小学校の頃、確か六年生の夏だったと思う。
泣き虫だったナオの泣き顔の中でも、記憶に残っている表情がある。
色々なおいたに手を出す悪ガキの俺とは違って、大人しくて良い子、それがナオに対する大人の評価だった。
家の周りは畑ばっかりということもあり、うちの親が共働きガチ勢ということもあり、隣同士家族ぐるみの付き合いをしていた俺とナオは、学校の登下校はもちろん、休み時間や放課後など、何かと一緒に行動する事が多かった。
学年にクラスは三つあったけれど、組が離れたことはなかった。
ナオは、小学生の頃は引っ込み思案なところがあって、活発な方でもなく、したがって友達も増えず、だいたいいつも俺の後ろに引っ付いていた。
おまけに、びっくりするくらいに運動神経が悪かったのだ。
ドッジボールではサクッと狩られる、鬼ごっこは万年の鬼役──お情けで俺と交代させた──、縄跳びは跳ぶものではなくて見るもの、逆上がりは中学生になってから──ナオは努力家だった──。
口下手で遊びの輪に入れず、入ったところで弱っちい。
おまけに、今では想像できないほど身長の伸びが小さくて、クラスメートとほとんど喋ることもなく、ちょっとしたイタズラですぐに泣いて、顔のつくりが可愛い方だった。
控えめに言って、ナオはいじめられっ子になる要素をたくさん持っていたのだ。
そんなナオが、クラスメートの奴らと遠慮なしにものを言い合う俺といつも一緒にいる。
そう言うことに敏感になるお年頃だ、男子と女子が二人でくっついていたら、小学校六年生のやることなんて単純明快だ。
日光へ行く移動教室の、班だの部屋割りだのを決めて、数日たったある朝、いつも通りに山の上にある学校へ二人で行くと、教室の黒板に例の相合い傘が書いてあった。
「お、ウワサのカップルが来たぞ!」「マジでラブラブじゃん!」等、仲の良い奴らがはやし立て、その場にいたクラス全員が『ちゅー』コールを始めた。
追い詰められたナオはごくいつも通りに泣き出して、俺は普段する喧嘩と同じように、黒板の落書きを消しながら邪魔する男子たちとおふざけの混じった取っ組み合いをして、びっくりするくらいの勢いでクラス全員が怒られた。
あの時の先生の形相は、今でも忘れられない。
普段のイタズラよりもクるものがあったのか、帰り道でも泣き出したナオに、俺はなんとなく、どうという理由もなく腹を立てて、今思い出してもびっくりするような行動に出た。
小学生に特有のよく分からない理論に従い、俺は隣を歩いていたナオをこちらへ振り向かせて、頬に伝っていた涙の滴を指ですくって、自分の口に突っ込んだのだ。
固まったナオに向けて、確かこう言ったのだ。
『次に泣いたら、今度はちゅーして舐めるぞ』
しっかりと紐付けされて引っ張り出てくるナオの茫然自失した泣き顔が、無性に叫びたくなるような感慨とともに、妙にはっきりと思い出される時がある。いわゆる、人生最高の黒歴史だ。
後にも先にも、これ以上の恥ずかしい記憶はないだろう。
涙を舐め取られたら、ドン引きするのが普通だ。
ちゅーをされる怯えからか、俺の意味不明理論に感化されたのか、ナオはそれから、俺の前で泣くことを我慢するようになった。
引退試合のアレは、お互いになかったことにしている。
それは、ナオにちゅーをする事を躊躇ったのではなく、純粋に、流しても良い涙だったからなのかもしれない。
自分でも、あれは本当に意味が分からない。
けれど、その時の自分は、確かにそれが正解の行動だと思っていたはずだし、俺はその時の涙を、口の中いっぱいに広がった甘い味覚として記憶している。
もしかしたら、ナオのパンツを食べたいという気持ちは、この記憶に引っ張られた欲求なのかもしれない。
そして、それは墓まで持って行くべき愚かな夢だ。
▼ △ ▼ △ ▼ △
大学の過去問を纏めた赤本を閉じて、ふうとため息を吐いた。
受験のための勉強というのは、どうにも性に合わない。
驚くことに、歩いて三十分の駅前まで行かなければコンビニにも出会えないこの田舎、お手軽の買い食いもままならず、加えてナオはびっくりするほど不器用で、調理実習さえも失敗する凄腕のコックだ。
鍵っ子で自炊に手を出してきたこともあり、男が女の家に行って飯を作るという構図が生まれることは茶飯事だ。わけがわからないよ……。
窓の外を見れば天気は快晴、はっきりとした青空が窓枠いっぱいに広がっている。
こんな日は、そう、ナオの白いパンツを見るに限る。
今朝、おばさんがパートに出かける前に洗濯物を干していたのは確認済みだ。
チラリと時計を見れば、午前十一時半を過ぎたところ。
昼ご飯ついでにナオの家へ行くとして、少し時間があるだろう。
つまり、日課のパンツウォッチングをするのに最適のシチュエーションであると言うわけだ。
まさに観察日和、パンツ日和である。
「……ふぅ────」
レースのカーテンを少し開けて、隣の家のベランダをじっと見つめる。
長袖Tシャツ、女物のパジャマ、タオル、バスタオル、ジーンズ、上下ジャージ、Yシャツ、ブラジャー、バスタオル。
柔らかな風。
煌めく白パンツ。
今日は白一色のパンツだ。
奇跡的なくらいに美しいパンツだ。
もしこの世に神様がいるのだとしたら、きっとああいう姿をしているのだろう。
そうでなければ、ナオのパンツの美しさに嫉妬した女神様が、天から堕ちてきてしまうだろう。
「…………ふぅ」
下腹部に血流が集まるのを感じる。
腰に甘い痺れを覚え、知らず夢中になってパンツを観察していた自分を、外側から俯瞰して見る視点が生まれた。
両目視力1.5以上というのは、この時のためにあったのだ。
証拠に、天使の階段の如く舞い降りてきたこの恍惚と感動は、受験戦争に擦れた心をどこまでも豊かにしていく。
「────ふぅ」
ナオのパンツで抜いたことはない。
いわゆるオナニー、ナオのパンツを想ってマスターベーションをしたことはない。
あの純白の幻想を、醜く汚れた白濁によって汚すことは、俺の心が許すまい。
胸に刻まれた想いは、即物的な性の衝動とは全く異なっているように思う。
思春期という性のフィルターを通してなお、ナオのパンツはこの世の美しさの体現であり、それすなわち世界最高峰の芸術なのだから。
静寂。
祈り。
ああ、ナオのパンツが魅せてくれた芸術こそ、永遠の美であり、生命の神秘と悲哀なのだ。
「…………、時間か」
時計を見れば、長針と短針が天頂で重なり合う数分前を示していた。
そろそろ行こう。
今日も俺は幸せだ。
ギシ、と立てて椅子から立ち上がり、最後にベランダをチラリと見る。
風が止み、なびくのを止めた洗濯物たち。
あのヴェールの向こうに、世界の真理が隠されている。
そして、俺はそれを目にする幸運に恵まれたのだ。
「こんなに幸せだと、少し怖いな」
受験生の悪い癖、独り言を漏らしながら、俺は部屋を後にした。
▼ △ ▼ △ ▼△
赤本とノート、筆箱を片手に、「志方」の標札が下げられた門を通って、玄関でチャイムを押す。
ティントーン、という間の抜けた音がして、しばらく待っていたが、家の中からは音沙汰もない。
「…………寝てんのか?」
LINEアプリを開いてみると、ナオに送った「今から行く」のメッセージは未読のままだった。
もう一度チャイムを押して反応をうかがうも、やはり反応がない。
「夜更かし勉強は身にならねーって言ったのに……」
いや、ナオは特段寝不足でなくても昼寝をするやつだ、普通に昼寝をしている可能性もある。
しかし、人が来ると分かっていて昼寝をするのは、さすがであるとしか言いようがない、やはり寝不足で寝落ちが有力な説か。
「…………しかも、鍵かかってないし」
試しにガチャリと引いたドアは、そのまま開いてしまった。
不用心であると思うが、ここ一帯はあまりの家の少なさに空き巣も敬遠するレベルだ。
だからといって、戸締まりを怠る理由にはならないけれども。
「お邪魔しまーす」
適当に声をかけて、整理された玄関で靴を脱ぎ、勝手知ったる幼なじみの家の中に入る。
ぷーんと香ってくる特有の香りは、お互いに小さかった時とあまり変わっていない気がする。
日の射し込んでくる一階のリビングには誰もいない、恐らく二階の自室だろうと踏んで階段を上る。
二階に上がって右手すぐにあるナオの部屋の、明るい色の扉に手を伸ばした。
こんこん。
「ナオー? 寝てんのかー?」
ノックして声をかけたけれども、返事はない。
耳を澄ませても、音一つ聞こえ無かった。
「入るぞー…………。やっぱり寝てたのかよ」
部屋に入ってすぐ、ちゃぶ台のような丸机にノートを広げて突っ伏すナオが目に入った。
部活で見慣れた上下別メーカーのジャージを着て、問題集を枕に寝ているナオの肩を掴んで、
「おーい、起きろー。腰痛めるぞー」
ガサガサと揺らしていると、「う゜ぅ……」とソンビのようなうめき声を漏らしながら、ナオがゆっくり上体を起こした。
緩慢な動作でこちらに顔を向けて、ハラリと流れたショートの黒髪の間から視線を投げかけてくる。
「…………おお、
寝ぼけ眼を向けられて、不覚にもドキリと心臓が跳ねた。
整った鼻梁、突っ伏して寝ていたために赤くなった頬。
ナオのパンツの魅力にさえ気付かなければ、こうした何気ない日常に心を乱すことはなかったのだろうか。
「おはよう。寝不足?」
「うん……昨日は、六時間しか寝ていない……」
「十分だ」
ふぁぁ、と欠伸をしながら伸びるナオの背中から、パキポキと乾いた音が響く。
しばらくの間、ぼんやりとした表情で座っていたナオは、俺を見て、目をしばたたき、
「…………あれ?」
「もうさー、チャイム押してよー」
「いや、押したんだけど、反応が無かったから」
「えー、全然聞こえなかったんだけど」
「できれば起きていて欲しかったなぁ」
パシャパシャと顔を洗う水音と共に洗面所から届く声に返事をしながら、チャーハンを炒めるフライパンを取り出す。
チャーハンの素と台所さえあれば誰でも作れる最高の料理、それがチャーハンだ。
もちろん、チャーハンなら作れるだろうとナオを台所に立たせるつもりは微塵もない。
女子の一大イベント、バレンタインでさえも買いチョコで済ませるナオは、ガスの元栓を正しく開けることすらままならないのだ、ガス大爆発で死なせるには忍びない。
「冷凍してあるご飯使っていいよな?」
「いいよー」
冷凍されたご飯のタッパーを三つとって、一つをレンジに入れた。
▼ △ ▼ △ ▼ △
「ごちそうさまー…………うー、ねむい……」
「寝てたのに?」
「もう三十分くらいお昼寝したら、眠くなくなるかも」
「脳の活動パフォーマンスに対する昼寝の最適時間は平均十八分だぞ」
「足りない。わたしは常に平均を上回るから」
「……そうか」
軽くため息をつきながら、食器を台所のシンクに下げる。
「あ、そうだ。クロー、わたし今からちょっと寝てくるから、三十分経ったら起こしてー」
「え? マジで寝るのか?」
「ナオの午後勉強パフォーマンスに対する昼寝の最適時間は三十分なの」
「…………。食べてすぐ横になると牛になるぞ」
「非科学的な迷信の類を聞き入れる必要性はありません」
「……せめて、皿洗いを自分でやってみろ」
「割っても良いならやるよ?」
お前の家の皿だろうが、とツッコミを入れるかどうか迷ったけれども、止めた。
「…………分かった。起こすから大人しく寝てて」
「あい」
たったった、と階段を上がっていくナオを見送って、右手に握ったスポンジに洗剤を投下する。
ワシャワシャと数回握って、チャーハンの皿を持ち上げ、ゴシゴシと擦って。
二階からは物音が聞こえなくなり、ナオは宣言通りに寝たのだろうと見当をつける。
彼女は寝入りが非常に速い。
ナオの使っていた木の匙を磨きながら、ふと、ベランダに干されているナオのパンツのことを思い出して、全身がドクンと脈打った。
胸がキツく締められるような息苦しさを伴った感覚と共に、腰回りに血流が集まり、耳の裏が熱くなるのを感じる。
『パンつくったことある? 』
小学校の頃、下らない言葉遊びの一つに使われていたフレーズが鮮明に聞こえてきて、思わずスポンジを動かす手が止まってしまった。