とある街のとある高校に、その街では大変有名な姉妹がいた。一卵性の双子であり両親ですら間違えてしまうくらいに瓜二つな彼女らは仲の良さで有名で、まるで一心同体であるかのように、そしてお互いがお互いの一部であるかのように、常に二人っきりで生活していた。
一クラスしかない学校では当然隣の席に座り、選択科目も当然同じ、昼食も、トイレすら一緒に行き、つい最近引退した部活動もペアを組んでいた。そして周囲もその関係を受け入れ、ある程度の考慮も暗黙の了解で行われていた。
彼女らのその仲の良さは、あらゆる争いを跳ね除ける。恋愛面において言えば、趣味嗜好も全く同じで、つまるところ好きになる人間も好きになる箇所も全く同じなのだ。故に彼氏は共有。他も全く一緒で、あらゆるモノをお揃いか、共有し合っていた。恐ろしいまでに『同一』である彼女らは、しかしあることを恐れていた。
さて、そんな時に、一つの事故が起きる。両親の死。不幸な事故。居眠り運転をしていた運搬車が対向車線にはみ出し、双子達家族を乗せた車に激突。運転席と助手席に座っていた両親は死亡。後部座席に座っていた姉妹も、何かに強く頭をぶつけて意識不明となった。
双子達が目を覚ましたのは、全く同じだった。そして、全く同じことを呟いたのだ。
「私は、……どっち?」
どっち、というのはつまるところ、姉か妹か、ということだ。外見的に相違のない姉妹、全く同じ時間を共有し合っていた姉妹、そして、事故の際にお互いの頭部を強くぶつけどういう訳か、お互いの記憶を共有させてしまったらしいのだ。
日常生活に問題はない。問題があるのは姉妹の個人個人の自己性、自己確立の不成立、――要は、アイデンティティの喪失である。
平たく言えば、全く一緒に行動していたとはいえ、そこには明確な姉と妹という自意識が存在していた。客観的には一つでも主観的には一つと一つの、最小人数の群れだったのだ。しかし、それが喪失した。
元より、姉妹は片割れの喪失を恐れていた。あらゆる記憶とあらゆる感情を共有し合っていた姉妹にとって、片割れの喪失はまさしく自分の半身を失うもので、もう片方の片割れの無意味化、無力化、――死を表していた。
それが、今回の記憶の共有によって更に深まってしまった。
何より、――記憶の共有を理解して絶望した彼女らを追い詰めるようにその後に認識した訳だが――お互いの記憶は一度回路が繋がってしまったせいか、常に共有されるようになってしまっているらしいのだ。
つまり、そっくりな彼女らは、全く同じ記憶を持ち、更新し続けるということだ。
しかし、それは実のところ全く問題ではない。記憶の共有は、ストレージの性能と容量の増大でしかないからだ。何せ、彼女らは全く同じ時間を以前と変わらず送り続けている。つまり、全く同じことを経験しそれを別の方面からも脳に記憶し合っている。個を失った彼女らはそれまで以上に一緒にいるようになった。
人間の脳は復習することによって記憶の定着を図る。故に、少なくとも二回、自動的に復習する彼女らは記憶力の向上でしかなかった。――では、何が問題なのか。
――それが明らかになったのは、彼女らが30代半ばという人生の折り返し地点に立ったばかりで死んでしまった時に明らかになった。
彼女らの死因は――寿命だった。
記憶を共有するというのは、人生を共有することだ。故に彼女らは、本来の二倍分の人生を消費して、一人の一生を半ばで終えてしまった。
さて、貴方の人生は、何人分の一生ですか?
別に欲張らず、一人分の一生を、自分の一生を、悠々自適に浪費すればいいのではないでしょうか?
誰かの為に、なんて張り切った生き方じゃ、早死にしますよ。自分の為に生きましょうよ。