-_-/桃香
カロカロカロ……かしゃんっ。
「はい確かに。本日のお勤め、終了ですね」
「やった終わったよーっ!」
竹簡を巻き、積み重ねられたそれらにさらに積み重なる音を耳に、両腕を振り上げて叫んだ。
睡眠時間を削ってまで頑張った甲斐もあって、お昼が来る前に終えることが出来た事実に、むしろ胸だって張っちゃう。
今日はお兄さんとゆっくり過ごせる最後の日。
だからお兄さんには休んでもらって、今日一日の間、いっぱいお話ようって考えていたのだ。お兄さんが、魏に帰る日取りを決めてからずっと。
「それじゃあもう行ってもいいかな、いいかなっ」
案件整理を手伝ってくれた七乃ちゃんは、至急片付けなければいけない分の書簡の見直しをしてくれている。
えと、袁術ちゃ───美羽ちゃんの傍でいろいろとやっていた七乃ちゃんだけど、時々怖いくらいに的確な提案をしてくれる。
お陰で整理も楽になった……んだけど、乱世の頃、もっともっと力を活かしていたなら~……とかどうしても思ってしまう。美羽ちゃんは雪蓮さんがやっつけたって聞いた。でも、その時に反撃らしい反撃はされなかったのかなぁ。
「はいどうぞー? 私はもう少しだけ、確認をしてますからー」
癖なのか、握った手から人差し指だけを立てて、にっこりと笑う。
そんな七乃ちゃんにありがとうを残して、いざ執務室を出てお兄さんの部屋へ!
「どんなことしよっかなー♪ 昨日みたいに歌を歌ってもらう? それとも街を一緒に歩いたり~……えへへー♪」
お兄さんは、魏のみんなから聞いた噂ほど、暇じゃあなかった。
どんなことにでも首を突っ込んじゃうし、揉め事に巻きこまれやすいのか、気づけば何かしらの騒ぎの中心に居る。
でも危うい感じじゃなくて、一緒に居ると楽っていう、不思議な人。
自分の知らないものをたくさん知っていて、教えてくれる時の目はとってもやさしい。
頭を撫でる癖があるみたいだけど、お兄さんに撫でられるのは嫌いじゃあなかった。
一国の王になった時点で、みぃんなどこか線を引いちゃっている中で、お兄さんは誰にだってやさしかった。
王になった自分にも甘えられる人が居ることが、安心でもありくすぐったい。
「~♪」
通路を駆けそうになるのをなんとか抑えて、少し体が弾むのを感じながらもゆっくりと歩く。わくわくする心は嫌じゃないから、長く長く感じていたい。
昨日の鍛錬の疲れが少しだけ残っていて、走ると痛いのも事実だ。でも歩きたいのもまた事実だから、ゆっくりと歩く。
鼻歌が、昨日お兄さんが歌っていた歌の一部分であることに気づくと、そんなことさえ笑みの種になるんだからくすぐったい。
「私、変わっていけてるのかなぁ」
落ち込むだけだった自分にさよならをしたかった。
王だなんだって言っても、私は華琳さんや雪蓮さんみたいに戦えない。
的確な指示を素早く出せるわけでもなければ、戦の中で戦略を立てられるわけでもない。
みんなは“私が私だから”集まってくれたんだって言うけど。
役に立てないのって、結構つらくて、苦しいんだよ……?
戦があるたびにそんなことを思っていた。
私の笑顔を見れば頑張れるって言ってくれた人が居た。
だから笑顔で居ようって思った。
そんな笑顔を否定して、私が目指したかった天下を折った人が居た。
だから弱い自分に泣いたことがあった。
「………」
どれだけ強い人でも、一度も涙を流さずに強くなる人は居ない。
それは本当の涙じゃなくてもいい。
心の中で泣いて、表面では決して泣かない生き方もきっとある。
その人はきっとそうやって生きてきて、私と雪蓮さんの目指したものに勝った。
でも、と思う。
ただ力だけを……本当に力だけを求め、振るうような人だったなら、華琳さんは何処にも辿り着けなかったんじゃないかなって。
私が今、少しずつ自分を変えていけているように、華琳さんにも少しずつ、自分では気づかないくらいの速度で自分を変えてくれた人が居て、それがきっと……───
「天の御遣いかぁ……」
お兄さんは“そんなことはない”って謙遜するんだろう。
言わせてもらうなら、あの華琳さんの生き方とか考え方を変えていくなんて、きっと他の誰にも出来ない。
……元からそういう考え方を持っていたのなら、別かもしれない。しれないけど、いつかの舌戦の時に言った言葉を、今の華琳さんは二度と言わないと思う。
“私に従えば、もう殴られることはないと教え込む”
そんな考え方をずっと変わらず持っている人が、
「どんなふうに華琳さんを説得したのかな。一緒にいて、すこ~しずつかなぁ」
どちらにしろ凄い。
華琳さんが自分で考えを改めた……とも考えられるけど、華琳さんって前言の撤回とか嫌いそうだし、自分が“こうだ”~って思ったら引き下がらないもん。
うん、絶対にお兄さんが華琳さんを変えたに違いない。
「~♪」
なにせ自分も変わっていけている自覚があるのだから、凄いことなのだ。
いっそのことずぅっと蜀に居て、ずぅっと前を歩いて引っ張ってほしい。
蜀に来てくれないかなーとか、でもでもお兄さんには華琳さんが居るしなーとか、いろんな考えがごっちゃごちゃになる。
そこでハッとしてみれば、お兄さんのことしか考えていない自分を自覚して、嫌な気分どころかやっぱりくすぐったい気持ちのまま、通路を歩いた。
「お兄さんを蜀にかぁ……愛紗ちゃんや焔耶ちゃんに認められる男の人なんて滅多に居ないし、私もどうせ一緒に歩くならお兄さんみたいな……ううん、お兄さんが───……わわわっ」
考えが行き過ぎるのを止めるけど、もう遅い。
耳の内側がチリチリ鳴るのを止めることは出来なくて、きっと自分は真っ赤になっているのだと自覚する。
「………」
その上で、お兄さんは華琳さんのものだから、私は別の誰かと……と考えてみる。
……たまらなく悲しくて、嫌な気分になった。
よくわからない誰かと一緒になることを前提にして歩きたくなんかない。
いいな、華琳さんは。天下も、お兄さんも手に入れられて。
「……お兄さんを三国の父にすること、本当に決定したら……一緒に歩けるのかな」
ぽつりと呟いた言葉が、冷たくなり始めていた心に暖かさをくれた。
支柱になりたいと言ったお兄さんの言葉……それを受け取った上で、そんなこれからをずっと一緒に歩きたい。
一緒に居て暖かくて、一緒に居て楽しくて、一緒に居て頼もしくて……そんな男の人、初めてなんだ。だから……だから……───
「…………そっかぁ……そっか、そっかぁ……」
なんのことはない。
私はやっぱり、お兄さんのことが───
「………」
通路を抜けて、中庭が見える場所まで辿り着く。
その欄干に手をついて、空を見上げながら深呼吸をした。
「お兄さん……」
お兄さんの部屋に行こうと思っていたけど、このままじゃあきっとだめだ。
顔、絶対に真っ赤だ。
胸が苦しいし、呼吸もおかしい。
少し風に当たりながら休もう。
そうすれば笑顔でお兄さんに会いに行ける。
だからと、通路を逸れて東屋へと歩を進めた。
変わらず、空を眺めながら。
「………」
鳥が飛ぶ空を見て、思い出したのはお兄さんの歌。
空を飛ぶ鳥のように、自由に生きる。
自由って、どういうもののことを言うんだろう。
王じゃなければ出来ないことがあって、でも王だと軽々しくできないことがある。
私が悩んでいるのはつまりそういったもののことで……。
ひゅおっ───
風を切って影が飛ぶ。
空を飛ぶ鳥を追うように、視界の隅から飛んだそれは、……あれ? 鳥……にしてはなんだか大きいような───ってお兄さぁああーん!?
「え!? わ、え、えぇっ!?」
振り向けば、どうしてかこっちに飛んできているお兄さん。
視界の端に映ったものを正面から見据えて、どうすればいいのかを必死に考えて───
「ふぴうっ!?」
……潰れた。
なんとか受け止めようとしたんだけど、さすがに飛んできた男の人を受け止めるだけの力は、まだまだ養われてなかったみたいだ。
「ひたっ……ひたたたたっ……!!」
身をよじる痛さのあまり、声調が高くなる。
痛いって言ったつもりが「ひたたっ……」とおかしくなって、倒れた自分を起こそうとするけど───ぐったりと動かないお兄さんに圧し掛かられてて……んっ、んんん~っ……だ、だめっ……重いぃい……!!
「お兄さんっ……おっ、重いぃい……って、わひゃあっ!?」
お兄さんの下から自分の体を逃がそうとする中、ふと見たお兄さんの顔。
表情というものがなく、眠っているわけでもなく、ただただ完全に力を失った冷たさがそこに……ひえぇええっ!? ししし死んでるっ!? 死んっ……あ、ああっ……大丈夫だ、息してるよ……!
ただ……うーん、完全に気を失っているみたいで、呼吸以外の行動全てが止まっちゃったみたいにぐったりさんだ。
ぐいと押し退けるように抜け出すと、お兄さんの体がごろりと転がる。
仰向けになったお兄さんは完全に脱力していて、多分ちょっと見ただけでも“これは気絶してる”ってわかる。
「お兄さん? お兄さ~ん……?」
試しに頬をつついてみるけど、反応は全然なかった。
「?」
そういえばどうして飛んできたんだろ。
はたと気づいて、辺りを見渡す。……と、飛んできた方向の先から、大きな戟を手にじりじりと近づいてくる恋ちゃんが……!!
え? え、ええ!? なんなのかなこの状況! おぉおおおお兄さんは恋ちゃんと戦ってて!? 恋ちゃんはお兄さんを吹き飛ばして!? 動かなくなったからととととととどめをぉおおっ!?
「だ、だめだめだめっ! だめだよ恋ちゃんっ! お兄さんが何をしちゃったのか知らないけど、それは───」
「……一刀、大丈夫?」
「───…………あれ?」
引け腰ながらも、倒れたお兄さんの前に立って通せんぼをした私は、その格好のまま首を傾げた。
大丈……あれ? とどめは? じゃなくて…………えっと。かんち……がい?
「~っ……!」
また、顔が熱くなるのを感じた。
口からは自分でもよくわからない言葉が出て、なんか言い訳みたいなことを言ってる。
対する恋ちゃんは首を傾げるだけで、「そういえばどうして戦ったりなんか」とか訊いてみるんだけど、恋ちゃんが答える前に別の話を口にしたりして、全然全く落ち着きがなかった。自分で言うのもなんだとは思うけど。
……。
少し経って、ようやく恥ずかしさを飲み込んだ頃には、私と恋ちゃんは東屋の傍の斜面で、お兄さんを挟んだ両隣に座り込んでいた。
「東屋の椅子に座らない?」って提案してみたけど、そういえばお兄さんが居る。まさか円卓に寝かせるわけにもいかないし、そういう意味では芝生の上のほうが丁度いい。
「えと、つまり昨日お兄さんと戦えなかったから……?」
「ん……戦った」
ぐったりしているお兄さんに、“お疲れ様”って本気で言いたくなっちゃった。
言っても届かないだろうけど。
鈴々ちゃんの時もそうだったけど、お兄さんはよく飛ぶよね。
男の人にしては軽いのかな。……や、それにしては重かったよ、うん。
飛んできたからってだけかもだけど。
「お兄さん、強かった?」
「……構えるだけで、息が乱れてた」
「…………お兄さぁん……」
ひどい筋肉痛だったに違いない。
それでも武器を手にして立ったっていうことは……?
(ああ……)
わかる、わかるよお兄さん……! 恋ちゃんにねだられると、断れないよね……!
「でも、不思議」
「不思議?」
「……攻撃したら、……ん……受け止められた」
「………」
……?
「えっと。それは、痛い思いをしたくなければ受け止めるんじゃないかな」
「ん……手で」
「え───」
それは痛そうだ。ううん、絶対に痛い。逆に痛いよ。
どういうことなんだろう、手で受け止めるなんて。
って……あれ? そういえば昨日、星ちゃんと戦ってる時も、槍の後ろのほうの、え~となんていったっけ……い、いー……石突き、だったっけ? を、手で受け止めて……あれかな?
「斬ったらだめだって思ったから、棒の部分で殴った。そうしたら返されて……びっくりした」
「返されたって……?」
「これで恋、攻撃された。受け止めたら……地面、滑った」
ひょいと持ち上げられるのは、お兄さんがいつも使ってる
筋肉痛なのに、恋ちゃんを押し退けるくらいの反撃を……? お兄さん、無茶するなぁ。
って……あれ? じゃあもしかして……?
「えとー……嫌な予感がするんだけど、もしかして……?」
「恋……、男の人に押し退けられたの初めてだった。だから本気でいった……!」
「………」
少し興奮した様子の恋ちゃん。目が爛々と輝いていて、こくこく頷くたびにすんすんと小さく鳴る可愛いお鼻が、その度合いを教えてくれた気がする。
……お兄さんが空を飛んだ理由は、そんな調子であっさりと明かされた。
きっと、待ってーとか言う暇も無かったんだろうなー。
言ってたとしたら、私が欄干に手をついた頃あたりで聞こえてたと思うもん。
それは気絶しちゃうよねー……お疲れ様です、お兄さん……。
(………)
呼吸だけはしているお兄さんの髪に触れてみる。
どんな戦い方をしたのか、汗に濡れている。
えと、どんな戦い方もなにも、恋ちゃんと戦うってことがどれだけ大変なのかはわかるつもりだから、冷や汗も結構混ざっているんだろう。
「いつ起きるかなぁ……」
でも、少し都合が悪い。
せっかく早めに仕事を終わらせられたのに、これじゃあ報われない……なんて思っているくせに、隣に座るだけでホッとしている自分が少し悲しい。
単純なのかなぁ、私。
「………」
「……?」
私がじぃっとお兄さんを見ていると、恋ちゃんも不思議がってお兄さんを見る。
触ってみてもなんの反応も返らない人っていうのも珍しくて、なんとなく悪戯心が揺らされた。ふにふにと頬をつついてみたり、唇をなぞってみたり。
恋ちゃんもそれに習うように、小首を傾げながらもムニィーと頬を引っ張ったり、閉ざされている目をパチリと無理矢理開いてみたり……って恋ちゃん恋ちゃんっ! それは怖いよっ! 白目だよっ!
「はぁ……いいや、私も寝ちゃおう」
「……ん……恋も」
腰を下ろすだけだった体を寝かせる。
お兄さんを挟んだ隣に居る恋ちゃんも、そうしてぱたんと寝転がった。
「………」
「………」
ゆるやかな風が吹く。
そういえば愛紗ちゃんが、鈴々ちゃんはよく木の上とかで寝ちゃってるって言ってたけど……寒かったりしないのかな。
(……でも、お日様気持ちいい~……)
少し眩しいけど、眠るには心地の良い風と太陽だった。
そんな心地よさも手伝って、少し悪いことを考えた私は……動かないお兄さんの腕を動かして、それを枕にしてみた。
……うん。なんだか、“うん”って感じ。
恋ちゃんもそれに倣ってか、ごそごそと反対側で動いて……多分、同じように腕を枕にした。
「はぅー……」
息を吐けば、心地よい空気が体を満たしていく。
そんな暖かさに包まれながら、抵抗する理由もなく眠気を受け取り、意識を手放した。