不思議に思わなかっただろうか。
どうして幽々子、妖忌、茜といった限られた者のみが紫を拒絶しなかったのか。そして、時折紫の言動に一貫性がないのはなぜなのか、と。
「……幽々子さんの言う通りです。確かに紫さんはどこか、この世界から浮いているように感じられました」
幽々子の一言は、茜が自身でも上手く分からなかった紫への違和感をズバリと言い当てていた。先程までのゆるりとした雰囲気から一転、鋭い一面を見せた彼女の姿にやはり紫の友人なのだなと茜は素直に感心する。
「幽々子さんは——」
そして同時に、疑問を覚えた。
「なあに?」
「幽々子さんは一体どこでお気づきになられたのですか? 以前より紫さんのご友人だとうかがっておりましたが、やはり幽々子さんも初めてお会いになったときは違和感を覚えたのでしょうか?」
「そうねえ……何も。何も感じなかったわ」
「!?」
それはおかしい、と茜は目を見開いた。
何も感じなかったのであれば紫のそれに気づくこともないはずである。納得できないことが表情にも出ていたらしく、察しのいい幽々子は袖で口を隠しながら一言あやまり、微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。言葉が足りていなかったわね。亡霊の身になってからは、ということよ」
「えっと、すいません。どういうことでしょうか……?」
ますますよく分からなくなってきたが、幽々子は説明をさらに付け加える。
「今の私は亡霊。だから紫の発する不思議な力の干渉を受けなかったのだと思うわ。聞いた話だと、生前の私は紫を初めて見たとき、警戒していたのだとか……。他にも妖忌から聞いた話をまとめてみると、どうにも疑問を覚えるようなことが多かったの。だからこれは、私の単なる推測に過ぎないわ」
「ああ、そういうことでしたか。納得いたしました」
ようやく理解が追いつく。
なるほど。記憶を失ったからこそ余計に彼女は紫を異常だと感じるのだろう。
肉体を失い亡霊となった幽々子自身は、紫に何も思うことはなかった。しかし誰からか話を聞く度に普段接している紫との間に食い違いがあると、聡い彼女は気づいたに違いない。
「ふむ。いや、それでも——」
それはそれで納得した様子の茜であったが、それでもまだ気になることがあるようだった。
「どうしてこのような話を私に?」
「私が思うに……、紫は何か数奇な運命を持っている。誰かが彼女の手を握っていないと、どこか遠くへ行ってしまう気がしたの。だから私と同じ、紫のお友達の貴方に彼女を見てもらいたいのよ。あの娘を信じていないわけじゃないけれど、念のためね」
その言葉を聞いて、茜は我に返った。
「私は冥界の管理人だから、白玉楼を離れるわけにはいかない。貴方も天魔になれば今より自由が利かなくなるかもしれないけれど、少なくとも私よりは彼女の近くにいることができるでしょう? だからこそ、貴方にお願いしたいの」
茜は自分の存在価値をずっと憂いていた。一族が処刑されるのを黙ってみることしかできなかった彼女はあのときどれだけ『力が欲しい』と願ったことか。
だから、頼られるということに飢えていた。茜は力を借りるだけでなく、頼られるような存在になりたかったのだ。
「(私に、できること……)」
胸の鼓動が速くなる。
彼女に断る理由などなかった。
「分かりました。喜んでその役目、受けましょう」
「良かった……。これからもよろしくね、茜ちゃん」
「はいっ!」
いつか天魔となり、紫と幽々子の隣に立てるようになりたいという思いを胸に秘め、茜は元気に返事をした。
******
もう何度目になるか分からなくなった衝撃、轟音。
紫と萃香の戦いは周囲の景色を様変わりさせていた。緑が生い茂っていた森の大地は深く抉られ、木々は薙ぎ倒され、元の様相を呈していない。
そして萃香が開けたと思われる大穴が至る所に散在し、その土埃で視界は限りなく悪い。
しかし、大妖怪同士の争いは未だ終わる気配がなかった。
「おっと——」
萃香の肩の辺りを紫の放った光線が横切る。それは青く、一見美しく見えるが少しでも触れれば塵も残さず焼き尽くしてしまうような凶悪な代物だった。軌道をあらかじめ読んでいなければ回避は恐らく不可能。奇襲にでも使われたら、たまったものではないだろう。
「(本当に、奴は一体何なんだ? こんな馬鹿げた強さなら少なくとも私達鬼と同様に、太古から存在していたはず……)」
一つ息を置いて、萃香は砂煙の向こうにいるのであろう怨敵について考えた。
鬼である自分ですら不吉に感じるほどの禍々しい妖気。これほどの存在の名が知れ渡っていないことに萃香は驚愕する。いくら姿を現さず存在を隠していたとしても、どこかで情報というものは伝わるものなのだ。
「(それに、奴の能力も胡散臭い。間合いを急に詰めたり、さっきみたいに切りこんだり……。さっき投げ飛ばした岩が当たった様子もないし、ましてそれを砕いたりもしていない……)」
そして先ほどからこちらを惑わす奇妙な能力。その対応をするのでは後手に回ってしまう。つまるところ、彼女の能力は紫とは相性が悪かった。密と疎を操る程度の能力を紫は封じる手立てがある上に、萃香に比べ情報量において勝っている。
少しずつ動きが読めてきたとはいえ、それすらも紫の策である可能性が捨てきれなかった。
「(さっきから霧になろうとしても上手くいかないし、何か奴の力に関係しているのかね?)」
現に萃香はこれまで何度か疎を操ることで霧に姿を変え、土埃に紛れて紫に奇襲を加えようとしていたが失敗していた。
霧になろうとすると、何かの力によって強引に萃められてしまうのだ。
それは言うまでもなく異常なことであり、萃香が苦戦を強いられる主な原因であった。
「(……駄目だ、考えても分からないや。でも、まあ——)」
しかし、萃香は鬼である。例え相手がどんな能力を使ってきたとしても、どんな策を講じてきたとしても、圧倒的な力でねじ伏せるのだ。それこそが変わることない鬼の在り方であり、誇りでもある。
「(私は、鬼だからね。今度は正面から行かせてもらおうか)」
軽くその場を踏みならしてから足に力を込めて構え、
「(やってやんよ)」
萃香はにやりと笑った。
「!?」
萃香の全力の突進。けっして反応できない速さではないものの、初動が一息遅れた紫は避ける選択肢を切り捨て、迎撃せんと扇子を構える。
「せいやっ!」
「くっ!!」
両者の衝突により、大気が揺れた。そして同時に紫の右腕はみしりと嫌な音を立てる。迫りくる拳を扇子で受けたものの、腕もろとも吹き飛ばされそうになった。
当然、鬼の膂力は凄まじいものである。他の妖怪を寄せ付けないほどの“暴力”、それは大妖怪である紫であっても同様であり、まともに直撃すればどうなるか分からない。
単純な暴力とは、一見対策が取りやすいようにも思えるが驚くほどに理不尽である。
衝撃をどうにか外へ逃がしながら一歩後退る紫。
次の瞬間、痺れた右手を抑える紫の目は脳天に巨大化させた両腕を振り下ろそうとする萃香の姿を捉えた。
「まだまださっ!」
鬼の膂力に頼った鉄槌。それも密を操って拳を巨大化させ、威力を増大させた代物である。先程よりも重い一撃であった。
「(ただの力任せの拳なんてっ!!)」
痺れがない左手で印を結び、防御結界を張る紫。
辛うじて直撃は免れたが、その衝撃で紫の立っていた地面は陥没した。瞬時に張ることができる結界の中で、最高防御力を誇るものであってもこの衝撃。
舞い上がる砂煙の中から息をつかせる暇なく萃香が突貫を再開する。
足場が悪くなった状況で、さらに体勢を崩した紫は徐々に追い詰められた。
「(いいえ、これ以上ないほどにやっかいね……)」
空中戦に持ち込むためにもスキマを展開したいところだが、そう簡単にはいかない。スキマでの移動には多少の時間がかかるためである。
目の前で移動しようとしたところで、萃香の一撃を貰えばひとたまりもない。
そのことに萃香はまだ気づいていないようだが、このままではそう時間はかからないだろう。
茜が仕掛けてきたときも同様であったが、紫が反応してスキマを開く前に攻勢に出るという攻め口は非常に有効な手段ではある。実力がまだ及ばない茜では紫を追い詰めることはできないだろうが、鬼の四天王、伊吹萃香は違う。
彼女が茜と違うのは一撃一撃が重く、体力も切れる気配がない上に、こちらは相手の攻勢を受けきるために消耗を強いられるという点にある。
体力勝負となれば当然、紫は萃香に負けるだろう。
流れを変える必要があると、紫は萃香の攻撃を受け流しつつ足元に術式を設置していった。一つ一つの力は弱くとも、距離をおく時間が稼げればよいという一種の希望を持って試みたものの、
「小賢しい!」
萃香の疎を操る能力によって、展開し終える前に雲散させられてしまう。
境界操作で萃香の能力の妨害を行ってきた紫だが、逆にやり返されたことに舌を巻いた。
「まあ、そうよねぇ」
「この程度で私を止められると思うなっ!!」
左下から右上にかけて迫りくる萃香の右拳。
赤い炎を纏ったそれは扇子で受けては弾き飛ばされ、結界で受けようものなら容易く貫かれてしまいそうだった。
「はっ!」
足をしっかりと接地させて身をひねり、萃香の右肘を扇子で弾く。すると萃香の拳の軌道が逸れ、空を切った。
その瞬間。
紫の背後から、
「(困ったわね。私としたことが、気づかなかったなんて)」
知覚と思考が高速化するのに伴い、時の流れはゆっくりと緩やかになる。
ぎりぎりで察知することができた紫は、後ろ手でスキマを操ると萃香の分身を両断し、萃香の爪を前方に展開した結界で受けた。
結界にひびがはいったものの、直撃が避けられただけ御の字。まさに間一髪である。
しかし、萃香の猛攻はさらに激しいものになっていく。身のこなしが非常に速いので、後手に回れば紫は守勢に回ざるを得ない。
ここで攻守が、完全に逆転した。
「!!」
紫の頬を萃香の爪が掠る。
すると体の表面に張った防御結界をものともせずに皮膚を裂き、赤い血が頬を伝って首筋まで垂れていく。
「へえ、血は赤いんだねっ! てっきり血の色も紫かと、思ってたよっ!!」
「もう、顔ばかりを狙うのは良くないと、思いますわっ」
萃香の攻勢は止まらない。
紫は反撃することに気を回していては、いつまでも経ってもスキマを展開できないと判断した。
「(結界で拘束、できれば良かったのだけれど。火力が足りなさそうだし、無理そうね。はあ……幽々子にまた色々と言われそうだわ)」
そして、即座に思考を切り替えた。
「!?」
攻撃に手を回さずに回避だけに専念し始め、強引にスキマを展開する時間を作り出し、萃香から距離を取る。
「な、自分から吹っ掛けてきておいて、ちょろちょろと逃げるなっ!!」
その後も間合いを詰められる前にスキマを使い、萃香との間に一定の距離を置いて様子を窺いながら紫は空中へと逃げていく。
「くそっ!」
二、三発紫に向かって鬼火を放ったが命中することはなかった。避けられる空間が一気に広がるため、地上から空中にいる相手に攻撃を加えることは難しくなるからである。
それは、正面からの勝負を尊ぶ鬼である萃香からすれば好ましいものではなかった。逃げ回られることに苛立ちが募るも、我を忘れないよう理性で押さえつけているがもう限界に近づいていた。
「仕方がないね……。まあ、躊躇うことなんてなかったな。なんせ殴っても蹴っても、燃やしてやろうにも、まともに当たりやしないんだから」
昂る自分を抑えられるように、小声で呟くことで萃香はもう一度頭を冷やす。
先ほどまで、地上戦において紫はこちらの攻撃を受け流すことができていた。鬼の四天王である自分の攻撃を、である。相手は明らかに苦手な戦法であったとしてもそれなり以上の対応力を持つ、並みならぬ妖怪。このまま攻めても埒が明かない。
ゆえに萃香は大きく勝負に出た。
「いいさ。そっちにやる気がないのなら、否が応でもその気にしてやる」
萃香の妖力が跳ね上がった。心臓の鼓動が驚くような速さで膨張と収縮を繰り返し、血管は少しでも多くの血を流そうと膨らみ、全身に浮き上がる。萃香の周囲には濃青色の霧が集まった。それは彼女自身の力の奔流。
萃香は伊吹瓢に口をつけ、酒を煽った。
さらにもう一段階、妖力が跳ね上がる。上昇し続ける彼女の力は留まるところを知らない。
「これは……」
萃香の変容に対して紫の額に初めて冷や汗が浮かぶ。
あまりにも高密度に圧縮されたそれは、立っている地面が粉々に砕け、その熱で周囲の木々に火が着くほどであった。
今彼女に近づけば、即座に反撃を受けて敗北が決定することだろう。
「これはまた物騒なことね。今更だけど、嫌になって来たわ……」
そうやって一人、本音の混じった冗談を言う紫。これから行う攻撃もまた、奇襲に過ぎない。しかし自身もまた相応に負傷することは確実であった。
そんな彼女を睨みつけ、萃香は地を蹴り、天空に向かって大きく跳躍する。
ふと紫の脳裏に浮かんだのは、
——『恐ろしく不気味な気配』を指す言葉、“鬼気”。
「——『百万鬼夜行』」
萃香の宣言と共に、天災は巻き起こった。
自身の周囲から青い楕円弾を放ちつつ、波紋状に大玉が放出される。鬼の四天王たる萃香の高密度な弾幕に逃げ場などない。
近づくだけでも焼けつくような暑さと共に弾幕が押し寄せた。
着弾した所から強い衝撃と共に爆炎が広がり、大穴が開く。鬼火の一つでさえ地形そのものを変えてしまうほどの威力を持つ、圧倒的暴力。
彼女の“怒り”を表したような荒々しい弾幕であった。
「さすがは鬼、といったところかしらね」
そう評する紫の顔のすぐ横を高熱の弾幕が通り過ぎていく。
量が量だけに、スキマを使って無効化するわけにもいかない。そして防御しようにもすべてを受けきるだけの結界を張る時間も残されていない。このままでは被弾は免れないだろう。
「本当に、やってくれるわ……」
紫は無数の弾幕によって視界を遮られ、萃香の姿を捕捉できない。一方の萃香は密と疎を操る程度の能力によって周囲の小さな粒子の微妙な変化から紫の位置を正確に測ることができ、弾幕操作に集中できる。
その優位性は圧倒的であった。
「もらった!!」
弾幕が紫を捉え、萃香が勝利を確信した丁度そのとき。
「(ん……?)」
彼女は、恐怖でなく、まるで予想通りともいったような表情の紫に気づいた。
このとき、紫は放射状に放たれる弾幕の着弾予想角度から萃香のいる座標を計算したのである。
「なっ!?」
導き出された座標をもとにして、いち早くスキマを展開。
萃香の目の前に移動するや否や、彼女が驚愕した僅かな間。
「——さあ、一緒に踊りましょうか、小鬼さん?」
これから想像を絶するような業火が身を焼くのにも関わらず、紫は不敵な笑みを浮かべた。
とってつけたような胡散臭い笑みなどではなく、もっと本能的で獰猛な笑みであった。
「ま、まさかお前っ——!!」
もはや回避は不能。紫の背後に展開した新たなスキマから、幾重もの光線が放たれる。
紫の目的。それは、零距離からの高威力集中砲火。
「『飛光虫ネスト』」
彼女は、萃香の動きが止まる瞬間をずっと待ち続けていた。
痛み分けによる、引き分けへの持ち込みを狙っていたのである。
「かはっ!?」
「っ!!?」
萃香を無数の光が貫くのと同時に、紫は萃香から放出される火炎弾に焼かれる。
「ぐぅっ!?」
体全身を覆いつくす、焼き尽くされるような激痛。体を保護していた結界はいとも簡単に突破され、皮膚を焼いていく。紫は即座に消炎の術を行使したが、萃香の火は簡単には消えなかった。
そして遂には内臓まで熱が到達。
「っ!?!???」
紫は気が狂ってしまいそうな苦しみに悶え、そのまま火の玉となって地面へと落下していく。
萃香も同様。
全身のあらゆるところを打ち抜かれた彼女もまた空中から自由落下していった。紫の『飛光虫ネスト』はその規模こそ小さいものの、殺傷能力に優れた凶悪な技である。堅牢な鬼の肉体を貫く防御を無視した光線。それを十数発もくらえば萃香と言えど、堪ったものではない。
お互いに少なくない傷を負い、地面に二つの噴煙が巻き上がる。
数刻経っても両者とも墜落地点から動く様子がなかった。
なぜ紫は相打ちに持ち込んだのか。
それは初めから、紫には二つの選択肢しかなかったことに他ならない。
一つは萃香を一時的に封印するというもの。そしてもう一つは萃香と痛み分けによって引き分けに持ち込むというものである。
当然、後者は身を危険にさらすため、前者の一時的な封印が望ましい。
すると以前に紫が萃香に致命傷を与えたときのように、萃香の防御を貫くような攻撃を行うためには不意打ちから一気に攻勢に出なければならないのだが、萃香の対応力を見誤ったため後者を選ばざるを得なくなった。
決定打を萃香に与えるためには動きを止め、防御無視の至近距離から攻撃を加えなければならなかったのである。ゆえに痛み分け。最後の手段とはそういうことであった。
噴煙が風に流される音だけがする中。
しばらくして、よろよろと立ち上がる影があった。
「はあ、はあ……ちくしょう、これはちと、まずいかもな……」
萃香である。
しかし彼女は立っているのもやっとというところであった。腹部の辺りを右手で押さえ、止血をしているものの、指の隙間からはどくどくと血が流れている。貫かれた部位は腹部だけではない。
右太ももに三か所、左ふくらはぎ二か所、左肩から右肩にかけて少なくとも五か所を負傷している。
「やつは……」
目を凝らすと、遠くでゆらりと影が立つ。
紫であった。
驚くべきことにその体には火傷の一つもないようだった。ただし、息が切れ切れで消耗していることは確かなようではあるが。
そうはいっても、萃香には信じられないことである。あれだけの弾幕をくらっておきながら、どうしてその身はぼろぼろではないのか。
「はっ、ふざけんなよ。鬼の私が言うのも難だけど……」
萃香は呆れてしまった。
「…………っ!?」
不意に、紫は手で口元を抑えた。
「げほっ!?」
びちゃりと、手から少なくない量の黒い血が滴り落ちた。
血を吐く紫に、萃香の口角が上がる。
「いいや、確かに効いちゃいるようだね」
訂正。
紫は確実に負傷していた。
お互いに満身創痍の中、睨み合いが続く。
その静寂を先に破ったのは萃香だった。左手の平にありったけの妖力を込めながら一歩、また一歩と歩みを進め、紫に近づいていく。
「さあて。そろそろ、決着と行こうじゃあないか?」
ゆらゆらと萃香の手の平で揺らめく焔は、それが彼女の最後の力を振り絞って生み出されたものであることを示していた。
「勘弁してほしいわ。全く——」
「これで最後だっ!!」
最後まで言葉を聞くことなく、萃香は紫に向けて全力で放った。
「そろそろ眠って頂戴!!」
目の前にスキマを展開しようとする紫だったが、蓄積された体への損害がとっさの反応を妨げた。
展開しかけたスキマはすぐに雲散し、
「(こんなときに!?)」
そのまま紫に着弾。意識が途絶えそうになるのを必死に堪え、紫は最後の足掻きと言わんばかりに萃香へ扇子の先を向け、光線を放った。
萃香に避けられるような余力など残されているはずもなく。
「がっ!?」
胸の辺りを貫いた。
二人は再び倒れ、辺り一帯にようやく静けさが戻ってくる。
とはいえ、その代償はすさまじいものであった。
森は更地と化していたのだ。
緑豊かな森であったその地は火事が起きた後のように焼き尽くされ、黒い焼け跡が残るばかりである。特に、萃香の放った『百万鬼夜行』による被害は尋常ではなかった。
一つ一つの威力が凄まじい上に広範囲に弾幕を展開したため、地形そのものを変えてしまう。まさに天変地異と言って過言でなかった。
それからまた数刻が経過したころ。
ふと、かつて森であった更地に何者かが降り立った。
「っ……!」
意識を辛うじて保っていた紫は、いち早くその場を離れようとするが、体が思うように動かない。能力もこのような状態では十分に行使できるはずもなかった。
「————!? ——!!」
その人影は、自分と萃香に向けて何かを言っているようであったが紫には聞こえなかった。
意識がなくなるほんの数舜前に、紫はある黒髪の少女を幻視した。
それは、一種の夢のようなものであるかもしれない。
「(星……?)」
少女は星を指さして何かを言っている。紫はその隣で笑っていた。
テラスでお茶を飲みながら談笑している光景はどこか懐かしくて、切ない。
「(誰……だっけ……?)」
しかしそれが誰であったか、紫は思い出せなかった。
******
「ん……、ここは……?」
紫が目を開けると、知らぬ部屋の天井が視界に移った。
「目が覚めた?」
「っ?」
目線だけ動かせば、紅白の巫女装束に身を包んだ一人の少女が傍らに座っていた。辺りの状況をいち早く把握しようとした紫は体を起こそうとするが、少女に押さえつけられて起きることができない。
その少女の顔に見覚えがあったものの、思い出すまでに時間がかかった。
「……」
「私は博麗の巫女。人里から少し遠いところにある山が騒がしいって聞いて調べに行ったらね。貴方と萃香おねえちゃんが倒れていたの」
無言のまま、『なるほど』と紫は納得した。確かにここ最近に人間の里から“守護者”が生まれたとの情報は掴んでいた。しかし目の前の少女は萃香のことをまるで知人のように呼んでいる。紫は、いぶかし気に首を左右に向けて周囲を窺った。
するとやはり、自分の右隣には萃香が横になっていた。
どうやら、事情を尋ねられるのは避けられそうにない。
「ねえ、金髪のおねえちゃん。萃香おねえちゃんを狙うのは、もうやめてくれないかな? 私から言っておくから」
しかし、少女の発言は紫の予想していたそれとは異なっていた。
「……それが何を意味するのか、貴方は分かっているのでしょうか?」
「うん。きっとおねえちゃんは山にいる天狗の怖い人たちをどうにかしたいんでしょう? そのために萃香おねえちゃんは邪魔だった。だから萃香おねえちゃんの前に姿を現して、注意を引こうとした。これで間違ってない?」
「貴方、そこまで知っているのなら、なぜ萃香を止めなかった?」
「そんなの、気づいたのが後になってから、だからだよ。もしもっと早く気づいていたのなら、こうなる目に止めていたもん」
「……そう」
油断ならない人物だと警戒を一段階引き上げるのと同時に、人間であるのにも関わらず妖怪を助けるという奇行を行う、目の前の少女に興味を抱いた。
ここで、萃香がゆっくりと目を開ける。しばらくぼんやりとしていた彼女であったが、状況を飲み込み始めると即座に首を回し、周囲の様子を窺おうとした。
「ここは……お前っ!?」
紫が隣で横になっていることに気づき、次に体を起こそうとするが、意志に反して体はぴくりとも動かない。
「っつ!??」
全身に走る激痛に、萃香の顔が歪む。紫とまったく同じ仕草を見せる萃香に少女は溜息をつきながら言った。
「もう……私がいない間、無茶しないでねって言ったのに」
「あ、アンタっ!!?」
「おはよう。もう私もびっくりだったよ。萃香おねえちゃんがこの前よりも酷い怪我して倒れていたんだから」
辛うじて動く首を使って萃香は自分の体を見た。
全身のあらゆる部分に包帯が巻かれており、身動きが取れない。ここまで酷い怪我を負っていたのかと、萃香は今更になって驚いていた。
しかし、そんなことよりも。
「どうしてコイツがいるんだいっ!?」
隣に怨敵がいることが理解できなかった。
「いやあ、だってそこのお姉ちゃんも酷い怪我だったし、放っておけなかったの。それにね、萃香おねえちゃん。私、この人は悪い感じには見えないと思うなあ」
「なんでそんなこと——」
不意に紫の方を向いた萃香は、奇妙な感覚に陥った。
「なに、これ……」
自分がなぜ紫を殺そうとしたのか、なぜ紫がここまで憎かったのか、
「(おかしい、おかしい!? なぜだ……、私はどうしてコイツと戦ったんだ? 今まで私は何をしていた?)」
まるで催眠にでもかかっていたかのように、憎しみという感情が消え去っていたのである。
頭を抱えて動揺を隠そうともしない萃香を見やり、少女は紫に言った。
「萃香おねえちゃんは少し、気が動転しているみたいだから少し放っておいてあげてね」
「え、ええ……」
むしろこっちから話すようなことなどないと口から出そうになったが、紫はそれを堪えた。口の辺りが引くついていることから紫の真意を察した少女の頬は少しだけ緩んでいた。
「二人はしばらく安静にしていて。あと、動くと傷口が開くから、絶対に喧嘩しないこと!」
『水を汲んでくる』と言って、少女はその場を発った。
残されたのは先ほどまで命のやり取りを行っていた二人のみ。気まずい空気が小屋を覆う。
「「……」」
お互いに目も合わせようとしない。萃香の方は、むしろ自分の紫への敵意が急に消えていたことに対する困惑が主な原因ではあったが、どちらにせよ紫にかける言葉を持ち合わせてはいなかった。
紫も同様。
展開が急すぎることもあり、頭がいまいち追いついていなかった。
「(いざというときには即座にここから逃げるとして、今はとりあえず彼女の言うことに従っていましょうか。ここで人里の守護者と敵対しても利はないわ。それにあの娘、私を恐れる様子も憎しみを持つ様子も感じられなかった。まるで前から私のことを知っていたみたいに)」
いまだにずきずきと痛む頭を、動く方の右手で押さえながら紫は天井を見つめ後にゆっくりと息を吐いた。
静かな部屋では紫と萃香、両者の息遣いが響くばかり。それが余計に気まずさを醸し出す。
静寂が痛いとは、よく言ったものである。
「「(どうしよう。この空気……)」」
それはお互いが持った感想。
しかし、突然にして彼女たちの間に横たわる静寂を打ち砕くような出来事が起こった。
「ん……何かが来る?」
萃香が天井を見上げる。確かに何かが高速で近づいてくるような感覚が紫にも伝わっていた。
そう、それはまるであの鴉の少女が全力で飛んできているかのような……。
「まさか……?」
いや、そのまさか。紫の背に冷たい汗が伝っていく。
ぼそりと呟いた瞬間、
「ぬわぁぁぁっ!?」
勢いよく天井を突き破って黒い物体が墜落してきた。思い当たる存在はただ一つ。
紫はそこですべてを悟り、天井を仰いだ。
一種の諦めである。
「(なんでこの娘はこうも空気を読まないのかしら……ここまで来ると、一種の才能ね)」
そんな彼女の嘆きも露知らず、
「紫さんっ!!」
紫のもとにすぐさま駆け寄ったのは鴉天狗の少女、射命丸茜であった。
「申し訳ありません。紫さんと別れてから数日経っても何の連絡もなかったので、幽々子さんから遣わされまして。あ、でも姿を見せないよう、紫さんから貰った御札を使ったので姿は誰にも見られてはいませんよ?」
早口でまくしたてる茜の姿に、萃香の方は目が点である。
「もう私心配で心配で夜も眠れなくて紫さんの微弱な妖気を風で探知しまして急いでここに来たんです、着地には失敗しましたが——。それにしてもここは一体……って、うわぁ!? 伊吹萃香様っっ!?」
数日ぶりに会ったにしても相変わらずの様子である茜に紫は額を抑え、大きく溜息をついた。
「ただいま、って……。どうして天井に穴が開いているのかな?」
そこで博麗が帰還。最早、小屋の中は混沌と化していた。
「——ふ~ん……ああ、なるほど。そういうことかぁ」
小屋を改めて見渡す博麗。
驚くべきことに瞬時に状況を飲み込んだ彼女は、十ばかりの年と見た目に似合わない黒い笑みを浮かべて茜に近寄る。
「ねえ、鴉のおねえちゃん……表、出ようかぁ?」
「え、なんですか貴方は!? ひいっ! 力が入らない!? そんな、ちょ、まっ——」
遠くで『あ、だめっ、お、おたすけぇ~っ!?』という悲鳴が聞こえたような気がしたが、二人は聞こえなかったことにした。
博麗が茜の首根っこを掴んで引きずっていったことにより、再び静けさを取り戻したものの、
「なんだったんだ? あれ……」
「(本当よ。同感だわ)」
このときばかりは萃香の言うことはもっともだと、紫は思った。
この後、天狗の里のクーデターと月の侵攻を目論む紫達と博麗、萃香との間に白玉楼での話し合いが設けられ、彼女らは協力関係を結ぶことになる。
それはある意味、茜の来訪がなければ成し遂げられなかったことなのかもしれない。そう、後に紫は語った。
******
ここからはもう、一気に時間が流れていったんだ。
あの戦いの後、アイツの仲立ちもあって、私と紫の間の争いはひとまず収まった。
そうは言っても、私と紫は会うたびには眼を飛ばし合って一触即発。
私もどうしてあのとき紫を恨んでいたのか、これからどう接すればいいのか分からなくなっていてね。それに色々引っ込みがつかなかったんだよ。とりあえず紫に喧嘩を吹っ掛けることで気を紛らわしていた。
『おう、陰謀家。いつもは陰でこそこそとしてる癖に、今日は一体どうしてここにいるんだい?』
『あらあら、それはこちらの台詞ですわ。最近
『ぐっ!? 私が気にしていることをよくも……言ってくれるじゃないか、この——女』
『へえ~貴方こそ、言ってはならないことを口にしたわね』
とはいえ、あの時みたいに実力行使じゃなくてあくまで口喧嘩程度。それが発展したところでせいぜい頬を引っ張り合ったりする程度の可愛いものさ。
しかし、それを奴らはよしとしなかったんだ。私達を待っていたのは恐ろしい制裁。
『はいはい、萃香おねえちゃん少しあっちに行ってようねぇ~』
『あ、こらっ!! 邪魔するな!! 今日こそアイツをとっちめてやらなきゃ気が済まないんだって——ぐえっ!?』
私はアイツに脳天をたたき割られ、紫は、
『ちょ、離しなさいっ! あのちんちくりんに目にもの見せてやるんだから——ゆ、幽々子、ちょ、ちょっと洒落にならないくらいに爪が食い込んでる!? 死んじゃう、それ死んじゃう奴だからっ!? 黒死蝶!? 『ごめんさいこうなる前にもっと早くやっていればよかった』って!? い、いやぁ~!?』
幽々子に頭を掴まれて引きずられ、回収されていくことが半ば恒例になっていた。
それを見ている射命丸が、
『え~と。私、もういらない子なんですかね…………?』
目の色が死んでいた。あのときの射命丸。それはもう、可哀そうな立ち位置にいたと思うよ。ただ、『強く生きろ』と私は心の中で声援を送った記憶があるな。
そう、信じられないことだったが当時、私達は協力関係を築いていた。これもアイツの手腕である。紫と射命丸、そして幽々子は天狗の里の勢力をひっくり返そうと計画を練っていた。そこでアイツは人里の守護者として計画に手を貸す代わりに今後天狗が人里への他の妖怪の干渉を抑えてもらうという約束を取り付けようとしたんだ。
幽々子の従者の嫁が人里に住んでいるとかで、その約束は案外すんなり受け入れられた。しかしなぜ私まで協力せねばならなくなったのかというと、
『萃香おねえちゃん。これが上手くいけば、妖怪と人の間の溝が少しだけど埋まるかもしれないんだよ?』
アイツの一言によるものだった。
確かに射命丸が天魔になり、かつアイツが人里と妖怪達の仲介をすれば多少は溝が埋まる。時間はかかるかもしれないが、少なくとも天狗との関係は築いていけるだろう。ゆくゆくは私達鬼だって、と言いたかったんだと思う。
紫への敵対心が消えてもどこか気まずかった私は仕方なく手伝っているように見せかけて、実は乗り気だったかもしれない。
ともかく、騒がしくも私達は天狗の里のクーデターと月への侵攻の計画を進めていったんだ。
それからまた、数カ月が経った頃だったかな。
『ねえ、萃香おねえちゃん。ゆびきりってしってる?』
私はある約束をした。
その内容はひどく幼稚なもんさ。アイツは私に人と妖怪が共に暮らせる里を作ることを、私は人を襲わないことを約束した。
始めアイツから指切りしようと言われたときは何を考えてるんだって思ったけど、
『これをね、私と萃香おねえちゃんの“繋がり”の印にしたいの。私は博麗の巫女になった。だからこれから私は妖怪から人を守らなきゃいけない。
でもね。これはいい機会かもしれないんだ。だって私が人と妖怪の橋渡し役になれるかもしれないんだよ? 人も妖怪も神も皆笑って暮らせるような世の中にしたいんだ』
『それでその初めに私と、ってことかい?』
『うんっ!!』
『私なんかで、いいのかい?』
『うんっ!! もちろんっ!!』
それはもう元気な返事。ニコニコしちゃってさ、アイツは本当に笑顔が眩しかったんだ。それでもって私にこう言った。
『私ね、萃香おねえちゃんの笑った顔が好きなんだ』
本当に、驚いたよ。まさか人間にそんなことを言われるなんてさ。私は思わず、そっぽを向いて照れ隠しをしちまった。そんなやり取りをしながら私達は笑いあったんだ。
そうやっていられたことが、どれだけ尊いことだったか。
これは一つの幸せの形って奴だったんだと、今の私は思う。
————。
ようやく、着いたか。
今じゃ限られた奴しか知らない、アイツの墓。
「やあ、元気だったかい?」
随分と昔になってしまった出来事を思い出しながら、私は墓の前に腰を下ろした。うわあ、雑草がこんなに茂っちゃってるよ。手入れしてないからまあ、仕方ないんだけどさ。
「あれからもう、千年くらいかね。早いもんさ。残念なことだけど、お前のことを覚えている奴なんて滅多にいなんじゃないかな」
丁度この時期は夏だから、聞こえるのは蝉の鳴き声ばかりだ。まったくもう、暑い暑い。
「ここは平和な場所になったよ。私も驚いてる。あんな無法地帯がさ、こんなんになっちゃうんだよ? まったく紫の頭は一体どうなっているんだか……」
こんな何げないようなことばかり言いながら、私はアイツとの思い出に浸る。それがこの日の恒例行事だ。
「霊夢の奴も、すっかり立派になっちゃって。初めて相対したときは、なんて頼りない奴かと思ったんだけど、今じゃ私なんか毎日しばき倒されているよ。信じられないだろう? まあ、積る話はたくさんけどさ。まずは一杯やろうか」
「——なあ、初代」
皆、傷ついたり苦しい思いをしたりした。
それでも少しずつ幻想郷は前に進んでいる。
それは初代のおかげだよ。
初代が繋いでくれたんだ。私達妖怪と、人間を。
だから、ゆっくり。
休んでおくれよ。
鬼の章 完
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——彼女は幻想を見た。
——彼女は、祝福された。
——たとえ望まないことであったとしても。いずれ、こうなる運命であったのだ。
拝啓——へ。
貴方がいなくなってから、もう——年が過ぎました。早いものですね。
その間に世の中は大分変わりましたよ。それはもう、想像もできないほどに。
きっと貴方もびっくりすることでしょう。
そうそう、私は元気です。この前は初めて空を飛びました。
スゴイでしょう? 空中でふわぁってなるの、ちょっと癖になりそうでした。
貴方にも見せてあげたかったなあ。
ねえ、貴方は一体どこにいるの?
探しても探しても探しても探しても探しても——
貴方は見つからない。見つけられない。思い浮かんだ試みが失敗するたびに何度も心が折れそうになった。
夜が来るのが怖いよ。夜が来て、明けてしまえば貴方のことをまた忘れそうになってしまうような気がして。そしてそんな弱気な自分が嫌になって。
ああ、——。
会いたい。
貴方にただ、会いたいよ。私の——。
手紙はそこで終わっていた。少女はそっと手紙を閉じた。
そして目の前に置かれている、赤いリボンの装飾が施された白い帽子を被った。
「
そう言って目尻の涙を拭いながら、彼女は儚く笑った。
月の章 始