生理現象は性的描写ではありません。
ガラン、とシンクを叩く金属音が響いた。
こめかみがドクドクと脈打ち、腰のあたりに甘い痺れが走る。
目の前に結ばれる景色は、自分の部屋から眺め続けてきたパンツの、そよぐ風に揺れる流麗な舞。
熱に浮かされたような全身が、愛しき耽美から逃れることを拒絶する。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ…………」
マズい、それはダメだ。
今まで、この欲求と上手く付き合ってきた。
ナオと一緒にいるときだけは、パンツのことを忘れてナオのことを考えようと努めてきた。
「う…………ぐぅ……」
ダメだ。それは、俺を幼なじみとして全面的に信頼して、家に上げてくれているナオに対する、最低の裏切り行為だ。
「……ふ、ふっ……ふふっ…………」
ナオの寝ている隙に、ベランダのパンツを食べてしまおうだなんて。
「……あー、ヤバい、ヤバい、待て、落ち着け、平常心だ、緊張しなくていい、素数を数えろ、冷水で体温下げよう、2、3、5、7、11、13、17、19、23…………」
ジャバジャバと食器の泡を洗い流しながら、無心になって素数を数え上げていく。
29、31、37、41、43、47、53、59、61、67、71、73、79、83、89、97、101、103、107、109、119、127、131、137、139――。
蛇口を閉めて、乾燥台に食器を並べ終え、洗面所のタオルで丁寧に水気を拭き取り、音を立てないように静かに二階へ上がる。
3803、3821、3823、3833、3847、3851、3853、3863、3877――。
ナオの部屋をそうっと覗けば、暖房の入った部屋の中で、毛布を胸まで上げた彼女の身体が上下しているのが見えた。
シィンと静まり返ったこの場所は、俺とナオの二人が取り残されたエデンの園だ。
窓辺から射し込んでくる日の光は柔らかくて、雲一つない空は、世界から切り取られた幸福の絵図を完成させる最高のピースだった。
足音を立てずにベッドのそばに寄ってみれば、耳に入るは優しい寝息、相変わらず寝入りが早い。
そして、それだけナオに信頼されているという証を前に、俺は一種の暴力的な背徳の海に投げ出されるのを感じた。
俗世間の苦しみやしがらみを忘れた、あどけない寝顔。
ニキビの影もない童顔、触れたくなってしまうような線を描く頬、長いまつげ、ピンク色の唇。
11821、11827、11831、11833、11839――。
これが性欲なのかと、素数の中に溺れた意識が、妙に冷静に自分の中の熱を捉えた。
ああ、俺はもう終わったのだ。
楽園の果実を最初に食べてしまったのはイヴであった。
だけれども、禁断の果実に手を伸ばしてしまう欲望を見いだしたのは、蛇だ。
俺は、果たしてどちらだろうか。
欲望を知っていた蛇なのか、自分に刻まれた呪いのようなコードに欲望を教えられたイヴなのか。
内側を這いずり回る蛇が、喉をゴクリと動かした。
部屋の扉を閉めて、ベランダへと通じる部屋に向かう。
日の明かりが差し込む冬の正午、穏やかに物音一つしない世界。
風の音も大きく聞こえるわけではなく、楽園へと続くガラス扉は、白いレースカーテンの向こう側だ。
23581、23593。
「…………ふぅ」
そのヴェールを捲った先に、神秘の行き着く到達点が俺を待っている。
こんなにも欲望に振り回された事なんて、今まで一度も無かった。
自分の欲求をきちんと分類して理解して、その上でそれらすべてを適切にコントロールしてきた。
ましてや、性犯罪者のように、性欲が理性を上回った事なんて無かった。
それが、今はどうだろう。
「……はは」
乾いた笑い声は、自分の弱さを嘲り罵る言葉のすべてであり、今までの人生を肯定する祝福のすべてだった。
どこの世界に、幼なじみのパンツに欲情し、あまつさえそれを食べたいと思う変態がいるのだろうか。
キチガイじみている。狂気の沙汰だ。このラインを踏み越えてしまったら、俺は二度と後戻りできない。パンツを自分から口に入れるなど、後悔してもしきれない行いだ。
何より、ナオに対する最低の裏切り行為だ。自分で死ぬ道を選ぶかもしれない。
俺は一体、何のために生きてきたんだ。
周りに言われるがまま勉強して、額面通りに部活に打ち込んで、友達とまあまあの付き合いをして、将来は順当にサラリーマンか公務員になって。
叶うのならば、大人になってもナオと仲良く笑って。
俺は一体、何のために生きてきたんだ。
「パンツを食べるためだ」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉が、最後の足枷を断ち切った。
幸せな未来像も、大人達が教えてくれた将来設計も、何もかもがどうでもよくなって、どこかに飛んでいってしまった。
そう、俺の人生は、今日このとき、十八年来の付き合いである幼なじみのパンツを食べるためだけにあったのだ。
ナオの無邪気な笑顔を思い浮かべる。
大丈夫、この時間帯は、俺たちの家の前を通る人間なんていない。
俺の唾液で濡れてしまったとして、太陽の抱擁が俺の罪を覆い隠して赦してくれる。
ナオは悲しまない。誰も、自分が寝ている間に、自分のパンツが友達の口の中に入ってしまうなど想像し得ないだろう。
俺がこれからやることを知っているのは、晴れ渡った大空と俺だけだ。
人のパンツをパンツを食べることは、犯罪ではない。
口に含むだけに留めて、きちんと吐き出せば、悪いことではないのだ。
自棄になったのか、欲望が理性を支配したのか、背中を押した手は、どこから伸びたものだったのだろう。
そんなことを思いながら、俺は人生を閉じる扉を開けた。
カーテンを開いて、ガラリとガラス戸を開ければ、パン食い競争よりもちょっと低め、顔の位置に物干し竿があった。
ふわりと鼻を覆う清潔な水の匂い、うちと同じ洗剤の香り、ひんやりと湿った空気。
神事を仕る神社の巫女が舞うのに相応しいような、静謐に清められた空間だった。
裏返されたTシャツの群れ、視線を左へとスライドさせれば、角ハンガーに吊された靴下の林が目に入る。
そして。
「――あぁっ……!」
ぶるぶるっと胸筋が震え、次いで全身に感嘆の衝撃が走った。
目の前にその姿を現した、生のパンツ。
天使が歓喜を祝ってラッパを鳴らす。
夢にまで焦がれた、ナオの生パンツだ。
ナオの純真無垢を織り込んだかのような白い生地、思っていたより少し広いバック、ふわふわと波を描くゴム。
天使の羽衣だ。
きっと、神様の神々しさは、こういうパンツで出来ている。
それは、パンツとしか形容できない、世界の頂点だった。
身体が芯から震えているのが分かる。
幸福の具体を目にした喜びなのか、恐れ多くもそれを欲してしまった自分への怒りなのか、今にも手を伸ばしてしまいそうな浅はかさに対する悲しみなのか、それらすべての背徳感をない交ぜにして感じる悦びなのか、混沌とした悦楽と悔悟の中で指にそっと触れた布生地は、脳髄を焼き切るかのような雷撃を与えてきた。
「ほぐっ」
訳もなく腰が引けて、反射的に左腕で窓枠に寄りかかりながら、右手で掴み取ったパンツ。
指にしっとりと馴染む最高の手触り、握り込んだ禁忌そのものの質感が、内側で渦巻いていた色々な感情を一瞬で吹き飛ばしてしまった。
空を覆っていた雲が一気に消失したかのような爽快感。
くしゃ、と優しく手の平で掻き抱けば、生命の神秘を感じさせる多幸感が、腕を伝って流れてくる。
「はぁーっ、はぁーっ…………はぁーっ、はぁーっ」
震える左手で、パチン、パチン、と洗濯バサミを外して、そっと両手で白布を広げる。
ポリエステル百パーセントのフルバックに顔を近づけて、すんすんと鼻をすすると、芳しい洗剤の香りと、それを包み込むほどに芳醇で濃厚な“ナオの香り”が、脳天から太ももまで駆け抜けた。
「ふくっ……」
これまで一度も嗅いだことのない香水のような、咽せてしまうほどに強烈な匂い。
思考がクリアになっていく。
それは、ぐちゃぐちゃになった計算式が整然としていくのではなくて、明確に立てられていたはずの方程式を滅茶苦茶に砕いて消し去ってしまう意味でのクリアだ。
全身に痙攣を伴った熱が巡り、ほうっとため息が漏れる。
ダメだ、嗅覚を確かめるのにはまだ早すぎる。
先に触覚と視覚を満足させて、感覚神経を慣らさなければ。
ナオのパンツを裏返すと、双眼鏡越しでは洗濯物に隠れて見えなかった、パンツの全体像が目に飛び込んできた。
ナデシコの花を思わせる慎ましやかなピンク色のリボン、くしゅくしゅ感のたまらないゴム、サイドを飾る純白のレース。
何より、他の部位とは厚みが違っていて、一段と濃い芳香を見る者に感じさせる
妖艶さとあどけなさが共存した、美の到達点。
どんな画家なら、このパンツを正確に描写出来るだろう。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ」
呼吸が浅くなる。
これを、こんな危険物を、鼻腔に当ててしまうというのか?
当然のように勃起したペニスが、痛いくらいにズボンを押し上げる。
手に取るだけで十分過ぎる幸福を与えてくれるパンツを、パンツの匂いを、先ほどの如く軽く嗅ぐのではなく、思いっきり、ナオのすべてを肺一杯に詰め込むために吸い込んでしまうのか?
「はぁ、はぁ、ふぅ、はぁ…………」
ぐずぐずに溶けて、ナオのパンツだけで再構成された理性が逡巡する中で、身体は自然と動き、パンツがどんどんと顔に近づいてくる。
三十センチ、二十五センチ、二十センチ。
良いのか?
いくのか?
俺は、俺は、パンツは、ナオは、俺は、俺の大切な、パンツ。
ナオのパンツを、食べたい。
「すぅ……――」
鼻先でパンツのクロッチを撫でるようにしながら、すっと空気を取り込んだ瞬間、ガクリと膝から崩れ落ちた。
ゴンと膝に痛みが走り、現実離れした衝撃が一瞬遅れて脳を直撃した。
「がっ……!?」
何だ、何だ、これは。
これは、こんなのは、俺の知っているナオの匂いではない。
瑞々しい制服を着た可愛いナオ、部活終わりの汗を気にして恥じるナオ、休日のダラダラを共有してくれる優しいナオ、そのどれもが当てはまらない。
これは、ただのナオの匂いだ。
女性としての、ナオの香りだ。
僅かなアンモニア臭、はっきりそれと分かるフェロモン、ナオのすべてが集まって、一度に額を殴りつけてきた。
ナオのすべてが、パンツにあった。
「すぅぅぅっ、すぅぅぅっ、ふぅっ、すぅぅぅぅうううっ!!」
必死に顔に押しつけて、息を吐く間も惜しいとパンツの匂いを身体に取り込んでいく。
けしからん、ああ、けしからん、こんなにフェロモンを垂れ流しにするなんて、ナオは純真で、純粋で、男勝りなところもあって、でも恥ずかしがり屋のままで、笑顔が世界で一番可愛くて、スカートが風で捲れて見えてしまったあのとき、ナオはどんな表情をしていたのだろう。
パンツしか、見えない。
「すぅぅぅぅっ、ふぅぅっ、すぅ、すぅぅ、フスゥゥゥゥッ!」
恍惚、至福、どうして男は女の尻に惹かれるのか、こんなに濃厚なフェロモンを分泌しているのだ、惹かれなければおかしい。
気管を犯し、肺胞を砕き、ナオが、ナオの香りが酸素に置き換わって、ヘモグロビンを媒介に全身の細胞へと供給されていく。
「ひふっ、すぅぅっ、ふぅっっ、ずぅぅぅっ、すぅぅ、すぅぅ、すぅぅぅぅ」
脳髄が溶ける、嗅覚受容細胞が崩れては分裂して更新され、骨格という骨格が締めつけられて、心臓はすでにナオのパンツのために一拍一拍を刻んでいた。
書き換えられていく俺の遺伝子、偏頭痛さえ起きてきて、それでは足りぬと本能が叫び、ナオを直接嗅いでしまおうと、パンツをひっくり返して、肌に当たる布地へ、パンツを被るようにして鼻を押し当てた。
「おっ、ご」
ビクン、と身体が痙攣して、耐えることを忘れたペニスが義務的に射精を始めた。
びゅく、びゅるるる、と下腹部に振動が起きて、その不快感すらも忘我の彼方へ飛び去っていく。
爽やかな洗剤の香りと、隠しきれないナオの残り香が、鼻から脳へ電気信号となって走り抜け、大脳辺縁系を余さず焼き尽くしていく。
「ほご、ほご、おぉぉぉ、コォオォオォォオ、すぅぅぅぅぅぅぅ」
鼻だけではダメだ、取り入れられる空気が足りない、ならば口呼吸だ。
口腔内を蹂躙していくナオの香り。
自分という存在が切り刻まれて、虚ろになっていく意識の中で、何度も過呼吸じみた深呼吸を繰り返した。
ぐるんと視界が暗転して、像を結ばない視覚に、白目を剥いたのだと気づく。
これが、ナオのパンツ。
パンツ。
パンツ。
食べたい。
純粋に、パンツを食べたい。
「はむっ」
唇がクロッチを内側から啄み、ペロリと舌先で舐めると、得も言われぬ刺激が全身を貫いた。
暴力的な味覚が、悲しみも、苦しさも、悔しさも、喜びも、楽しさも、何もかもを包み込んでいく。
なるほど、これが極楽の絶頂か。
「れろっ、はむ、ほむ、ほぐ、おぐ、おむ、おう」
ゆっくりと口に詰めて、せわしなく舌を動かし、内頬に擦り込み、ナオのパンツのすべてを口腔内細胞と置き換えていく。
ジュルジュル、ジュルジュルジュル、ジュルル。
ナオのフェロモンを吸い取ってしまうように、溶けだしたパンツのフレグランスを全部取り込んでしまうように、パンツをすべて口の中に詰めて、快楽の生き地獄で法悦のパフュームに抱かれながら、もう一度強く射精した。
びゅー、びゅっ、びゅっ、と無駄撃ちされる精子達が、ガンガンと頭を打つ脈拍の存在へ意識を結びつけ、いかれた脳髄の中から僅かな自我が上ってきた。
「お、も…………」
息が苦しい。
濡れたパンツが気道を塞いでいる、違う、口呼吸が出来ない状況で口呼吸をしようとしているだけだ。
一度呼吸を止めて、鼻呼吸に切り替えれば、ナオのパンツから染み出す豊かな味わいが脳をくすぐった。
窒息しそうな状況の中で、口の中を暴れ回るナオのパンツが、俺を俺たらしめてくれる。
「ふぅ…………、ふぅ」
ぐったりと白い天井を見上げる。
口の中がナオでいっぱいだ、死ぬほどパンツを味わった。
こんなに幸せで良いのだろうか。
「もぐ、むぐ」
舌先でレースを優しく撫でれば、パンツに飾られたナオの太ももの艶やかさがまざまざと思い浮かんだ。
風に巻き上げられたナオのパンツを前から目撃してしまったあの時、俺は性的興奮よりも、童遊びのような面白さを感じていたはずだ。
それが、今はどうだろう。
こうしてパンツを食べて、想起するその記憶は、萎えて落ち着いていたペニスに再び硬度を与えた。
ぬろりと口からパンツを引っ張り出すと、純白のパンツは糸を引いていた。
陵辱の後のように無惨で、それでいて、不思議と生命の美しさを感じさせてくれる。
唐突に、ベッドで寝ていたナオのことを思い出す。
「は、はは」
それはさすがに、言い逃れの余地もない。
これ以上の行為を望んでしまったら、俺は間違いなくナオに嫌われてしまう。
だけど、だけれども、この誘惑を否定する気力も理性も、既に跡形もなく葬り去られている。
「脱ぎたての、パンツ」
舌先で転がす言葉は、パンツの甘さと相乗効果を発揮して心をくすぐった。
悪魔の囁きのように蠱惑的で、二度目に吸引する麻薬のように破滅的な誘惑。
毒を食らわば皿まで、魂売ったら地獄まで、麻薬は一度目が最期なのだ。
抗うことに意義はなく、罪を数えることに意味はない。
緩慢な動作で立ち上がり、濡れたパンツを元のように洗濯バサミで吊して、フラフラとベランダを後にする。
漂白化された思考は、パンツの白一色以外を思い出すことが出来ず、辛うじてピンク色の可憐なリボンのことをチリチリとまぶたの裏に焼き付けている。
ホラー映画で見るような、ウォーキング・デッドというやつらは、このような感覚で歩くのだろうか。
パンツに焼却されたのは、理性なのか、自我なのか、それすらも定かでなく、茫洋として陸地の見えない海の果てを漂流するような心地で、いっそ生きているのか死んでいるのか、それすらも曖昧になっていく。
生の、脱ぎたてパンツ。
誰にも邪魔されず、ナオのニオイをゼロ距離で染み込ませ続けた聖布を、肺に押し込めて、口に押し込んで、グチャグチャになるまで咀嚼して、キャパオーバーを承知で食道へと流し込んでしまいたい。
ナオのパンツを食べたい。
銀色に光る扉の取っ手をゆっくりと押し下げて、静かに開いていく。
ナオの部屋の扉を開けるのは、ベランダのガラス戸を開けるよりも簡単で、軽いものである気がした。