68/その時間、一週間
重たげにではなくパッチリと目が覚めた朝。
隣を見れば既に思春はおらず、ぐぅっと伸びをしながら寝台を下りると体操を開始。
及川あたりにはジジくさいとか言われそうだが、これをやるのとやらないのとじゃあ一日の体調が違ってくるのだ。
「……さて」
念入りに済ませた体操のあとは、軽く出た汗を拭いてからの着替え。
フランチェスカの制服に腕を通して、行動を纏めてみる。
まずは昨日の夜に詠たちに話したことを、桃香にも話さないと。
それで時間を貰えるなら良し、貰えないなら作れば良し。
むしろ駐在せずにとっとと帰れーとか言われたらどうしよう。
桃香じゃなくても、魏延さんあたりなら平然と言いそうだ。
「よし」
姿見なんてものは生憎と用意されてないが、ビシッと決めたつもりで頷くといざ扉へ歩き、手を伸ばした途端、
「おおっ!?」
出入り口である扉が急に開いた。
「おぉーっほっほっほっほっほ!! あ~ら一刀さん、ようやくお目覚めですのねぇ」
で、目の前には声高らかに笑う麗羽さま。
ようやくって……いつも通りの時間の筈だけど。そりゃあ時計がないから正確な時間なんてわからないぞ? ケータイだっていつまでも付けているわけにもいかないし、電源は落ちている。
「まあそんなことはどうでもいいのですわ。それよりあなた、これからわたくしの用事に付き合いなさい」
「………」
ちらりと、通路に立つ彼女の脇を見てみる。
と、ぺこぺこと頭を下げる斗詩と、片手で拝み構えをして謝る猪々子が居た。
ああ、うん……つまり……行動を纏めた矢先から潰れるって考えて、いいんでしょうか。
それ以前にまだ、一週間の暇を貰う許可も得てないんですけど俺。
「桃香さんから聞きましてよ? あなた、これからしばらくの間、ずぅっと暇なのでしょう?」
「聞いたっていうか、扉に耳当てて盗み聞きしてたんだけどなー」
「文ちゃんっ、言っちゃだめっ」
「ならばその時間。このわたくしに尽くすことこそ男としての誉れではありませんこと?」
「………」
どうしよう。朝からいろいろと訳がわからない。
とりあえず盗み聞きってことは、朱里あたりが桃香に話したってことで……いいのか?
「あー、っと……ごめん。何を聞いたのかは詳しく理解出来てないけど、許可を貰うのはこれからなんだ。元々遊びに来てるわけじゃないし、一週間なんて暇をぽぽんとくれるほうがどうかしてる。むしろこのことが華琳にバレたら、遊んでないでさっさと帰ってこいとか言われそうだし」
「む……華琳さんのことなどどうでもいいですわ。今はわたくしに尽くしなさいと、このわたくし自らが言って差し上げてるのがわかりませんの?」
「麗羽さまー、可愛さはー?」
「ハッ!? あ、あら、そうでしたわね……。 か、かかっかっか一刀、さん? このわたくしっ……ではなく、このっ……いえ、こ───~……わ、わわわわたくしとともにお茶を嗜みませんこと? 出来る限りの最高の茶会を開きましてよっ?」
「うわ……」
「ぶぶ文ちゃんっ、引いちゃだめっ」
妙にくねくね動きながらの言葉に猪々子が引いた。注意している斗詩も、実は引いた。
そして俺は、そのくねくねした動きにいつかの夢のオカマッスルを連想し、引いていた。
なんだか、可愛いの方向性がいろいろと間違っている。
麗羽の中での可愛いって、こんな感じなんでしょうか神様。
あと“このわたくし”って言い方、もう随分と染み込んでるんだなぁと改めて思った。
い、いやそれよりもだ。どう返せばいいんだこれ。
考えろ、考えるんだ俺……その上で、その中から最善を……!
「………」
……うん。無理
頷く以外に麗羽が納得する未来が浮かんでこないや。
自分の思考に目を閉じるほどの笑顔を浮かべ、心の中ではたそがれた。
「や、やー……あの、俺、これからその……桃香にいろいろと話さなきゃならないことがうわぁっと!?」
「つべこべ言わずに従えと、このわたくしが言っていますのよ!? あなたが“わたくしの可愛さ”から距離を取ってどうしますのっ!?」
「仰る通りだけどちゃんと言わないとまずいんだってぇーっ!!」
当たり障りの無いこと(事実だけど)を口にした途端、襟首を両手で掴まれてホギャーと叫ばれた。って近い近い近いっ! そんなに近くで叫ばなくても聞こえ……っ……おおお麗羽って声高い! 綺麗に通る声だから頭に響いてっ……!
ていうかこの言葉のどこにも可愛さが見つけられません! これは俺が悪いんですか!?
考え方を変えれば、“あの袁紹さん”が可愛さをアピールしようとしている姿が可愛いとかがあるかもだけど、この後のこととか考えるととても可愛いなぁなんて思っていられないわけでして!
「まずは桃香に報告しなきゃ! ほ、ほらっ! “相談相手”って仕事するために来てるのに、何もしなくなるんだからそこのところは───あれ?」
相談を聞くために来てるんだから、もう“わからないことがあったら訊いてくれ”って言ってある場合、それでいいのだろうか。
いや、自身の都合のいい解釈ばかりで未来を見ちゃだめだろう、北郷一刀。
呉で話し合って、先生役を務めることにもなったんじゃないか。
それを急に終わりにしますなんて言うんだから、許可を得るのは当然だ。
「やっぱりきちんと言わなきゃだ。だからごめん、麗羽。時間は取れるかもしれないし取れないかもしれないから、ここで時間が取れるなんて言ったら嘘になる」
真っ直ぐに彼女の目を見つめ、真正面から言葉を届ける。
襟首を掴んだまま顔を近づけていた彼女の目は、時折に(時折?)突拍子もないことを仰る彼女からは考えられないくらいにキリッとしていて───持ちかけられたこの話が、冗談や本人自身が忘れてしまうような話ではなく、本気であるって意思が受け取れた。
……本気の方向性もいろいろおかしい気もするけど。どうして俺? ……可愛いって言った張本人だからか。
「とにかく、話をしてくるから。答えを得るまでは俺も断言出来ないし、ここでこうしていても話が進まないよ」
「む……そうですわね。なら、猪々子さん? 斗詩さん? 今すぐこの場に桃香さんを連れてらっしゃい?」
「え゛っ!?」
「こ、ここにっ……ですかっ!? 桃香さまを!?」
「そう言っているではありませんの。さっさとなさいな」
「………」
えぇと……麗羽サン?
ここに桃香を連れてきて、いったいなんのお話をするおつもりで……?
まさか僕のお話をここで……?
盗み聞きしてましたからさっさと許可を出しなさい~……と?
「や、やぁあ~……麗羽さまぁ……? さすがにそれはやばいっしょぉ……」
「麗羽さま? その……私たちがどうやって一刀さんのお暇の話を知ったか、わかってて言ってますか?」
「歩いていたら勝手に聞こえただけでしょう? なにか問題がありまして?」
『…………』
三人一緒に沈黙した。
そんな中で麗羽は一人、ニヤリと笑んでいる。おかしな点など何も無いって顔だった。
……そして俺達は妙に納得するのだ。“ああ、袁紹だなぁ”と。
真名と姓字の間には、いろいろな境があるのです。
……。
結局は三人がかりで麗羽を言いくるめ……もとい説得して、俺は現在執務室。
難しい顔をしながら椅子に座る桃香を前に、話をどう切り出そうかと悩んでいた。
部屋の中を見る限り、どうやら桃香と話していたらしい誰か(多分朱里で、現在学校かと思われる)は居ないようだ。
「あ、あー……桃香?」
「だめ」
そして即答だった。
「へ……えぇっ!? 俺まだなにもっ───ていうか極上の笑顔でそんなさらりと!?」
「だ、だってぇ~! ここでお兄さんに抜けられちゃったら私、忙しさで死んじゃうよー! お兄さんは私に死ねっていうのー!?」
「立案者が何言ってるの!? なんか俺が悪いみたいになってるじゃないか! 忙しくなるってわかってて、学校を作った人がそんなこと言っちゃだめだろ!」
「うう……私だってお休み欲しいもん……お兄さんが休むなら私も~って言ったら、朱里ちゃんてば笑顔でだめですって言うし……」
や、それ当たり前です君主さま。
「それに昨日、頑張ったのにお饅頭食べられなかったし……お兄さんはいいよねー、朱里ちゃんや詠ちゃんや月ちゃん、思春さんと一緒にお饅頭食べたんだもんねー」
……笑顔で根に持ってらっしゃった。
あ、あーの、桃香サン? 昨日のお饅頭騒ぎの目的が俺と朱里と雛里との親睦会目当てだったの、もしかして忘れてる?
「饅頭はまた作ればいいよ。時間も頑張って空ければいい。でも、そのためには“自分で出来る範囲”を広げないと、書簡整理の山が増えるだけだぞ?」
「お兄さん手伝ってぇえ~……」
たぱー……と涙を流しながらの懇願でありました。
ああうん……なんかいろいろごめんなさい詠ちゃん。俺に頼ってばっかりになるって話、ちょっと手遅れだったかも。
「桃香ぁ……俺だって近いうちに魏に戻るんだから、今からそんなんじゃあ潰れちゃうぞ? 甘えてもいいとは言ったけど、他人を頼りすぎて自分じゃ何も出来なくなるのはダメだ。ちゃんと言っただろ? “ただし、甘えるだけしかしない王様は勘弁だぞ”って」
「うぅ~……だってぇえ……」
自分じゃ気づかなかった。ここまで頼られているとは……意外以外のなにものでもない衝撃を受けた。
でもこのままなのは確かにマズイよな……それこそ依存になってしまう。
じゃあどうするか。
……どうするもこうするもないな。それはきっと簡単なことだ。
甘えるのに慣れてしまっているだけで、心の奥は絶対に変わっていないはずだから。
「じゃあ処方箋。───桃香、この国は好きか?」
「えっ……う、うん、それはもちろん、大好きだよ? 笑顔があって、賑やかさがあって、その中に混ざるととっても楽しいの。誰かの笑顔が誰かを笑顔にして、そんな笑顔を見てたら私も嬉しくて。うん、私はこの国が……ううん、この国だけじゃなくて、この三国が大好きだよっ」
両の指を胸の上で絡め、本当にやさしい笑顔で……慈しみさえ感じるくらいの温かな笑顔で、彼女は言った。
それは心の底からそう思えるからこそ出せる笑顔と語調であり、俺もその笑顔を見ていたら自然と笑顔になっていた。
温かさは伝染する。それはとてもやさしい伝染病で、様々な人が理想と捉えど、意見の食い違いや考え方の違いで振りまくことのできないもの。
そんな中でも彼女の笑みは温かく、俺は笑むことが出来たから───彼女の隣までを歩くと、その頭をくしゃりと撫でて伝えた。
「……だったら、大丈夫だ。どんなに困難でも、好きで、守りたいって思えるなら、弱音を吐こうと辛くて泣こうと、諦められないものだから。諦められないなら頑張ればいい。頑張って頑張って、それでも本当に駄目な時にこそ周りに手を伸ばすんだ。それまでの頑張りが嘘じゃなくて、みんなの心に届いてるなら、きっと助けてくれるから」
「うー……今すぐはだめなの?」
「ん、それはだめ。……桃香、答えならもう自分の中で出てるだろ? それをしようって思えたなら、そもそも迷いなんて無いはずなんだから」
「……? 答え……」
桃香の言葉に頷いて返して、彼女の頭の上に置いた手をやさしく弾ませてから戻す。
そうだ。
頑張ろうって思って始めたことが、彼女にはきちんとある。
一度挫かれてしまい、悔し涙さえ流したと聞く彼女。
それでも今こうして王として立ち、国のためにと前を向いているんだ。
剣の練習だって、氣の練習だって始めた。
その国のための苦労がまたちょっと増えるだけの話。
こうであってほしいと願うのなら。民の、将の、兵の、彼ら彼女らの笑顔と平和を願うのなら、今この時を頑張った分だけ、きっと彼女の周りは笑顔になる。
突如として齎される至福には人は咄嗟に反応出来ないものだから、ゆっくりと一歩ずつ頑張っていく。積み上げたものを積み上げきった時の喜びを知っているから、また頑張ろうって思える。
以前とは違い、血を流さず───人の死に涙せずに、頑張るだけで笑顔が見れるなら、それはどれだけ幸せだろう。
こんな日がもっと早くから来ていれば……そう願わずにはいられないのはもちろんだ。何度考えたかわからないほどだ。
それでも、犠牲があったからこそ諦めなかったし、意思を託されたから頑張れた。
だから、「な?」と。彼女を促すようにして、俺は自分の胸をノックしてみせた。
「覚悟を。人の争いや人の死の先でしか目指せなかった笑顔を、今度は君の努力が咲かせますように」
三国志と聞けば、思い返されるのは桃園の誓い。
恐らくこの世界でも交わされたであろうそれを思い、もし彼女らの前に御遣いとして下りていたのなら、自分も誓っていたのだろうかと想像する。
椅子に座って俺を見上げる彼女は、俺のそんな行動に一度だけ息を飲んだ。
それからゆくりと立ち上がり、俺の目を真っ直ぐに見つめ、自分の胸をノックする。
「覚悟……そっか。うん、そうだよ。目標があるなら進まないと……理由があるなら立たないと。そうだよね……そうだったよ。私はもう……立ったんだもんね」
「ああ」
いつか自分が、戦場の厳しさに苦しみながら辿り着いた答えを、桃香が言葉として吐き出した。
あの乱世の中にあって、それでも手に手を取って仲良く出来たらと願った彼女だ。
それはただひたすらに勝利を望むだけじゃあ得られない未来。
そんな“奇跡”みたいな未来を願い、これだけの国を築いたのだ。
仲間を得て、民の信頼を得て、兵を率いて大国を築いた。
ここには笑顔があって、温かさがある。
この温かさを守ることが、人の死の先じゃなくても見られる今があるんだ。
あの乱世を駆け抜けた者だからこそ、それこそ無駄に出来るわけがない。
「いい国にしよう。魏も、蜀も、呉も。声を轟かせなくても遠い地へ、人と人とが言葉を伝えて届かせられるような温かな国に」
いつか華琳に教えられた国と民の在り方。
“強い指導者のもと、どこまでも声を轟かせられる強い国を作るためにはどうすればいいか”を問われた。
答えは口で言うのは簡単で、実行するのはとても難しいものだった。
そのためには街を大きく、国を大きく、けれど皆が住みたくなるような平和な街を作らなければならなかったのだから。
国が大きくなれば、目が届かない場所は必ず出来る。そんな場所で行なわれることにも目を向けることは、口でいうよりも余程に大変だ。
それでも……そう。目標があるのなら進まないと。理由があるなら立たないと。
俺は華琳に、あの頃の世界の在り方を教えられた。
それは、力で捻じ伏せて耳を引っ張りながら、それでも叫ぶことでしか相手に言葉が届いてくれないような世界の在り方だ。
でも今は、平和になった世界の在り方をみんなで一緒に探す時なんだ。
届かないのなら何度だって届けよう。
自分が伸ばした程度じゃ掴めない手があるのなら、繋いできた手を伸ばし、みんなで掴もう。
そうしてまた広がった手が、きっと誰かを笑顔にしてくれると信じよう。
まだまだ笑うことの出来ない人が、この世界には大勢居る。
戦の世を終えたのは、まだ“たった一年前”の話なんだから。
「……うんっ」
桃香はもう一度自分の胸をノックして、大きく頷いた。
俺もそれに笑顔を返し、
「というわけで一週間ほど暇を」
「だめ」
一瞬で断られた。
「ここでだめって言ったら今までの会話が台無しになるだろーっ!?」
「そっ……それとこれとは話が別だよー! そりゃあもちろん私も、その……がが頑張る、よ……? でもでも、そんな急に、お兄さんがやってた分まで全部こなすなんてぇえ~っ……!」
「………」
彼女のたぱーと流す涙を見て、ふと昨日の彼女を思い出す。徹夜して、大して種類整理を進められてなかった彼女を。
あの……今更だけど大丈夫ですかこの国。
自分で破壊しておいてなんだけど、シリアスが裸足で逃げていった気分だ。
「とはいっても、手伝うにしたって限度があるだろ。働かざる者食うべからずは華琳に教えられたことだし、“世話になるなら”って整理を手伝い始めたけどさ。てゆーかな、桃香。ここで俺に頼りすぎてたら、俺が帰ったあと何にも出来なくなるだろ?」
「うー……」
……ああ……これは“そうなった時に考えよう”って顔だな……。
執務や鍛錬で顔合わせが多くなった所為かなぁ……無駄に表情が読めるようになってしまった。
読めたからって、対処法が出せるかーって言ったら……実のところそうでもない。
困ったことにこの蜀王様は、これで結構頑固なのだ。……わかりきったことだった。
「やる前から諦めないの。ほら、今日は朱里も雛里も居ないみたいだし、きりきり整理っ」
「ふぇえ~……お兄さんの鬼~……」
そう愚痴りながらもきちんと椅子に座り、机に向かうところはさすが王様……と褒めていいんだろうか。
いやいや、当然のことを当然として行うのって結構大事だ。褒めるべきだろう。
……口には出さないけど。
「ところで桃香? 暇が貰えないとなると、俺にはきちんと仕事をくれたりするのか?」
「うんっ!」
「……いくら笑顔で書簡を渡されても、それだけは手伝わないからな?」
「鬼ぃい~っ!!」
ああもう、だから泣くんじゃあありません。ていうか誰が鬼だ誰が。
「はぁ……えっとな、桃香。多分俺が華琳に教えてもらったように、愛紗あたりにきっちり説教されてると思うけど。需要と供給で経済が動いてるみたいに、人と人とも自分の利益や周囲からの徳を得るために動いてる。国の王だからってなんでもかんでも押し付けるんじゃないんだ。いい国にしたいって街の全員が思ったなら、街の全員が頑張らなきゃあいい国なんて出来やしない」
「え……うーん……そんなこと、ないと思うよ? みんなが頑張ってれば、その誰かもきっと手伝ってくれると思うし」
「苦労して積み上げたものは、周りがどれだけ罵ろうと積み上げた人にとっては宝だ。でも、労せずにそんな宝を誰かが作るっていうなら、全員が全員手を休める。“やらなくても誰かがやってくれる”って思うからだ。人種ってものがあるように、全員が全員同じ状況や環境で同じ仕事をしているわけじゃないんだ。“自分に出来ない何か”が出来る人を集めるのは確かに重要だけど、必要に迫られた時に何も出来ない自分じゃあ、いつか描いた夢も覚めてしまう。そんな自分で居たくない……そう思ったから、桃香は剣の鍛錬を始めたんじゃないのか?」
「あ……」
人の頑張りは同じじゃない。背負うものが大きければ、いっぱいいっぱい頑張らなきゃいけない。逃げ出す人なんてそれこそ大勢だ。だって、挫折ほど楽な道はないんだから。
それでも描いた夢を諦めきれず、目指す目標と立ち上がる理由、そしてそれらを貫く覚悟がある者だけが最後まで頑張れる。
じゃあ、桃香は? 挫折する人か? 立ち上がる人か?
考えるまでもない。ここでこうして王として居る彼女こそが答えだ。
「流した悔し涙は、自分を楽にするためだけのものか?」
「っ! そんなことないっ!!」
口にした途端、桃香がキッと俺を睨み、叫ぶように言う。
……そうだ、そんなことがあっていいわけがない。
だって、その夢こそが彼女が積み上げてきたものであって、宝であったからこそ彼女は泣いたのだろうから。
「ほら、答えなんて最初から自分の中にあるんだ。背負うものが“重荷”じゃなくて、一度手からこぼしてももう一度掻き集めることが出来た“宝”なら、心が挫けない限り何度だって頑張れるに決まってるんだ」
「お兄さん……」
「自分の仕事はちゃんとやろう? それは桃香が“頑張ることが出来る部分”で、他の人にも他の人が頑張れる場所があるんだから。で、あー……自分で言うのもなんだかすごく情けない気がするけど、仕事は手伝わないけど“甘えちゃだめ”とは言わないから」
「…………」
「……桃香さん? 待っててももう一声なんて出ないから」
苦笑交じりに頭を撫でる。
桃香はくすぐったそうに、けれど心地良さそうに、されるがままになっていた。
「……特に任せたい仕事がないなら、教師役でも街の警備でも、街で困っている人を助ける仕事でもなんでも引き受けるよ。そこで頑張りながらもっともっと煮詰めれば、学校についての案件も街での問題も届かなくなる。そうやって支え合うことが、俺達の需要と供給になるんだろうから」
「~……う、うんっ……うんっ!」
甘えていいって言った日、いろいろと背負いすぎたのかもしれない。俺が。
“蜀全体とは言わず、桃香だけにしてあげられることがあるとすれば、民のため兵のため将のためにと頑張りすぎる彼女の負担を、軽く担ってやるくらい”なんて思っておいて、結果が甘えんぼさんだもんな。
これであの日、“お兄さんは誰かを傷つけちゃうかもしれない”なんて語ってくれた人と同一人物だっていうんだから、何かがいろいろとおかしいって気分になってくる。
まあでも、あれだ。困っている人を助けて回るのは、散々と雪蓮に付き合わされたお陰で慣れっこだ。本当に、経験っていうのは何処で何が生かされるのかわかったもんじゃない。
「そうだよ……私、もっと頑張るって言った! 言ったんだもんっ! こんなことくらいで立ち止まってなんか───! こんな、こん…………」
腋を締めるようにしてエイオーと気合いを入れた桃香───だったが、うず高く積まれた書簡を前に……急激にしぼんでいってしまった。
それでもぶんぶんと頭を振るうと、キリッとした表情で政務に励む。
やっぱり難しいところがあるのか、何度か筆は止まっていたけど……それもきちんと考え、纏めることで次に向かう。
「ごめんねお兄さん。私、ちょっと弱くなってたかも」
しかも手を動かしながらだっていうのに、こちらに話し掛ける余裕もあるよう……って、思った矢先から手が止まったよ。
「いいよ。そういったものを支えてあげられるのが、仲間であり友達だと思うし。桃香にとっての俺が、自分の弱さを見せられる存在だっていうなら、それはそれで嬉しい」
「はうっ……」
恥ずかしそうに顔を俯かせる桃香。
そんな彼女に軽く「それじゃあ、何かあったら呼んでくれ」と言って、執務室をあとにする。
何か言いたげだった彼女を残したままで。
手伝いたいのは山々なんだけど、生憎とこちらにも困った用事が残っている。
今朝一番に部屋への来訪を果たした彼女に、暇は無くなりましたと報告しなくちゃならないのだ。
(ある意味拷問だよ……。はぁああ……どう切り出したもんかなぁ……)
そんなことを考えながら、宛がわれた自室への道を歩いた。
どうか穏便に済んでくれますようにと願いを込めて。