スキマの中のだだっ広い空間。
私の前では一人の鴉天狗の少女が肩で息をしながらぐったりしている。器用にも空中に浮いている状態で体を横にしながら、
「紫さ~ん、ちょっと待ってくださいよぉ……。もうだめです。私、ここで干物になっちゃいますぅ」
「だらしないわね。それでも天狗なの? 根性を見せなさいよ、根性」
「根性……いや、だってあれを全部避けろとか正気を疑いますよ!?」
私の前で啖呵を切ってみせたときのような凛々しい面影はどこへ行ったのやら。ああいう態度の方が私としては接しやすいからうれしいのだが、どうにもそうはいかないらしい。これからが少し不安である。
そして何時から親しくなったのか、射命丸茜は私のことを『紫さん』と呼ぶようになった。
認めたくはないが……いや、本当に認めたくはないのだが内心ちょっぴり嬉しかったのは内緒だ。
さて、茜の実力の程を測ってみた感想である。
まずは体力面に難があるといったところだろうか。たった数刻の間、逃げ道のない程度に弾幕を放っただけだというのにもう音を上げている。実戦ともあればこれ以上のことなどいくらでもあるわけで、不安要素は拭えない。これから彼女にクーデターを起こしてもらえるようにするまでは、実戦経験がまだまだ足りないため修練が必要不可欠であろう。
「さて、もう十分に休憩したでしょう? 次行くわよ」
「もう、飛ぶ気力もないです! 紫さんの鬼!」
「……アレらと同じにされるなんて、大変不本意だわ。貴方、それ相応の覚悟で言っているのよね? 具体的には命の一つや二つを賭けるぐらいの」
「ひっ!?」
茜の実力把握。ついで彼女の能力を把握することが目的であったわけだがそれほど時間はかからなかった。実力差がはっきりしている以上、あちら側は全力を出さざるを得ないからである。
彼女が乗り越えられるギリギリのところで調整された弾幕は茜が少しでも気を抜くことを許さない。一度着弾したら最後、よろめく間に数の暴力によって一気に墜落することだろう。
実際、茜はこれまでに三度、墜落した。
「や、やだなぁ。紫さんったら冗談がお上手で……」
「ふふっ——」
「い、意味ありげな笑みをやめてください!?」
話を戻そう。
彼女の能力、それは「風を読む程度の能力」である。周囲の風の微妙な変化から視覚外の攻撃の位置を把握することができ、風の歪みを突くことで突風を起こすことができる。特に感知能力に優れているようで私の結界ですら見破るほど。恐らくそれが私の隠れ家を発見できた要因であると見ても良いだろう。
鍛え方によってはそれなり以上のものになるはずである。
課題となる体力のなさを克服できればいいのだが、どうしたものか。
「少しはこれから天狗の頭領になるだけの気概を見せてみなさい。鷹派は今こうしている間にも大戦の準備をしているのよ」
「……はい。分かっています。そう、ですよね。ここで弱音を吐いている場合ではありませんでした。私がやらなくては」
しかし、芯はしっかりと持っているようである。それが救いと言ったところか。
彼女を十分に鍛え上げるまではしばらく時間はかかるだろうが、この空間の中であれば問題ない。ここでは外界に比べて時間がゆっくりと流れているのだ。
さすがに、ずっとスキマの中にいるということはないと思うが、それでも一日の大半をここで過ごすことになるだろう。もしも彼女が倒れてしまいそうになったときは無理やりにでも妖力を流し込んで立ち上がらせればいい。
だから時間については十分にあると言ってもいいのだが、彼女を奮起させるためにもあえて時間がないということにした。
「よく言ったわ。ならば自分の力の限界を超えてみせなさい。射命丸茜」
むこうしばらくは彼女に付き合うとして、外界の情報も絶えず確認が必要である。展開させている自立型の式神と、私が天狗組織に入り込ませた内通者からの情報によると、山の四天王、伊吹萃香が最近苛々としているようだ。
なんでも私を探しているのだとか。
どうやらあの一撃ではくたばらなかったらしい。運の強いことだと思うが、まったく迷惑な話だ。憂さ晴らしに天狗の里を刺激しないでほしいのだが、万が一その時は私が出ざるを得まい。
彼女の目的が私なのならば、時間稼ぎぐらいにはなるだろう。
もしも鬼の進行を止められなければこちらが手を打つ前に状況が混乱してしまう。それだけは何としても避けなくては。
「行きますよ。紫さん!」
茜の宣言を聞き、私はそこで思考を打ち切った。
茜は短く息を吐いて翼を広げる。
私は彼女に向かって再び弾幕の嵐を発生させた。勿論直撃すればそのまま墜落する。茜の体中が痣だらけ、血だらけなのはつまりそういうことである。
「ははっ……何度見ても絶望しかないですよね」
自身を覆う無数の弾幕に対して、茜は乾いた笑みを浮かべた。しかし、言葉とは裏腹に彼女の顔には強い意志が宿っている。
いい表情だ。
「——でもまあ、絶望なんてもう慣れましたけどねっ!」
彼女はその黒い翼を力強くはためかせ、突風を起こした。
すぐさま自らが生み出す風に乗り、急加速して弾幕を掻い潜っていく姿はなかなかに圧巻であった。視覚外からの迫りくる弾幕や、私の放った光線をすんでのところで回避し、同時に私に向かって接近する。
茜は近づけば近づくほどに高密度になる妖力弾に対して、体を自在に捻ることで回避を可能にしていた。これも彼女の成長の一端であろう。以前は自らが包囲される恐怖に負けて距離を取っていたが、今では物怖じせずに弾幕に飛び込めるようになったのだ。
弾幕を掻い潜り、私のすぐ傍まで辿り着いた茜は、
「ふんっ」
腰に差した小刀を抜き、真っ直ぐに振り下ろした。
それなりに鋭い斬撃が私を襲うがこの程度、妖忌に比べれば大したものではない。私は扇子の一振りで弾いた。
しかし、
「せっ!」
もう一方の手に持っていた葉団扇による突風。こちらの視界を悪くする上に動きを制限する。一度体勢を崩した私に向かっていつの間にか葉団扇を小刀に持ち替えた茜が二刀をもって襲い掛かってきた。
なるほど私に対して手数と速さで対抗すれば茜は“接近戦”において優位に立てる。
なかなかいい手だ。
息をつかせない連撃に扇子一つで捌く私は次第に押され始めた——。
とは言ったものの、
「惜しいけれど、それでは届かないわ」
接近戦なら私に勝てると思っているのならば、それは誤りである。
「え!?」
茜の二刀による斬撃は私の体をすり抜けた。
動揺を隠せない茜の額に扇子の先を向け、光線を放つ。
至近距離で放たれた光線は茜の額を打ち抜き、そのまま全身を焼き尽くした。ぼろぼろに焼け焦げた肉体は塵となって崩れ、スキマの奥へと消えていく。
ふむ。
どうやら、
「し、死ぬかと思いました……」
木の葉による身代わり。天狗独自の妖術まで使いこなすのだからこの程度では死にはしない。茜は私から距離をとって息を整えていた。
不測の事態にも柔軟に対応して見せたところは評価に値する。とはいえ、できれば動揺を見せて欲しくはなかったのだが。
「まあ、距離を一瞬で詰めようというその発想自体は良かったわよ。二割くらい」
「全然だめじゃないですか!? 私の決死の特攻が二割とか、心が折れそうなんですけどっ!?」
彼女と話しているとなぜか嗜虐心がくすぐられてしまう。何となく普段幽々子が私をからかう理由が分かった気がする。逆に自分がどれだけ彼女に無様を晒しているのかを理解し一日羞恥に悶えたが。
それはともかくとして、彼女のような気性の者と接するときは常に冷静に余裕を持って接する必要があるのだ。少しでも隙を見せると茜はすぐに調子に乗るから。
こうして、また私は一つ学ぶことができた。
「(あら?)」
そしてふと、私は自分の変化に驚いた。
「(私、この天狗と自然に話している。どうして今まで気づかなかったのかしら?)」
初めは好きになれなかった茜のことを受け入れてしまっている自分がいた。
今の私の顔はにやけてしまっているのだろうか。頬に手を触れてみても、自分が今どんな顔をしているのかなんて分かりはしない。
「(変ね……)」
本当に、不思議な娘である。幽々子とは違う意味で。
「紫さん。どうしたんですか?」
「いえ、何でもないわ…………今日はこれぐらいにしましょうか?」
そろそろ休ませてやってもいいだろう、と私は茜に提案をしてみた。
別に心配になったからではない。
べ、別にちょっとだけ心配になったからではない。
断じてない——。
「やっほぅ!」
私の一言に拳を突き上げて喜ぶ鴉の姿。
まだそんな元気があったのか、と私はこの残念鴉を半目で睨んだ。本当に、色々台無しである。
「ちょ、そんな睨まなくたっていいじゃないですかっ。私、体感ですけど丸二日くらいここにいた気がするんですよ? そろそろきつくなってきなぁって……」
「はあ……、仕方ないわね」
「紫さん、大好きですっ!」
「ええい、調子に乗るなっ!」
「へぶっ!?」
嬉々として腰に巻き付いてくる茜が鬱陶しい。やっぱり彼女のことは苦手だな、と思いつつも私達は隠れ家に戻るのであった。
******
アイツはあれっきり、すっかり姿を見せなくなった。
それが不安でもあったが一度信じた以上、アイツを探すことはできなかった。
「はあ……」
らしくもないことだが、ため息が出てしまう。アイツには最近会えていないし、あの胡散臭い妖怪は見つからないしで最近苛々することが多かったからかもしれない。
そもそも私はじっとしたり、物事を待ったりするのが苦手なんだ。
「萃香、どうしたんだい? らしくもないねぇ」
勇儀が私の頭の上に盃を乗せながら問うてくる。コイツは背が私よりも高いため、よくこうやって盃を乗せてくるんだ。『おお、こりゃあ高さが丁度いいねぇ』とか言って。
そのたびに私はコイツを殴り飛ばしているのだが、けらけらと笑いながら受け止めやがる。体の頑丈さでいえば私以上だな、コイツはきっと。
「勇儀。いいかげん私の頭の上に盃を乗せるのはやめておくれよ。またこの前みたいにぶっ飛ばすよ?」
「おおっ、いいねぇ。久しぶりに萃香と喧嘩ってのも悪くない」
繰り返すが、私は今苛々しているんだ。勇儀のように飄々としていることもできなかった。乱暴に勇儀の盃を押しのけると、器用にも盃に入った酒を一滴もこぼさずにそのまま口に運ぶ。
「言っておくけど私は今、虫の居所が悪いんだよ」
「ぷはっ……へぇ、珍しい。そういえばアンタ最近素面でいることが多かったね。何かあったのかい? ……ああ、いや。そうか、なんとなく察したよ」
目が一瞬鋭く光ったと思ったら、何か納得したらしい勇儀は着ている着物の袖をまくる。
「深くは聞かないことにするさ。そんじゃまあ、いっちょやりますかっ!」
地面を軽く蹴る勇儀。立ち昇る砂埃は勇儀の妖力によって雲散する。コイツは生粋の怪力馬鹿だ。呪術の分野を除けば肉体的な力において私よりも勝る。
だがそれがなんだ。
こちらとしても、勇儀とやり合うのはまんざらでもない。そちらがやる気ならそれを拒む理由なんてないんだから。
構え合う私と勇儀、張りつめた空気の中互いに地面を蹴ろうとした瞬間。
「やめなさい。馬鹿者ども」
「「アタッ!?」」
私と勇儀、双方の頭に拳骨が降りてきた。
「貴方達がやり合うと、周りに迷惑がかかるの。分かってる?」
「「華扇……」」
私や勇儀と同じく山の四天王の一角である茨木華扇。コイツはどうも苦手だ。鬼のくせに良識人なところが特に。
私、勇儀、華扇、そしてもう一人を加えて山の四天王なんて呼ばれているが、大体、華扇が私たちのやることなすことの後始末を受け持っている。
なんだかんだ面倒見がいいので頭が上がらない。しかし、今日はどうにも私は引っ込みがつかなかった。
「どいておくれ、華扇」
「いいえ、どかない。今日の貴方は変だわ。勇儀、貴方もわざと萃香を刺激しないの」
「へいへい、分かったよ……興が醒めたな。私はもう行くことにするさね」
「あ、ちょ、待て!」
仕方がなさそうに、勇儀は手を振りながらその場を去っていった。
残ったのは私と華扇の二人だけ。
短く溜息をつくと華扇は私に問うた。
「萃香。貴方まさか最近姿を見せなかったのは例の人間と会っていたから?」
「…………」
華扇は鋭い。私は否定することができなかった。
例の妖怪を探すという名目でアイツに会おうとしていたのは確かなんだ。きっと最近の私の様子を見てコイツは心配してくれているんだろう。
でもコイツに言われる筋合いはない。鬼はいつだって自由なんだから。
そんな私の気持ちなんて露知らず、華扇は言った。
「鬼と人間は相いれないわ。それはもう十分知っているでしょう? 例え分かり合えたとしても別れは必ず訪れる。貴方が望もうが望むまいが」
コイツの言っていることは確かにもっともだ。人と妖怪の時間は違う。人の一生なんて、妖怪からすればたったひと時に過ぎない。私達がながい欠伸をしている間に、人間はいつの間にか死んでいるもんだ。
でも、それでも私は華扇の言ったことが許せなかった。
私は華扇の胸倉を掴んで言ってやった。
「華扇、アンタには分からないだろうさ」
「それはなぜ?」
「アンタが誰かとの繋がりを持とうとしないからさ。そうやって引き籠っている内は何時まで経っても分からないだろうよ」
「……」
華扇は私達以外の他人との関わり合いをいつも断っている。この山でコイツの顔を覚えているのは滅多にいないだろう。
つまりコイツは人というものを知らない。
「萃香、私は——」
「黙ってくれ。もうお前の顔なんて見たくない」
乱暴に手を離して、私はそのまま霧になってその場を発った。
残された華扇。
「それでも、私は…………萃香、貴方が心配だわ。貴方はそう、純粋すぎる」
だから、華扇がぽつりと呟いた独り言は私には届かなかったんだ。
******
射命丸茜を鍛え始めてから早数カ月。
紫の予想通り、茜は着々と実力をつけてきた。課題となっていた体力面も紫が与えた半年間の過酷な試練の中で克服しつつある。初めから紫は、茜が乗り越えられる試練しか与えていなかったのだが、その内容は大変厳しいものだった。
しかし射命丸とは天魔を多く輩出してきた名門。その出である茜もまた名に恥じない潜在能力を持っている。ここ最近の目覚ましい成長はある意味当然と言ってよいことであった。ゆえに、鷹派掃討の計画はそう遠くないだろう。
「紫さん。私、最近強くなった気がします! これも紫さんのおかげですねっ!」
「それは重畳。でもまだまだよ。鬼と張り合えるようになってもらわなくてはならないのだから」
「紫さん……。私を一体どうする気ですか……!?」
顔をひきつらせて戦慄する茜を紫は無視し、一日の終わりに盃をあおった。
紫の隠れ家から見える満月。それは酒の肴に申し分ないほどによく輝いていた。この先、攻め入ろうとしている地である月は今日も変わらず空に浮かんでいる。
紫がふっと息を吹きかけると、盃に残る酒に映る満月が揺らめいた。
「はわぁ~。紫さんは本当に何やってもお綺麗ですねぇ~」
「……貴方に言われても全然嬉しくないわ」
さっと顔を背ける紫に『照屋さんなんですね……』と、茜は心の中で思った。
しかし紫は時折覚り妖怪のように心を読むことがある。あまり変なことを考えていると後で何をされるか分からない。よって茜は話を切り替えてごまかすことにした。
「そういえば紫さんは月へ行くんですよね?」
紫のジト目が怖くなったのか、すぐ傍まで身を寄せてきた茜は問う。何気に手に自分の盃を持っている辺り、紫から酒を貰おうという魂胆であろう。
天狗の酒好きは茜にも当てはまっているのであった。
「ええ。そのつもりよ。そこで知りたいことがあるの」
茜は紫から鷹派を月へ攻め込ませ、その機に乗じて里に残った幹部達を一網打尽にすると聞かされていた。勿論紫自身が月に赴くことも聞いており、少々疑問に思っていたのである。
「私が里を離れる直前なのですが、月に関する噂は既に流れていました。なんでも月の技術力は高度に発展しており、それを手に入れることができたならば天狗社会の大きな発展につながる、とか。しかし天狗ほど隔絶された社会でこのような噂が立つというのも、今思えば何かおかしいような気がします。もしかして、その噂を流したのは紫さんなのですか?」
「そうよ」
「一体どうやって……?」
自分が天狗の里の性質をよく知っているがゆえに、なおさら紫が噂を流すことを成功させたことに茜は驚きを隠せない。
「貴方の里の鷹派を何人か、式にしているわ」
「ふんふんなるほど……、って……えぇぇっ!!? そ、それってまさか……」
「貴方が想像した通り。何人か殺して式にしてあるから私の手駒も同然よ。生前の記憶を引き継いで再現しているから、よほどのことがない限り気づくことはないでしょうね」
「う、うわぁぁ……」
紫は何のこともないように話しているが、それは茜にとって信じられないようなことである。『この方を本気で怒らせたならば、簡単に里は滅びる』そう、心に刻んだ茜であった。
「しかし、そこまでして月へ行く理由とは何なのでしょうか 鷹派を月の民にぶつけて一掃させるというくらいなのですから、きっと彼らは非常に強いのでしょう。紫さんといえど、危険はあるはずです」
「……貴方は自分のことについて、どれほど知っている?」
「?」
紫は徳利から盃に酒を満たしながら問うた。
「私は分からない。自分が何者なのか、どうして生まれたのか。その情報はどれもバラバラで必ずしも信頼できるものではないから」
今まで幾度となく、紫は自らの出生について考察を重ねてきた。
少しずつ蘇る母の記憶と、僅かに残された古い文献を頼りに一つ一つゆっくりと。
それでも簡単には分からないことばかりであり、答えが出ないのが現状である。
「自分を知ろうとすることは生きることと同義だわ。それは生まれてから死ぬまで続くのよ」
「……」
紫は質問にはっきりとは答えない。それを茜も認識していたが、紫の答えに十分満足していた。なるほど、確かに『私はまだ私を知らない』のだ。
自分が何者かを問い続けるのは、ある意味思考する力を持った生命の宿命なのかもしれない。そしてそれこそが紫を月へと駆り立てる理由なのだろう。
そう考えた茜は、口を開こうとした。
「紫さん……私は——」
しかし、続きの言葉を紡ぐことはできなかった。
突如として静かな紫の隠れ家が騒がしくなり、小さな数枚の式神が窓から部屋の中へ飛び込んできたからである。
「……そう。案外、早かったわね」
紫は山に仕掛けた式から萃香の居場所を特定した。
天魔の館へと向かう彼女を見つけることにそう時間はかからなかったのだ。
「やっぱり……」
「どうしたんですか?」
「……伊吹萃香が動いたわ。このままでは私たちが動き出す前に争いが始まってしまう」
「!?」
彼女らにとって、妖怪山で天狗と鬼による争いが起きるのは都合が悪い。紫は月へと潜入する計画、茜は天狗の里の鷹派を一掃しかつ被害を最小限に抑えるため。両者の目的に、鬼の介入は厄介以外の何ものでもなかったのだ。
「茜、白玉楼で控えていなさい。私が出るわ」
「えっ、何言っているんですか!? 相手は萃香様なんですよ! 一人で止めに行くなんて無茶です!」
茜は同じ山に住んでいることもあって萃香の力を痛いほどよく知っていた。
小さな百鬼夜行。山の四天王。様々な呼び名を持つ萃香は鬼の中でも飛び切りの実力者である。ゆえに紫が一人で行くことに賛成できなかった。
ましてこの半年間、己を鍛え上げ、かつ鷹派掃討の協力をしてくれた彼女を止めない理由などなかった。
「あらあら、私の心配までするなんて。随分と見くびられたものね」
しかし紫はそれを意に介さない。
永い時を生きてきた中で培ってきた自信が彼女をそうさせていたのである。すっくと立ちあがるなり右手に持った扇子をパチリと閉じ、白玉楼へと繋がるスキマを開く。
紫色のドレスを翻しながら紫はもう一つ、萃香を待ち伏せるためにスキマを開いた。
「今の貴方では足手まといだわ。幽々子にはもう話は通してあるの。だから安心して待っていなさい」
「でもっ!」
「——思い上がるなよ、小娘」
途端、呼吸の仕方を忘れるほどの圧迫感を覚えた。
紫の一言で、茜は足が竦んでその場にヘたれこむことしかできなかった。
「足手まといと、そう言ったのよ」
紫の剣幕に茜は最早何も言うことができない。それは、茜自身が一番よく分かっていたことなのだ。今の自分が向かったところで紫の足を引っ張る。それでも茜はこの半年間に渡って自分を鍛えてくれた紫の力になりたかった。
なぜ、自分には力がないのか。
俯く彼女は自らの着る着物の裾を強く掴んで悔しさに震えていた。
茜は自分の力の無さを自覚している。それゆえに紫の言ったことに反論することができなかった。
「もう時間がないわ。後で話を聞いてあげるから。今は私の言うとおりにして頂戴」
「……はい」
俯く茜を放ったまま、紫はスキマの中に入っていた。しかし横目で見えた茜の口元から流れる血を見逃すことはなかった。
きっと唇を強く噛み過ぎて切れてしまったのだろう。紫はそんな茜の様子を見て少々意外に思っていた。
「あの娘も、こんな風に悔しがったりするものなのね。少し意外だわ」
スキマの中でくすりと微笑む。帰ったら少しは慰めてやろうと心に留めておきつつも彼女は表情をすぐに戻し、萃香のもとへと向かうのであった。
******
一方萃香は霧となり、天魔の屋敷へと向かっていた。
なぜ萃香が突如としてこのような行動をするに至ったのか。
それは、天狗の最近の行動に対して不自然なものを感じたからである。最近になって天魔の首が挿げ替えられたり、山にいる他の妖怪を人間にけしかけたりとその動きに一貫性がない。
そこで霧になって里に潜伏し、天魔をはじめとした天狗の里の幹部の動きを探ろうと考えたのである。
萃香は鬼としての誇りを持っているが、やや疑り深い部分もある。それゆえ若干誠実さに欠けるため、鬼の中では異端児と称されることも少なくない。そんな彼女が天狗の動きに不信感を抱き、行動に出るのはおかしくないことであった。
「(おかしい。これ程近づいているのに、何の気配も感じない……)」
ふと、萃香は周囲の空気が妙に静かなことに気づき、警戒した。普段通りなら天狗の一人や二人、見かけるはずなのだが今日は人影一つ見当たらない。知らぬ間に自分は何か別の空間に入り込んでしまったようである。注意深く辺りを見回すと、今まで山の景色だと思っていた視界が揺らぐ。
その揺らぎが消えると広がったのは天狗の里からかけ離れた見知らぬ山の中であった。
「——ごきげんよう。小さな百鬼夜行さん」
声の主に、萃香はすぐに気づいた。そして同時に自分がなぜこのような状況にいるのかを理解した。
ずっとずっと探していた獲物である。
体が歓喜に震えた。
「はっ! お前の方から現れてくれるとはね。天狗のところにでも行こうと思っていたけど、まあいい。手間が省けた」
「まあ、私をずっと探していましたのね。何だか嬉しいですわ」
「思ってもいないことをべらべらと。木っ端みじんにしてやるから覚悟しろよ」
萃香としては以前のような失態を繰り返すつもりはない。今回は全力を持って目の前にいる不気味な存在を打ち砕く気でいた。
「つれないわね。どうして鬼というやつはまったくこちらの思うように動いてくれないのかしら——」
「その口を閉じろよ」
紫の側にあった木々が吹き飛ぶ。
太い幹に風穴が空き、すっかり風通しがよくなってしまっていた。
「うふふ……本当に、血の気の多いこと」
萃香の威圧に対して、彼女は少し困ったようにくすりと微笑み、
「怖い怖い。でも貴方、そんなことを言っていると」
扇子を閉じた瞬間、
「——首元がお留守になってしまうわよ」
萃香の首は強く締め上げられていた。
「ちっ!」
そのまま落とされそうになる直前。
すぐに萃香は地面を蹴って体ごと捻り、その手を強引に振りほどく。回転の勢いを殺すことなくそのままスキマから伸びている紫の腕に踵を落としたが、すんでのところで躱された。
不意打ちによってできた一瞬の隙。
それを逃さない紫ではない。あらかじめ周囲に展開していた術式から、数えきれないほどの弾幕の嵐を発生させ、萃香を押しつぶそうとした。紫色の弾幕は幻想的であるが、一度それをくらえば無数の暴力によって蹂躙される。茜に放ったような力を加減したものではない。鬼を本気で殺す気で放った代物である。
押し寄せる妖力の塊が萃香を包囲したが、
「————————!!」
咆哮。
たったそれだけで萃香は紫の弾幕を相殺した。それは酒呑童子と呼ばれた萃香にとってできて当然のこと。
鬼の頭領角たる彼女に小細工は全く通用しない。まして数の暴力ですら個の暴力をもってして凌駕する。それこそが妖怪の頂点に君臨する者、鬼である。
だが、紫の目的は初めから萃香に有効打撃を与えることではなかった。一つ一つの弾幕の威力を調整し、その数によって相手の視界を遮ることが真の目的であったのだ。
「う、しろかっ!」
振り向きざまの萃香の腕による薙ぎ払いは空を切る。紫の気配は離れたところにいつの間にか移動していた。
首元にひやりとした感覚を覚えた萃香は地面を強く蹴って後方へ大きく下がる。
すると、
ずるり、と音もなく大気に切れ目が走る。
先ほどまで立っていた場所が何かによって切り裂かれ、両断された。あるいは空間が割れたとも言えるのかもしれない。
あのまま逃げるのが少しでも遅れていれば、萃香の首は今頃宙を舞っていただろう。
『奴をねじ伏せるには一筋縄ではいかない』
そう改めて痛感させられた萃香は砂埃が上がる中、今すぐにでも飛びかかろうとする自らの本能を抑えながら静かに紫の様子を窺っている。
一方紫の方はと言うと、
「(困ったわね。なによ、さっきの。叫ぶだけで弾幕打ち消すとか意味わからないのだけど)」
少しだけ焦っていた。止めを刺す気はなかったとは言え、伊吹萃香が自分の能力に対してここまで上手く対応して見せるとは思っていなかったのである。
しかし、それを表に出すようなことはしない。紫の表情はこのときも微笑を湛えたままであり、それが相手に不気味さと得体の知れない不快感を与えている。
「お前は一体、何者だ?」
不意に、萃香が砂煙の向こうからそう問いかけてきた。しかし紫からすれば素直に答えるつもりなど微塵もない。
「はて、私が貴方に名乗る義理などありますでしょうか?」
「質問に質問で返すなよ」
「ふふふ、本当にどうしてこれほどまでに可愛らしい見た目をしているのにぶっきらぼうなんでしょうね。勿体ないわ」
紫の一言の直後、彼女の顔の前に何かが飛んで来た。しかし着弾する前にスキマの中へと飲み込まれていく。
「いやだわ。顔を狙ってくるなんて。これでも私はか弱い女の子なのよ?」
そう言って余裕そうな笑みをたたえる紫はいつにもまして、胡散臭さたっぷりであった。
******
さらにところ変わって白玉楼。
「いらっしゃい。貴方が茜ちゃんね。何もない所だけれど、ゆっくりしていってくださいな」
「あ、ど、どうも……」
紫の用意したスキマを使って移動してきた茜を迎え入れたのは亡霊の姫君、西行寺幽々子だった。
「紫から話は聞いているわ。なんでも最近、頑張っているみたいね」
「あ……紫さんがそんなことを……?」
「ええ、感心していたわよ。なかなか骨があるから、この先楽しみだって」
「……」
普段言われないようなことを聞いてしまった茜はこそばゆい気持ちになり、赤くなった自分の顔を見られないように俯く。
話に聞いていた快活な様子は鳴りを潜め、なんともいじらしい様子である。
短めに揃えられた黒髪の先を弄る茜の、そんな可愛らしい姿を見た幽々子はくすりと微笑み、
「こちらへどうぞ。お茶を出すわ。貴方とは、少し話したいことがあったの」
と言って茜を客間へと案内した。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。紫だってこの先、月に行くんだから。さすがに自分の身を危険にさらすほどの無茶はしないはずだわ」
「はい……。分かってます」
どうやら紫に頼られなかったことが余程つらかったらしい。自分の弱さを痛感したからこそ、なおさらに。
「貴方は、いずれ天魔になるのでしょう? そのときに紫にたくさん頼ってもらえばいいのよ。焦る必要はないわ」
「——! そう、ですよね。私が天魔になれば……きっと……」
少しだけ茜の顔に明るみが差した。
「それで、修行はどうだったのかしら?」
「えっとですねっ——」
そのまま世間話に花を咲かせた二人であったが、幽々子は聞き上手なため、まだ沈みがちだった茜は徐々に明るさを取り戻し始めた。
茜が話す内容は大体、修行でこんな目にあった、とか紫からこんなことを言われて心が折れかけた、とか紫に関する内容がほとんどであり、幽々子はますます微笑ましい気持ちになった。
ふと、紫の話をしている内にまた心配になったのか、茜は不安そうに俯く。
そんな茜の様子に幽々子は本題に入ることに決めた。
「ところで貴方は……紫のことをどう思う?」
「え?」
他愛のない世間話は突然にして終わる。
「え、えっと……掴みどころがないけれどとっても頼りになる方だと思います」
「そうね。確かにちょっとだけ、ドジなところがあったり、残念なところがあるけれど。とってもいい娘だわ。でも彼女はどこか
「!?」
「今まで気づかなかったかしら? どうしてあの娘が周囲から疎まれ、忌み恐れられるのか」
「それは……」
修行をしていく中で紫の人となりは多少把握したつもりだった。
それ故に、幽々子の言ったことは確かにその通りだと得心がいった。
「はい……。私もずっと気になっていたのです。初めてお会いしたときはどうしようもなく怖かったのに、一言二言話すだけでその違和感は消えました。紫さんご自身は気づいておられるかはわかりませんが、これはおかしいのです。まるでこれでは——」
幽々子はそれを遮った。
「まるで紫が、この世界そのものからその存在を許されていないみたい、と?」
「——!?」
流し目で見つめながら言った幽々子の一言に、茜の背筋は凍り付いた。