00:現代/故郷にて故郷を想う日々
00/思考の果てにある思い出の空を、今もまだ、この時も
───……それは、とても静かな目覚め……でもなかった。
ふと気づくと椅子に座っていて、そこが自分の世界の自分が通っていた学校、自分の席であることに気づく。
どうしてここに居るのかを小さく考えて、すぐに首を横に振った。
役目を終えた自分はあの世界から消えたのだから、いまさら何を振り返る必要があるだろう。
「……役目か」
小さくこぼし、席を立つ。
椅子の支えが床を滑る音を聞きながら、もうなにを詰めていたのかも忘れてしまった鞄を手に。
何処に行こうかなんて、プレハブ住まいの学生が放課後に考える必要もない筈のことを考えると、一番先に頭に浮かんだのが……華琳の顔だった。
「…………」
帰る場所なんてもう無い。そう言えるくらい、胸に空いた見えない穴は大きかった。
そんな、どこかボウっとした状態のままに歩き、窓越しの空を仰いだ。
……夕焼けに染まる空が、ゆっくりと黒に塗り替えられようとしていた。
「お前はまだ、黒の空の下に居るのかな…………なぁ、華琳───」
風邪引くから早く戻れ、くらい言えばよかった。
別れ際に言う言葉じゃないかもしれないけれど、頭に浮かぶのが彼女のことばかりなのだから仕方がない。
当たり前にあったものを当たり前に頭の中に描き、当たり前の行動をとる。
そうやって過ごしてきた日々との別れは、思いの外自分にダメージを与えていた。
この場に立って、おぼろげだけど思い出せたかつての自分のことなんて、居眠りをしていて、気づけば放課後だったってことくらいだ。
けれど、たとえばここで目を閉じても、もうあの大地に居て盗賊に襲われました、なんて経験をすることもないのだ。
命の危険さえ冷たく感じた経験が確かにあるっていうのに、そんな経験をすることさえ出来ない事実を悲しく思えるのだから、きっともう……自分は重症なのだろう。
「なにも……言えなかったんだよな……」
一緒に天下を目指したみんな。
天下を手にし、平和という名の下に手を組んだ三国。
嬉しそうに笑っていた劉備や、どこか晴れやかな顔をしていた孫策。
そして…………そして。
「……すごいな。まいったよ華琳」
どうやら俺は、この世界よりもあの世界こそを故郷と思えているようだった。
この世界で生きた時間に比べればほんの少し。
それでも、これまで生きてきた中では経験できないものを幾つも経験してきた。
戦をした。
人が死ぬのを見た。
手を取って国を大きくして、民の笑顔に喜んで、警備隊長になって、民と笑い、民を守って、兵と酒を飲み、慕ってくれる人と楽しく過ごして。
……人を愛して。
人に愛されて。
「───そっか」
そんな世界と離れてみて、初めて知った。
「あれが……幸せ、ってものだったんだ───」
不思議なくらい、すとんと心に落ちた言葉。それが嬉しいのと同時に、とても悲しい。
涙は出なかったけど、その代わりに強く誓った。
許されるのなら、必ずあの世界に帰ろうと。
その時が来るまでは、彼女たちに恥じないような自分になれるよう、努力をしようと。
「……うんっ」
頷いて、胸をトンッと小突いたら……もう立ち止まってはいられなかった。
鞄を乱暴に肩に引っ掛けると、自分の奥底から湧き出した目標を胸に、こぼれてしまう笑顔をこらえきれず、にやけたままの表情でプレハブを目指して駆け出した。
いつになるかは解らないけど……いつかまた会おう。
それまで元気でいてくれな、華琳……みんな。
01/流れる時の中で
がむしゃらな生き方だったと思う。
夕焼けに染まる教室から帰った俺は、決意を胸にプレハブ小屋に戻ったはいいものの、なにから手をつけたらいいものかと早速躓いた。
勉強は……する。身体も鍛えなきゃだから、それはいいんだが……鍛えるにしたって、あの時代を思えば学生がちまちまと続ける筋トレくらいじゃ大した足しにもならないだろう。
けれど、落ち着いてなどいられなかったから開始し、こんなんでいいんだろうか、なんて考えが浮かんでくる度に魏のみんなの顔を思い出し、鍛錬を続けた。
そんな時だった。
母さんからの電話がケータイに届き、出てみれば、家にじいちゃんが遊びに来ているとのこと。
なんでまた、とか口に出たものの、内心では喜んでいた。
……北郷家は代々、道場を開いている。
じいちゃんはもちろんだし、父親も例に漏れない。
おそらくは道場の様子でも見にきたってところだろうけど……願ったり叶ったりってやつだった。
その日の内にフランチェスカ側に交渉して、学校外からの登校の許可をもぎ取って、家からの登校と……じいちゃんの下での稽古を願うつもりで帰宅。
あの時代から戻った翌日から、主に及川に「かずピー、制服どないしたん? なんやあちらこちらボロっちくなっとりしとらん?」とか言われてた制服での帰宅であったため、母さんにそれはそれは驚かれた。
それはそうだろう、入学前はあんなにも綺麗だったフランチェスカの制服が、戦場を駆け抜けたようにところどころにボロを見せていたのだから。
「なにがあったの」としつこく訊いてくる母さんに、「ちょっと天下統一してきた」と言ったら、オタマで叩かれたのもいい思い出だ。
そんなことも笑い飛ばせるくらいの度胸は十分に養われていた俺は、じいちゃんを前に、真剣に土下座。
俺に剣を教えてくださいと、かつてでは有り得ないくらいに真剣に頼み、「……いい顔が出来るようになったな、あの洟垂れ小僧が」としみじみ言われ、了承を得た。
はっきり言えばじいちゃんの教えは容赦がなかった。
以前の俺であったならば絶対に逃げ出していただろうし、“理不尽だ”だのと口から出る言葉を適当に捲くし立てて諦めていたんだと思う。
それをしなかったのは、自分から言い出したということももちろんそうだけど、今なら解ることがあったからだ。
相手がこちらに厳しくするのは、自分が持つ技術を相手に本気で与えたいからだと。自分の教えを糧に、成長してほしいからなのだと。
相手の感情を少しは汲めるくらい、自分が成長できていたことが純粋に嬉しかった。
そう、がむしゃらだった。
友達と遊ぶ時間も惜しみ、じいちゃんに教わり、部活で結果を出し、勉学にも励んで基礎体力もつける。
“考える”っていうのは脳にはいい刺激になったのだろう。
インターネットもないあの時代、“知りたいことは足で探せ”と言えるような日々は無駄ではなかったらしく、以前よりも記憶できる容量が増えてくれたらしい頭を使って、かつては手付かずだった分野にも首を突っ込んでいった。
どうしても解らないことがあれば誰かに頼る。
既存の知識に逃げるのではなく、既存の知識に教えを乞う。
答えを知るだけではなく、そこに行きつく過程を知り、頭に叩き込んでいった。
そうした様々な勉強や鍛錬の中、なにより励んだのは持久力と筋力作りであり、筋肉は思いきり使ったのち、三日ほど休ませつつ栄養を摂らせるといい、ということを知ると、それを実践。
思い切り使うといっても持久力をあげる筋力作りだから、ダンベルを何度も持ち上げるようなものではなく、持ち上げたまま限界がくるまで筋肉を緊張させる方法。
そうして出来るのは外側の筋肉ではなく内側の筋肉のため、鍛えてもそう目立たないこともありがたいと思った。
もしみんなに会えるようなことがあったとして、その時の自分があまりにゴリモリマッチョでは恥ずかしいという、それこそ恥ずかしい理由からだった。
そんな日々を一年。
いい加減眩暈がするくらいの時間を過ごしてもまだ、意識はあの懐かしい世界へ。
それでも……いい加減気づくこともある。
自分はもう、あの世界には行けないのではないか、ということ。
「…………ふぅ…………はぁ」
その日の分の鍛錬を終えた俺は、剣道着に剣道袴の格好のままに道場に倒れこんでいた。
傍らにはつい今まで振るっていた黒檀の素振り刀がある。
振るうモノにいちいち体がもっていかれないように、とじいちゃんに渡されたのがこれだった。
……値段を聞いて、たまげたのは内緒だ。
「…………」
呼吸はそう乱れていない。
“汗はかいても呼吸を乱さないように”と続けた鍛錬も、無駄ではないらしい。
そうやってひとしきりこの一年を振り返りながら、仰向けに見る天井に向けて、手を伸ばしてみた。
あの世界に居た頃と違い、大切なものを守ってやることさえ出来ないちっぽけな手を。
どれだけ鍛錬しても勉強しても、なにもかもが無駄だったと悟った時、この手はいったいなにを守れるのか。
ふと冷静になってみると、ひどく泣きたくなる時があった。
“充実していなかった”と言えば嘘にはなるが、的外れだと断言できるものでもなかったのだ。
理由が欲しい。
もっと明確な、傍に居るなにかを守る……そんな、単純だけど自分がなにより頑張れる理由が。
たとえば俺が武芸を学んだところで華琳を守れるかといったら、そりゃあ弱い盗賊程度なら撥ね退けられるかもしれないが、そんなものは華琳にでも出来る。
じゃあ自分がこんなことをする理由はなんなのかと自分に訊いてみれば、忘れないために、というのが一番だった。
……いや。あの世界のみんなのために自分を鍛えている、という名目が欲しかっただけなのかもしれない。
「……学べば学ぶほど……鍛えれば鍛えるほど……」
……遠くなっている気がするよ、華琳───
そう呟いて、天井に向けて伸ばしていた手を顔に落とし、手の甲で目元を隠すようにして溜め息を吐いた。
そうして思うのは、自分が居たあの世界。
…………簡単な理屈だった。
かつての俺、北郷一刀があの世界に居た理由は、華琳の天下統一を手伝うため。
彼女が望み、その望みを叶えたからこそ俺は役目を終え、この世界に帰ってきたのだ。
大局から外れるという歴史の改変を前に、俺は消えた……らしい。
けどそんなものは、例えば諸葛亮があんなに早く劉備の仲間になっていたことや、呂布が劉備に降ることを考えれば、そう大事なことではなかったはずなのだ。
つまり、俺がここに帰ってきた理由は大局が曲がることだけではなく、やはり───彼女の望みを叶え、役目を終えたゆえ。
あまりに簡単すぎて、気づくのに一年近くもかかった。
じゃあ再びあの世界に行くにはどうすればいいのか。
そう、簡単だ。
華琳が再び望んでくれればいい。
心から望み、口にしてくれればいいのだ。
天の御遣いが必要だと。
俺が───北郷一刀が必要だと。
けど、俺にとっては簡単でも、あの華琳にとっては……それは簡単ではなかった。
華琳は消えてしまった俺のことを、忘れることはしないとは思うが、女々しく口にすることを嫌うに違いない。
引きずることなどせず、「私は一人でも大丈夫だから、貴方は貴方の物語で精々頑張るがいいわ」なんて言って、望むことなどしないに違いない。
「……はぁ……」
思わず“あのばか”、とか言いそうになるけど、それは苦笑を噛み締めることでやめることにした。
どうせ仮定の話だ。
望んだだけで飛べるかどうかも解らない上、あの華琳がそんな風に望むはずもないし、役目を終えた俺を呼び戻そうだなんてする筈もない。
彼女は「一刀は役目を終えることが出来たのだから」とか言って、胸に刻むヤツだ、きっと。
……と。そんな風にして、最後に長い長い溜め息を吐いた時だった。
「かずピー……な~にこないな場所で百面相なんぞしとんねん」
「うぉわっ!?」
よっぽど考え事に没頭していたんだろう、天井を遮るようにぬうっと視界を覆った及川の顔に、思わず悲鳴をあげてしまった。
「あぁん、そないに引かんでもええや~ん! 最近付き合い悪いかずピーにこうして会いに来てやったっちゅーのになんやねんその態度」
「あぁいや……ちょっと思い出してたことがあってさ。そこに急にお前の顔がぬうって来たら、そりゃ驚くだろ」
「驚くっちゅうか引いとったやん自分。……んあぁ、あん……まあ……ええねんけどな。ほんでなかずピー、俺これから男ども誘って遊びに行くんやけどー……かずピー、一緒に来てくれへんかなぁ。やぁ、な~んや知らんけど女どもがなぁ? み~んな揃いも揃ってかずピーが来るなら~とか言うとんねや」
「行かない」
「速ッ!? もうちょい考えたれや自分! そりゃ自分っ……即答すぎやろがぁ!!」
真っ赤な顔で、変わらず間近で叫ぶ及川……離れる気ないのかこいつは。
仕方ないので転がるようにして横に逃げると、黒檀木刀を拾い上げながら疲れた体を起こして、胴着を正す。
「いやまぁなぁ? 一年前あたりからみょ~にかずピーが凛々しなったんは俺も知っとる。なんやキャワイイ女の子が話し掛けてきて、ウキウキ気分で話に乗ったらかずピーのこと訊かれて殺意覚えたのもいい思い出や」
「そんな思い出、捨ててしまえ」
「やぁ~、しゃあけどホンマに人気あんのんは事実やからなぁ……せやから考えたっちゅーわけや! かずピーが来るなら俺らにもチャンスが───」
「だから行かないって」
「ウソやぁあああーん!! ウソやゆぅてぇええーっ!! ほ、ほらぁ! この前抽選で当たったオーバーマンマスクくれたるさかいぃいっ!!」
なにを思ったのか、取り出した外国人の顔型のマスクを無理矢理被せてくる及川。
「ぶわぁっ!? ちょっ……こら及川っ……やめっ……!!」
抵抗しよう……とも思ったが、なんだかこうして及川とじゃれるのも久しぶりな気がしたら……そんな気は失せていた。
だから被せられたマスクも取ることはせずに、にこやかな外国人の顔のままに笑みを漏らす。
やがてそれは大きな笑いとなって、久しぶりに……本当に久しぶりに、大声を上げて笑っていた。
「か、かずピーどないしたんや!? ……ハッ! まさかこれは被ると呪われる呪いのオーバーマンマスク……!?」
「あ、はは、いや違う違うっ……! くっふふふはは…………はぁ……。……なんかさ、安心した」
「んあ? 安心てなんや? ……まさかかずピー、しばらく見ぃひん内にオーバーマンに母親の母胎にも似た安堵感を覚える変態さんに」
「どういう変態だよなるわけないだろが!」
あんまりにふざけたことを言うもんだから、つい手にあった黒檀木刀で頭を小突いてしまった。
「ほんぎゃぁぉおおっ!!?」
ハッと気づいた時にはもう遅い。剣士失格である。
コポス、というか、あぁえっと、あー……
「かぼはっ!? かずっ……おぉおおごぉおお……!!」
「うわわ悪いっ!! 大丈夫か!? 悪いっ!!」
あまり中身が入ってなさそうな音だった、という感想は黙っておくべきだ。
「うぅ……ええねんけどね……俺なんて所詮こないな役回りばっかやしな……。けど俺のことキズモンにしたんやから宴会くらい来てくれるんやろなぁ」
「宴会とか言うなよ…………ん、解った。たまには気晴らしも必要だよな」
「うぉっしゃああい!! ほなイコ! 善は急げや! 急がな悪になってまうわ! かずピーは俺ンこと悪にしたないやろ!?」
「ワケの解らんこと言うなよ……」
「や、ワケ解らんのはオーバーマンのままのかずピーやて」
「自分で被せといてお前……」
ああもう、とオーバーマンマスク越しに頭を掻くと、しばらくして仕方ないなって気分になる。
そうだ……ずっとこんな感じだった。
勝ちたい人が居たから剣道に時間を費やして、普段はこうして及川と馬鹿やって。
一年前までを必死に生きすぎていたから、こんな気安さを忘れていた。
確かに魏のみんなにも気安さはあった……けど、対等でいられる男友達なんて居なかったんだ。
「…………」
心の奥にあった冷たい空気が、そんな気安さを受け入れた途端に漏れていった気がした。
この一年。
きっと帰れる、きっと会えると信じて費やした一年は、俺にとっては有意義だったのかもしれないが、それは逆にこの世界の知り合いにしてみれば冷めたもの。
急に付き合いが悪くなる俺を見て、及川はどう思ったのか。
逆に自分の友達が今の俺みたいに付き合いが悪くなったら、心配するんじゃないだろうか。
そう考えて、“諦めること”は出来そうにはないけど……「もう、いいよな?」と、自然と言葉が漏れた。
がむしゃらだった日常にさよならをしよう。
あの日々は幸せだったけど、ここでの生活だって無二なのだと今なら思える。
……まあもっとも、あの世界に帰った途端にこの世界が“二番目”になるのが目に見えているのは、申し訳ない気分だが。
「じゃ、着替えてくるからちょっと待っててくれ」
「おーう! あ、ちゃんと汗流しぃや~」
「言われなくてもするわっ!」
どこか晴れやかな気分だった。
これから自分の生活は一変するのだろうか……そんなことを考えながら、新たな気持ちで更衣室の扉を開けた。
……新たな道が、充実感に溢れていることを願って。