93/赤いものを止めましょう
-_-/一刀
とある雨降りの日。
ひと仕事を終え、体を拭いて頭も拭いて、しばらくしてからのこと。
通路の端で血溜まりを発見したことがそもそもの発端だった。
「と、そんなわけで。妄想をして鼻血が出てしまうのは、鼻の血管が弱いからだと推測することにした」
「鼻の血管……ですか」
発端というのであれば、消えてしまう以前から気にはなっていたわけだから、華琳に稟の鼻血のことを任された時点と考えていい。
そんなこんなでいろいろあり、鼻血も止まったものの少しふらふらしている稟を招き、自室で教鞭代わりに指をくるくると回しているわけだ。
「部屋に来いなどというから、私はてっきり……」
「はい、妄想はそこでやめましょう。で、いいかな? 血管を強くするにはまず食生活。これをまず見直す必要があるんだ」
「は、はあ……」
稟がいかにも“よくわかってません”って様子で“コクリ……?”と頷く。
毎度一緒に居た風は今日はおらず、自室で稟と二人きりというのもこれで案外珍しい。
袁術は霞に引っ張られて、今頃風呂で磨き上げられているところだろう。
ほっとくとちっとも入ろうとしないからな、あのお子様は……。
「血管を作るのはたんぱく質……だったかな? 肉、牛乳、卵あたりがいいとか、そんなのを見た気がする」
「なにやら物凄く頼りない知識ですね」
「仕方ないだろ、なんでも知ってるわけじゃないんだから。本当に“自分の知識”で誰かを救える人なんて、そうそう居るもんか」
いつかそれを成そうっていうのが、俺と桃香の一緒の目標だったりするんだから、中々に大変な目標だ。“夢はでっかく!”とはよく言ったものの、こういうのは逆に難しい。
なにせ、案外知らぬどこかで何かを成しているかもしれないのだ。
だってそんなの無意識に近いだろうし。
お互い“居て助かった、居て良かった”と言い合える仲にはなれた。……ものの、どうせなら何かを成した際に誰かに言われたい。人って欲張りですね。
というか稟が牛乳と聞いて顔をしかめた。やっぱり大陸じゃあ牛乳はそう広まってないのかな。美味いのに。
アレルギーとかないよな? アレはちとシャレにならない。
「そんなわけで稟、ここに俺が作ったまろやかマーボー普通味がある。さぁ、食べてみてよっ」
お料理番組のように、ここに出来たものがと差し出してみる。
味身はしてみた。普通だった。牛乳と溶き卵のお陰でまろやかではあるものの、普通だ。華琳が食えば、様々なダメ出しが出されるであろう料理。
しかし今の俺にはここまでが限界だ。ヘタに無茶な味付けをすれば、それこそキッツいダメ出しが落とされかねない。
あ、もちろん牛乳は十分に加熱殺菌しております。ちょっと怖かったから念入りに。……成分飛んでなきゃいいけど。
「これを食せば治るとでも?」
「時間がかかることだけど、血管を丈夫にすればそうやすやすと鼻血は出ないよ。人間、なんだかんだで体が資本。肉は調理してもたんぱく質が崩れにくくて、卵や牛乳に含まれるカルシウムが、たんぱく質の吸収を助けてくれる……んだっけ? ごめん、鍛錬ばっかりだったから肝心なところが抜けてるかもしれない」
あとは適度な運動か。
カルシウムだけ摂取しても、運動しなきゃきちんと吸収されないって聞くし。
「文官だからって鍛錬はする必要ないって、その根本が間違ってたんだよな、きっと。そんなわけで稟、空いた時間だけでいいから、少しずつ運動してみないか? ───いや違う! 顔を赤らめるような運動じゃあ断じてないからっ!」
春蘭が体を張って見せてくれた(いや俺は実際には見てないけど)、道化のススメが心に引っかかった。官僚……武官文官の中では、これからの平穏な日々に必要なものは文官だ。
武官として働いてきた人達はそれこそ、武を振るうことで己を立てた自分は……と思っているようだが、たとえば警備隊には多少の武力が必要だし、城のことに関しても知識だけで固められた上では、暴動が起きた時には抑えられない。
もちろん暴動が起こらないように政治をしていくのが、王や文官の仕事なわけだが……つまり、武官は勉強を、文官は鍛錬をしてみたらどうだろう。
そんなことを、思ったわけだ。
その一歩は一応の意味で、蓮華や桃香が踏み出してくれたと思っている。
呉と蜀から、どうしてか俺宛に届けられる竹簡の中には、そういったことが書かれていることがあった。雪蓮からは“蓮華が鍛錬に勉強、己を高めるものに積極的になった”こと、桃香からは“氣の使い方に慣れてきて、結構走れるようになった”こと、いろいろだ。
呉では民との交流が一層増え、蜀では学校って存在が民の知識の底上げに役立っているとか。話に聞く成都での流行りが、計算の謎かけだったりするのだから、世の中変わるものだ。子供に「1+1はー?」と訊ねられ、答えられない親が学校に訪れる……なんてこともあるらしい。親の威厳を保つのも大変だ。
そんなわけで呉も蜀も順調。
届けられる竹簡にも楽しさや嬉しさが滲み出ている感があり、俺も嬉しかった。
「……ふむ。この麻婆……味は普通、ですね」
「普通なんだよなぁ……。味にメリハリがつけられないっていうか」
「めり……?」
「落ち着かせるところは落ち着かせて、立てるところは立てるみたいな、キッチリしたこと……だったっけ? “減り込む”とかの“めり”と、“胸を張る”とかの“はる”……かな。それを繋げて“減り張り”って感じ。普通は味とかの話では使わないかもだけど、とにかく、そんな感じで味付けが上手くいかないんだ」
「なるほど。これはこれで、悪くはありませんが」
「華琳に出すとしたら?」
「確実に作り直しを命ぜられますね。いえ、作り直す価値すらないと言われるかも……」
「……それが怖いから、まだ華琳には料理を振るまってないんだよな……」
溜め息をひとつ。
まあでも、料理とは違うけど綿菓子は贈れた……はずだから。
桂花に確認とってないし、味どうだった~とか華琳自身に訊いてないから、実際どうなったのかなんてのは知らないのだが。
なんやかんやで忙しい日々に流されるまま、最近は華琳とゆっくり話せていない。
俺がこうしてゆっくりしていられても、華琳もそうとは限らないしな。
特に最近は呉や蜀から届けられる書簡整理に忙しいらしく、一度も顔を見ずに終わる日さえある。
「ところで……一刀殿? まさか毎食、これを食べるとか……」
「いや、一日一回くらいでいいと思う。もちろんこの料理じゃなくて、たんぱく質が摂れる料理をって意味で。朝昼夜、いつ食べるかを事前に言ってくれれば作るし……あ、なんだったら流琉に頼んで作ってもらうのもアリか。俺のなんかよりよっぽど美味いぞ」
「む……それはそれで少々もったいのない気が。いえ構いません、味に飽きるまでは一刀殿の料理でお願いします」
「そうか? よし、じゃあ少しずつでも腕が上達するように努力を───」
「いえ、現状維持でお願いします。不味くされても困るので」
「…………ウン……ソウダヨネ……」
お茶のことについて、俺に現状維持を願われた白蓮の気持ちが少しわかった瞬間だった。
……。
翌日から行動は始まった。
朝、稟にまろやかマーボーを食べたい時間を訊いてみて、その時間には食後の運動に付き合えるように時間のやりくり。
さすがにどうしても抜け出せない仕事はあるから毎度とはいかないものの、それなりに付き合えてはいる。武官のみんなにも声をかけて、嫌がらない限りは勉強を教えてみる。
意外や、一番に受け容れてみせたのは春蘭。次に霞だったわけだが、「来るのが遅なっただけやもん」と、なにに対抗意識を燃やしているのか口を尖らせて、そんなことを言っていた。
「思春~! 手伝ってもらっていいか~!?」
「…………また貴様は……」
いつかのように思春に声をかけて、桃香にそうしてみたいように稟の氣を探る。
しかしこれが案外あっさりと浮上することに成功。むしろそういった素質があったのか、安定も早かった。……この安定が鼻に向かってくれればなぁ。
「これでどうだ北郷!」
「や、だからさ春蘭、これでどうだじゃなくて、書いた文字を自分で読むんだってば」
「“かこうげんじょう”だ!」
「そこまで気合い込めなくていいからっ! えーと……ごめん、一文字すら合ってない」
「なんだとぅ!? 貴様の目は節穴か! どこをどう見ても書いてあるだろう!」
そんな傍らで勉強も同時に行っているものだから、これがまた大変なわけで。
しかし時間はそうたっぷりとはとれないから、どうしようもない。
「ははー、元ちゃんはぶきっちょやなー♪ ~っと、“ちょう・ぶんえん”! どう一刀っ、これどうっ? どないっ?」
「はーいはいはい、ちょっと落ち着こうな霞も。えーと…………霞」
「なになにっ?」
にこーっと眩しいくらいの笑顔で返事する霞。
腰に手を当て胸まで張って、自分が褒められることを疑ってない顔で、続きを促してくる……のだが。
竹簡を見てみれば、そこにあるのは“ちょう・ぶんしん”の字。
あなたはなにか、既存を超えた分身でも見せてくれるのか。
「えぇええ~っとぉお……な、霞……。ちょう・ぶんしんになってる」
「んなっ、え、“え”ってこうやあらへんかった!?」
「近いんだけど……ん~……と。“し”はこうで“え”はこうな? なめらかに書こうとして出っ張りを忘れたんだろうな。うん、でもいい感じだぞ」
「…………そ、そか。そかそか……えへへ」
「むぅ……ならばこれでどうだ北郷!」
「だから無駄に迫力出しながら竹簡突き出すのやめませんっ!? しかも今回は文字としては読めるのに“かいルそ”になってるし!」
“と”と“ん”が合体してるのか、この“そ”は! 合ってるのが最初の“か”しか無いよこれ!
「ふふんっ」
「しかもなんか得意気だ……! あ、あのな春蘭? これじゃあダメなんだからな? 一応読めるってことで進歩はしてるけど」
「当然だっ、道化が要らぬと言われたのならば、私は武を振るい知も振るえる……華琳さまのような存在になってみせる!」
「天下統一から一年、あちこちでの問題も少ななってきたし、武官が要らななるんもこれからや。ならそれまでに頭のほうをなんとかして───あ、けど待ちぃ? んー……な~一刀?」
「ん? どした?」
春蘭に文字のアレコレを説明する中、霞がどこか楽しげな表情で声をかけてくる。
ならばと春蘭への説明もそこそこに向き直ってみると───
「あんな? もし孫策が言ってたみたいに一刀が大陸の父になるとしてやけど」
「う、うん……? もしな、もし」
「ん、そんでな? もし一刀が大陸の父になったら、周りはたぶん……あれやな、“魏に住んどるんはずるい~”ゆーて、引っ張り合いみたいになる思うんやけど」
「……華琳とも似たような話をしたけど……まあ、華琳は三国の中心に都でも建てて、そこに俺を置くだなんて言ってたし」
「あ、やっぱそーなんか。でな、一刀。もしウチが武官として駄目だし食ろーて、住む場所無くしたら……一刀、ウチのこと都に拾てくれる?」
「───」
……オウ?
今……なんと?
「あ……あ、あー……いや、霞? そもそも華琳はそんなことしないと思うぞ? 前にも言っただろ」
「ん、そらもちろんや。けどな、そうやのーて、一刀はどうしてくれるん?」
「…………そりゃ、拾うっていうかむしろ歓迎するよ。わか
らないことがあるなら教えるし、覚えにくくても覚えるまで付き合う。今覚えられないからって切り捨てるつもりなんて、全然無いし」
それは三国の宴の時に、華琳に言った通りの言葉だ。
役に立たないから切り捨てるなんて言うなら、何も知らない人は何も出来ないままに切り捨てられるだけだ。そんなことをしてしまうくらいなら、少しずつだろうと覚えてもらって、一緒に国を温かくしていきたい。
「民も兵も、将も王も、どうせなら全員で楽しめる今と明日が欲しいな。だから、俺が教えられることなら教えるし、手伝えることならなんでも手伝いたいって思うんだ。……この世界に来れて、華琳に、みんなに会えて本当によかったって思うから、そんな思いをこの大陸にこそ返したい」
そのために勉強したし、そのために修行をした。
得た知識が生かされる瞬間は嬉しいし、自分の努力が報われたことを実感出来る。
確かに俺も桃香も、自分の力、自分の知力こそを認めてもらいたいとは思ったけれど……誰でもなんでも知っているわけじゃないんだ。基盤となる知識があるから、そこから派生するなにかを想像出来るんであって、勉強もせずに得られるものなどほぼ無いだろう。
俺は天の知識をみんなに与えるために勉強をした。
なら、その“自分が勉強した”って努力くらいは、自分自身でだけでも褒めてやらないと可哀相だ。
……悲しいことに、調子に乗ることと慢心は敵でしかないけどさ。
「……やっぱ、一刀はいろいろ考えとんのやなぁ……」
「主に、どうすればみんなが笑って暮らせるかなーってことばっかりだけどね。で、どう? 出来た?」
「ん、今度は完璧やっ」
話しながらもさらさらと書き、今度こそはと竹簡を広げて見せてくれる。
そこにはしっかりと、“ちょうぶんえん”の字。
「おおっ……しっかり書けてるじゃないかっ!」
「っへへー、同じ失敗繰り返す奴が生き残れるかっちゅーねん。ところで一刀? それ、止めてやらんと危ないのとちゃう?」
「へ? ……オワッ!?」
促されて見てみれば、いつの間にか鼻血を噴いて倒れている稟が!
え!? なんで!? さっきまで平然としてたのに! ああいやそんなことよりトントントンと……!
「大陸の父の話したら、ぶつぶつ言い出して静かに倒れとったわ」
「傍観してないで教えよう!? 稟!? 稟ーっ!!」
「ふははははどうだ北郷! 今度こそ完璧だろう!!」
「いや今それどころじゃ───お、おぉおおっ!? ちゃんと書けてる!? すごいじゃないか春蘭! しっかりと“かこう・えん”って───なんで秋蘭になってるの!? ていうか今さらだけど字の方を書こう!? 惇じゃなくて元譲のほうで!」
まあ、なんだ。
魏の騒がしさは相変わらずだ。
今だからこそ思えるけど、戦場で華琳の凛々しさとかばかりを魏の印象として受け取っていた人達が居たのなら、同盟が組まれた今ではそのギャップに驚く人も随分居たんじゃないだろうか。
多くは語らず、圧倒的武力で攻め、しかし知略にも富んでいる魏の精鋭。
それが実際は───
「な、なんと……。これは“えん”と読めるのか。ならば……そうだ北郷! 華琳さまの名はどう書く!」
「え? 華琳? えっとな華琳はひらがなで……こう」
春蘭の手から筆を抜き取り、さらさらと走らせる。
“そう・もうとく”───文字が綴られ、春蘭はそれを見て「なるほど!」と頷いた。
そして早速俺の手から筆をぶんどると、その文字を真似て書き始める。
その表情は……自分の名を書く時よりも真剣であった。
ほら、新しいノートの1ページ目はやたらと丁寧に文字を書いちゃう時とかみたいな。
どれだけ華琳が大事ですか春蘭さん。気持ちはわかるけどさ。
「間違えられん……! これだけは、絶対に……!」
目が血走ってらっしゃる。
そんな春蘭を横目に、稟を介抱して持ち直させると、「大変やな~」と暢気に笑う霞に苦笑を送りながらもこれからのことを考えた。
「なぁ思春……こんな調子の俺が、大陸の父になんか……無理ってもんだよな?」
「貴様は貴様で支柱とやらを目指せばいい。重要なものは、周りが支柱である貴様をどのように見るかだろう」
「……それ、俺がどれだけ支柱だ~って言い張っても、周りの全員が父だって言えば父になるってことじゃないか」
わかるけど、わかりたくない。
でも、少しは考え方や、考える頭自体も軽くなった気がした。
そうだよな、俺は俺の目標目掛けて走ればいい。
周りがどう見ようが、それが自分が目指したものなら胸を張れってじいちゃんも言ってたし。
◆春蘭様の誤字劇場
か=か
い=こ
ル=ラ→う
そ=真ん中で横に分解
上部/z→と
下部/て→ん
「つまり……! 春蘭はきちんと“かこうとん”と書こうとしていたってことなんだよ!」
「な、なんだってー!?」
「いや……北郷。あまり季衣に姉者に関するおかしなことを吹き込んでくれるな……」
「? よくわかんないけどにーちゃんに驚いてくれって頼まれました」
「うむ、まあ……ご苦労だったな、季衣。北郷が言っていたことは忘れてくれて構わん」