100/なんでもない一日
すぅうう……はぁああ……!
「はい、その調子です。身に宿る氣と木剣を繋げたまま放つのではなく、木剣自体に切り離した氣を篭らせる感覚です」
とある日の中庭。
その芝生の上に座り込み、凪と二人で氣の練習をする俺。
今日もいい天気……と言いたいところだが、真上の空は綺麗な蒼ではあるものの、吹く風が微妙に水気を含んでいる。
思春だったら間違い無く“雨が来るな”と言うような風だ。
そんな日になんだってこんなことをしているのかといえば、凪が非番で俺が休憩中だからである。いや、それじゃあ理由になってないか。
ドタバタが続いたから、少しゆっくりとしたおさらいをしておきたかったのだ。
ここ最近の鍛錬といえば、ほぼが華雄との激突稽古。
それ以外の時間は仕事に追われる日々が続く……そんな中で相も変わらず氣脈拡張鍛錬は続けているものの、やっぱりその“氣”自体を器用に扱うなら凪だろう。
……とまあ、そんな考えの下、休憩中に立ち寄った中庭で凪を発見。せっかくだからとご享受願った次第だ。俺のみの肉体鍛錬は禁止されているので、やれることはもっぱら誰かの鍛錬に混ざるか、寝る前の氣脈鍛錬くらいなのだが。
「なるほどなぁ……切り離した分を飛ばせば、そりゃあ根こそぎ無くなったりしないよな」
「得物に氣を宿らせる場合、気脈と繋げてしまった方が思い通りに動かせますから。けれどそのまま氣弾として放ってしまえば、気脈から直接流れることになってしまい、一気に氣を消耗してしまうんです」
「その典型が、俺のやり方だったわけか……」
理解してみれば“そりゃあ当然だ”って思えることでも、気づくまでは難しいのが世の常。常って呼べるほど、そんなことがゴロゴロあるものかと否定したくもなるが、あるんだよなぁ案外……。
「ん……おっ、久しぶりに木刀が重い」
「切り離した氣の重みと、木剣に移ったために腕に氣が回りきっていないためです。木剣の氣と繋げないよう、氣を腕に運んでみてください」
「む、難しそうだな……っ」
それでも言われた通りにやってみる。
まず集中し、ゆっくりと氣を流し……うわっ、くっついたっ!
「うへぇっ……難しそうじゃなくて、普通に難しいなこれっ」
「はい。ですが自分が思うように氣を操れるようになっているのであれば、後は楽だと思います。やはり隊長は筋が良かったんですよ」
「そ、そか。それなら今まで散々と鍛錬した甲斐もあるな」
言いながら、もう一度さっきの工程で氣を操作する。
幸いなのが別に失敗しても氣が霧散するわけじゃないこと。
いつかの明命との氣の鍛錬のように、間違って散らしたりでもしない限りは平気そうだ。
(明命かぁ……呉のみんなは元気にしてるかな)
猫を追いかける明命の姿が頭に浮かんで、小さく笑った。
途端に集中が乱れて収束に失敗する。
……反省。
「……そういえば隊長は……模擬戦の際、相手に自分の氣をつけているようですが」
「うん? ああ、あれをすると相手の動きがなんとなくわかるっていうか」
「はい。確かにそれをした途端に、驚くべき回避能力を発揮しているように見えますが」
「……や、言いたいことはわかるぞ? 逆に攻撃が完全に疎かになってるっていうんだろ?」
「はい」
きっぱりだった。
そうなんだよな……俺がやっているのは、華佗が言うところの攻撃と守りの氣の……攻撃の氣を相手に付着させて、守りの氣でその攻撃の……“昂ぶり”っていうのか? それを察知して避けているような感じだ。
美羽の問題が片付く前のいつかの日、華琳と模擬稽古をした際に華琳に指摘されて、俺自身も初めて気づいたんだよな。相手につけていたのが攻撃の氣だ~ってことに。
華琳がそうであるって教えてくれたわけじゃなく、急に守りばかりになった俺に対して華琳がツッコんだのだ。で、そういえばそうかも……って考えながら自分の氣ってものと向き合ってたら……そんなことがわかってしまった。
失敗だよな……俺、桃香に“相手に自分の氣を付着させたら~”とか教えちゃったよ。
華佗が言うには氣は一人につき一色……攻撃か守りしかないっていうんだから、もし桃香が氣を相手に付着させたとしても、まるで守りと守りの氣が磁石のように引かれ合って……やめよう、考えるの。
「隊長は不思議な氣をお持ちですね」
「華佗にも言われたよ。攻撃方向の氣と守備方向の氣、その二つが混ざってるらしい」
華佗だけじゃなく、貂蝉にも言われたんだけどね。
俺自身の氣が攻撃で、天の御遣いとしての氣が守りだっけ。
華琳は……俺に何を守ってもらいたかったんだろ。
華琳が願ったからこそ存在する御遣いってものの氣が守り。
守りたかったのは……誇り? 栄誉?
そんなことを軽く考えてみて、ふと浮かんだのは秋蘭の顔と……魏の旗。
「…………」
ん……そーだな。
何を守るためとか何を得るためとか、そういうのじゃあきっとない。
もっと簡単でもっと身近で……だけど、だからこそ普段からは口に出せないような“当然”を守るために、俺は華琳に……。
「……んー……ん、んっ」
集中。
荒ぶる攻撃の氣を守りの氣で包み、合わせることで、一色ずつしかない氣に三色目を発生させるように。
「………………えーと」
合わせることで…………合わせる……。
「隊長?」
「凪、ちょっと手を伸ばしてくれ。あ、氣を込めて」
「? はあ……」
言った通り、手を伸ばしてくれる。
きちんと氣も込めてくれているようで、火と見紛う赤い氣が軽くちらつく。
そんな手に、俺も手を伸ばして重ね……集中してみる。
凪の氣は……攻撃側、だよな? じゃあこっちは守りの氣を重ねてみて……。
「………」
「……、……」
「………」
「~……」
あれ? 特になにも起こらないな……。
強いて言うなら、凪が顔を俯かせながら、落ち着きなく視線をあちらこちらに動かしているくらいで……。
「なぁ凪? なにか変わった感覚とかあるか? 力が湧いてくる~とか、心が熱くなる~とか」
「へぁぇっ!? あっ……どっ、どきどきしています! 力が湧いて、心が熱いです!」
「え? そうなのか?」
じゃあ一応、自分以外の誰かの氣を合わせても力になる……のか?
難しいなぁ、氣って。
そう思いながら手をするりと離し、今度は自分の手で氣を合わせてみる。
左手に守りを、右手に攻撃を。
その二つを胸の前でそっと合わせてみると、綺麗な黄金色の氣が完成する。
あれ? 凪の氣と合わせてみても、なんの変化もなかったんだけど……ハテ? と、チラリと凪を見てみると、真っ赤な顔で俯きながら、さっきまで繋いでいた手を大事にそうに胸に抱いていた。
(……OH)
…………いや、なんかごめん、いろいろ勘違いだったってわかった。
一度、氣のことを頭から払い、真っ赤な顔で俯く凪の頭を撫でた。
「なわっ!? たた、隊長!?」
「あっはっはっはっは、凪は可愛いなぁ」
「そんなっ、秋蘭さまが春蘭さまに言うような言い方で言われてもっ……! ってそうではなくてっ!」
さっきよりもよっぽど赤い顔をして、しかし俺の手を払うことを良しとはしないのか、おろおろするだけの凪を思う存分に撫でる。
そうやって、心に暖かなものをたっぷりと溜め込んでから、深呼吸をして再び氣の集中へ。
「あの……今の行為に、なんの意味が……」
「え? いや……」
凪が可愛かったから、なんて言ったら絶対に“可愛いことなどありません”って反発するよな。多少は耐性が出来たとはいえ、まだそういうのには完全に慣れていないっぽいし。
……慣れてもらわないほうが、なんとなく初々しくていいんだけど。
「集中するための準備と思ってくれ」
なので精一杯の真面目顔、自信に溢れた語調でそんなことを言ってみた。こう、どーん、とか効果音が鳴りそうな感じに。
あながち嘘じゃないから、嘘でしょうとか言われても真顔で本当だと返せるとも!
なんて構えていたのだが、凪は少しばかり停止。のちにハッと身震いさせると、
「じ、自分の頭を撫でる程度で隊長が集中出来るのならば、そのっ……いくらでも!」
と、目をきゅっと閉じて頭を突き出してきた。
…………真っ直ぐだなぁ、凪は。
華琳から見る桂花ってこんな感じなのかな。いや待て、桂花は俺には刺々しいのに、凪は華琳の命にも絶対だぞ? ……あれ? なんだろうこの不公平気分。
当然のことなのにちょっぴり悲しい。
「……よしっ、じゃあたっぷり準備しよう!」
「うひゃぁあああっ!? あ、なぁわっ!? 隊長!?」
モヤリと浮かんだ思考に少し嫉妬した。不公平に嫉妬なんておかしなものだが。
なので凪の頭を抱き締めると、その頭を撫でる! 愛でる! 慈しむ!
しかし、そうしてしばらく抱き締めたまま撫でたりしていると、突然胸の中の凪がくたりと脱力する。
ハテ? と覗いてみると……目を回し、気絶した彼女がそこに居た。
「………」
何事もほどほどだな……気をつけよう。
せっかくの非番を気絶で潰してしまうのはさすがに気が引けるので、何度か呼びかけたり揺すったりを繰り返してみるも……凪はどこか満たされた表情のまま───えぇとそうだな。たとえば死地で、仲間を先に行かせたあとに力尽きてしまった人のような、いい顔だな。そんな顔のまま起きることはなく、駆け寄って抱き起こした人が思わず名を叫んびつつ天を仰いでしまいそうな状況がここにあった。
……べつに死んだわけじゃないからやらないけど。
「やらないのはいいけど…………」
どうしよう。
そろそろ休憩時間も終わる。
凪をこのままにしておくのは危険だろう……危険じゃないかもしれないが、そこはそれだ。気を失った女の子を仕事だからと捨て置くヤツになんかなりたくないぞ。
クビがかかっている瞬間だとどうだと訊かれると、流石に考えはするが……その時は、
「───再就職だな」
と、気絶している凪にも負けないくらい、ニコリといい顔をしていないでと。
華琳が再就職を許すかどうかも問題だし、最悪隊の誰かに頼んで代わってもらえばいい。
というかそもそも、凪を部屋まで運べばいいのではなかろうか。
もしくはよく座る立ち木に寄りかからせるとか。東屋って手もあるし。
「……でもなぁ、自分が原因で気絶した子を置いていくのって抵抗あるよな」
よし、やっぱり誰かに頼もう。
そうと決まれば行動は迅速にだ。
まずは気絶中の凪を抱きかかえてと……えぇっと。
「おおっ……まだまだ陽は高いというのに女の子をお持ち帰りですか。お兄さんもお盛んですねー」
「…………。いつから居たのかな、風」
きょろきょろと辺りを見渡し、人を探す俺のすぐ後ろ。
そこから聞こえる声に振り向かずに言葉を返すと、むっふっふと笑うことさえ楽しんでいるといった変わった笑い声が聞こえてくる。
「風はお兄さんが、凪ちゃんを抱き締めてめちゃくちゃにしているところからず~~っと後ろに居たわけですから、いつからと言われればそんなところからと正直に返せるのですよ」
「あの。風? その言い方だと誤解しか生産出来ないから、是非とも言い回しを考えような?」
「凪ちゃんがお兄さんには逆らえないことを知っておきながら、抱き締め、その真っ赤に染まる顔を気にも留めずに撫でさすり、胸に抱き、震える体をそれでも逃がさず───」
「待とう!? 言い方変えるにしても、悪化の一途しか辿らない言い回しはやめような!?」
「嘘は言ってませんよ?」
「そういうこと言ってると絶対に一方的に誤解する軍師さまが現れるんだから、やめよう」
「おおぅ……誰と言われずとも頭の中に浮かぶ方がいらっしゃいますねー。……誰とは言いませんがねー」
「なぁ。誰とは言わないけど」
そこまで話してようやく振り向くと、眠たげな半眼でキャンディーを口に銜えた風が。
「や、風」
「おう兄ちゃん。最近真面目になったと思ったら、仕事サボって女といちゃいちゃたぁいい度胸じゃねぇかい」
「……宝譿も、元気そうでなによりだよ」
「お兄さんも動じなくなりましたねー」
少し慌てた気分が、風の登場だけで随分と緩やかになった。
……当然、気分的なものであり、仕事をしなくてもよくなったわけじゃないのだが。
「風は今日、非番か?」
「いえいえー、風はこれから稟ちゃんと一緒に書物を求めて書店巡りですよー」
「……や、だから非番じゃないのか?」
「華琳さまのお達しですからね、ただ本を求めるのとは違うのです。なのでお兄さんにも品揃えのいい書店を紹介して貰えると、非常に助かるのですがー……これからお楽しみなら仕方無いですねー」
「だから違うよ!? 凪の部屋に行って、凪を寝かせてこようとしただけだから!」
「そしてあたかも袁術ちゃんを毎夜閨に招くように、お兄さんもその隣で」
「眠らないからな?」
「おおっ……先に言われてしまいましたねー……。お兄さんは風のことならなんでも知っているのですか?」
「日常が日常だから、何を言われるかくらい予想がつくって。……約一名、会う度に悪口の格が上がっていく誰かさんは例外だけど」
「おおー……ですねー、例外ですねー」
「例外だよなぁ……」
あそこまで悪口にバリエーションが持てるってことは、それだけ彼女の頭もそういったものに穢されているんじゃないかと思うのですよ。穢れているというか毒されているというか。人の悪口をああまで元気に口にするヤツが、この大陸の何処をどれだけ探せば他に見つかるのか。
…………ああ、麗羽あたりなら言いそうではあるか?
「まあ、そんなわけだからちょっと待っててくれな。凪を寝かせてきたら、案内するから」
「いえいえー、ごゆるりとどうぞ~」
「ニヤニヤしながらそういうこと言わない」
そんなわけで歩きだす。
中庭から通路へ、通路から凪の部屋へと歩き、部屋に入って凪を寝かせると、その寝顔を覗きこんで……一度だけ撫でてから部屋をあとにした。
さて。
案内しながら氣の復習だ。
「ん……やっぱり風に水気があるよな。部屋とかから出るとよくわかる」
雨が降るかもだけど、その前に案内し終えたほうがいいよな。
「……一応バッグを持っていくか」
雨に降られてはせっかく書物を見つけても運びづらいだろうし、紙袋で守れる時間なんて僅かなものだろう。
そんなわけで、少し回り道になるけど自室に戻ってバッグを持っていくことにする。
で、自室というと……
「美羽のやつ、どうしてるかな」
老人を客にした歌のことに関しては、イメージが纏まるまで待ってもらうつもりだが……まあ、今の美羽ならおかしなことはしてないだろう。多分、きっと。
あんまり待たせるのもなんだし、少し速めに歩いて自室へ。
つい最近直されたばかりの扉を開けて中に入ると、どうやら部屋の中を掃除していたらしい美羽がパッと振り向き、入ってきたのが俺だと知るや雑巾を床に置いたままぱたぱたと走り寄ってきて、抱き付いてきた。
「主様っ、お、お、おー……おつ、とめ? お勤め……じゃな、うむっ、お勤めご苦労さまなのじゃっ」
そして、俺の腹部あたりの自分の鼻をごしごしとこすりつけるようにしたのちに、抱き付いたままに俺を見上げてにっこり。
ていうか……掃除? あの美羽が?
「美羽……どうかしたのか? 掃除するなんて」
「うむ。ぶんじゃくのやつが、働きもしないならせめてこの部屋の掃除くらいしてみせよと言うのでの。なんでも他の者の部屋は侍女が掃除をするらしいのじゃが、なぜかこの部屋だけは掃除するなと言われておるらしくての」
「そうなの!? 初耳なんだけど!?」
え……えぇええ……!? なんでそんな……!?
あれ? でもその割には毎度毎度、いつのまにか綺麗だった気がするんだけど……?
「ならばと妾がこうして、真心込めて掃除しておるのじゃ。う、うー……その、主様は……喜んでくれるかの?」
「………」
ふと思う。
返事も大事だけど、一緒に居る中でわかったことがひとつあるのだ。
それは、やっぱり言葉もだけれど、なにより美羽は俺の目を見る。
だから見上げる視線に感謝の視線を向けて、笑みながら頭を撫でた。
それだけで彼女は満面の笑顔になり、もう一度俺の腹部あたりに顔をこしこしと擦り付けてからパッと離れる。まるで動物に匂いでも付けられている気分だが、嫌な気は全然しない。
離れた美羽はといえば、雑巾が落ちている場所へと戻って掃除を再開。
……夢でも見てるんだろうか。袁家の人が働いていらっしゃる。
(……じゃないか)
何処がどうとかで見るのはやめよう、頑張っている美羽に失礼だ。
今だってああしてせっせと床を拭いて、額に滲んだ汗を笑顔で拭っている。
なんだろうな……すごくやさしい気持ちになれる。
頭を撫でて、心からありがとうを届けたくなった。けれど邪魔をすることになりなかねないからそこは飲み込んで、自分の用事を済ませることにする。
「掃除してるところごめんな。ちょっとバッグを使うから中身を寝台の上に空けていくけど……そのままにしておいてくれればいいから」
「へわぅ? う、うむっ、わかったのじゃっ! 妾、この服にはなーんにもせんぞよ!」
「よしっ、じゃあちょっと出てくるから、また夜にな」
「うむっ! う、え、えと……」
「? ……ああ、ははっ。“いってらっしゃい”」
「おおっ、そうであったのっ! いってらっしゃいなのじゃ、主様っ」
「ああ。いってきます、美羽」
美羽に見送られ、部屋の外へ。
もう空気の湿っぽさも濃くなっており、いよいよ降りそうな予感。
だからといって足を止めるわけにもいかず、城門前で待っていた稟と風とともに街へと向かった。一応、雨が降りそうだから急いで探そうと伝えつつ。