも貴方が望んだことではないのだから、貴方が責任を全て負う必要なんてない」

 

 幽々子は何も言わない。ただ俯いているだけだった。

 しかし彼女の拳には、確かに力が籠り始めていた。

 

「貴方、西行妖ごと私に封印してもらうつもりだったのでしょう? そうすれば転生することもなく、貴方はこれ以上誰かを死に導くことはなくなると」

「……っ!? そこまで気づいていて——」

「でもお生憎様。私は貴方の言う通りになんてしない。してやらない。貴方の身体を楔にしなくても、西行妖自体は封印できますわ」

 

 幽々子の顔が凍り付く。

 まさか、私にそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。

 

「……そんな……」

 

 瞳が揺れた。彼女の声は震えていた。

 

「わ、私が転生したら、また同じようなことが起きちゃうのよ……? ゆ、紫は、それでもいいの……?」

「地獄の閻魔、四季映姫様から頼まれましてね。私の好きなようにしていいと」

 

 今まで俯き、消え入りそうな声で答えていた幽々子の様子が変わった。ずっとずっと堪えていたものを吐き出すように私の胸倉を両手で掴み返し、彼女の燃えるような目は本気で怒ったことを訴えていた。

 そうだ、貴方は人間なのだから。

 自分を隠すな。

 

「いいかげんにしてよっ!!」

 

 幽々子の怒気の籠った声が辺りに響いた。

 

「どうして紫は私を惑わすの……? 私、消えなくちゃダメなんだよ……?」

「そんなことはないっ!! 貴方の能力は、人間の身だから扱えないだけ。人間の身を辞めれば『死に誘う程度の能力』は制御できるわ!!」

「例え私が人ではなくなったのだとしても、この力を必ず制御できるとは限らないじゃない!!」

 

 幽々子の心は強かった。人間の身に余るような力を宿し、それに必死に耐えて。周りに心配させないようにして。そうやって抱えてきたものが今、あふれ出てきているのだろう。

 琴の音は幽々子の心を表すかのように、さらに激しく、扇情的になっていく。

 

「そんなに私は頼りないかしら? もっと頼ってくれたって良かったでしょう!?」

「私だって……頼れるなら頼っていたわよ!! できるなら紫にもっと頼りたかった。でも怖かったのよ!! ずっと消えたいと思っていたなんて、貴方が知ったらきっと、傷つけてしまうんじゃないかと思ったの……」

 

 自らの行為を顧みた私は、後悔した。幽々子の言う通りだったからだ。彼女は、いつ私に頼れば良かったのだろう? もしも幽々子が私に『死にたい』などと言っていたらどうなっていただろうか。だからこそ、彼女は私に本心を隠していたのかもしれない。

 幽々子の気持ちに気づいているつもりで、結局彼女を傷つけていたのは私だった。

 

 しかし、ここで彼女に語り掛けることを止めてはならなかった。ここで私が諦めてしまったら、幽々子は西行妖に完全に取り込まれてしまう。

 私は彼女に届いて欲しいという思いで、できるだけ優しい声で幽々子に語り掛けた。友人として、既に失格なのかもしれない。不器用な私は説教じみたことしか言えないし、人間の身を辞めてしまったがゆえに、人間の心が分からなくなってしまった。だから、気の利いた言葉の一つも掛けてあげられない。

 それでも伝わってほしかった。この気持ちに偽りなんてないのだと。

 

「嫌わない。貴方のことを、嫌うわけがないじゃない。だから、貴方の苦しみを私にも分けてほしいの。貴方一人が背負うことなんてないわ」

 

 私は俯き震える彼女の肩に、手を伸ばした。

 そしてあと少しで触れられそうになった瞬間、

 

「——だから、——じゃない……」

 

 幽々子は私の伸ばした手を払い、言った。

 

「紫は妖怪なんだから、人間の私のことなんて分かるわけないじゃない!!」

「っ!?」

 

 その拒絶の言葉は、私の胸に深く深く突き刺さった。拒絶される覚悟はあったが、それは本当に痛い言葉だった。

 現に私は人間である彼女が、どれほど誰かを死に導くことに心を痛めているのか、分かっていなかったのだ。でなければもっと前から事態は変わっていただろう。

 

「出て行ってっ!! もう構わないでよっ!!」

 

 彼女の一言一言に、私の心は折れてしまいそうだった。

 でもこれこそが、彼女が堪えてきた苦しみなのだ。

 

「紫なんて——」

 

 彼女は叫んだ。

 

「ここから、いなくなればいいっ!!!!」

 

 幽々子の身体から伸びる西行妖の枝が、私の鳩尾を串刺し貫いた。

 

「かふっ……」

 

 貫かれた箇所を中心にして、西行妖の死を操る能力が侵食してくる。

 どうやら西行妖と幽々子の間の繋がりを一度断ち切ったとき、完全ではなかったらしい。気づかれぬよう幽々子の心の中にまで潜み、異物である私を、西行妖自ら排除しに来たのだ。

 

「あ……っ!? あぁ…………!?」

 

 幽々子は私の胸倉から手を離して口を手で押さえ、狼狽しながら、後退った。

 

「(また、嫌な思いをさせちゃったかしら……。本当に私は、頼りないわね)」

 

 心の中で悪態をつきながらも、私は満足していた。

 幽々子、ようやく言ってくれたわね。

 貴方は自分の思ったことを言った。ずっと我慢していたことを言ったのだ。

 もう、隠さなくていい。

 

「私、なんてこと……」

 

 私から離れようとする幽々子。

 そんな彼女を逃がさないように、私はゆっくりと近づいた。

 西行妖の枝が邪魔だったが、仕方がない。

 

「そうね……貴方の言うように、私は人間ではない。だから、私は貴方の考えていることが分からなかった。分かったつもりになって、過ちを犯してしまった」

 

 貴方に、言いたかったの。

 

「ごめんなさい、幽々子」

 

 やっと、謝れた。

 ここに来た一つの目的は、ただただ謝りたかったのだ。

 こちらに来たときは幽々子がまた嘘をついていたことに腹が立ってしまって、本来の目的を後回しにしてしまい、こんなことになってしまった。

 だけどもう一つ、私は貴方に聞かなくてはいけないことがあるの。今を逃したらいけないのよ。

 

「一つ……、聞いてもいい?」

「いや……こ、こないで……わ、私は……紫を傷つけて……」

 

 逃げようとする幽々子の肩を掴んだ。

 彼女の目を真っ直ぐ見つめる。けっして目を逸らさせないように。

 

「どうして、未練があったの? 貴方は生きたいのではなかったの? ……本当のことを教えて?」

 

 幽々子と出会ってからの日々。確かに苦しい時もあった。

 しかし貴方は、笑顔だったではないか。楽しいときもあったではないか。私はただ思い直してほしいのだ。この世に生きるのは、何も苦しいことばかりじゃなかったと。

 

「生きたい……ねえそうでしょう? 幽々子」

「え……っ!?」

「たとえ誰かを死に導いていたとしても、生きたいのでしょう?」

「で、でも死んでいった人達はもう帰ってこないわ!」

 

 それはもっともだ。だが、さっきも言ったようにそれは幽々子が望んだことではない。だから幽々子が悪いわけでもないし、一人で抱えることでもない。

 

「そうね、確かに死んでいった者達は帰ってこないわ……でも、それは私の責任でもあるのよ。もっと早く封印術を見つけられていれば、死者は少なくなっていたでしょう。私がもっと貴方に寄り添っていれば、貴方の苦しみは今より少なかったかもしれない」

「ゆ、ゆかりは悪くなんてないっ!」

「いいえ」 

 

 私はきっぱりと否定した。

 もっと貴方と向き合わなければならなかった。それを私も、心のどこかで避けていた。怖がっていたのだ。幽々子と同じように拒絶されることを恐れて、前に進めなくなって。

 だから、

 

「貴方が、それでも生きていることが罪だと言うのなら、私はそれを一緒に償う」

「……どうして? 紫はどうして私なんかに構うの……?」

 

 いい加減気づいて頂戴。いつもの貴方なら、もうとっくのとうに気づいているはずよ。

 

「だって私は貴方の友達だから」

 

 幽々子の身体に込められていた力が緩まっていく。

 

「無理に大人にならなくてもいいの、我儘を言ったっていいわ。もっと自分に素直になって頂戴。貴方の抱えている苦しみや痛みを、私も背負うから。これから精一杯、貴方のことを知っていくから」

 

 私は幽々子を抱きしめた。彼女の体は、汗ばんで冷えたのか、とても冷たい。だから私の熱が少しでも彼女に伝わっていけばいいなと思いながら、背中に手をまわす。

 心なしか彼女の身体は小さく感じた。

 

 そして気づけば西行妖の枝は、いつの間にか姿を消していた。

 

「……ぅあ……ああ……うぅ……」

 

 胸に響く、くぐもった声。

 幽々子は私の腰の辺りに手をまわし、小さな声で肩を震わせ泣いていた。

 どんどん熱くなっていく彼女の体を、私は壊れ物を扱うように抱き留めながらその頭を優しく撫でた。

 すると、幽々子の私に抱き着く力が強くなっていく。それはもう、鳩尾に空いた穴から鈍い痛みを感じるほどに。

 これは罰のようなものだ。幽々子を傷つけた愚かな私への罰。

 

「ゆかり、ごめんね……言えなくてごめんね……」

 

 さらさらとした彼女の黒髪は、とても触り心地が良くて、愛しくて。

 私はずっと、彼女が落ち着くまで頭を撫で続けた。

 

「(今はまだ、もう少しこうしていましょう……)」

 

 確かに幽々子は大人びている。それに、妖怪の私を翻弄するぐらいには賢い。でもやはり彼女は十四、五の少女なのだ。悩みもするだろう。答えのない現実の問題に、葛藤を抱えるだろう。その未熟な心で誰かを死へ導いてしまうという苦悩を抱え、ついには耐えきれなくなってしまったのかもしれない。

 その真相は本人にしか分からないが、私はひとまずそう思うことにした。

 

 しばらくすると辺りは静かになり、琴の音が再びゆったりとしたものに変わった。それは幽々子の心が落ち着きを取り戻したことを示していた。

 名残惜しいが、この辺りが頃合いだろう。

 余り時間も残されていない。

 

「さっきの質問の答え、そういえばまだ聞いてなかったわね」

「え?」

 

 胸に顔をうずめた幽々子のくぐもった声が聞こえる。今の彼女の顔はきっと酷いことになっているに違いない。

 私は気にしないよう努めながら、彼女に言った。

 

「貴方の未練、教えてくれないかしら?」

「?」

 

 すると幽々子は頭を軽くかしげ、きょとんと不思議そうな顔をした。

 

「それほど考えすぎることはないのよ。答えは単純なんだから」

「あ、あぅ……」

 

 先ほどまでのことを思い出したのか、顔を私の胸に埋めた幽々子。

 だが、きっと今の彼女なら答えてくれるだろう

 しばらくすると彼女は顔を上げ、私の目をしっかりと見据えて言った。

 

「……消えたくない。これからこの罪を、貴方と一緒に償っていきたい」

 

 それはもう生を拒み、死を願う人間の顔ではなかった。自分に嘘をついていた少女の姿ではなかった。

 ……よかった、私の言葉が彼女に届いて。

 

「貴方がそう言ってくれるのを、ずっと待っていましたわ」

 

 私はそう言ってこの親友に微笑んだ。

 さて、これからの話をしようか。

 

 

 

 ******

 

 

 

「魂の固定化?」

 

 幽々子は私に問う。

 

「そうよ。貴方の肉体を楔にして、魂を固定化するの。つまり、これから貴方は実体を持った亡霊になるわ」

「実体を持った亡霊……。なんだか不思議な響きね」

 

 呟く彼女に続けて言った。この術をかけるに当たって、一つ問題があるのだ。

 

「でもね、幽々子。貴方の魂、つまり今いる貴方は肉体から離れて時間が経ってしまったから、恐らくはこの術をかけて亡霊になったとしても、記憶に何らかの障害が残るかもしれない」

「生前の記憶がなくなるということ? 今、貴方と会話しているこの記憶も全部——」

「そうよ。残念ながら、失われてしまうでしょう」

 

 母の場合、死の間際に術を発動させたために生前の記憶を失うことはなかった。しかし、幽々子の場合はそういうわけにもいかないのである。離れてから時間が経ってしまった魂と肉体をつなぎ合わせることは難しい

 まして幽々子の肉体は西行妖と強く結びついてしまっている。楔にするにしても記憶への障害は現時点では免れないだろう。

 

「……まあ、そうよね」

「……ごめんなさい。こればかりは今の私ではどうにもならないの」

「いいのよ。それだけのことを私はしてしまったんだから」

「いいえ、必ず私が貴方の記憶を取り戻す方法を見つけてみせる。約束よ」

 

 ふと、白玉楼の上空が割れた。そろそろこの空間も不安定になってきつつある。早急に手を打つ必要があった。

 

「幽々子、これから西行妖と幽々子の魂との繋がりを完全に絶つわ。力を貸して頂戴」

「ええ」

 

 私たちは、手を握り合った。

 幽々子の心の中であるこの空間に、姿を現していた西行妖。まだどこかに潜んでいる可能性があったため、この空間の主たる幽々子の力を借りる必要があったのである。彼女の手を通して霊力を受け取り、私が潜んでいる西行妖との繋がりを探し当てて浄化するのだ。

 

「紫……、私にできるかしら?」

 

 彼女は少し頬を赤くして、正面に立つ私から目をそらしていたが、緊張した面立ちだった。いいや、少しこそばゆいのかもしれない。向かい合わせで、じっと見つめる私に目を合わせにくいのだろう。

 珍しい彼女の様子に、私は頬が緩んだ。

 

「大丈夫、私を信じて」

 

 私は、彼女の小さな手を握った。一瞬身体がぴくりと撥ねると、彼女の手の僅かな震えが治まっていく。

 

「うん、そうよね……信じるわ、貴方を。だって貴方は、私のお友達だもの」

 

 彼女が手を握り返したのを確認して、私は妖力を開放し、浄化の光を放つ。それと同時に幽々子からほんの少し霊力をもらい、上乗せした。

 浄化の光は、白玉楼を含むこの空間全体を包んでいった。

 

「……綺麗」

 

 そう呟いたのは、幽々子だった。

 確かに、この光はどこか安心させてくれる。かつて、母が妖怪たちと戦っていたときも、私はこの浄化の光に心が落ち着き、安心させられた。

 

「ええ、綺麗ね……本当に」

 

 明るい空を二人で見上げながら、私は頷いた。

 しかし、ずっとこうしてはいられなかった。

 浄化はもうすぐ、終わってしまう。

 

 幽々子と過ごすこの時間にも、終わりが近づいてきていた。

 

「——記憶がなくなっても、私とお友達でいてくれる? ずっと、ずっとこれからも」

 

 段々と意識が薄れてきた様子の幽々子は、私に体を預けながら問う。この光が完全に収束したとき、彼女の記憶は消えてしまうだろう。それと同時に、私はこの空間から弾き飛ばされ、外の世界に戻ることとなる。

 これが最後になるかもしれない。

 何を話せばいいのか、何を伝えればいいのか、いざとなってみると、言葉に詰まってしまった。それでも、私は言わなければいけない。

 

「……もちろん。記憶がなくなっても、幽々子は私のお友達よ。だけど私は貴方を忘れない。私が貴方のことを覚えていれば、貴方はずっと私の中で生き続けているから。それに、このままにするつもりはないわ。貴方を必ず、迎えに行く」

「うふふ、ええ。待ってる…………楽しみにしているわ」

 

 満足そうに、彼女は頷く。

 

「ねえ、紫……」

「——なっ!?」

 

『またね』と、そう言って幽々子は私の頬に口づけをした。

 

「紫ったら赤くなっちゃって、もう。初めて会ったときみたい」

「な……なにをっ!? 幽々子!?」

 

 幽々子の身体が薄れていく——。

 ああ、やはり私は——。

 

「記憶が戻ったら、それまでにあった面白いお話をたくさん聞かせてね。忘れちゃだめよ? 私、とっても楽しみにしてるんだから——」

 

 浄化の光が完全に収束した。

 眩い光に目がくらみ、瞬きをするとそこは元いた世界。滲む視界に私は目元を袖で拭い、両手で自分の頬を張り、しっかりと大地を踏みしめて立ちあがる。

 

 西行妖は幽々子との繋がりを断たれたことで力を弱め、暴風の壁が消えてなくなっていた。

 この好機を逃さず、すぐさま封印術を発動した。奴の力が弱まっている今、幽々子の肉体を鍵として、西行妖を封印するのである。

 

「散りなさい、墨染の桜!!」

 

 術式が発動すると、放たれた幾重もの光の鎖が西行妖本体に巻き付く。必死に枝を使って抵抗しているようだが、それを上回る勢いで鎖が絡みついた。自由を失うと共に、さらに力が弱まっていく西行妖。白い光で幹が見えなくなるとそのまま破裂し、妖力が完全に消失した。

 

「(終わった、か……)」

 

 黒一色であった辺りの景色が反転し、白に染まっていく中、私はそこで意識を失った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 目が覚めると、西行妖は沈黙していた。どれほどの間意識を失っていたのか、よろよろと起き上がり見上げてみれば、西行妖はすっかり枯れて、もう死の弾幕を放ったりはしなかった。

 

「——!」

 

「——様!」

 

 遠くから妖忌の声がする。

 

「紫様!!」

「妖忌……。無事だったのね」

「はい。御覧の通り、西行妖は封印できたようですな」

「ええ……」

 

 私は西行妖をもう一度見上げた。幽々子を死へと追いやった忌々しい桜。今ではただの枯れた木にしか見えない。

 

「妖忌、幽々子は——」

「幽々子様は、先ほどあちらで見つけました。たった今、白玉楼の一室にお連れしましたところでございます」

 

 そう言って白玉楼の庭側の一室を指さす。さすが妖忌。仕事が速い。

 私がそう感心していると、妖忌が佇まいを直し、私の目を真っ直ぐと見ながら言った。

 

「この度はわが主のこと、本当にありがとうございました。私が目を離さなければ、このような事態にはならずに済んだものを……誠に申し訳ありません」

「いいのよ。妖忌。もう終わったことだわ」

「いいえ、何とお礼を申し上げたらよいか……」

 

 妖忌には苦労をかけた。私が封印術を調べるのに時間がかかった分、幽々子の様子を彼に任せっきりにしてしまっていたのだ。彼自身は封印術の分野にはそこまで明るくないので、歯がゆい思いをさせてしまったに違いない。

 だから、悪いのは彼だけでない。

 私も、妖忌もそして幽々子も皆、どこかで選ぶべき道を誤ってしまった。気づけば皆が望んでいない事態になってしまっていて、取り返しがつかなくなっていた。

 

「私はお礼を言われるようなことはしていないわ。それに、自分ばかりを責めなくていいのよ。別に貴方の所為ではないのだから」

「しかし——」

「しかしも何も、私はいいと言っているのよ。幽々子だってきっと妖忌を責めたりはしないと思うわ」

「…………」

 

 少しの沈黙。

 

「はい……お気遣いいただき、ありがとうございます」

 

 妖忌がそう答えて下がった後、私は幽々子のもとへと向かった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 白玉楼の一室に寝かされた幽々子は、まるで何もなかったかのようにすやすやと寝ていた。彼女が呼吸をするたびに、胸の辺りで布団が上下に揺れる。私は彼女の枕元に音を立てぬよう腰を掛け、ほっと息をついた。そして内心、彼女の身体に起きた変化に驚いていた。

 黒かった彼女の髪は、今ではまるで満開の桜の色に染まっていた。あの桜を黒で染めたとき、彼女の身に、そしてその魂にまでも何かしらの変化を与えたのかもしれない。

 

 色々と思うところがあったが、ひとまず無事でよかったなどと、私は彼女が起きるまでその髪を撫で続けた。

 それから数刻。

 幽々子はなかなか起きない。なんだかんだとこれからのことについて考え事をしながら、かれこれ数刻近く待っているのだが、起きる素振りすら見せない。

 そろそろ足も痺れてきてしまうので、お茶でも取りに行くかとその場を離れようとした、その時、

 

「ねえ、貴方だれ?」

 

 声を聞き振り返ると、幽々子が私の服の裾を引いていた。こちらを見上げている彼女の顔は純粋無垢な印象を受ける。

 いつの間に……。

 初めて会った時のような、無意識に死に焦がれているような違和感は、もうなかった。

 

 さて、ようやく幽々子は目を覚ましてくれたわけだが、問題がある。

 こんなとき、なんて言いだせばよいのだろうか? 

 ふと思った。心の準備というか、不意に起きたものだから少し困惑してしまう。しかしまあ、よく考えてみればそんなに悩むこともない。時間はたっぷりとあるし、もう一度初めからやり直せばいい。焦らなくていいのだ。

 人間と、妖怪の間でさえ、心を通じ合わせることができたのだから。

 

()()()()()、私は八雲紫」

「八雲……紫?」

 

 きょとんとした幽々子の姿に、つい口元が綻んでしまう。彼女のおっとりとした雰囲気は生前そのままだ。そもそも起きてすぐそばに知らない人物がいるというのに、それも私を相手にしているというのに、まったく警戒する素振りも見せない。

 

「そうねえ、なにから話そうかしら……ああ、そうだ」

 

 境界操作の能力を使い、白玉楼の庭の、枯れていた桜を蘇らせる。この程度であれば造作もない。生と死の狭間にあった桜は次々に息を吹き返した。ぽつりぽつりと桜が花を咲かせ、庭が色を取り戻す。

 なにせ今は春なのだから——。

 初めて会ったあの日と同じ言葉を、貴方に送ろう。

 

「桜が綺麗だったから、お邪魔してしまいましたわ」

「桜? あれ、いつの間に……?」

 

 幽々子はぽかんと口を開けている。

 

「西行寺幽々子さん」

「なあに?」

 

 

「私とお友達になってくれませんか?」

 

 

 ある歌が綴られた一枚の紙切れを、私は強く握りしめた。

 

 

 

 ——ほとけには 桜の花を たてまつれ

 

 ——我が後の世を 人とぶらはば

 

 

 

 かくして、墨染の桜は咲いて、散った。そして、私の知る幽々子は深い眠りについた。

 

 だが、いつの日か。

 

 もし、彼女の記憶が戻ったならば、私は——。

 

 

 

 桜の章 完

 

 

 ******

 

 

 それはとある山の中。

 

「おねえちゃん、おねえちゃん!」

 

 擦り切れた着物を着た少女は大きな岩の上で寝そべっている人物に話しかける。

 

「んー? なんだい。あんたか」

 

 その人物は面倒くさそうに起き上がり、返事をした。

 

「もう、そんなところで寝てたらかぜひくよ!」

「分かった、分かったよ……それで何のようだい?」

 

 鬼は少女に問うた。すると少女は嬉しそうに答える。

 

「ねえ、萃香おねえちゃん。ゆびきりってしってる?」

 

 昔、昔。

 

 それは御伽の国の話。

 

 心を通じ合わせた人の子と、鬼が交わした約束。

 

 その約束とは。

 

 

 鬼の章 始

 

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