……と、脳内手紙を華琳に出し終えたのち、現実に戻ってみれば……
「北郷……貴様は曹魏からの大切な客人だ……だが! だからといって小蓮をかどわかし、おおぉおおおとっ、おとととっ……! おとっ、大人の話がどうとかなどとっ!!」
ただいま、中庭に正座させられた僕の前には孫権さんが居ます。
宴の時、華琳にやらされてたのを見て、これが罰になるんだと思っているようで……。
いや、正座は望むところだよ? こう、修行してた頃を思い出して気が引き締まるし。
引き締まるんだけどさ……───なんで怒られてるんだろ、俺……。
「あ、あーのー……孫権さん? 雪蓮と」
「っ!」
「ヒィッ!?」
雪蓮の真名を口にした途端、キッと睨まれてしまった。
思わずヒィとか喉を鳴らしてしまった自分に、真剣に赤面。ヒィはないだろヒィは……。
「あ、あー……その、えぇっ……とぉお……!? ───あっ、そ、孫策……と、大事な話、してたんじゃっ……!?」
「そんなことはどうでもいい!」
「は、はいぃっ!」
……うん、とりあえず結論。
孫呉の人、基本的に僕の話を聞いてくれません。
この場合は話を逸らそうとした俺が悪いんだろうけど、それ以前に俺の話を聞いてくれないし……。
孫権は高貴な者の心得を実践して見せているだけだって陸遜は言うけど……これ、思い切り嫌われてるんじゃないのか?
いや、今はまず誤解を解くところからだ。孫尚香は孫権が来るや逃走しちゃうし、呂蒙もいつの間にか居なくなってるし…………あれ? 視線を感じ───ってうぉおっ!!?
(甘寧!? なんであんなところに……!)
中庭の中央から見える休憩所。
その柱の影から、顔半分だけを出して“ゴゴゴゴ……!”と睨むお方がおりました。
……うん、とりあえず逃げられないってことだけはよ~くわかった気がします。
「あの……もう一度確認していいかな……。なんで俺、怒られてるの……?」
「貴様が我が妹、小蓮をたぶらかそうとしたからでしょう!?」
あ。なんか今、素で怒られたって感じがした。
どうしてかなって考えてみて、そういえば今の言葉だけは、“でしょう”って……王族としてじゃなく、孫権としての言葉だったからかな……って思った。
相変わらず“貴様”呼ばわりだけど。
「ん……とりあえず、まずはちゃんと聞いて。誤解があるから解かせてほしい」
「誤解などないっ! 曹魏の客人だからと、姉様が認めたからと容認していればこのようなっ───」
「……聞いてくれ。な? “王族だ”って自負するなら、まずはどんな声も耳にしてやれる自分であってほしい。感情任せに怒鳴ったら、起こさないで済む諍いも起こるよ」
「うぐっ……」
正座をしながら、なによりもまず自分を落ち着かせて一言。
偉そうに言っておいて、たぶん自分が一番ドキドキしてる。
王族に王族としての態度を説くなんて、よほどの馬鹿じゃないと出来ない、というかやらない。
けど、一番近くでとは言わないまでも、華琳の傍で彼女の凛々しさ、“王としての然”を見てきた。そんな俺だから、一言くらいは許してほしい。
……華琳もあれで結構、人の話を“最後まで”聞いてくれなかったけどさ。
「ん……」
深呼吸をひとつ。
心を引き締めて、俺を見下ろすその目を真っ直ぐに見上げ、言を繋ぐ。
「まず孫尚香のことだけど、俺はかどわかしたりしてないし、信頼に背くようなことをするつもりもないよ。むしろ、ここで鍛錬をしてた俺を構ってきたのは孫尚香なんだ」
「………それを証明する者は?」
「周泰がきっと。監視をしてても見ていてくれたって信じてる」
「………」
孫権が城壁の上の周泰を見上げる。
俺の向きからじゃあ見えないけど、頷いてくれていることを信じよう。
勝手な俺の信頼だ、見てなかったとしても、がっくりするのが俺だけで済むなら十分だ。……がっくりするだけで済めばいいけど。……済むよね?
「では、その……大人の話、というのはどう説明つける?」
「孫尚香との話の途中で出た言葉だよ。自分はもう大人だって言い張る孫尚香に、じゃあ大人ってなんなんだろうな、って……そういう話をしたんだ。そしたら孫尚香が頬を染めて、って……そういうことなんだけど」
「………」
「………」
視線が交差する。
虚言を許さぬと言わんばかりの眼光が俺の目を貫くように射抜き、けれどいつか雪蓮にも返したように、息は飲んでも視線だけは逸らさずに。
しばらくすると孫権は盛大な溜め息を吐いて、何事か考えるような仕草なのか、胸の下で腕を組んだ。
するとまるで、故意にではないのだろうが胸を強調するような格好に───って落ち着け北郷一刀! 視線は目だ! 目に向けろ! 我が身、我が意思、我が心は曹魏にあり! 遠く離れた地で、しかも同盟国でオイタをしたりしたら……かかか華琳になにをされるか……!
修行に明け暮れる一年間、魏のみを想い、なんというかこう……夜の一人遊びも我慢してきたんじゃないか!
一年耐えられたならばこれから先も耐えられる! 信念に生きよ! 北郷一刀!
「……信じてもらえるかな」
心に一本の太い芯を突き刺す。
欲を捨てなさい北郷一刀……貴方はこれより僧となるのです。
と、ととと友となる者に性欲を向けるなど……!
(……魏の種馬って言葉……否定出来ない自分が悲しい……)
いつか呉の種馬になって華琳に殺されないよう、自分を戒めていこう。
こういうのはちゃんとお互いの同意の下で……あれ? じゃあ相手がいいって言ったら俺───いやいやいや!!
「……嘘を吐いているようには見えないわ。けど、私はまだ貴様という男を……───? なんだ、頭を抱え込んだりして」
「ナンデモアリマセンヨ!?」
手を出す!? とんでもない! 同意の下だろうがそんなことをしてみろっ! 魏のみんなになにをされるか……!
命までとったりしない……と願いたいけど、最悪、今までの生を共にしてきた相棒と永遠の別れを……!
「節操のない馬には去勢が必要でしょう?」とか言ってズブシャアアって……───
「ア、アワ……アワワワ……!!」
「ちょ、ちょっと……!? 顔が真っ青よ!? 体も震えているし……!」
「なななななんでもありませんっ! ごめんなさいごめんなさいっ! でも僕本当に鍛錬してただけなんです! 僕っ……う、うわぁああああああんっ!!!」
「えっ!? あ、待───思春っ!」
「はっ!」
想像が行きすぎた俺は、目の前に立つ孫権に何度も頭を下げ、立ち上がるや逃走した。
耐えろ……耐えるんだ北郷一刀! 魏に帰るその時まで、耐えてみせるんだ!
じいちゃん……俺、清く正しく美しく生きるよ!
15/かずと とらとであう縁
城壁の上に逃げ込んだ俺は、周泰が居る場所とはほぼ反対側に立ち、木刀を振るっていた。
(煩悩退散煩悩退散……! 我が相棒を守るため、今こそ一刀よ……忍耐を試されん時!)
頭の中から女性に対する煩悩を消すため、ひたすらに剣の道へと没頭する。
そもそも俺は甘えていたのだ。
魏のみんなが好いてくれるから、好き合っているのならなんの問題があるだろう、なんて。
日本では一夫多妻制度なんてない。結婚するわけじゃないんだからいいじゃないか、なんて話でもない。
ここは日本じゃないんだから、なんて言葉だってただの甘えだ。
確かに俺はみんなを愛している。魏のみんなを、魏国そのものを愛している。
だが、だからといってそのままでいいのか?
この世界ではいいかもしれないが───
(~っ……だから消えろってぇえええっ!!)
煩悩を消そうとして思考の渦に囚われてちゃ世話ないだろ!
ああそうだ! 開き直るならこの世界でならそれも許されるだろうさ!
けど、許されるからって誰にもかれにも手を出して、俺はそれでいいのかっ!?
俺が強くなるって決めたのは魏国のためだ! その魏国から離れた場所で、魏国の者ではない人にそういう感情抱いて!
待て待て待て! そもそもそうなること前提で考えること自体がおかしいだろっ!
だめだ! ここで一年間の禁欲生活のツケが来たのか、頭の中がピンク色だ!
(煩悩めぇえっ!! 死ねぇええええええっ!!!)
木刀を振るう振るう振るう!!
汗を散らしながら、頭が真っ白になるまでただひたすらに!
集中しろ集中……! 剣術、剣術、剣術……! 頭の中を剣術でいっぱいにしろ……!
(…………はうっ)
ぐおおおおっ! 頭の中でイケナイ妄想が!
だだだだだ大体っ! 呉国の人達は露出度高すぎなんだっ!
細いのに胸大きいし、キレイだし可愛いしいい子だし───……ていうか孫権って……下着つけてるように見えないんだけど、ってうあぁあああ! 消えろ消えろ消えろぉおっ!!
(殺す! 今日一日かけて、この煩悩……屠り去ってくれる!!)
カッと見開いた瞳に賭けるは我が相棒の命運! 覚悟を決めろ、北郷一刀!
───さあ、勝負だ煩悩! 俺は今日一日かけて、貴様に打ち勝ってやるからな!
……。
そうして振るい続けてしばらく。
「う、ぉおっ!?」
手から木刀がすっぽ抜ける。
気づけば手からは握力と呼べるものは無くなっていて、拾おうとしてもずるりと抜け落ちてしまった。
それだけ振っても煩悩は消えてくれない。
「だったら───」
ならば次は氣の鍛錬。
どっしりと構え、両手に気を集中させる行為に没頭する。
……。
失敗、失敗、成功、失敗……!
誰かの視線を感じるが、それを確認する余裕すらないままに氣の鍛錬を続けた。
失敗なぞものともしない。そもそもなかなか出来ないことをやろうとしているんだ、いちいち挫けてたらいつまで経っても上達しない。
……。
誰かに食事に誘われた気がした。
それを丁寧に断り、さらに没頭する。
……。
辺りが暗くなった。
時々しか成功しない。
……。
真っ暗になった。
誰かにいろいろ言われた気がしたけど、気にしている余裕がない。あと少しでなにかが掴めそうなんだ。
……。
チリッ……と体の中で何かが弾け───少しだけ、氣の流れを感じた。
……。
虫の鳴く声が聞こえる。
辺りは完全に真っ暗……な気がする。
見回りだろうか、時折誰かに声をかけられるが、あとちょっと、あとちょっとだから……
……。
チッ───と、右手人差し指の先で氣が弾けた。
途端に苦労が身を結んだ喜びに、煩悩が吹き飛んでゆく。
氣……氣だ! 今、ほんの僅かだけど体外放出に成功した! やった……やったよ凪! 俺、やれたよ!
「……あれ?」
ハッと気づけば朝だった。
朝日が昇ってゆく様を呆然と眺め、それと同時に……俺は新たな自分へと生まれ変わる瞬間というのを味わっていた。
(………)
スッ───と意識を自分の深淵に沈めるイメージを働かせる。
次にその意識を右手に集中させてみると、そこへと氣が流れる感触がジワジワと伝わる。
……次いで呉の人達の姿を思い浮かべてみるが───いやらしい考えなど働かなかった。
湧き出すのは同盟へ贈る信頼の心と、友達へ向ける信頼。
それらが俺の心を、朝陽とともに暖かくしてくれた。
(…………我、極めたり)
朝陽に一礼を送り、はだけていた胴着を正す。
そうしてから、置いたままだった木刀を拾うと歩きだす。
なにやら掛け替えの無いものを失くしてしまった喪失感に襲われるが、今はこのままで。
「……よし───、……?」
ふと、ずっと俺を見ていた誰かの視線が消える。
視線は感じてたけど、気にする余裕がなかったソレが、ふと。
「……?」
首を捻りながら城壁を歩き、階段を降りてゆく。
今さらだけど盛大に鳴り始めた腹に苦笑を漏らし、これからのことを考えながら。
───……。
風呂を自分の都合だけで使わせてもらうわけにもいかず、小川まで歩くとそこで水浴びをする。
徹夜での集中がこたえたのか、少し頭がボウっとしている。
そんな頭を、小川の冷たい水で顔を洗うことでスッキリさせ、大きく深呼吸した。
「すぅ……はぁああ……!!」
自然の香りが肺を満たしてゆく。
小川も綺麗だし緑も多くあり、こういった場所の空気自体が日本のソレとは明らかに違っていた。
ほんの一年前までは血で血を洗うような争いをしていたっていうのに、今じゃ血の匂いなんて少しもしない。
「………」
孫尚香の顔を拭いてあげたタオルを一度水に浸し、それで体をこすっていく。
川下で水飲んでる人とかが居ないことを願いつつ。
───そうした小さなことに笑むことが出来る時代が、ほんの一年前から始まった。
それはきっと、みんなが喜んでいいことなんだろう。
もう誰も死ぬことなんてない、家族が家族として一緒に居られる。そういう時代が来たんだ。
「でも……」
でも。そのために散っていった人達のことを忘れていいはずもない。
最後の戦いさえ切り抜けられれば生きていられた人だって、きっとたくさん居た。
きっとこれが最後なんだからと戦に出た若者だって居たかもしれない。
そうした人達の意思の先にあるこの平和を、俺達は全力で大事にしていかなければ……死んだ人達の意思が無駄になる。
そこまで考えて、ふと疑問が湧いてくる。
「……呉の民たちは、どうして騒ぎを起こすんだろうな……」
雪蓮から聞いた話でしかない。
騒ぎを起こす人が後を絶たないから、それを治める手伝いをしてくれと言われた。
呉を、内側から変えてほしいと。
「雪蓮たちに出来なくて、俺に出来ることって……なんだろう」
小さく呟く。
体を拭きながら考えてみたけど、結局……汗を流し終えても、私服に身を包んで一息ついても、その答えは見つからなかった。
「不満がある……? それとも、負けた上での同盟なんて嫌だった……とか?」
呉はプライドが高そうな感じはするけど、それって誰かの命よりも優先させなきゃいけないことなのかな。
いや、違うよな。民たちはどっちかって言えば、終戦を望んでいたはずだよ。
じゃあ…………
(………もし。もし俺が、民の立場だったら)
民の立場で頭を回転させてみる。
そうだ、雪蓮や冥琳が王として軍師として頭を働かせるなら、日本では一般市民にすぎない俺は……民側の視点で物事を見ることだけは長けている。
雪蓮だってそういうのは得意そう……というか、街に降りて民と笑い合ったりしてる場面とか見たことがある分、十分得意なんだろうけど。
でも、雪蓮は戦いを知っている。戦いなんて終わっていた国に産まれた俺とは、そこに違いがある。
だから……考えろ。もっと、戦をしない人、戦を恐れる者の視点で。
「………」
…………。
(あ───)
深く考えて、チリ……と頭に引っかかるものを引っ張り上げる。
それはとても簡単なことで、だけど戦いってものを、覚悟ってものを知った俺がどれだけ考えても届きそうになかったもの。
(もし……三国が同盟を組むことで戦が終わるのなら、どうしてもっと早くにそう出来なかったんだ、って……きっと思う)
でもそれは。三国がこの大陸に影響を与えられるくらいにまで大きくならなければ、到底成立させることができなかったもの。
そして、そこまで大きくなった国が今さら話し合いだけで同盟を組めるほど、当時の民達の、将達の期待は薄いものじゃあなかったはずだ。
───ここまで来たのなら、己の手で天下を。
そう思い、誰かに譲るだの三国が手を取って天下を手にするだの、そんなことをしようだなんて思う者は居なかったはずだ。
だから誰も気づけない。
同盟を組むことで世が平和になるって結果が今ここにあるのなら、どうして息子が、家族が死ぬ前に同盟を結べなかったのかという民たちの嘆き。
民達が知るのは“結果”だけであり、そこに至るまでにどれほどの苦しみや苦渋の決断があったのか……それをその目で確認することができないままに今、平和の只中に居る。
勝ってくださいと王に願うのと同時に、我が子に死んでほしいと願う親なんて居ない。
本当は戦が起こらないのが一番だってことくらい、みんな知ってるんだ。
だけどやっぱり理屈をどれだけ並べたところで、死んだ者は、その人と築いてきた日々は帰ってきはしないのだ。
もし、そんな行き場の無い悲しみが、さっさと同盟を結ぼうとしなかった王へと向けられているために騒ぎが起きているのなら───
「…………そっか」
たぶんだけど、そう間違ってはいない。
雪蓮は“内側から変えてほしい”って言った。
それはきっと、王や軍師の視点からではなく、もっと内側から。
「……雪蓮はたぶん、民が騒ぎを起こす理由を知っているんだな……」
でもそれを力で押さえつけても意味がない。
だから内側から変えてほしい、って…………そっか。
「まだ何をどうすればいいのかなんてわからないけど───」
予想にすぎないけど、まだ“戦”ってものに囚われている誰かが居る。
そんな人たちをこの“平和”に引きずり下ろして一緒に笑うため、頑張ってみよう。
騒ぎを起こす人が本当に予想通りの理由で騒ぎを起こしているというのなら、教えてあげたいことがある。
それを伝えるためならたとえ泥をかぶっても後悔はしないという覚悟を、今この場で、ドンッとノックした胸に刻む。
「うんっ」
濡れたままの髪の毛を乱暴に拭いて、バッと前を見る。
まずは情報を集めよう。そうしてから──────あれ?
「……、……あれ?」
……バッと見た視界に、想像だにしなかったモノが映ってる。
目をこすってみても消えてくれないソレは、のっしのっしと森の奥から歩いてきて……「コルルル……!」と喉を鳴らした。
「───」
マテ。百歩譲ってパンダは頷こう。
うん、中国っていったらパンダ~って感じ、するし。ああそれは頷こうじゃないか。
(それがなぜ城近くの森に生息していて、今まさに俺を目指してのっしのっしと歩いてきてるんだ!?)
自分の中でいろいろと方程式を組み立ててみた。
……ああ、無駄だったさ。
(ど、どうする……比喩とかじゃなく、間違い無く俺を見て、俺に向かって来てるんだが……!?)
戦う……!? 木刀はあるが木刀で勝てる相手なのかそもそもっ……!
じゃあ逃げる!? パンダって鈍足なイメージあるし……あ、でも一応クマ科なんだっけ? ヒグマあたりは時速50kmとかで走るとか言うし……ってそれじゃあ逃げられないじゃないかよ!
ああくそ、こんなことになるならパンダの疾走速度とかも勉強しとくんだったなぁ、それがわかるだけでも行動の範囲が広がるっていうのに。
逃げられないならやっぱり戦う? はいそこ、無茶言わない。たとえここでウル○ラマンセ○ンの歌が流れたって勝てるもんか。
(い、いや、パンダの足は遅いのだと信じよう。今は逃げ……)
「グルルルルルルッ」
(───)
いや無理無理無理っ! あれパンダじゃないよ! クマ科っていうか、パンダっぽい色の体毛を持って産まれた熊そのものだよ! だってなんか黒の部分が薄いもん!
あれ? でもどうして首に金色の輪っかみたいなのつけてるんでしょうか。ハッ!? もしかして誰かの飼いパンダ!? ……パンダって飼えるの!?
(どどどど動物園のパンダは檻に入れているだけであって、飼ってるとは言わないよな!? 懐いてもいないだろうものを飼ってるとかって言えるのか!? いやそれを言えば鳥とかだってそうだし、あぁあああああっ!!)
近づいてくる! 落ち着け! 落ち着けるかっ!! ってセルフツッコミしてる場合じゃないっ!
逃げる! 俺もう逃げるよ!? 相手が速いか遅いかなんて二分の一! だったらこのまま突っ立っているよりも走ることを選ぶ!
(覚悟……完了───!)
胸をドンッとノックして心の準備を完了させる。
そうしてからまず地面に落ちていた木の枝をゆっくりと拾い、それを逃走予定ルートとは別の方向へと投げて、パンダ(色の熊?)の注意を引く。───刹那にダァアッシュ!!
「グルッ!?」
当然ながら、急に動き出した俺に敏感なる反応を見せるパンダ。
城までのペース配分なんぞ考える余裕もなく、ただひたすらに全力疾走する俺。
追って来ているのか来ていないのか……そんなことを確認する余裕なんてあるはずもなく、ただただ足を動かし、森を抜けることのみを目標に───!
(速く……速く、もっと速く……!!)
足を動かす動かす動かす!
足に意識を集中させ、より速く、もっと速くと強く願う。
───その時だ。
足に集中がいきすぎたのか、両足に氣が集っていくと───足が軽くなり、走る速度が急激に上昇。
いきなりの事態に転げそうになるが、なんとか体勢を立て直しながらなおも走る。
「う、えっ……!? はぁっ……これって……はっ、はぁっ───!」
足が驚くほど軽い。
そして、驚くほどの速度で細かく動き、しかし歩幅は変わらないままにグングンと地面を蹴っていく。
こんな状況だ、原理を細かに分析している余裕も当然無いわけだが、感謝だけなら出来る。
(ありがとう凪っ……! お前に氣を習ってよかった!)
遠い地に居る彼女に心の中で礼を叫び、地面を蹴る蹴る蹴る───!
森の景色が倍速で映像を流すみたいに流れていき、やがてザアッ……と遮蔽物なく陽の光が降り注ぐ場所へと抜けた───まさにその時!
「へ?」
同時に、木々や茂みを挟んだ右側の景色から飛び出る、白と黒のコントラストが栄える存在。
四足で走るソレは、茂みを突っ切ったのか体のあちらこちらに葉をくっつけながらも、走る俺を凝視していて───
「うぉおおおおおおおおっ!!?」
虎……虎ッ!? どう見ても虎ッ! ホワイトタイガー!!
ホワイッ!? パパパパンダが虎に進化した!? 中国のパンダは人を追う際、虎に変身できるの!?
だってほらっ! 首にパンダがつけていたものと同じ金の輪をつけてるし!
いやっ! だめっ! 近づいたらメッ! 美味しくないよ俺っ! そんなぴったりついてこないで!
(否! 横に並んだだけなら、左側に走れば差は───!)
そうと決まれば行動は速いものだった。
ジリジリと距離を詰める虎に大して背を向けると、そのまま疾駆。
さらなる氣の集中を意識して、今出せる俺の全力を以って、この危機的状況からの脱出を───って! うわぁもう横に並ばれた!
「速ぁああああああっ!?」
虎の時速ってどれくらいだったっけ!? たしか80kmとかって───勝てるかぁああっ!!
あっ! やめてっ! それ以上、いけないっ! それ以上近づいたら! あ、あっ、あ───!
ギャアアアアァァァァ…………───