75/旅ゆけば、三日間
宿での朝を迎える。
寝巻きという名のシャツを取り替え、フランチェスカの制服に身を包むと、今日も頑張るかと気を引き締めて部屋を出る。
荷物は着替えと携帯電話等が入ったバッグが一つ。
もちろん、と言うべきなのか、思春の着替えも入っている。
これを片手にボランティアをしているわけだが……まあその、野党紛いのことが起こったこともあって、天……元の世界の思い出の品でもあるこれを盗まれたら、多分しばらく立ち直れない。
なわけだから、邪魔になろうがどうしようが肩に引っ掛けて行動をしているわけだ。
民を信じなさいって言われればそれまでなわけだが……盗むわけじゃないにしろ、子供とかが面白がって持っていってしまっても困る。
……なので、
「女将さん。この荷物、預かってもらってていいかな」
女将さんに預かってもらうことにした。
その女将さんの対応といえば、二つ返事……でもなかったが、「ああ構わないよ」とにっこりと笑い、預かってくれた。
そうなるとあとは早いもので、早速宿から出た俺と思春はボランティアを再開。
困ったことがないかを訊いて回り、あれば手伝い、無ければ探しを繰り返し、適度に休憩を挟んでは麒麟らの様子を見に行った。
空を仰げば眩しいくらいの太陽。
そんな空の下、人々は賑わいを絶やすことなく動いていた。
「…………うんっ、よしっ」
そんな賑わいに負けないようにと気合いを入れて、またボランティア。
……とはいうが、仕事は仕事だと割り切っている人が中々に多く、困っている人というのもこれで案外見つからない。
書簡に書かれた……リストと言っていいのかは疑問だが、連ねられている名前や場所は既に回ってしまったし、それほど難しい問題でもなかったので解決してしまっている。
やる気だけが空回りする状況下で、さて俺は何をするべきなのかと考え……
「………」
ふと、店先のごま団子が目に入る。
……い、いや、駄目だぞ? 愛紗に怒られたからこそ、こうして外泊(?)までして仕事をしているのに、その先でサボリとかはまずい。
何よりもし華琳にバレでもすれば、“他国にまで行ってサボリ癖を見せつけにいったの? さっさと帰ってきなさいと言ったのに、随分と余裕なのね”とか言われて……まずい、それはまずい。
言葉だけで済めばまだいいが、華琳のことだから絶対に罰が待っている。
そう、俺は奉仕……蜀の国に情報を提供するために来たわけで、けっしてサボリに来てるわけじゃないんだ。……ないけど、でも、ちょっとくらい、団子の立ち食いくらい……!
「いやいやっ、
頬をパンパァンッと叩き、喝を入れる。
じいちゃんのもと───天から離れて結構経ってしまった所為か、確実に自分の中の様々が緩み始めていることを実感しつつ、強く叩きすぎた頬に涙を滲ませながら歩いた。
鍛錬の日は明日だし、明日は体を動かすよりも座禅でも組んで精神修行でも……ハテ。周りがソッとしてくれなさそうだと思ったのは、蜀の生活にも完全に慣れてしまったってことで、笑って済ませていいんだろうか。
「……思春? えぇっと、なんだかんだで書簡分の仕事が終わっちゃって、他に困っている人も居ないみたいなんだけど……これって戻るべきなのかな」
「当然だろう」
当然だった。
それはそうだ、昨日は夜遅くまで散々と騒いで、今朝も早くから手伝い。
見上げれば既に太陽は真上で、先ほど見上げた空よりもほんの少しだけ太陽の位置が変わっていた……気がする。
ならばとお世話になった人達に声をかけて、また何かあったらと言い残して出発の準備。
預けておいたバッグを手に、麒麟に跨っての移動が始まった。
別の町か邑へ行く手も考えたが、下手に突っ込んだ行動をして、かえって迷惑になるのもいけない。
いくらボランティアっていっても、俺が手伝う中に誰かの仕事が混ざっていては、その人のその日の内の給料を奪うことになりかねない。
あくまでどうしても困っている人を助ける方向。
手伝うにしても、必要な労働分以上を奪ってはいけない。
いろいろあるが、やさしさの押し売りだけじゃあ褒められた結果は得られないのだ。難しい。
そういった意味では、この時代のボランティアは難しいものだった。
(……べつに、褒められたくてやってるわけじゃないんだけどな)
上手くいかないものってのはどうしてもあるなぁと苦笑する。
そうして、麒麟のペースで道を行く。
長い長い道のりを、時折に空を見上げながらゆっくりと。
今日は何事も無ければいいなぁと、そんなささやかな願いを胸に抱きながら。
……抱いた途端に、“抱いてしまった時点で”何かが起こるんだろうなぁという直感が、どうしても働いてしまう自分が憎かった。
……。
道中、一人の男と出会った。
彼は商人であるらしく、久しぶりに我が家へと帰る途中なのだという。
家が、先ほどまで自分たちが居た場所だというので、お世話になったことを話したり、困ったことはないだろうかと訊ねてみたりをした。
奥様方の井戸端会議のようなノリで、穏やかに笑いながら。
……いつの間にか商人の間には俺の名前が通ってしまっているらしく、名乗ったら「おぉあんたが!」と驚かれた。
慌てて“あんたが”って部分を訂正しようとする商人さんに、そのままでいいからと返して話の続きをする。
当然、馬から下りてだ。
見下ろすのってあまり好きじゃないし、どうせなら同じ目線で話し合いたいから。
そうして話してみると、町から町へ、邑から邑へと移動しているだけあって、いろいろな場所のことを知っている。
あの町はああいうことで困っていた、そこの街の一角ではああいうことがあって、その邑で子供が産まれた、など。話し始めると尽きることを知らないってくらいに教えてもらった。
話だけ聞くと楽しそうとも思えるソレは、事実楽しいらしく……それが叶ったのも、この世が平穏になってくれたお陰だと、眩しいくらいの笑顔で言ってくれた。
そんな、どこかの街……邑でもいい、歩き回れば無邪気な子供がしているであろう笑顔を、大人がしてくれていることがとても嬉しかった。
「………」
まだそう遠くないからという理由もあって、商人を送り届け、再出発。
あれだけの広い場所で追い剥ぎや山賊も無いものだけど、気になってしまっては仕方ない。
初めてこの世界に降りた時、乱世とはいえ広い荒野で襲われた自分だ。不安にもなる。
もう平和になったから絶対に安全だ、なんて言えない事態が昨日起こってしまったばかりだし……戦の中で辛い思いをした人だけじゃなく、太守の所為で辛い思いをした人だって山ほど居ることを、改めて思い知らされた。
「こうしてボランティアを地道にやってて、いい世の中になってくれるのかな」
やらなきゃいけないことは、まだまだたくさんある。
天……日本で例えてみれば、ボランティアなんて時間の無駄だって大多数の人が言うだろう。
救われる人は確かに居るが……正直、この世界ほど必要とはされていない。
じゃあ必要だからずっと続けるのかと言われれば……続けるんだろうな。
笑顔が見たいし、もっと民や兵と近づきたい。
こうして“民”って呼ぶんじゃなく、呉の人達みたいに気安く“親父、お袋”って呼べるくらいに親しくなりたい。
そのためには自分から歩み出て手を伸ばす必要があって、強制じゃないのなら掴んでくれるまで待つしかない。
だからしつこく食い下がらず、一歩一歩をゆっくりと歩いている……つもりだ。
「たった一人が何をどうこうしたことで、そう易々と変わるほどにやさしくはない。そんなことは貴様でも……いや、貴様だからこそわかっているだろう」
「……ん」
つもりはつもりでしかないわけで。
自分がどれだけ、どう進めているかなんてのは、誰かが四六時中見ていない限りはわかるはずもない。
自分だけならいいけど、自分の行動が誰かのためにもなり、誰かの重荷にもなり得るって事実は案外怖い。
けれどもそういった、一方じゃなく反対側の……正道で例えるなら邪道も知りながら、どちらか一方だけでは得られないものも受け取ってこそ覚悟になる。
以前話した悪と正義の話のように、悪から学べることもあるのだから、一方のみを受け取っていては偏りが生じてしまう。
悪を悪としてしか見られなくなるって言えばいいのか。
えぇと、悪だから悪として裁くんじゃなく、そこにもきちんと理由があることを知ってみようとするのが大事……というか。
「一人で考えててもこんがらがるなぁ……思春、道も長いし少し話しながら行かないか?」
「………」
はぁ、と溜め息が漏れた。
次いで、「話をする程度のことで、いちいち否応を問うな、鬱陶しい」との厳しいお言葉が……。
いや、だって……急に話し掛けたりすると睨むの、もう目に見えてるし……。
……こほんと咳払いを一つ、話をする。
ボランティアのこと、これからの自分達のこと、蜀でやり残していることはないだろうかとか、魏に戻ってからの身の振り方とか、それこそいろいろ。
「……そうだよな。魏に戻ったらどうなるんだろう」
“どうなるんだろう”とは、思春のことだ。
今でこそ一緒の部屋、一緒の寝台で寝ていたりするわけだが……魏に戻ってもそれを続けるのか? それを華琳が許すだろうか。
“貴方は私のものであることを、まだ自覚し足りないようね”とか、“それとも長旅の所為で忘れたのかしら? いい度胸ね、さっさと帰ってこいという言葉も満足に果たせなかったというのに”とか、痛いところを突かれまくって……あ、なんか胃が痛くなってきた。
「どうなるかは魏王───曹操様、が決めることだ。庶人らしく街で暮らせと言うのか、別の部屋を用意するのか、これまでと変わらず貴様とともに居させるのか」
思春も俺の言葉の意味を正確に受け取ったようで、あっさりと返事を返してくれる。
そうだよな……結局は俺も華琳の所有物扱いで、一応、あくまで一応思春はその所有物に仕えているってことになっているわけで。
……というか、一緒の寝台でず~っと寝てたってこと自体が、あらぬ誤解を生みそうだ。
何もしていないって言ったところで、果たして信じてくれるのかどうか───
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ようやく魏入りを果たし、許昌へと戻った俺は、思春とともに玉座の間に通された。
そこでは相変わらずの威厳に、怪しげな微笑を混ぜた表情を浮かべる華琳が待っていて、幾段かある段差の頂点に存在する玉座に座り、足を組み、左手を頬杖代わりにして俺達を見下ろしていた。
「長旅ご苦労だったわね。学ぶことはあったのかしら?」
「ああ。呉でも、蜀でも、随分と学ばされたよ」
「そう。……ああところで……雪蓮から聞かされてはいるけれど、一刀? 貴方───道中、思春に手を出したりしていないでしょうね」
「へ? ああそれはもちろん───」
「もちろん!? 手を出したのか貴様っ!」
「春蘭!? “もちろん”だと手を出す理解ってなに!?」
「ふん、自分の胸に……いいえ? 自分のその汚らしい股間に訊いてみなさいよ、この汚物」
「人の股間が意思を持っているみたいな言い方するなよ!」
説明云々より先に、あっという間に誤解が広まった。
なんとか話をして理解を仰ごうとするのだが、慌てれば慌てるほど誤解が広まっていくのはどうしてだろうなぁ。
だからと冷静になってみれば、「開き直ったわねこの変態!」って桂花に言われる始末。
ええいどうしてくれようか、この軍師。
「と、とにかく! 手なんて出してないっ! 思春、思春からもなにかっ───」
「発言を許可された覚えはない」
「そうだけど、許可したって喋らなそうだって思うのって俺だけ!?」
「ならばわざわざ声をかけるな鬱陶しい」
否定してくれない上にひどいこと言われた。
ならばと孤独な説得を続けるも、次第に追い詰められていき……
「思春。今宵、私の閨へと来なさい。一刀によって散ったその身体、この私自らが慰めてあげるわ」
「!? い、いえっ、私はっ───お、おいっ……貴様っ……! 黙っていないでなんとかしろっ……! このままではっ……!」
「……イインダ……ドウセ僕ノ言ウコトナンテ誰モ信ジテクレナインダ……」
「呆けている場合かっ! 鬱陶しいと言ったことならば、その、あ、謝らなくもない! だから───!」
思春が真っ赤な顔で俺の肩をがっくがっくと揺する。
そんな声が俺に届かないままに、謁見めいたものは終わりを告げ───その夜。
静かな夜に、一人の女性の叫び声が轟いた……───
-_-/一刀
…………。
「……強く生きていこうな、思春」
「? 脈絡も無く何を言っている」
とりあえず、何を言っても聞いてもらえなさそうな気がしてきた。
雪蓮が、華琳に“一刀は呉で、誰にも手を出さなかった”~とか言っていてくれれば、まだ話は変わるんだろう……けど。それで華琳が納得するかは別なんだよな。
どちらかで言えば、本人の言葉と証明を以って事実とする、みたいなところがあるし。
こっちの場合、言葉と事実を以って証明ってことになるのか?
何がどうあれ、苦労はしそうだ。
(そんなドタバタすら楽しみにしてる自分が、何を言ってるんだか)
この世界に戻ってきた事実は変わらない。
そこには大事な人が居て、再び辿り着きたかった暮らしが在る。
どれだけの苦労を積み重ねようと、その苦労さえもが楽しみなら、今は笑っていよう。
いつか終わるものだとしても、この世界に骨を埋めることになったとしてもだ。
……。
成都に辿り着く頃には当然のように昼も過ぎていた。
こういうものは重なるものなのか、途中途中で誰かと出会ったりトラブルに巻き込まれたりで、ハッと気づけば見上げるまでもなく空は赤かった。
……川を見つけたついでに、勝手に麒麟に水浴びとかさせちゃったけど……大丈夫だろうか。
「おお御遣いさん、今お帰りで?」
「ん、ちょっと離れた町まで行ってきて、丁度帰ってきたところ」
城へ戻る途中、声をかけられて振り向き、返す。
馬にはもう乗っておらず、手綱を引いて一緒に歩いているところだ。
同じ目線で話すことに慣れてくると、どうもこう……なんて言えばいいのか。
馬に乗って、見下ろしながら話すのが苦手になってくる。
けれど、歩くたびに誰かしらに話し掛けられて、思うよりも進めないでいた。
「…………」
なんだか思春から、無言のプレッシャーをかけられている気がしないでもない。
さっさと進めってことなんだろうか。
そんな視線を受けても挨拶はしっかり。
気になる話題が出れば奥様方のようにあらまあウフフと……いや、嘘だぞ?
なんだかんだで結構走らせてしまったし、麒麟を早く休ませてやりたい。
話もそこそこにして区切りをつけて、一言謝ると先を急いだ。
麒麟たちを馬屋へ送り、城へ戻り、桃香への報告を終える頃には日も落ち、夜が訪れる。
往復出来る距離とはいえ、移動を続けると疲れもするわけで───たまたま風呂の日だったらしいので、「ご苦労さまでした、お風呂でもどうぞ~♪」と、宿の女将さんみたいな仕草と、冗談混じりの笑顔で言う桃香の言葉に甘え、風呂に入ることにする。
……思春と一緒に入れられそうになったが、そこはなんとか説得して許してもらった。
ああ、許してもらったとも。
「は……あ、ぁあ~……♪」
熱い湯船に浸かる。
すると、足の先から肩までが痺れるような感覚に襲われ、思わずヘンな声が出る。
自分のそんな声に苦笑をもらしながらも、ぐぅっと身体を伸ばし、長い長い息を吐いた。
「この時代に居ると、いつでも好きな時にシャワーとか浴びられる現代って、すごい贅沢だよなぁ」
どれほど汗臭くなっても、この世界では我慢しなければならない。
水浴びで落とせるものにだって限度があるし。
などと湯船のありがたさを感じながら、空を仰いでみる。
いろいろとどたばたしていて、最近じゃあこんなにゆったりと星を見られなかった。
星を見るのが好きかーと問われれば、それはまあ人並み程度だろう。好きでもなければ嫌いでもない……大体はそうだ。
ただ、一人でのんびりと見上げる星は、これで案外風情があるというか。
振り回されない時間っていうのは大事だなぁ、とか思ったりするわけだ。
この世界は、現代とは違って夜の明かりが少ないから、星だってたくさん見れる。現代よりかは……まあ、きっと、星を見上げるのは好きでいられそうではある。
「風呂はいいなぁ……風呂は男と女が分けられる大切な場所だ」
……いや、そうでもないか。
魏のお祭り好きの誰かさんは、町人の騎馬戦に紛れ込んで大人気なくも暴れ回った挙句、俺と凪を巻き込んで風呂に……い、いやいや思い出すな思い出すなっ!
なんて思った時にはもはや遅く、自己主張を始めてしまう一部分に泣きたくなった。
「…………」
なんとなく不安になって、辺りを見渡す……が、当然のことながら誰も居ない。
こんな状況で混浴だけは勘弁だ……いろいろ抑えが効かなくなりそうだ。
「落ち着け落ち着け、煩悩退散煩悩退散……!」
湯船の中で
大丈夫、大丈夫……何事もなく蜀での務めを果たすんだ。
今日が終わればあと二日。
それまで我慢して…………あれ?
(……我慢して、どうするんだっけ?)
魏に帰って発散する? いや、なんか違う。
みんなは欲望の捌け口じゃないし、そんな感情任せなことは絶対にしたくない。
というか……あ、あー……。
「なんか……やっぱりっていうか、いつでも受身だったんだなぁ、俺って」
改めて実感。
自分から迫ったことってあったっけ?
大体が何かしらが起こって、触れて、そして……まあその、そんな感じで。
「はぁ。状況に流されやすいのか、なんでも受け容れすぎたのか」
顔をばっしゃばっしゃと洗い、溜め息。
足は結跏趺坐なままに、自分に呆れながらも深呼吸を続ける。
呉でも蜀でも抵抗しておいて、魏に戻ったら節操も無く欲望に飲み込まれる自分を想像してみて、やっぱり情けなくなり……抵抗する自分を想像してみるが、それでも誘われたなら、抗えられそうもない自分が容易く想像出来てしまうあたり、つくづく自分は押しに弱いのだと実感した。
「身体の鍛錬より、心の鍛錬の方を優先させるべきだったかなぁ」
こんな時、華琳が隣に居たら怒ってくれるだろうか。
情けないことだと、己を律することの出来る自分で在れと、言ってくれるだろうか。
……その前に溜め息をつかれるか、鼻で笑われそうだ。
目を閉じて、顎を少し上げて、口元は笑ったままで、
“我慢? 貴方にそれが出来るなんて、初めて聞いたわ”
って感じに。
はい……仰る通りです。
「……明日は鍛錬だ。今日はもうゆっくり休もう」
考えごとをしていると、なかなか時間が経つのは早いもので……少し頭がボゥっとしてきている自分に気づく。結跏趺坐のままで。
せっかく湯船に浸かってるんだから、のびのびとしないともったいない。
幸いにして、自分への情けなさからかどうなのか、主張を続けていた部分は治まってくれていた。
今のうちにとばかりに湯船から出て、洗うところを洗ってからさっさと出てしまう。
(また余計なことを考え出す前に、寝てしまえばいいんだ)
パパッと着替えを終えればあとは早い。
寄り道せずに宛がわれている自室へと向かい───…………部屋の前にある人影を見て、いっそ叫びたくなった。
いや、人影だけならよかったんだ。
その影が二つあり、かつ何かを大事そうに抱えているとかじゃあなかったら……俺はきっと、心から彼女らを迎えられただろうに。
(神様……)
そういえば結局、うやむやになったってだけで、艶本の話は流れたわけじゃないことを思い出した。
思い出したら……静かに、視界が滲んだ気がした。
困ることっていうのは重なってしまうから困ることなんだって、昔誰かが言っていた。
今ここにある状況もきっと、そんな困ることの一つなんだって胸を張って言える。こんなことに胸を張りたくなかった。
「………」
無視をするわけにも、別の部屋を借りるわけにもいかず、結局は部屋の前……朱里と雛里が待っている場所へと向かった。足音に気づいて、扉からこちらへと視線を向ける朱里と雛里は、持っているものが持っているものだからだろう、ひどく挙動不審で、「はわぁっ!?」「あわぁわわっ……!?」と見事に小さな悲鳴を上げた。
そんな姿を見ると、これから我が身に降りかかるであろう我慢の時も、なんだか気楽なものと思えてしまう……いや、気はしっかり持とうな、一刀。
「ヤ、ヤー……ドウシタンダイ、コンナ夜ニ」
自分でもわかるくらい、明らかにおかしな声が口から漏れた。
わかってる……緊張とか動揺とか、いろんなものが混ざってしまっていて、考えていること、喋ろうとしていることが上手く言葉になってくれないのだ。
なんとか持ち直そうと努力すればするほど、朱里が持っている本に嫌でも視線が向いてしまい、恥ずかしいやら悲しいやらでいっそ逃げ出したくなる、と……ただいまはそんな状況なわけでして。
そんな状況の中で“どうしたんだい”なんて質問を投げ掛けた俺だったが、恥ずかしがりながらもバッと突き出される艶本に、衝撃という名のカウンターを食らった。
それは。
彼女が持っていたソレが、実は学校に使う教材とかでしたー、なんてことを密かに期待していた俺の心が、ゴシャーンと大きな音を立てて崩れ去った、記念すべき瞬間だったとさ……。
6月18日に向けてアレコレ書いていたので更新が滞っておりました。
再び投稿を開始いたしますです。