104/三国連合へ向けて
……かしゃん、という音を合図に、心が軽くなるのを感じた。
「だはぁっ……終わったぁああ……!」
墨が乾いた竹簡を積み、腹の奥から体に溜まった“仕事用の空気”を吐き出すつもりで息を吐く。あとはこれを隊舎に届けて、それからえーと……ああ、そういえば張三姉妹に呼ばれてたっけ。
じゃあ竹簡届けたら事務所に行くとして……うーん、いかんな。非番に仕事を持ち込んでしまうようじゃ、華琳が認めてくれるかどうか。昨日の夜のうちに終わらせるつもりだったのに。
「まあいいや。まずはこれを届けるか」
竹簡を抱えてそのまま立ち上がる……前に、扉を開けてから机までを戻り、改めて竹簡を抱える。春蘭と同じく、竹簡を持ったまま“蹴り開ける”という方法もあるが、新しく作り変えてもらったのにそんなことをすると、バチが当たりそうだ。
さて、今日も一日が始まる。
寝不足ではございますが張り切ってまいりましょう。
……。
…………ごめん、張り切れない。
「くぁ……あ……ふぁああ~ひゅひゅひゅ……」
「北郷隊長……随分と眠たそうですね」
隊舎まで来て竹簡を届けたのはいいんだけど、部下の目の前で盛大に欠伸をしてしまった。それ自体には兵も「普段から張り切りすぎなんですよ」と言って、呆れるどころか逆に心配してはくれたんだが……うう、やっぱり無茶してるのかなぁ俺。自分では上手くやれてるつもりだったんだけどな。
「楽進さまが心配なされてましたよ。最近の隊長は無理が過ぎると」
「え゛っ……む、無理してるように……見えるか?」
「隊長はあまり体裁を気にせず我々と接してくれますし、欠伸を見るのも初めてではありませんが……その顔とその欠伸を見れば、なるほどと頷けます」
「うぐっ……すまん」
表に出しているつもりはなかったとしても、必ずしもそれが成功しているとは限らない。特に俺の場合、キリッとしているつもりでも全然そうではなかったことが、美羽ゲンコツ事件の時に明らかにされたのだ。
キリッとしているつもりだったのに泣きそうな顔だったって、どれほど理想から懸け離れてたんだよ、俺の顔。
「休める時間があったら素直に休むことにするよ。じゃあ竹簡のほう、よろしくな」
「はっ」
軽く手を振って、いざ張三姉妹が待つであろう事務所へ。
その過程で、会う人会う人ほぼ全員に心配された。いったい自分はどんな顔をしてるんだかとも思ったが、確認すると一気にこう……ね? キそうな気がしたから、確認するのはやめておいた。
手元に鏡があるわけでもないし、大丈夫大丈夫、なんとかなる。
……。
そして訪れた事務所にて。
「…………誰も居ない」
そこに誰も居ないことと、そういえば朝餉を食べていないことに気づいた。
施錠もなく、あっさりと中には入れたんだが……大丈夫かこれ。無用心だな。……とは思うものの、軽い用事ですぐ戻ってくるのかもしれないからこその無用心か? その場合は無用心って言えるんだろうか。あ、だめだ、頭が上手く働かない。
「あ、いや…………そういえば昼からって約束だったような……? うう……」
いろいろとこんがらがってきている。
これはまいった、自分が思っているよりもずぅっと体が疲れているらしい。
今も上手く考えが纏まらず、何かを思い出そうとするんだけど、何を思い出そうとしたのかさえ忘れる。
そんなことを少しだったのか長くだったのか続けたとある瞬間、ふと体が床に引き込まれるような錯覚を覚える。
(え……う、あ……!? たち、くらみ……?)
これはまずいと、倒れてしまう前になんとか机に手を着いて体を支える。
しかしいくら手で支えても、足が支えるための力を無くしたかのように崩れてしまっては支えきれるわけもなく。俺の体は、まるで耳元でさざ波を聞いているような血の気が引く音を聞きながら、床へと崩れ落ち───ふんぬっ!
「~っ……ふっ……くっ……!」
倒れるより早く、根性で再び机を掴む。
ここで倒れたら無駄な心配をさせることになる……! いや、無駄な心配とか本人たちの前で言ったら本気で怒られそうだけどさ……!
せめて、せめて机で寝てたってくらいの認識で済ませたいから……。
「……、…………あ、……」
なんとか掴んだ椅子に、体を落とすように乱暴に座ると、途端に力が抜ける。
抗うことも出来ないままに机に突っ伏し、俺の意識はバツリと音さえ出して途切れた。
……。
……つんつん、つん……。
「…………」
つん……つんつん。
「……ん、あ……?」
何かにつつかれる感触を、頬に感じる。
あれ? 俺どうしたんだっけ。頭がハッキリしない。まるで頭の中が泥に沈んだみたいに何もかもが鈍くて……えと……ああ、そうだ、たしか事務所にいって、それで……。
じゃあこの頬をつついてる何かは……天和か地和かな……? 人和はなんとなく、そういうことしそうにないし……。
「ん……」
目を開ける。
どれほど疲れていて、どれほど熟睡だったのか、目を開けたにも関わらず視界は定まらず、数回瞬きをしてからようやく多少の景色が見えるようになり───
「あらぁん? ご主人様ったぁ~らぁん、ようやくお目覚めぇん?」
「わ゛ぁああああぁぁぁーお゛!?」
───開けた視界の先に、褐色の肉ダルマが居た。
思わず絶叫して、机に突っ伏していた体を起き上らせると───……らせると……?
「はっ……は……あ、あれ?」
肉ダルマが居る……などということはなく、どうやら夢を見ていたらしい。
これは、明らかに無理をしすぎですよとの天からの罰ですか? よし、睡眠大事。疲労回復大事。無理厳禁。
「は……はぁあ……夢かぁあ……!」
そう、とりあえずゴリモリマッチョのモミアゲのみヘアーな誰かさんは居なかった。
代わりにと比較するのも失礼な話かもだが、急に起きた俺を見て固まっている人が一人だけ。
えぇっと、とりあえず───
「おはよう」
「……お、おはよ……う?」
よっぽど驚いたのか、硬直しながらもそれだけを返したのは……地和だった。
いやまあ、直後に「急に叫んだり起きたりしないでよ!」といった感じに怒られたんだが。
よーし深呼吸だ。呼吸を整えて、せめて人に話すことで意識を落ち着かせるんだ。
……夢に出てくる筋肉ダルマの話なんて、聞いても面白くないだろうが。
「……。で、なに? 夢の中で筋肉ダルマに起こされて、それで起きた? ちぃとそんなバケモノを間違えるなんて、失礼にもほどがあるわよっ」
「……地和。お前はな、アレに抱き締められたことがないからそんなこと言えるんだよ」
簡単な説明をされて呆れたままに言葉を返す地和だが、対する俺はあの凄まじき肉の感触を生々しく思い出しつつ、自分の体を庇うように抱きながら目を逸らして呟いた。
バケモノは言いすぎかもしれないが、あれを間近で見るとさすがになぁ……。
だって、フランチェスカを背景にビキニパンツ一丁で女口調なゴリモリマッスルだぞ? 景色と格好が合ってないにもほどがあるだろう。
そんな変人が漢女口調でクネクネしながら近付いてきて人のことをご主人様って言いながら頬を染めて風が巻き起こるほどのウィンクまでして俺をきつくきつくぎゅってぎゅってギャアアアアアアアア!!!!
「一刀っ! ちょっと一刀どうしたのよっ!」
「はうあ!?」
思考が暴走しかけたところで地和に肩を掴まれ揺すられる。お陰でなんとか戻ってこれた俺は、嫌な汗をかきつつ地和に感謝した。
お、落ち着こう、落ち着こうな、俺。よーし大丈夫だ、ここは現実で、夢じゃない。
「はぁあ……よし、落ち着いた。ごごごごめんなー地和。急に来て勝手に寝てて、起きた途端に騒いだりして」
「……今だけでそこまで謝る要素がある人っていうのも珍しい気がする」
「俺もそう思うよ……」
お互いに“とほー……”と溜め息を吐いてから、改めておはようと挨拶。とはいうものの、とっくに朝であった時間などは過ぎているらしく……なるほど、道理で腰とか首が痛いわけだ。やっぱり寝るなら布団だよなぁ。
「それよりどうしたの? 約束は昼だったはずだけど。あ、もしかしてちぃに会いたくて我慢できなくなっちゃったとか?」
「え゛っ! い、いや、それはそのー……」
「?」
約束があったのに徹夜で仕事してました。いや、むしろ約束があったからこそ仕事を終わらせた? なのに辿り着いたここで寝てました。うわあい、逃げ道がない。
視線と手を忙しなく動かしてみるも……フワハハハ、善となるであろう言い訳なぞこの北郷、思いつきもせぬわ。
「……───」
明日は明日の、今日は今日の風が吹きます。
ならば一刀よ、己が悔いを残さぬ返答を返してこそ男意気。
ウソをついても格好つける男ではなく、馬鹿でも正直な漢であれ───!
「会いたかったのは確かだけど、早く来た理由は違うんだ。仕事が片付かなくて徹夜して、終わった竹簡を隊舎に届けたあとにここに来た。昼の約束だって思い出したのも、ここについてからでさ。寝不足の所為で立ちくらみがして、椅子に座ったらもう寝てたって、そんな情けない有様でございまして……」
「立ちくらみって、ちょっと一刀っ、大丈夫なのっ?」
「ん。寝たらもう全然平気みたいだ。やっぱりただの寝不足だったんだなぁ」
「そうなんだ。じゃあいいわ、約束の内容を忘れてたことは許したげる。ちぃに会いたかったことは事実なんだし、お陰で一刀の寝顔、独り占めできたし~♪」
「うなっ!? 俺の寝顔なんか見たって楽しくないだろっ!」
「楽しいかどうかはちぃが決めることなんだから気にすることなんてないじゃない。姉さんや人和が戻ってくるまでもう少しあるし、久しぶりに一刀を独占できるなら……」
座っている俺の太腿に手を着き、体重をかけて顔を寄せてくる。
見上げるようにして近付いてくるその顔には、どこか挑発的な色さえ混ざっており───俺は、そんな視線に飲まれるように顔を……
「わぷっ? ……ふえっ!?」
───抱き締めた。もちろん、地和の顔を。
「へっ? やっ、一刀っ? なにっ……!?」
俺がこう来ることは予想外だったんだろう。地和は慌てた様子でいまいち言葉になりきっていない声を放ち、俺の腕の中で軽く暴れた。
「……ごめんな。三国の支柱になるまでは、そういうのは控えようって決めたんだ」
「えぇぇっ!? なにそれっ! 誰に断ってそんなこと決めてるのよー!」
「誰って……俺自身だけど」
「種馬がそういうことしなかったらいったいなんの役に立つっていうのよっ!」
「日々を忙しく過ごしております。役に立ってないなら別の仕事でも紹介してもらうけど」
「うう~……じゃあ、ちぃたち限定の種馬の仕事を紹介してあげる」
「支柱の話が裸足で逃げていくのでやめてください」
そりゃあ傍に居ればキスしたいって思うし、抱き締めて愛したいけど。真剣だからこそしっかりとした意思を持って歩きたい。
蜀でも思ったことだ。呉でも蜀でも女性に手を出さなくて、魏に帰ったら帰ったで、自分の欲望を発散させるために誰かを抱くのは違う。
愛があればそれでいいなんて理屈はそもそも存在していなかったんだ。
人と人との繋がりっていうものを各国で学んできた。
過去に愛しきを知って、確かにみんなを愛した俺だけど……今はその時よりも、胸に込み上げる暖かさがある。
抱くだけが全てじゃない。
もっともっと大事にしたい。
傍に居るだけで沸き出してくる“ありがとう”を、もっともっと伝えたい。
「前にさ、華雄に言われたんだ。“言葉だけで、一方に偏ったままの存在が支柱になれるのか”って。地和も聞いてたと思うけど」
「ああ、あの帰ってきたばっかりの時ね?」
「ん。その時からさ、少しずつ覚悟を決めていってた。もし本当に支柱を目指すなら、偏りがない自分で居なきゃいけない。それこそ、“国に生きて国に死ぬような自分じゃなくちゃ、本当の意味での支柱になんかなれやしないんだから”って」
だからこそ様々を耐えた。
前に華琳が俺の膝の上で寝た時なんて、どれほど抱き締めたかったか。自分への褒美として襲ってしまおうかなんてことを、“僅かとはいえ思ってしまった”くらいだったのだ。
支柱になりたいって思い、国に生き国に死ぬことへと頷いた。つまりこれは自分への戒めであり、ひとつの覚悟だ。ならばこそ“決めた覚悟”は貫き通す。
「じゃあ接吻……キスだっけ? それは?」
「いやその、大変情けない話ではあるんだが、そろそろ危険だから勘弁してくれるとありがたい」
「危険? 危険ってなにがよ」
「い、いやっ……それはそのっ……」
……天で我慢して、この世界に降りてからも我慢して、はやどれほどでしょう。
欲望に任せて抱く気はないとはいえ、我慢した年月が長すぎた。
ようやく会えたみんなとだって、俺の勝手な事情もあってなにもしていない。自分で処理するにしたってほら……美羽が居るのにそんなこと出来るもんか。
つまり、ようするに、あ、あー……そのー……いい加減、多少の刺激でも辛いのだ。
などということを馬鹿正直に地和に話してみればニヤリと笑み、いいことを聞いたとばかりに行動を起こし───!
コマンドどうする!?
1:熱き抱擁(さらに抱き締める)
2:竜禅寺流一本背負い(そもそも習っちゃいないんだが)
3:早坂流妹ナックル(待て、俺は妹じゃない)
4:及川撃退用アッパーカット&ストンピング(及川以外には危険なので却下)
5:全てを興ずるが覇王なれば、全てを愛する者こそ種馬ぞ(はい却下)
結論:……1しかないだろこれ。どうしてこう攻撃的なんだよ……及川はいいとして。
よし、そんなわけで、熱き抱擁!
「わぷぅっ!?」
腕を振りほどき、無理矢理行動に出ようとした地和の動きを抱き締めることで封じる。
それでもパタパタと暴れてくるが、もういっそ地和を軽く持ち上げるようにして、向きを変えてから抱き締めることで落ち着かせる。
「ちっ……地和~? 今日はそういう用事じゃなくて、美羽のことを話し合う約束だったろ~……?」
「うぐぅう……」
ようするに向きを同じに、膝の上に乗せて胴を抱くような感じ。
美羽がよく膝に乗ってくるようになってから、こうすると落ち着いたのでやってみたのだが……おお、意外に効果があった。
しかしこうなると地和の感触がその、足に伝わってきて……一番最初に、意識をそっち側に持っていかれたのは辛い。主張こそはしないものの、むずむずする感触が走っている。
それをなんとか落ち着けるべくうろ覚えのお経なんかを唱えたりして、煩悩を殺していった。このまま突入してしまえとか我慢する必要がどこにあるとか、同意のもとなんだからいいじゃないかとか、ありとあらゆる理屈をこねる自分の思考と欲望に打ち勝つために……!
「一刀……ちぃとしたくないの?」
「したいです」
「───……え?」
……ハッ!?
「あ、い、いやっ、今のは間違いっ……じゃないけどっ! ととととにかくこっちにもいろいろ事情があってな!? だから、えっと……! あ、あ~……!」
自分の本音に心底呆れ、いっそ泣きたくなるくらいに困った状況に陥る。ほんと、だったらなにも気にせず愛し合えばいいって話なんだが……。
「俺に節操を持つなんてこと、無理なのかなぁ……」
地和を抱き締めながら天井を仰ぐ。
地和も雰囲気を察してか、俺の胸に頭を預けるようにして天井を仰いだ。
「ちぃたちのこと、嫌いになったとかじゃないわよね?」
「当たり前。好きで大事じゃなきゃ、こんなに悩んだりしないよ」
抱き締める腕に力がこもる。
地和も笑いながら遠慮なし体を預けてきて、心地良い重さが胸にかかる。
「でもそれってさ、支柱になった途端に誰も彼もに手をだすってこと?」
「いやいやいやいやっ、さすがにそれはないっ! あくまで自然の流れでそういうことになったらであって、そんな立場を利用してとかはっ!」
「ふーん? じゃあ一刀が支柱になったら、真っ先にちぃが自然の流れで愛してあげる」
「………お……おー……」
あまりに急に、楽しげに言うもんだから少しだけ面をくらった。
なのに頭に浮かんだのは、“戻ってきてからの初めては華琳がいいな……”なんていう、思い返すのも恥ずかしい乙女チックなものでぐああああああ消えろ消えろ今の無し!!
「この地和ちゃんに我慢させるっていうんだから、その時まで拒んだりしたらただじゃおかないからね?」
すぐ後ろで悶える俺に、自分の肩越しに微笑み、軽くウィンクをして見せる地和。
俺は……そんな笑顔と、一方的な我が侭な覚悟を受け容れてもらえた喜びとを胸に抱き、さらなる急な抱擁に慌てふためく地和に散々とありがとうを送った。
それと、ヘンなことを考えていたことを心の中で詫びた。わりと本気で。
「あ、でも……他の誰かに誘われて、あっさり抱いちゃったりしたら本気で怒るからね?」
「イ……イエッサ」
そのありがとうが、引きつった声に変わるまで。
……。
さて。地和も落ち着いてくれたところで、まだ膝の上に居る彼女の頭を撫でながら話を進める。まだ天和と人和が居ないが、それはそれだ。二人でも進められる話をしてみる。
「袁術かぁ……うん、認めるのは悔しいけど歌は上手いわよ。ちぃたちには及ばないけど」
「そうなのか」
「うん、一度人気を横取りされそうになったくらいだからね。っていっても、老人に可愛い可愛い言われてただけみたいだけど」
「あ、やっぱり老人なのか」
孫に居たら甘やかしたくなるタイプだもんな、うん。よくわか───マテ、わかっていいのか俺。え? 俺、老人脳?
「そ。で、ほら。そのおじいちゃんたちが、家族に“ちぃたちの歌を聞くくらいなら袁術の歌を聴きなさい~”とか言ったら……ね? わかるでしょ?」
「あー……なるほどなるほど」
それは確かにありそうだ。
我が家の祖父さまはそれをそうするぐらいなら~とは言わなかったものの、悪か正義かで言えば悪といった不思議じーさんだったし。“正義を選ぶくらいなら悪がいいぞ!”とは言わないんだが、回りくどく正義ではなく悪を説いてくるから逆に……なぁ?
「じゃあ客がきちんと好みで選べるようにしたほうがいいか。さすがに好きなものを強制されちゃあ、お客さんも嫌だろうし」
「しかも親やおじいちゃんおばあちゃんが相手じゃね」
というわけでとメモに今後の予定を大まかに書いてみる。
頭を撫でることをやめた途端に膨れっ面が振り向いてきたが、書くことくらい許してほしい。
「便利よね、それ。なんていったっけ? しゃー……?」
「シャーペン。シャープペンシルの略称だったっけ? 英語でいうならメカニカルペンシル、発明国で言うならプロペリングペンシル───って、こういう無駄知識はいいか。まあ、便利だよ」
地和がじーっと見つめる中で、机に広げたメモに文字を走らせる。
本当に便利だ。なにせ墨が乾くまでを待つ必要が無い。
……鉛筆の芯の原料が黒鉛と粘土だっけ? 真桜と相談して、開発してみるのも面白いかもしれない。
それがだめならやっぱりチョークか。
「へぇえ~……一刀、それって一本しかないの?」
「ああ。このメモや制服、胴着と同じで大事な一品ものだ」
「ちょーだいって言ったら?」
「あげません」
「……人の大事な一品ものは奪ったくせに」
「そういうこと言わないっ!!」
ぺしゃりと額を叩いて、メモとシャーペンをポケットにしまう。
そうしてから改めて抱き締め、頭を撫でると、地和は騒ぐこともせずにどっかりと俺の胸に体を預けてきた。
まあ……実際、今日の約束をとりつけて以降はてんで会えなかったし、とりつける前もあまり会えなかった。時間がなかったわけじゃなく、ただ単に時間が合わなかっただけ。
世話役をもう一度って話だったのに、随分とほったらかしにしてしまったことになる。
はぁ、と出る溜め息とほぼ同時に外から物音。扉が開かれると、天和と人和が───
「ちーちゃーん、一刀、もう来て───あ」
「天和姉さん、そんなに急がなくても───あ」
───地和を膝に乗せ、お腹に手を回し、頭を撫でる俺を見て固まった。
Q:……なぁ北郷一刀? 今さらだけど、こうして抱き締めて頭撫でるのって、キスするのとなにがどこまで違うんだ?
A:うん僕知らない。
「ちーちゃんばっかりずるーい! お姉ちゃんもー!」
「だめよっ! まだやってもらったばっかりだもん!」
「ちぃ姉さん、その割には顔がとろけきってた」
「そっ、そんなことないわよっ!!」
開け放たれた扉からそよぐ風が気持ち良かった。
俺はそんな風に撫でられるままに天を仰ぎ、見えた天井に向けて心中で語った。
(今日の昼餉はなにがいいかなぁ)
人はそれを現実逃避といいます。
……。
さて。しっかりと三人を膝の上に乗せて頭を撫でる(甘やかすで統一)ことを終え、すっかり上機嫌な三人を前に、椅子に座る俺。
ご丁寧に四つ分ある椅子は、三姉妹とあと……俺の分、なのかなぁ。
いまいち自信は持てないが、「一刀はこの椅子ね」と天和に座らされたのだから、思うくらいならタダだろう。
「というわけで、客の層を増やすのと美羽の仕事探しも兼ねて、歌を歌わせてみたいんだけど……って、この辺りは前に説明した通りなんだが」
「ええ、一方的に話されて、忙しいからまたなって走っていったわね」
仕切り直しの言葉に、きっぱりとした事実を返すのは人和さん。
「う……ごめん。丁度、迷子探ししてたから……」
そうじゃなかったら、多少の時間を割いてでも話をしたんだけど。
なかなか思い通りにはいかないのが世の中の常ってやつのようで、そういう時に限って外せない用事があるものなのだ。
子供と遊ぶ約束をしていたのに、急に仕事が入るパパさんの心境って、きっとこんな感じなんだろうな。
「いいわ。一刀さんのそういうところ、解ってるつもりだから」
「人和……!」
わかってくれる人が居るっていいなぁ……。しみじみそう思いながら、コホンと咳払いをして話を戻し、これからのことを話していく。
まずは美羽が人前で歌えるかどうかだが。
「歌ってたから老人層を美羽に取られたんだよな?」
「まあ、そうね」
「じゃあじゃあ、どんな歌を歌うかだよね。私たちの曲を歌わせるわけにもいかないし」
「そんなの、一刀の国の歌でも歌わせとけばいいんじゃない?」
「“でも”って、お前なぁ……」
けど、いいかもしれない。“みんなのうた”あたりから攻めてみるか?
童謡とかにもいい歌はあるし、むしろ激しい曲なんて歌ったって老人はついてきてくれないだろう。なにより、その……美羽が歌いきれるかが問題になってくる。
「その前に一刀さん、歌はいいとして、袁術側の音とかはどうする気なの? 楽隊に頼むにしたって、安くないわよ?」
「ぐっ……そ、それが問題なんだよな……」
どうする? 誰か音を奏でることが出来る人を探す? ……誰?
音……音ねぇ。音、音……音ぉおお……! 一瞬春蘭が浮かんだけど、奏でられるのは騒音だけだという答えが出た。そしてそんな答えに言い訳さえ出せない俺が居る。すまん春蘭。
「前に歌ってた時は、誰が楽器を……って、美羽の傍っていったら七乃しか居ないか」
「そうなのよっ! なんか腹立つけど上手いのよっ!」
「あー、わかるわかる。七乃って無駄になんでもソツなくこなすもんなぁ」
今でこそ美羽とも離れて、蜀で頑張っているが……今頃どうしてるんだろうな。また妙に腹黒いこと、考えてないといいけど。