-_-/華琳
~……まったく、うろちょろうろちょろと……!
ついさっきまでそこで模擬戦を見ていた? 仕事はどうしたのよ仕事は!
「これで居なかったらどうしてくれようかしら……ふふ、ふふふ……」
もやもやが頂点に達しようとする現在、霞の言葉を受けてそのまま一刀の部屋へと向かった。これで居なかったらさすがに我慢の限界だ。
仕事はどうしたとかそんなことは後回しにして、とりあえず蹴りのひとつでも入れたい。
「一刀、仕事もせずに今まで何処に───!」
だから、扉を乱暴に開けた先で声を大にして───……相手が居ないことを確認したわ。
「…………」
なんだかどっと疲れが押し寄せてきた。
いっそ机に突っ伏して寝てしまおうかと思うくらいの疲れが。
けれど目を向けた机には書簡が乗っており、確かに戻ってきたらしい痕跡が、……?
「?」
茶が淹れられていた。
ご丁寧に、二人分。
一つは多少飲んだ跡があり、片方は淹れたばかりといった様子だ。
「………」
不思議なことに、たったそれだけで……もやもやが消え失せてしまった。
手に取って飲んでみれば、ほんの少しだけ冷めてしまっているとはいえ、美味しいとわかる味が喉を通っていった。
「………」
意外だ、こんな特技があったなんて。
淹れ直させることは……まあ、少々難しい。
ただ、人が熱い状態で持ってきたものを冷ましてしまうのはいただけない。
それについてはきっちりと仕置きが必要だ。
「……ふぅ……」
椅子に座り、座る前に置いた器とは別の器を手に取り、傾けた。
手に取ったのは量の少ない茶だったけれど、そんなことはどうでもいい。
椅子に座ると丁度いい場所にこの器があったんだもの、仕方が無いでしょう?
「……静かね」
鳥の声に紛れ、時折に霞と華雄の声が聞こえる。
それくらいだ。
あくまで穏やかな空間で、自分はゆっくりと息を吐いた。
こんなにも落ち着けるのはどれくらいぶりだろうか。
なにかというとあの男の所為でもやもやさせられたというのに、あの男の茶一つでそれが落ち着く自分が少々情けない。
「…………」
しかしここに来て疑問点。
これは本当に一刀が淹れた茶なのかと……
「ふんふんふふーん♪ って華琳!?」
「ひっ……!?」
心の準備も無しに開けられた扉から、頭の中を占めていた男が現れた。
瞬間的に顔に熱が溜まるのを感じる。
「なっ……な、ななななんだ、こっちに来てたのかっ? 自室に居ないからてっきり───じゃなくていやいやなんでもない! 仕事しようとしてたぞ!? あぁそのお茶さっき淹れてみたんだけどどうだ!? わはっ、わはははは!?」
「………」
自室に居ないから? ……ということは───……
「すぅ……はぁ……、───……? 華琳? どうしたんだ、にやけたりして」
「!! な、なんでもないわよっ!!」
「おおうっ!? なんだか知らないけどごめんなさいっ!? って華琳華琳、しー……!」
「な、なによ……! ───?」
一刀が私を探していたらしい事実に、不覚にも顔が笑んでいたらしい。
指摘された恥ずかしさを誤魔化すために自然に出た叫び───それに対して、一刀が口に指を当てて静かにと促す。
視線で促された先には暢気に寝ている美羽。
少し、頬に空気が溜まった気がした。
「……おめでたいわね。部屋を占領する者の安眠が大事?」
「? 別に、居て困らない人なら誰でも歓迎するぞ? 華琳も休める時間があるなら是非そうしてほしいし」
「是非?」
「へ? あ、いやー……───ああ、是非。白状すると、凪から書簡を受け取ってから、一度華琳の部屋に戻ってたんだ。華琳と一緒に仕事出来ないかなーとか考えて。袁術と一日中一緒に居てみるって言ったばっかりだったのにさ」
「…………そう」
再び熱が顔に集中するのを感じた。
なんだというのよ、まったく。
つまり探し回ったのは一刀も同じで、その過程で模擬戦を見たりしていたということ?
「昨日はみんなに捕まってたからさ、華琳とはゆっくり話せなかったし。華琳さえ邪魔じゃなければ、仕事をしながら話が出来ればなぁと」
「今なら時間はあるわ。そこらへんの問題はどうということもないけれど……問題は、一刀が仕事をしながら別のことに意識を向けられるかでしょう? 話に夢中になりすぎて、結局さぼることになるなんて許さないわよ」
「うぐっ……ぜ、善処します」
言った途端に一刀の顔が赤くなり、俯く。
ちらちらと机と私を交互に見て───、……っ!?
……赤くなった理由がわかり、私も余裕を無くして顔を赤くした。
ま、まあ……そんなこともあったわね。
けれど、せっかくだ。思い出したのなら心地のいい方を選びましょう。
「一刀、突っ立ってないで仕事を始めなさい」
「ああ、そりゃもちろん」
手にしていた器を机の邪魔にならない程度の位置に置き、私が腰をあげた椅子へと座る。
それを見計らい、私は一刀の膝の上へと腰を下ろした。
「……またですか、華琳さま」
「あら。季衣と風は良くて、私はダメなの?」
「……懐かしいやりとりだけど、いろいろ思い出した今やられると、その」
「我慢しなさい。呉でも蜀でも出来たのなら、ここでも出来る筈でしょう?」
「ぐっ……も、もちろんだ」
声が強張る一刀の胸へ、背を預ける。
……良い座り心地と、良い香りに包まれる。
苛立ちや心のもやもやの一切が消え、ただ一刀が言葉を口にするたびに、体を通して響く声さえ心地良い。
「………」
「………」
「………」
「………いてっ!」
髪に鼻を埋め、香りを嗅いできた一刀の頭を振り向きもせずに叩いた。
「あなた、その調子でよく我慢なんて出来たわね……」
「うう……これでも必死なんだぞ……?」
泣き言をこぼしながらも竹簡を広げ、目を通す。
必要なことがあれば筆と墨を走らせ、纏める。
……なるほど、呉や蜀で手伝いをしていただけはあって、多少は早くなっている。
字の間違いもなく、纏め方も大分上手くなっている。
蜀では桃香の手伝いもしていたというし、呉蜀に向かわせたのは正解だったのだろう。
「………」
「………」
一度集中しだすと止まらないのか、いつしか一刀は書簡の相手に没頭していた。
カロカロと広げられては閉じられる竹簡。バサリと広げられては必要なことを書き足され、墨が乾くのを待ってから閉じられる巻物。
それらを眺めながら、静かな時を茶を口にしながら過ごす。
いつか注意をした
「………」
そんなものが一定の速度を保ちつつ処理されていく様を眺めていた。
安心出来る時間が心に暖かい。
間違いを指摘するでもなく、背を預けられる者に預けっぱなしで脱力する時が来るなど、この男が消えた時は思いもしなかった。
……いや、それはいつでも同じことだったのかもしれない。
覇者を目指した頃でも、覇者に至った頃でも、それは変わらなかったに違いない。
「………」
「………」
軽く視線をずらし、熱心に書簡を纏める一刀の顔を見る。
一旦熱中してしまえば、こちらのことなど気にも留めない。
いつかのようにあれが反応するでもなく、一心不乱に…………ああ、なるほど。
「べつの何かに集中しないと、耐え切れない?」
「わかってるなら言わないでくれっ!」
図星だったようだ。
口に出してみれば急速に赤くなった顔が、私の目から逃げるように逸らされた。
書簡を扱っていた手はピタリと止まり、数瞬、私へと向けられそうになったけれど……
「~っ……我慢、我慢……! 空白の分を取り戻すんだ……!」
驚いたことに止まった。
再び書簡を手に、速度は乱れたものの、作業が再開される。
へぇ、と思わず口にしながら、再び一刀の胸へと背を預けた。
なんと無しに胸に耳を当ててみれば、早鐘を打つ鼓動。
随分と動揺してくれたらしい。
(ふふっ……)
そうしてまた、この男を軽くからかえることの出来る自分に笑みを浮かべ、脱力。
眠れるようなら寝てしまおう。
そのために時間を作っておいたのだから。
-_-/一刀
懐かしい香り、心地良い重さに、温かな感触。
それらが俺の自制心をじわじわと包み込み、溶かしていくのを感じた。
(~……我慢、我慢……! 我慢だ我慢……!)
待ち望んだ少女の温かさがこの胸の中にあり、しかし仕事があるのにそんなことをするわけにもいかず、いやそもそも空白を埋めるために俺はっ……あうあーっ!!
……ハッ!? なんか今、心が明命みたいな声をあげた!
落ち着こう俺! ここで折れたらまずい!
「~っ……」
いっそ華琳に降りてもらおうか。
否である。この感触を離したくなどないわ。
触れられもしない感触なんてものよりも仕事が大事だろ?
何を言う! 触れられぬのならこの心地良い重みを堪能してこそ雄!!
そうは言うけどこれじゃあ生殺しだろ! 耐え切る前にいろいろと破裂するわ!
耐えよ。耐え切ることに貴様が試されるべき“雄”があるのだ!
「………」
頭の中で天使と悪魔が喧嘩をしていた。
もうどっちが天使なのか悪魔なのかわかったもんじゃないが。
葛藤のさなかに、やたらと静かになった華琳を覗いてみれば、静かな寝息を立ててらっしゃった。
……いつかみたいに寝たフリじゃないよな?
「……ちょ───いやだめだだめだ……!」
ちょっと触るくらいなら、とか普通に考えそうになった!
そんなことをすれば止まれなくなる!
自重せい! 自重せい北郷一刀! それは自殺行為ぞ!
「ごっ……呉でも蜀でも我慢は利いたのにっ……魏に戻っただけでどうしてこう……!」
それだけ愛しいから、だろうか。
それは確かに自信が持てる。
(集中しろ、集中……! 仕事に没頭するんだ……!)
煩悩め! 死ねぇえええぇぇぇぇーっ!!
───……。
……墨が乾くのを待って、丸めた竹簡が山に積まれたところで……終わった。
必要以上に集中した所為か、思ったよりも全然早く。
膝の上では未だに華琳が寝ていて、寝台の袁術と同様に、穏やかな寝息を立てていた。
(じいちゃん…………俺、やりきることが出来たよ……)
煩悩に打ち勝った自分を褒めてやりたい。
自分を上手く扱うには、自分で自分にご褒美を設けるといいって、誰かが言ってた。
じゃあ今の俺に必要なご褒美ってなんだろう。
「───はっ!?」
再び見た華琳から目を逸らし、首を振る。
さすがにそれはない、絶対にない。
熟睡している人を襲うとか、ないだろ!
「普通でいいんだってば……ほら、朱里や雛里にやったみたいに」
大きく深呼吸をして、心を落ち着かせた。
それからゆっくりと手を動かし……椅子に深く座ることで、より深く胸に背を預ける華琳の頭をやさしく撫でる。
そうだ、普通でいい。
我慢したからって、欲するのが体の結びつきとかそういうことばっかり考えてるから、我慢が利かなくなるんだ。
落ち着いていこう。ゆっくり、ゆっくり。
「……ほらみろ、やろうと思えば出来るじゃないか」
煩悩が、ただ慈しむ心へと向かう。
愛したいのも確かだが、守りたいと思う心も確か。
聞かん棒になり始めていた息子も治まりを見せ、心に平穏が訪れた。
深く座ったままに手を伸ばして茶を取ると、口に含んで喉に通す。
静かな部屋に、やけに大きく聞こえる嚥下。
華琳が軽く
「………」
終わったなら隊舎に行って、まだまだ積み重なっている書簡を持ってきて、確認しなければいけないんだが……眠り姫様を前にする王子様ってやつは、こんな気分なんだろうか。
一言で言うなら───一歩も動きたくない。
ただ傍に居て、ずっと守っていたいと思ってしまう。
自然と目が細り、顔が穏やかに笑み……髪を撫でる手も、壊れ物を扱うよりも余程にやさしくなる。
しばらくそうしてから、顔を引き締めて充填完了。
「仕事は仕事っ」
欲望に打ち勝てる己でありなさい。
難しいことだが、出来ないことじゃないのなら必ず出来る。
「よ……っと」
自分の上の華琳をゆっくりと持ち上げ、椅子から自分の体を逃がし、華琳を座らせる。
穏やかな寝息は続いていたが……心無し、顔が赤い気がする。もしかして起きてるか?
じゃあ……一応。
「終わった分、片付けてくるから。ゆっくり休んでてくれ」
放った言葉に返事はない。
そんな些細に苦笑をこぼしながら書簡を持ち上げ、部屋を出た。
どうしてかスキップしそうになるほどに浮かれている自分を、小さく笑いながら。
-_-/華琳
……一刀が出ていってから、撫でられた頭に触れた。
まるで子供扱いだ。
だというのに、嫌な気がまるでしない。
口付けをされるより、その口で愛を語られるより、余程に安心を覚えてしまった。
包まれている、と……感じてしまった。
「…………」
顔に集まった熱は、まだ消えない。
丁度いいことに、机の上に水があったので飲んでみる。
……少しは落ち着いた、気がする。
「……まさかこれを見越して水を……なんて、有り得ないわね」
ちらりと、未だに眠っている美羽を見る。
大方、あの子用にと持ってきたものなのだろう。そして、それはたった今、空になった。
……冷めたお湯で代用が利くかしら。
「ふぅ……」
息を吐いて、椅子に深く座る。
眠気は……少しも残っていない。
どれほど安心して眠っていたのか、自分でも不思議なくらいに深い眠りだった。
遊びに来るたびに、一刀が一刀がと言っていた雪蓮も雪蓮だけれど、私も相当だ。
たった一人に背を預けるだけで、ここまで安心を得られるなんて。
「………」
冷めてしまったお湯で茶を淹れてみる。
口に含んでみて、苦さばかりが口に残り、少々不快になった。
それでも構わず飲み干すと、器を机に置いて立ち上がる。
冷めたお湯の余りを水が入っていた器に入れて、茶器を手に歩いた。
いつまでもこの場に置いていたのでは邪魔になる。
どうせ今度は先ほどよりも多くの書簡を抱え込んでくるに違いないのだから。
-_-/一刀
静かに扉を開き、自室を覗いてみると……華琳は居なかった。
「……、……あれ?」
やっぱり起きていたんだろうか。
勝手に出る溜め息を吐けるだけ吐いて、扉を開けるために床に置いておいた書簡を掻き集め、持ち上げる。何往復するのも面倒だからって、一気に持ってきすぎた。
華琳が見たら計画性が足らないとか言うんだろうなぁ。
「よっ……ほっ……」
足で開ききっていない扉を開け、机までの距離を歩くと、その上にがしゃりごしゃりと書簡を置く。
よくもまあこれほど溜めたもんだ。勝手に居なくなった俺が悪いんだけどね。
「袁術は……まだ寝てるか。よく寝るなぁ」
寝る子は育つ。いいことだ。
さてと、俺もさっさと続きをやってしまおう。
穏やかな気持ちになれたからか、普通にやる気が充実している。
今の俺ならどんな無理難題でも解決出来る……そんな気がするのです。
「うみゅぅ……ななのぉ……? なにをがしゃがしゃ騒いでおる……うるさいのじゃ……」
「ゲッ!?」
いや……前言を撤回します、しますから眠っていてください。
いいっ! 寝台から降りなくていいからっ! そのまま布団にくるまって寝てて!
一緒に居てみるよとは言ったけど、せっかく仕事にやる気が向いてたのに───!
「ひうっ!? だ、誰じゃお主は!」
(しかも忘れられてる……!)
俺達の戦いは、始まったばかりだった。
結局この日はこの瞬間から、俺のことを思い出してもらうことから始まり、残りの時間のほぼを説得に使った。書類整理を片手間にするなんて、趣旨が変わってしまったと言う他無い状態が続いたんだから仕方ない。
思い出してくれたからかどうなのか、一応、あくまで一応俺には危険が無いということだけはわかってくれたのか、近づいても泣き出したりはしなくなったんだが……。
「これは妾の寝台じゃ! 早々に出ていけ、このし、し……しー……? しれものめー!」
夜。寝台で寝ようとしたら蹴られた。
元気が出てなによりだが、多少の怯え様と一緒に遠慮も投げ捨ててしまったらしい。
そのくせ布団にくるまっておきながら、眠気が無いとくる。
仕方ないので……自分の部屋なのに許可を得てから寝台の端に座り、寝転がる彼女に童話を話して聞かせた。
話していくうちに警戒心を解いたのか、少しずつ質問を投げてくるようになる。
それに穏やかに返すことが続き、質問が無くなる頃には……袁術はようやく寝ていた。
「…………」
そして、重たい目で窓をみれば、綺麗な朝日。
「………」
神様……俺、頑張ったよ……?
頑張っていろいろ我慢したよ……?
その結果がこれって…………華琳も結局、あれから来なかったし……。
「……いいや、もう……。机で寝よう……」
ふらふらと歩き……座り、突っ伏して、寝た。
机の上に積んだ書簡の全てを確認し終わるまでは、恐らく警備隊の仕事には復帰できないだろう。だから今は寝かせて欲しい。じゃないと本気で体を壊しそうだ。主に関節を。
ああ……布団が恋しいなぁ……。