それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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鬼の章:その者麗らかなりて……

 ——最近、よくあの頃を思い出すんだ。

 

 私がアイツと会ったのは、本当に偶然だった。アイツを食う機会があったのにも関わらず、なぜ食らおうとしなかったのかは今でも分からない。アイツは人間で、私は妖怪だった。だから分かり合うことができるなんて、ちっとも思っていなかったんだ。

 気づいたら気を許してしまっていて、気づいたら食らう機会を失っていた。

 

 そもそも、人は嘘をつき、鬼は嘘を嫌う。だから互いに憎み合うのだと、そう考えていた。

 しかし、そんな凝り固まった考えはアイツによって砕かれた。確かに、きっかけは単純だったかもしれない。でも誰もが私を恐れ、鬼として、力の象徴としてしか見てくれなかったのに、アイツは違った。私はアイツの中に誠を見たんだ。

 

 そして、なにより嬉しかった。いつしか諦めてしまっていた私は、希望を見つけたような気がして。アイツといたら退屈することはないだろうと、“これから先”が楽しみになっていて。

 あのときアイツを食わなかった私を全力で褒めてやりたいよ。

 

 忘れられない私の大切な記憶。

 だからこれはそっと、胸の中の大事な部分に取っておく。

 

 あのときの記憶をつらつらと思い出している最中、博麗神社の屋根の上でぼんやりと空を見上げていたら、辺りに同居人の声が響いた。

 

「萃香~、どこにいるの~!? また私のお酒を勝手に飲んだでしょっ!? 今、出てきたら拳骨一発ぐらいで済ましてあげるわ!!」

 

 あ、ばれた。これはまずいな。

 すたこらさっさと逃げようとしたところで、いつの間にか背後に回っていた霊夢が私の首根っこをむんずと掴んだ。

 ……私、一応気配を消していたつもりだったんだけど。

 

「あんたねえ~、また私から逃げようとしたでしょう?」

「ごめん、ごめんって。ゆるしておくれよ~、れ~むぅ~」

「そんな甘えた声で言ったって許さないから! まったく……」

 

 霊夢はアイツに似ている。いや、別に性格が似ているってわけじゃない。少なくともアイツはもっと優しかった。お祓い棒をもってして全力で殴ろうとなんかしない。まあ、なんというか雰囲気みたいなものだ。

 ほら、敵わないなぁって感じさせられるところとか、ね。

 

 ドゴッ、ゴスッ、バキィィィンッ、と生々しいというか、色々体からしてはいけない音が神社に響き渡る。

 およそ人間がくらったら軽く三度は死ねるようなお仕置きを受けた私。

 

「う~」

「——あらあら萃香、随分と楽そうな格好をしているのね」

 

 私の隣に突如として現れたのは、胡散臭い笑みを顔に張っ付けている美少女、八雲紫。私の古い友人の一人だが、なかなか食えない奴だ。悪い奴じゃあないのは確かなんだが——。

 

「ああ、とっても楽ちんだ。ほら紫、ちょいと変わってあげてもいいんだよ?」

「うふふ、遠慮しておきますわ」

 

 いい笑顔で即答する紫。まあ、コイツは色々と誤解されやすいんだ。

 何だかこういう言い方をすると、不憫な奴に思えてくるね。

 

「——ちょっと貴方。失礼なことを考えているのではなくて?」

「妙なところで鋭いよね。紫は」

 

 心を勝手に読むな。どこの覚り妖怪だっていうのさ。

 足をぷらぷらとさせながら、何となしに右へ左へ振り子のように体を揺らしている私を見て、紫は溜息をついた。

 

「……それにしても、よく縄で縛りあげられた状態で余裕を保っていられるわね」

「いや~、もうね。なんというか霊夢には参った、参ったぁ。一周回って余裕が生まれてくるもんさ」

「はぁ」

 

 ちなみにさっき私は能力を使って縄から脱出しようと試みたのだが、どうやら霊夢はそこそこ強い封印の御札を私の背中に張り付けたらしく、抜け出そうにも簡単には抜け出せなかった。

 こんなに強力な札を張り付けるなんて、なんという鬼畜巫女なんだろうね。鬼である私よりも鬼らしいとは。霊夢、侮れん。

 

「もう、霊夢には私から言っておくから……。萃香、今日はあの日でしょう? こんなところで油を売っている場合じゃないでしょうに……」

「そうか……」

 

 やけにアイツのことを思い出すなぁって思っていたら、そりゃあそうか。

 丁度、夏の暑い頃だったかね。

 

「まさか忘れていたの?」

「いや、そうじゃない。ただ、改めて言われてみるともうこの季節なんだなあって……」

「まあ、分からなくはないわ」

 

 扇子を口元にやり、溜息をつきながらも同意してくれた紫。

 やっぱりコイツは、なんだかんだ言って話の分かる奴だ。

 

「……そんじゃ、頼むよ」

「貴方は本当に昔から世話が焼けるわね」

「なんだかんだ親切なあんたが私は好きだよ」

「はいはい、分かったからさっさと行きなさい」

 

 背中の札を取ってくれた紫はそっぽを向いた。ああ、コイツもあのときいたんだっけなぁ。もともと私と紫は敵対していて、顔を合わせれば殺し合いにまで発展することもあった。それを止めにアイツが間に入ってきたりしてさ……。

 ……楽しかったなあ。私とアイツ、それに時々紫がいた。幽々子と知り合ったのもこのあたりだったかな。

 今みたいに平和で綺麗な世界じゃなくて、もっと血生臭い時代だったけれど、皆精一杯に生きていた。

 

「霊夢は本当に情け容赦がないというか、加減を知らないわね……。たまにはお仕置きが必要かしら……」

 

 しばらく私が物思いに耽っていると、前に立つ紫は物騒なことを呟く。

 あの鬼巫女を相手にお仕置きとは……。いやはや紫というやつも十分に恐ろしい。天敵と言えば、あの閻魔くらいなんじゃないかね?

 

 私とこの神社に暮らすのを陰ながら支えてくれているコイツには実のところ、頭が上がらない。

 昔、月に攻め入ったときも、見境なく人を殺してしまったときも、私を見捨てたりしなかった。それに地底から地上に戻ったときも、私が幻想郷に受け入れられる切欠を作ったのはコイツだったんだよな。

 誤解されやすくて敵も多いが、それでも紫のことを慕っている奴だって多いと思う。幽々子に、あの狐に、そしてあの鬼巫女に。

 

 もちろん、私もその一人だ。

 だって紫は私の大切な友人なんだから。

 

「じゃ、行ってくるよ、紫。ああ、そうだ。後で(飲みに)付き合ってくれないかい?」

 

 紫が私の背中に貼ってあった札を取り去り、私は無事抜け出すことに成功した。ようやく地面に降り立つことができた私は、見上げる形で紫に言う。

 そんな私の顔から視線を逸らし、紫は答えた。

 

「あの子によろしく言っておいて。それと、淑女を誘うときはもっと雰囲気を大切にするものですわ」

「まったく、素直な奴じゃあないね」

 

 まあ、なんだかんだいって我儘にも付き合ってくれるのが紫だ。後でまた、声を掛ければいいか。

 軽く地面を蹴り、『密と疎を操る程度の能力』を行使し移動する。

 アイツの眠る場所へ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 千年以上前のこと。すなわち幻想郷が生まれる少し前、人間と妖怪の間には大きな溝が存在していた。妖怪が人を攫い、喰らい、そして化かして恐怖に陥れる。人は怯え、恐怖し、ときに勇気ある者が彼らに挑み、破れ、あるいは打ち勝つ。

 人は、神との共存を求めた。しかし、妖怪との共存は受け入れられなかった。

 それがこの時代における、常識であった。

 

 

 季節は秋、肌寒くなる中で生物は来たる冬に向けて各々備えを進めている。木々は子孫を残すべく色づき多くの実を結び、動物たちは生き残るために木の実を食べ肉を食べ、肥え太ろうとする。

 生命活動活発な秋の森。見渡せば生命の息遣いがどこでも感じられることだろう。

 

 そんな森の一端。餓えた獣を呼び寄せるような濃厚な血の臭いが漂う。

 しかし、そこには何者も寄り付こうとしなかった。彼らは本能で理解しているのである。手負いであれ、正真正銘の“化け物”に近づくことの恐ろしさを。

 

 鬱蒼と蔦が複雑に絡まる薄暗い森の中、

 

「——おねえちゃん……大丈夫?」

 

 かがんで声をかける少女。

 その視線の先には、横たわり苦し気な呻き声をあげている、手負いの化け物。

 己の名を呼ぶ者の方へと視線を向け、化け物は声を発した。

 

「……なんだ、お前は……?」

 

 凄みの効いた、されど苦し気な声。

 横たわる化け物は無論、人間ではない。頭に生える二本の角、妖怪の中でも上位に君臨する強者、“鬼”である。

 鬼とは数々の伝承に名を記され、最強の称号をほしいままにする妖怪の中では最強とも謳われる種族。

 しかし強靭な肉体を誇るとされている鬼は、瀕死の重傷を負っていた。肩口は大きく抉られ、出血がひどい状態となっている。さらに傷口の周辺は化膿し、異臭を放ってさえいた。

 

「わたし? んーとね、わかんないや」

 

 負傷し血まみれながらも、常人ならば卒倒するような威圧感を放つ鬼に対して、とぼけたように答える少女。彼女は動じる様子も、ましてや狼狽える様子も見せなかった。傍から見れば、彼女がとても正気の沙汰とは思えないだろう。

 

「失せろ、人間。さもなければ殺す」

「どうして? けがしてるんでしょ?」

 

『うぐっ』と、唸る鬼。

 少女の指摘は図星だった。もしも重傷を負ってさえいなければ、少女をすぐに殺して食っていただろう。しかしこのとき、鬼は少女を食い殺すだけの余力を持ち合わせていなかったのである。

 

「(どうして、こんなところに人間の子供が……?)」

 

 おぼろげな記憶によれば、この森は妖怪こそ少ないものの、熊や狼、猪が多く住み、人間が入り込むのは危険なはずである。すなわち、大人と共に来たとは考えにくい。つまり、この少女はこの森に一人でやってきたということだ。

 この時点で理解に苦しむ。

 さらにはこの幼気な少女、あろうことか鬼である自分に近づいてきているのである。

 

「(くそっ……、頭が回んない……)」

 

 出血がさらに深刻になってきた所為か、鬼の意識は段々と遠くなっていく。

 今、意識を失えば目の前にいる少女に何をされるか分かったものではない。ただし、いかにも非力な少女が鬼である自分に対して、何か危害を与えられるとも思えなかった。

 

「(……ちっ、もうどうにでもなれ……)」

 

 鬼は悪態をつく。もとより、少女一人食らう程度の余力すらないのだ。選択肢などないに等しい。

 思考をそこまでで放棄し、朦朧とした意識の中で“彼女”が最後に見たのは、

 

「(——あ?)」

 

 自らの傷口に手を当てる少女の姿だった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「んっ、しょ……よい、しょっ」

 

 突如、少女の手が緑色の光を発した。その光は少女の手から離れて鬼を包み、化膿していた箇所をはじめとして、鬼の傷口を塞いでいく。

 

「——あれ?」

 

 少女は何やら腕に力を込めている様子であったが、

 

「うぅ……なかなか治らないや」

 

 深く抉られた部分の直りが遅かった。どうやら何かが少女の治癒を妨げているようである。

 それは、少女のもつ“能力”に近しい“何か”。

 

「うーん……? もういちど」

 

 とはいえ、少女が特に気にした様子はない。

 もう一度鬼に光を纏った手をかざし、傷口を塞ぐ。今度は血の跡を残して抉られた肉までもが再生し、化膿した部位は新しくできた組織によって内から体表面まで追い出され、やがて地面へぽとりと落ちた。

 次第に鬼の呼吸は安定していき、今では静かな寝息を立てている。

 

「ふぅ……」

 

 少女は息をゆっくり吐き、安堵した。

 ここまで治療すれば、もう大事にはならないだろうと判断したのであろう。手に持っていた布切れで鬼の身体にこびり付いていた血を拭うと、彼女は改めて鬼の顔を覗いた。

 すると少女は息を呑む。

 

「(っ!? あらやだ、やっぱりわたしがおもったとおりだったわ。か、かわいいっ……!!)」

 

 鬼は自分とたいして変わらないくらいの身長の少女の姿をしていた。

 薄い茶色の長い髪を毛先の辺りで一つにまとめ、その頭の左右からは身長と不釣り合いに長くねじれた角が二本生えている。

 幼さが色濃く残る顔立ちではあるが、その美貌はまさに妖そのもの。閉じ合わさった瞼は深い影を落とし、目頭から目尻まで美しい曲線を描いている。さらにはいくらか血色を取り戻した形の整った頬と桜色の唇からは、ただの年齢通りではない色気を漂わせている。

 

 少女は自分と同じくらいの年頃に見える鬼が倒れているのを偶々見つけ、居ても立ってもいられなくなり、治療を施したのであった。全身血だらけであった鬼の血を拭えば、案の定、見た目は幼い童女である。

 初めて遭遇した意思疎通のできる妖怪。それも見た目だけなら自分と同年代。

 少女は鬼に対して興味が尽きなかった。

 特に彼女は、その角に興味を示した。寝息と共に少しだけ揺れ動く角を凝視し、人差し指をそろりそろりと近づける。

 

「う……んっ……」

「ひうっ!」

 

 うなされているのか小さく声を上げる鬼に、少女は大きく肩を上げて指を引っ込めた。しかしまた、しばらくすると角を触ろうとし、

 

「ひゃっ!」

 

 指を引っ込めるという同じ動作を繰り返す。まるで玩具にじゃれる猫のように、彼女には邪気がなかった。ただ、少女は飽きることなく永遠と繰り返し、気づけば時刻は昼から夜になっていた。

 最早狂気の沙汰と言えよう。

 

「あ、いけない。ごはんごはんっと」

 

 少女はどこから持って来たのか、上等そうな羽織りを鬼の胸元にかけてその場を立ち去った。それからまた数刻すると、魚を手一杯に抱えて戻って来るや否や火を焚き、手慣れた手つきで串に魚を刺して焼いていく。川魚特有の匂いと香ばしいにおいが辺りに広がった。

 魚の身から染み出た油が爆ぜ、ぱちぱちりと音がする。

 

「ん……」

 

 匂いと音につられてか、鬼はゆっくりと目を覚ました。

 流石は鬼の生命力。

 いくら少女が治癒を施したからとはいえ、体力をかなり消耗していたのにも関わらずたったの半日で目を覚ますまでに至ったのである。

 

「うぅ……んぁ……」

 

 その場で可愛らしい欠伸をした鬼は目尻に浮かんだ涙を指ですくい、ふにゃふにゃと口内に溜まった唾液を呑む。

 喉が渇いていた上に血がこびりついていたこともあって呑み込む際に少々不快感を覚えたが、食欲が刺激されていたからか、口の中だけは唾液で潤っていた。

 

「——あ、おきた! おねえちゃん、お水いる?」

 

 少女は水の入った水筒を鬼に手渡した。

 鬼が喉の辺りを手で抑えて眉を寄せている様子から、色々と察したらしい。

 

「はえ?」

 

 寝起きの鬼は見た目相応の高い声——ただし、かすれているが——を上げ、言われるがまま、渡されたそれを口に運んだ。

 

「んっく、んっく」

 

 ただ今鬼は、自分が置かれている状況をまったく理解していない様子。その証拠に、目の前に座っているいかにも怪しい少女に何の違和感も覚えていない。

 警戒心など皆無である。

 

「……ああ~、うまい……」

 

 こびりついていた血は水に洗い流され、同時に乾いていた喉を潤していく。喉を通る清涼な水に、鬼は生き返るような心地になった。

 そこで少々、いや、大分遅すぎるとも言えるが、ぼんやりとしていた脳がようやく覚醒する。

 端的に言うと、鬼はかなり寝ぼけていた。

 

「って、傷がふさがってる!? そんな……馬鹿な——」

「あはは、よかったぁ。もう痛くないでしょ? 心配したんだよ? 肩のところの傷なんて、ほんとうにひどかったんだから」

「……くっ」

 

 正気に戻った鬼は少女に飛びかかった。上に馬乗りとなって、襟を掴んで問う。先程までの弛緩した気配は消え失せ、鋭い牙を見せつける口元に、眼光は炎のように真っ赤に燃えている。

 

「……お前、一体私に何をした?」

 

 あれほど深い傷を負ったはずの己の傷がすっかりと消えていた。すると気を失う直前、己の身体に手を当てていたこの少女が何かしたことはほぼ確実。

 かなりの圧力をもって少女を脅した鬼であったが、少女は全く抵抗しようとせず、からからと笑うばかりである。その様子が人間離れしている所為で、ますます鬼を焦らせた。

 

「何っていわれても。そうだなぁ……『なおれ』って念じるとね、傷がなおるの」

「そんなことが……」

 

 鬼は改めて自分の肩を見る。来ていた衣はいつの間にか全て脱がされており、容易に傷跡を確認することができた。

 しかし、確かに大きく抉られたはずの肩の傷は跡形もなかったかのように消えていた。

 

『馬鹿な』

 それは鬼の抱いた率直な感想だった。

 

 そう簡単には癒えないような瀕死の重傷を、こんなに幼い人間の少女が治療したと言うのだから鬼が受けた衝撃は大きかった。

 嘘、であるようにも思えない。周辺に少女以外の気配もしないし、事実として、自分の傷は癒えている。

 だが『しかし』と、鬼の心には疑問が湧いてくる。少女が妖怪である自分を治療する理由が思い当たらない。

 

「何を考えている? 私は鬼だぞ……。鬼は人を攫い、食らうものだ。人間のお前なんか殺されてもおかしくないってのに」

「まあ、そのときはそのとき。それにおねえちゃんはそんなことしないから!」

「どうして、わかるんだい」

「勘だよ」

 

 少女は屈託のない笑みで応えた。あまりのことに鬼の肩からは力が抜けていってしまう。呆然としていると自分を見て、少女は組み伏せられた状態のまま笑っていた。

 思わずつられて、頬が緩みそうになってしまうほどに。

 

 ただ、気味が悪いかと聞かれれば否定できない。少女のその姿は、この世からふわふわと浮いているようにも感じられたからである。

 

「ねえねえ、鬼のおねえちゃん。おねえちゃんの名前を教えて?」

 

 呆気に取られていた鬼に、少女は尋ねる。

 

「名、だと……?」

「うん。わたし、知りたいな」

 

 奇行に続く奇行。

 鬼はどうにも調子が狂うと感じた。まさに天真爛漫、いくらか狂気じみているとはいえいかにも非力な少女に、主導権を完全に奪われてしまっているのだ。このままでは鬼である己が毒気をすっかり抜かれてしまうかもしれない。いっそこの娘を殺してしまおうかという考えが頭をよぎったが、どうにもその気になれず、すぐに雲散した。

 さてどうしたものかと悩んだ鬼。

 結局、

 

「萃香……伊吹、萃香」

「いぶき、すいか……萃香おねえちゃんだね! よろしく!」

 

 少女の邪気の無さに抗えなかった。

 

「どうして……」

「ん?」

「どうして私を助けたんだい? 私は妖怪だよ!? なぜ人間のお前が——?」

 

 だが、鬼は聞かずにはいられなかった。どうしても信じられなかったのである。妖怪と人間の間に横たわる溝をよくよく理解しているがゆえに。

 矢継ぎ早に問う鬼の言葉を、少女は遮った。

 否、鬼は言葉を続けられなかった。

 少女から発せられる気配が突如として変容したからである。

 

「かつて、いえ、それよりもずっとずっと昔のこと。今は忘れ去られた時代。人も妖怪も、そして神も一つだった」

 

 何度も何度も語り慣れているような口調で、

 

「でも、あることがきっかけで常識は非常識へと変わってしまった。常識が突然、崩壊してしまったの」

 

 少女は歌うように言葉を紡ぐ。

 

「だから、私達は自らの『価値』を生み出すために『差異』を作り出した。しかし差異は恐怖を生み、人は妖怪を恐れ、神を畏れた」

 

「その結果、差異が膨張し、怪奇が現実となったのがこの世界」

 

 そして最後に、こう締めくくった。

 

「……だから私は、人も妖怪も、神も分け隔てたりはしてはいけないの。私も、似たような存在だから」

「——っ!?」

 

 幼い少女から発せられた言葉とは到底思えないような内容に、鬼は絶句する。

 一瞬体が硬直してしまっていたが、すぐに自由を取り戻すと、萃香は突如としてその年齢にあるまじき発言をした少女に問うた。

 

「ちょ、ちょっと待っておくれよ! それはどこの誰から聞いたんだい!?」

 

 すると、

 

「——え?」

 

 キョトンと、少女が我に返るのと同時に空気が弛緩した。

 先ほどまでの言葉をまるで覚えていないかのような振る舞いに、鬼は小さく息を呑む。

 

「え、ええと……ううーん、わかんない。なんでか、おぼえていないし、おもいだせないの……」

 

 曖昧に答える少女。

 

「そんなことより、お腹減らない?」

 

 さらにはおもむろに話を変えられてしまい、萃香はさらに追及すべく口を開こうとするが、

 

 ——くぅ。

 

 と、鬼のお腹が可愛らしい音をたてた。

 先ほどからずっと、焼き魚の匂いに胃が刺激されていたからであろう。体は正直なもので、一度意識してしまうと食欲を抑えられそうにはなかった。

 

「うわっ!? なんだってこんなときに……」

「あげるー、はい」

 

 手渡された焼き魚は美味そうな湯気を立て、香ばしいにおいが萃香の鼻を撫でる。ここ数日、何も食っていない彼女からすればこれを我慢することは最早拷問にも等しい。

 少女には色々とはぐらかされてしまった気もするが、己の食欲には勝てなかった。

 

「っうぅ~、もうっ!! 知るかっ!! 知るもんかっ!! ふんだっ!!」

 

 萃香は少女の手から魚を奪い取るようにして、そのまま口いっぱいに頬張った。起きてからというものの、不可思議なことの連続で萃香は半ばやけくそになっていたのかもしれない。香ばしく焼けた川魚の皮はパリッと簡単に破れ、脂がのった身からは噛むたびに肉汁が溢れ出す。塩が少々振られていたらしい。口に広がる川魚独特のうまみに、萃香は生きていることを実感した。

 食べだすともう止まらなかった。口の中に次々と魚を放り込んでは、咀嚼し、飲み込み、水を含んでは再び魚の焼き串を手に取る。

 

「よほどお腹へってたんだね。たくさんあるから、いっぱい食べて」

「んぐ、あむっ……ますます変な奴だね。お前、名前は?」

「実は名前も、わかんないの。気づいたら、この森の中にいて」

「じゃあ、私にかけたあの高そうな羽織りは? 随分と派手な装飾だけど、まさかその辺の代物じゃないだろう?」

「それは気づいたとき、すぐ近くに落ちてた」

 

 ますますこの少女が何者か分からなくなってきた。

 口いっぱいに頬張った魚を咀嚼しながら萃香は溜息をつき、もうそれ以上考えることを止めた。この少女のことを知ろうとしても無駄だという結論に至ったのである。

 

「萃香おねえちゃんこそ、どうしてあんな大けがしていたの?」

「そ、それは……」

 

 萃香の頭の中で、自らに痛手を負わせた胡散臭い笑みが印象的な人物が思い浮かんだ。どんなに劣勢に追い込んだとしても常に微笑を絶やさない、底が知れない。近くにいるだけで不気味、心を一方的に見つめられているような謎の不快感を与えてくるあの女のことを。

 燻っていた怒りが再び燃え上がりそうになる。

 

「…………」

「ああ、だれかにやられちゃったんだね……」

 

 どうやら顔に出ていたらしく、少女は何かを察した様子で苦笑しながら『うんうん』と頷いた。

 訳知り顔の少女に鬼は顔をしかめつつ、『ほっといておくれ』と突っぱね気味に言う。

 しかしそんな言葉を気にした様子もなく、少女は萃香の手の上にそっと、自分の手を重ねた。

 萃香はギョッとした表情を浮かべる。鬼である自分の手を握ろうなど、少女の行動はどう考えても命知らずもいいところである。

 そして、少女の手の感触に驚いていた。

 

 人間の手は、こうも柔らかく温かいものだったのか。

 

「こんどわたしがあったら、ちゅういしとくねっ!」

 

 萃香は少女の声に、はっとさせられる。

 同時に、肩の力が抜けた。

 

「いや、お前はアイツのことを知らないだろう……」

「ああっ、そうだった!?」

 

 半ば、茫然としていたこともあって怒りは徐々に怒りがしぼんでいく。少女の近くにいると、なぜだか心が落ち着くのだ。

 まるで彼女の優しさや、慈しみが伝わってきているかのように。

 

「なあ」

「なあに?」

「ずっとお前は一人だったのかい?」

「そうだよ」

 

 先程の突然の変貌もあって警戒をしていたが、少女は問いに答えた。

 予想はしていたが、やはり一人であったか。そう心の中で納得しながらも萃香は続けて問う。

 

「寂しいとか、思わないの?」

「ううん、おもわないよ。たまに近くの人里へあそびに行っているから」

「お前、人里の子じゃないのか?」

「えへへ、すごいでしょ」

 

 そういえばこんな暗い夜に、人間の子供が一人でここにいるのだから『それもそうか』とまた納得しつつ、やはり違和感と謎が絶えなかった。

 先程の変貌をはじめとして、少女の口から紡がれた話は一体何だったのか? そして、この少女は一体何者なのか? 

 とはいえ、今問い詰めたところで意味がないことも確かである。

 当の本人が自身のことをよく分かっていないのだから。

 

「まったく……あきれたよ、お前には」

「あれれ」

「(……殺す気も失せちまった)」

 

 なんとなしに少女の顔を見る。目が合えば少女はへにゃりと暢気に笑った。

 肩にかかる程度に切り揃えられた艶のある黒髪、目鼻立ちの整った人形のような少女。色々と抜けているところもあるが、将来きっと美しく成長することだろう。

 

「(いや待て、なに考えてるんだ、私……? あぁ~もう、変な奴だな。どうにも調子が狂っちまう)」

 

 ただしこの少女、どう考えても“変な奴”である。

 萃香は自分でも自覚しているぐらいだが鬼の中では捻くれた性格をしていると思っている。そんな自分ですら邪気を抜かれるくらいなのだから、ひょっとすると少女は『周囲の者を脱力させる程度の能力』でも持っているのかもしれない。

 

「(こんな人間、今まで会ったことがないよ)」

 

 それもそのはず。萃香を前にした人間は大抵、生きて帰ってこない。なぜなら皆、萃香の首を狙わんと挑み、敗れていったからである。

 そんな萃香は初めこそ少女を殺すべきか迷っていたが、一度殺さぬと決めた以上、手出しするつもりはなかった。自分の命を助けてもらったことにも恩を感じないほど落ちぶれてもいないし、単純に少女に興味をもったことも事実だったからである。

 

「(人間にもこんな奴がいるとはな……)」

「?」

 

 再び目を向けると少女は首を傾げる。

 鬼は人を攫い、人間に勝負を仕掛ける。それに対して人間は勇気をもってして鬼に挑み、敗れあるいは打ち勝つ。この関係こそが人と鬼との関係であると萃香を含めた鬼たちは考えていた。

 

 萃香はもともと、人間を特別嫌っていたわけではない。むしろ好ましく思っていたくらいだった。しかし、今は好きというわけでもなかった。昔、昔は人と鬼が奇妙な関係で繋がっていたが、萃香も他の鬼と同様に、嘘をつくようになった人間を好ましいとは思えなかった。

 

 だが目の前にいる少女はどうか。

 そこそこ長い年月によって磨かれた萃香の目をもってしても、少女に偽りは見えなかった。ただし、記憶か何かを失っているのかもしれないが。

 結論付けるのも早いかと最後の一匹を口の中に頬張ったところで、少女が言う。

 

「ご飯を食べたら今日はもう寝なよ、おねえちゃん」

「ああ、そうだね」

 

 そうやって頷き、萃香が魚を残らず食べ終わり一息ついた頃、日はとっぷり暮れて空には星々がきらめいていた。

 

「(なんというか、久しぶりだね。こんな気持ちになるのはさ……)」

 

 食欲を満たして満足げに大の字になれば、視界いっぱいにひろがる満天の星々。その中の天の川を隔てて輝く二つの星をぼんやりと見つめながら、

 

「(鬼と人か……も、もしもだけど——)」

 

 萃香はある一つの可能性に思いをはせた。自分でも馬鹿らしいとも思えるような理想。

 

「(いやいや、本当に何考えてるんだ私)」

 

 そうして、羞恥に頬が熱くなりしばらく悶えていたのは彼女だけの秘密である。

 

 

 一夜が過ぎ、翌日の早朝。

 

「なあ」

「おはよう!! って、どうしたの?」

 

 萃香は見佇まいを直すと、少女に声を掛ける。

 

「私はもう行くよ。ここにずっといるわけにはいかないからね」

 

 彼女には、自分に深手を負わせたある妖怪を探し出すという目的があった。それだけに少女のところにずっと留まるわけにはいかなかった。

 

「そう……ちょっぴし、ざんねんだな……」

 

 しかし少女の残念そうな声色に萃香の心は揺れた。

 

「えっと……、ありがとう。アンタのおかげで、命拾いしたよ」

「うん……」

 

 すっかり消沈してしまった様子の少女。もしも尻尾や耳がついていたら、さぞ残念そうに垂れ下がっていることだろう。

 そんな様子に耐えかねたのか、萃香は言った。

 

「……また、会いに来てもいいかい?」

「——え?」

「なんだ、えっと……た、助けてくれた恩も何も返せていないからさ。ほら、次会ったときに何か考えてくから……だから、そのぉ」

「えへへっ」

 

 少女は笑った。この少女は本当に笑顔がよく似合う。

 そう思ったのも束の間、萃香は急に胸がむず痒くなった。それは彼女にとっては理解不能で、されど不快ではない不思議な感覚であった。

 

「うん。またきて! 待ってるから」

「あ、ああ! また来るよ! きっと、いや必ずだ」

 

 萃香は手を振り、その場から立ち去る。

 このとき、いくらか彼女の頬が赤くなっていたのだが、ここには誰も咎める者がいない。しばらくは頬が赤いままであった。

 しかし、

 

「(さあて、これからどうしようかね。……まあ、まずはあの女を見つけるか)」

 

 萃香の頭に浮かんだのは、己に傷を負わせたとある女の顔。

 途端に萃香の表情は険しくなっていく。先程まで薄れていた復讐心が再燃してきたのだ。

 あの余裕の笑みを崩してやりたい。そして自らの力で屈服させたいと意気込みを新たにし、

 

「(必ず見つけ出してやる)」

 

 彼女は霧となってその場から去っていった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 萃香が少女と会合した丁度その頃。

 

「ねえ、幽々子……」

「なあに、紫?」

 

 私が呼べば、微笑みながらこちらに顔を向けてくれる幽々子。

 自然に私も頬が緩むが、今はなんとも複雑な気持ちになった。

 その理由は単純。

 

「そろそろ起き上がりたいのだけれど。私、実はこの後用事が——」

「だーめ」

 

 私は今、起き上がることができないのである。

 

「あ、あのぅ……ゆ、幽々子さん?」

「まぁ、友達との約束よりも優先することがあるのかしら? ひどいわ、紫」

 

 袖で目元を隠し、しくしくと嘘泣きをするような仕草を見せる幽々子は『口元が笑っているんだけど……』という私の指摘に『ばれちゃったかしら?』などと惚けている。

 このどさくさに紛れてもう一度起き上がろうとしたところ、

 

「紫ったら、だ~めって言っているでしょう?」

 

 今度は眉間を人差し指で押さえられてしまった。

 現在、私は幽々子の膝の上に頭を乗せたまま動けなくなっていた。起き上がろうとする度にやんわりと額に手を当てられ、強制的に膝枕をされ続けるのだ。

 なぜこのような事態になってしまったのか、それはここ、白玉楼を訪れたときまで遡る。

 

『ご機嫌よう、幽々子』

『あら、いらっしゃい。紫』

 

 そう、ここまではいつも通りだったのだ。

 幽々子が生前の記憶を失ってから、そして白玉楼が冥界の中に移ってからというもの、私は彼女のもとを頻繁に訪れた。当然幽々子が冥界の管理人としてやっていけているかを見に行くためではあったが、もう一つの理由として、彼女の死を操る程度の能力がどう影響を与えているか、経過を見守る必要があったからだ。

 

 当初、私と妖忌は幽々子を人外の存在にすることで彼女が自身の能力に耐えられるようにしようと計画していたのだが、彼女の心に正面から向き合わなかったがゆえに失敗した。その結果、彼女は記憶を失い亡霊になってしまったが幸いにして、幽々子は自身の力を制御できるようになっていた。

 

 ようやく心のつかえが一つ取れて安心できたものの、少しだけ、以前のような関係になれないのではないかと私は不安だった。

 なにせ今の幽々子は以前の記憶を失っている。私も、内心複雑な思いでいっぱいだったのだ。

 

 だが記憶を失っても、幽々子は幽々子のままだった。

 結論から先に言えば、諸々の不安は皆、杞憂に終わった。私たちはすぐに友人になり、今では前と変わりないくらいのやり取りができるようになっている。

 この胸の痛みは消えないが、今の彼女もまた幽々子であることにはまちがいない。

 

 さて、本題はこれからだ。

 亡霊となった幽々子は自らの名以外の生前の記憶を失ったわけだが、同時に変化も見られたのである。前よりも素直というか積極的で、より思ったままの行動をとるようになったのだ。

 確かに、私はあのとき彼女にもっと素直になったらどうだと告げた。私のその言葉が原因か、あるいは亡霊となって様々なしがらみから解放されたからかもしれない。しかし、ここまでとは予想外である。

 

 私が幽々子に挨拶をして縁側に座ろうとしたところ、両肩を引かれてそのまま仰向けにさせられ、『これは貞操の危機かしら?』などと考えていたら流れる動作で膝枕をされることに相成ったのだ。

 

 始めこそいつものことだ、彼女の気まぐれだろうと何も思わなかったものの、だんだんと時間が経つたびに違和感を覚え、『私、何かしたかしら……?』と聞くと『あらー、気づいていないのねー』という始末。

 本人には決して言えないが、下から見上げる彼女の目は少しだけ怖かった。

 いつも通りの柔和な笑みを浮かべているようで、目だけが笑っていなかった。

 

 そして、心当たりがない私はただ起き上がろうとしてはひたと押さえつけられるというようなことを何度も繰り返していた。

 

「ねえ、紫」

「なに?」

 

 突然、幽々子は私の頬に両手を当てて、お互いの吐息がかかるくらいまで顔を近づけくる。彼女の綺麗な瞳は、深い海を思わせるような青色だった。

 

「もっと自分を大切にしなきゃだめよ……」

 

 このときの彼女の顔がいつになく真剣で、私のことを本当に心配してくれているのだと分かった。同時に彼女がなぜこのような行動に至ったのかも。

 

 私が白玉楼に来る途中、ある鬼と殺し合ってきたことに気づいた彼女は私の身を心配してくれているのだろう。

 服が煤けてもいないのによく気づいたものだ。

 感心しながら、私は答えた。

 

「そうね。気を付けるわ。全く最近はそれほど襲われることもなくなってきたというのに、これだから鬼というやつは厄介なのよ。私みたいな妖怪は彼ら彼女らにとっては認めたくもない存在なのでしょうから」

 

 あの鬼は厄介だった。見た目は可愛らしいくせして、あの馬鹿げた力は一体何なのだろうか。私にはその暴力が及ばなかったものの、周囲の地形は大きく変わってしまった。

 まったく、もっと周りに配慮してほしいものだ。

 

「貴方が強いのは知っているけれど、本当に気を付けてね」

「分かっていますとも。私、争い事はあまり好まないから」

 

 ちなみに、これは嘘だ。

 

「嘘をつく悪いお口はここかしら? ねぇ紫?」

「いふぁい、いふぁいわ……」

 

 ばれた。

 頬をつねられながらつくづく思う。この友人は本当に勘が鋭い。

 

 ただ、内向的で大人しかった彼女が頬をつねってくるなんて、これまででは考えられなかったことだ。

 やっぱり、幽々子は変わったと思う。

 幽々子の注意に耳を傾けながらそんなことを考えていると、

 

「幽々子様、紫様。お茶の用意ができました。お召し上がりください」

 

 妖忌が茶と茶菓子を持って屋敷の奥から現れた。

 この態勢ではお茶も飲めない……。私は幽々子を睨んだが、視線を外された。

 おのれ幽々子。

 妖忌はそんな私たちのやり取りを見て、苦笑している。

 

 そういえば彼もまた、大きく変わった人物の一人だった。

 なんと人間の女性と結婚したのである。

 確かに、彼はなかなか男前で物腰も非常に柔らかだし、何より彼はまだまだ若く、少なくとも見た目は三十代。半人半霊の寿命というやつは分からないが結婚適齢期であることは確かである。むしろ少し遅いくらいだ。

 

 そんな妖忌は幽々子が亡霊になってから三年経って、突如結婚すると知らせてきた。その報告には私も幽々子も驚いたものだ。彼曰く、冥界に移った白玉楼に相手を連れてくるわけにはいかないので、人里に住んでもらっているらしい。だから月に二度、三度だが妖忌は白玉楼を離れて人里に降り、結婚相手の元へ赴いている。

 あの妖忌が幽々子のもとを離れるなど、これも幽々子の変化と同様に考えられないほどのことだ。一体何が彼を変えたのか。

 私が以前に尋ねたとき、しばらく考えた後、彼はこう答えた。

 

『幽々子様は変わられました。ならば、私もまた変わらなければならないと考えた次第でございます』

 

 含みのある回答であったが、深くは聞かないことにした。きっと彼なりの考えがあるのだろう。

 お茶を傍に置いた妖忌に私は尋ねた。

 

「ありがとう、妖忌。ところで貴方、奥様とは仲睦まじくやってるかしら?」

「はい。私には過ぎたる妻ではございますが」

「もう、紫ったらそんなこと聞いたりして……あ、お茶菓子のお代わり頂戴」

「——幽々子様、もっと味わってください……それと紫様の分まで食べないでください」

 

 出されてからほんの僅かの間に、私の分を含めて茶菓子が全て消えていた。幽々子、おそるべし。

 そうやってぼんやりと幽々子の膝の上で時を過ごしていたら、不意に彼女が私の髪を束ねる紅い紐に触れ、しげしげと見つめていることに気づいた。

 別に触れること自体は構わないのだが、一体どうしたのだろうか。

 幽々子は言う。

 

「ねえ紫、ずっと気になっていたんだけど貴方の髪や首にあるその紅い紐は何か特別なものなの?」

 

 彼女の質問にどう答えるべきか、迷った。

 

「そうねぇ、答えるのは簡単だけど、難しいわ」

「それってどっちなのかしら」

 

 両方なのである。すこしややこしい話ではあるのだが……。

 仕方あるまい。ありのままを話そう。

 

「これはね、母の形見なのよ」

「お母様の?」

「そうよ。綺麗でしょう? きっと、幽々子が見たこともないような生地でできているわ」

「ええ、確かに綺麗だけど見たことがない生地でできている……一体何でできているのかしら……?」

 

 私もそれが気になり、調べたことがある。

 形見として私がもらっていった、この髪を束ねる紅い紐。それは不思議な生地でできており、どこにも同じ素材が使われたものが存在しなかった。そもそも今の技術力からは考えられないほどに上質なのだ。これほど繊細で丈夫な繊維は作れるはずがない。

 

「実は、分からないのよ」

「ええ? 紫にも分からないの?」

「そうなのよ。まるで別の世界で作られたみたいなの」

「ふふっ、流石にそれはないでしょう。紫ったらもう」

「ほう、それは興味深いですな」

「ちょ、割と真剣なのよ!」

 

 幽々子がころころと笑った挙句、妖忌まで面白そうに眉を上げている。

 どうやら二人はあまり信じてくれていないようだ。しかし、それは仕方のないことかもしれない。私だって馬鹿げたことを言っていると思うのだから。

 色々と私の考察を幽々子に聞かせてみせたが、反応は以下の通り。

 

「ふ~ん」

「ちょ、ちょっと幽々子……ちゃんと聞いてるの?」

「聞いてる聞いてる」

 

「へ~」

「貴女、絶対真面目に聞いてないわよね!?」

「そんなことないわよ~」

 

 向こうから聞いてきたというのに……。

 私はさめざめと涙を流した。

 

 母の形見の話もほどほどにして、その後は普段通りの世間話に興じ、私たちは静かなひと時を過ごした。ただし、私はずっと拘束されたままであったけれども。

 ま、まあ、たまには悪くない。

 誰かと一緒に時を過ごし、笑い合い、ときにはからかいあう。それはとても幸せなことなのだ。

 幽々子が、空っぽだった私に教えてくれた大切なこと。

 

 ——良かったね、ゆかり。

 

 心の中で誰かがそう語り掛けてきたような気がした。その人物が何者か、それを知ったのはずっと後のことだった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 夕刻に私は白玉楼を発ち、一時的に活動の拠点としている山奥の小屋に戻った。

 

「ただいま……」

 

 私の声が誰もいない小屋に響く。

 さっきまで賑やかなところにいた所為か、もの悲しい気持ちになる。ならばなぜこのような場所に拠点を置いたのかというと、この辺りを調査したときに“祝福されし子”を知る妖怪の目撃情報があったからである。

 信頼性の点でいえばあまり高くはないが、何としてでもその正体を暴く必要があった。

 

 しかし理由はそれだけではない。

 人里から離れていないと力もないのに人間たちが私を討伐せんといきり立ってくるし、だからと言ってあまり山奥に行き過ぎると妖怪達の襲撃を受けて面倒である。このあたりの山々は距離が程よく静かで居心地がいいのだ。

 

「はあ、なんか疲れちゃったわ……」

 

 誰もいない部屋でひとりごちる。そうすれば、この寂しさが紛れてくれるような気がした。

 緩慢な動きで髪を束ねている紅い紐を一つ一つ外していくと、私の長い髪が降りた。随分、伸びたものだと思う。ひょっとしたら腰の辺りまで届くのではないだろうか。

 

 手櫛をかけながら最後の一つに手をかけてところで、突然母の記憶が蘇ってきた。

 珍しいことではないが、今回はより鮮明でそして母の感情が強く伝わってくる。

 

 ***

 

 私が寝入ったことを確認すると母は少し夜風に当たろうと縁側に出て、空を見上げた。空には雲がなく、月がぷかりと浮かんでいる。

 

『こんなにも小さいのに、こんなにも遠いのに、どうしてこうも惹かれるのかしら? 不思議ね』

 

 母は苦笑し、そのまましばらく月を見つめた。

 

 ***

 

 この記憶にあるのは月。そう、あの空に浮かんでいる月だ。

 母はなぜ、月を見上げたのだろう。まるで離れた地にいる誰かに会いたいと焦がれるような感情が伝わってきた。

 何かが月にはあるのかもしれない。そう私が思ったのは必然。

 

「(月に一体何があるのかしら……?)」

 

 私はじっと母の形見を見つめた。今日、幽々子に聞かれたこともあって、改めて母が謎だらけだと感じる。

 

 そうだ、私は母のことを何も知らない。

 

 この紅い紐はまるで別の世界で作られたみたいだった。

 

 それだけではなく、

 

 私が読んでいたあの本はなんだ? 

 

 母と歌ったあの歌は何だ? 

 

 考え出すと止まらない。

 不可解なことが多すぎる。

 まさか、私はまだ何か勘違いをしているのではないだろうか。

 私は本当に、母の魂を取り込んだだけなのか? 

 ふと、突拍子もない仮説が頭をよぎった。

 

 かつて高度に発展した文明が存在しており、それが何らかの原因で滅んだ。その生き残りが月に移り、母だけが取り残されたのだとすれば。

 まずい。()()()が合い過ぎる。

 

「はあ……」

 

 思わずため息が出た。さすがに疲労が激しいようだ。

 私は敷いた寝床の上に体を横にした。力が急速に緩み、思考がどんどん浅く、意識が朦朧としてくる。

 もうだめだ。これ以上考えても無駄だ。寝よう。

 私はそのまま意識を手放した。

 

 

 

 ******

 

 

 

 半年後、私はあの鬼と再び遭遇することになる。

 しかしそのときの私にとってそれは知る由もないことだった。

 

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