後ろからフゥと息を吐く音が聞こえた。文字通り言葉の間に一息を入れたのだろう。
そして自分の肩越しに軽く振り返ってみれば、彼女は俺を穏やかな顔で見つめ、言った。聞きたいこと、のあとの言葉を。
「蜀で、麗羽に可愛さで勝負を挑まれたことについてをね」
「ぎっ……!」
……一瞬だったのだ、平和が乱れる瞬間なんてものは。
背筋に冷たい何かが走るのを感じて、思わず歩を進めるために出す足がどちらだったかを忘れ、コケそうになる。しかし意地でも酒はこぼさぬようにと、体勢はすぐに立て直したものの、おそるおそる見てみた華琳は……笑顔なのにとっても怖かった。
「ご丁寧に“一刀さん”。“一刀さん”に可愛いと言われたと。ええ、あの麗羽が男を下男呼ばわりせずに名前を覚えて、美しいではなく可愛いと言われて喜んでいたことなどこの際どうでもいいわ。ええ、どうでもいいことにしてあげる」
あの!? 目が思いっきりどうでもよくなさそうですが!?
え!? なに!?
どうでもいいって口で言いつつ、いったいなにが気に入らないので!?
「私が気になるのはね、一刀。あなたが“あの”麗羽をどう落としたのか……それだけよ」
口調は穏やかだ。しかし怖い。これ……もう怒ってる? お、怒ってるよな? 滅茶苦茶怒ってるよな!?
「おとっ───いやいやいや! 落としてない! どうしてそんなことになるんだよ! 俺と麗羽は友達でっ!」
「友達? ただの友達に、麗羽が直々に“男として認める”と文を寄越すと?」
「あ、あれ……? えぇええーっ!?」
やっ……俺もあれはなんかヘンだなとは思ったけどさ!
考えてもみてくれ! 下男下男言われ続けて、それから男として認められるってことになったんだぞ!? 拒否なんて普通しないし、男として認められたからこそ対等で、友達になれたんだとか思うだろ! ということを話してみれば、盛大に溜め息を吐かれた。
「麗羽はそもそも、男と見れば見下す存在なのよ。その上なんでも自分の都合のいいように解釈するし、気に入らないことがあればそれを実力行使で叩き潰そうとする」
「ああ、最初の頃の華琳みたいな弁慶!?」
笑顔のままに足を蹴られた。俺の弁慶が大号泣。
「その麗羽が男を気に入るどころか、見下しもせずに対等……男として見るなんて。自覚がないでしょうけれど、とんでもないことよ」
「い、いや……それってただ感性が普通になっただけなんじゃ……」
「あの馬鹿の性格なんて、幾度出会っても変わっていないわよ」
「そうか? 華琳が変わったみたいに、きっかけがあれば誰でも変われるんじゃないか?」
「そう? そう思うのなら、変えたのは間違い無く一刀、あなたということになるわね」
「…………え? 俺?」
蹴られた足を庇いながら、けれど立ち止まったまま話せばまた蹴られることを心配して歩く俺を、どこか気に入らなさそうに見つめながら歩く華琳様。
そんな目で見られる覚えが思いつかない俺は、何が気に入らないのかを考え始めてみるのだが……悲しいことに全然さっぱり思いつかない。一瞬だけ“もしかして嫉妬かも”なんて考えたりもしたのだが、“それはないだろう”と自分の脳にこそあっさり却下された。
確かに前から少しばかり、他の女性と何かあるたびにこの場の雰囲気に似た状態での質問があったりもしたが、俺が華琳のものであると自覚している限りはそれでいい、と言われたわけだしなぁ……うーん。
「ん、と……それで華琳は結局どうしたいんだ?」
「どうしたいって、何がよ」
「いや、そういうことを訊いてきたってことは、麗羽のことでも別のことでも、なにか答えが欲しかったんじゃないかなと。あ、ちなみに本当に落としたつもりはないぞ? 俺は認めてもらえたことや対等でいられることに喜びはしたけど、手は一切出してないし」
「………」
訊き返してみれば沈黙。
なにやらぼそぼそと言っているような気もするが、それは歩くことで桶の中で揺れる酒の音にさえ掻き消されるような声だった。
「? なんだ? よく聞こえなかった」
「だ、だからっ! あの女と私とでっ! 私が美しさで勝ったのはわかったわよ! けどだからって“別に悔しくなどありませんわ? わたくしの方が可愛いと認められていますもの、おーっほっほっほっほ!”とか笑われるのは我慢がならないのよっ!」
「───……」
……え? なに?
ちょちょちょちょっと待った! え!? 顔赤くしてそんなことっ……!? どっちが可愛いって、美しさで勝ってるだけじゃ満足できないと!? ていうか美しさと可愛さが混在する存在って何者!? 普段は気安く可愛いとか言えば額叩いたり怒ったりするくせに、どうしてこういう時だけこだわったりするのかっ……!
ご、ごめんなさい全世界の男子諸君……俺、乙女心がわかりかけてるとか世迷言を言っておりました。全然さっぱりわかりません。
けど、けどだ。
「えーと……もしかして、どれかひとつでも麗羽に負けてるのが嫌だ、とか」
「そんなことはないわよっ!!」
「ごめんなさいっ!?」
クワッと怒鳴られた。
しかし、すごい剣幕だったもののその言葉に嘘はないらしく、息を整えてからキッと俺を睨み直した。……嫌な表現だな、睨み直すって。
思わず立ち止まって振り向いて、華琳の行動に軽く警戒してしまう。
「べつにあの女がどの点で私に勝っていようと構わないわ。ただ───」
「……? ただ?」
「………」
「?」
じっと見つめられる。
えと……なに? 何か俺に求めている?
「……背が足りないこととか弁慶!?」
ふっ……再びベンケッ……! 弁慶の泣き所にトーキックって……!! 立ち止まるんじゃなかった……! すまない弁慶……!
くぅう……! どうやら背のことじゃないらしい……! ていうか勝っていようと構わないっていってるんだから、背のことなんて口に出すのはおかしいだろ……!
けど───“ただ”だ。“ただ”と華琳が言ったからには例外があるということ。何かが勝ってさえいればそれでいいと思える何かがある筈……! そしてそれは───!
(………………なんだろう)
考えてみたけどわからなかった。空回りってやつだ。
わからないならどうするかを考えてみて、わかりきった答えを口にすることにした。
「何が心配なのか知らないけどさ。何度でも言うけど、俺は華琳のもので、華琳を愛しているから」
「!!」
じぃっとこちらを睨む少女に言ってやる。
すると顔が一瞬にして赤くなり、息が詰まったように口をパクパクさせながら、涙が滲み始めている目を見開いてこちらを見ていた。
「~っ…………その言葉、軽々と別の誰かにも言っていないでしょうね……」
「え? あー……その。俺は魏の、華琳のものだ、ってことなら呉でも蜀でも言ったけど」
「!? ……、~……そ、そう」
「………」
「……、……」
「?」
あれだけモシャアと溢れていた緊張感がスゥッと消えて、華琳は顔を赤くしたままに俯いてしまった。そのまま歩くと危ないぞと言っても右から左へである。
え……え? つまるところ……やっぱり不安だったと? 血を証にする、あなたは私のもの、いろいろと誓いを立てたものの、前に“それがなに?”と言った通りに不安だったと?
……それはそうか。だって、俺自身でさえ何がきっかけで、いつまた自分が消えてしまうのかもわからないままなんだ。好きな人の前から消えなければいけない怖さを知っている。あんな思いは、出来ることなら二度としたくない。だったら不安材料なんてものは何度だって取り除かれるべきなのだ。
(……なるほど)
そういう考えに至ると、さっきまでの華琳の行動の理由も見えてきた気がして、心が温かくなるのを感じた。考えてみれば、俺のほうはそういう方向では幾分マシなのだろう。華琳に言い寄る男は居ないし、そういった話があるわけでもない。乱世ならば政略結婚だってあったろうけど、なにせこの世界の英傑たちといったら全員女なのだ。
俺はそこに安心を得ていたのだろうけど、華琳は逆だ。
たとえ俺が“好き”とか“愛している”とか言って、華琳が受け止めるばかりの関係なのだとしても、あー……まあその、所有物を横から奪われていい気分でいられる人なんてものはそうそう居ないのだから。
「………」
だからだろう。心が温かく感じたけど、これからのことを考えると少しだけ素直に笑えない心境が完成した。前にも思ったことだけど、こんな調子のままで三国の支柱になったら、いったいこの少女は日々をどれほどの不安を抱えながら生きるのかと。
(……いや待て。華琳ならすぐに順応しそうな気がする)
もしくは殴り込みをかけてくるとか?
どちらにせよ不安材料をそのままにしておくような人でもないし、そうと感じたなら言う人……だよな。今回は言わなかったけど。
まいった。
こういう状況ではどう声をかけるべきなのか……気の利いた言葉がこういう時に限って浮かんでこない。かといって何も喋らないと空気が重くなっていくだけであり……!!
そ、そうだ、とりあえずは何か、思いついたものでもなんでもいいから話題に───!
「と、ところで華琳」
「……な、なにかしら?」
「あのさ、前後になっちゃったけどさ。兵や料理人たちにデザートをあげちゃったんだけど……えと、大丈夫だったか?」
「───」
停止。
歩む足も、赤くなり続けていた顔も停止し、冷たい空気と緊張感が再び……あ、あれ!? 待って! 待ってくれ穏やかな空気さん! なんかもうこの嫌な緊張感、感じ慣れてて逆に怖い! もしかして地雷でしたか!? 地雷でしたね!? この空気感じるだけでも十分だよね!?
「それでなに? あなたはいつかのようにまた次の時にも手伝うよう、約束でもさせたのかしら……?」
「いやいやいやいやっ! あの時のようなことじゃなくて! ていうかもうあの時の根回しのことは忘れてくれって! デザートをあげたのはただの俺の感謝の気持ちでっ! そういうようなことは全然考えてないって!」
「考えていなくても結果が同じならば変わらないじゃない、このばかっ!」
「ばっ!? だから違うって! 以前のは給金じゃなくて食べ物で釣ったみたいな感じで、今回のはきちんと働いてもらったし給金も出るけど、そこに感謝を足しただけだよ!」
通路の真ん中で始まる喧嘩……のようなもの。不思議なことに、華琳は確かに怒鳴ってはいるんだけど、それはなんというか……そう、構ってほしいからそうしているような行為に見てとれた。しばらく美羽と一緒に居たからだろうか……そんな反応なら多少は理解出来るようになっていた。
俺はといえば……華琳がそんな反応を示してくれるのが嬉しくて、怒鳴られているなら真面目に受け止めなければいけないのに、顔が笑いそうになるのを我慢するので大変だった。
だって、あの華琳がだ。
彼女を見ていて思うことと言えば、“いつも王で居る必要はないのに”と……そればかりだったのに。その相手自身がまるで甘えてくれているようで、俺もそれを妙に感じて取ってしまったようで、その……嬉しくてたまらない。支柱になる存在が偏るのはいけないとは思うものの、そんな些細が嬉しいのだ。
……この会話を終了させるのは簡単だ。それは、おそらく華琳も知っている言葉。
お互いに答えは見つけてあるものの、それを呈示しないで自分の気持ちを勢いのままにぶつける。そんなことを目的に、ギャーギャーと叫び合った。
“みんなが居るうちにまた作ればいい”
答えなんてこれで十分なのだろう。
けれどそうすることはせず、普通に話し合っていたんじゃきっとついてこない“勢い”ってものを引き出すために、そうして話し続けた。
彼女に対して俺は、“四六時中、王で居ることなんてない”と思った。
思ったところで華琳は王で、大陸を統べた責任ある立場だ。
非道な王であるのならば自分を討ちに来いと、雪蓮や桃香に言ってみせるほど。
そんな立場で甘えてばかりはいられないなんてことを、俺は───知ってはいたけど軽く受け止めていただけだったのだろう。
今まで通り仕事をして、空いた時間に気が向けば甘える。それでいいんじゃないかとも思った。
それは非道でもなければ、当然のことだとも思ったのだ。
問題があるとすれば、覇王っていう威厳ある立場と彼女のプライドなのだと。
「………」
「………」
一通り叫び合うと、怒った風情もどこへやら。
軽く肩で息をしながら睨み合う二人。
だというのに顔は多少笑んでいて、目の前の彼女は大げさに溜め息を吐くと歩き出す。
「華琳?」
「一刀。あなたのことだから、時間が空けばすぐにでも材料を手に入れに走るんでしょう? その時は私にも声をかけなさい。一緒に行くわ」
「え───大丈夫なのか? ほら、仕事とか」
「問題ないわよ。仕事をする時間が変わるわけでもないのだから」
「今度は徹夜とか無しだぞ? 無理して体壊したら、俺はそっちのほうがいやだ」
「………」
「………?」
どうしてかじとっとした目で睨まれた。
まるで、“何を言っているのだろうかこの男は”って目で言われているようだ。
「あの……華琳? どうかした?」
(この男は……! 常に王で居る必要なんてないとか言いながら、たまにこういうことを言えばそれを否定するように……!)
気遣う目を向けると、むしろ一層に睨まれた。
こ、こは如何なること……? とか思っていたら、胸を人差し指でゾスと突かれて後退った。
「か、華琳?」
「とにかく、呼びなさい。体の心配なんて余計なことよ。大体、仕事の心配と体の心配をされたら、私はいったいいつ心の休憩を取ればいいのよ」
「あ」
言われてみればそうだった。
というか、俺が心配する理屈を並べてみると、仕事と休憩しか存在してない。
休憩っていうのはもちろん、徹夜の心配をしていたからには寝ることとかそっちの方。
つまり……その理屈でいくと華琳に会う時間が存在してない。
その結論に至った瞬間になんだかむず痒い衝動に襲われ、“なるほど、休憩なんてとってる場合じゃないな”なんていう答えを脳が弾き出した。
「よしわかった、絶対に声をかける!」
「……そ、そう? わかったのならいいけど」
無理はいけないことだが、それよりも一緒に居たいと言われた気がして舞い上がった。
うん……舞い上がり、自覚してます。
あっ───でもこういう感情も抑えていかないといけないんだよな、支柱になるんだし。
落ち着け俺、落ち着けー……。
華雄に言われたじゃないか。偏った支柱なんてもろいものだ。
ちゃんと自分を持て。ちゃんと自分を───………………
「……あの。華琳さん?」
「? なによ」
自分を持とうとしたところで疑問にぶつかって、再び歩き出そうとした体を華琳へと向けると、なんだか上機嫌っぽい彼女に声をかけた。上機嫌で歩き出そうとしていたこともあり、振り向いた拍子に持っていた桶がちゃぷりと音を立てるが、こぼれるほどでもない。
「えーと……たった今、華琳ばかりに意識が偏った支柱なままじゃいけないと、自分を持とうという意識を高めたのですが……。既に魏の中で意識が散漫しまくっていた俺に、支柱なんて務まるのでしょうか……」
それはある意味で最も重い部分。
人に訊いてどうなるものでもないだろうと思っていたりもしたのだが、ことは魏だけでなく三国全体に及ぶのだ。訊いてみて損はないだろう。
などと思っていたら、意外すぎるくらいにきょとんとした表情で華琳は言った。
「務まるわよ」
出来て当然じゃないといった様相だった。
その自信たっぷりの彼女を前に、逆にこっちが戸惑うほどだ。で、彼女はそんな戸惑いたっぷりな俺の胸を、俺がそうするようにトンッとノックして言う。
「確かに魏将全員を相手に、というのは散漫ではあるのでしょうけど。一人一人に向ける思いが本物だったのなら、そこにはなんの問題もないわよ」
「へ───?」
「だって私が許したんだもの」と続けて、彼女は歩いてゆく。
慌てて小走りに追おうとするが、走れば桶の酒がこぼれるかもしれないこともあり、それは出来なかった。そんな俺へと顔だけで振り向いた華琳は、可笑しそうに笑っていた。
「だから一人一人と本気で向かい合いなさい。一人一人を愛しなさい。好きでもないのに抱いたりしたら───それこそ許さないわ」
「………」
きゅっと……言葉だけで喉を締められた。
そんなことはないのだろうけど、本気で喉を締められる感覚に襲われた。
つまりそれほど本気だってことで、不安になるたびに似たような疑問をぶつける俺に対して、華琳も真っ直ぐに答えてくれているって証拠なんだろうが……でもなぁ。
「……でも、怒るんだよな?」
「う、うるさいわねっ!」
少し冷たさを帯びていたニヤリとした笑みが真っ赤になり、即座に前を向かれてしまった。そんな、我らが覇王さまのあとを追いながら苦笑する。
苦笑しながら……なるほど、とようやく頷けた。
もし、麗羽があらゆるもので華琳に勝ることあったとしても───……
「華琳」
「なによっ! ───ふぐっ!?」
───俺から自分に向けられる気持ちが勝っているのなら、華琳はそれでいいのだと。
合っているのかもしれないし、合っていないのかもしれない。
けど、それならと、声をかけるのと同時に小走りに駆け、振り向いた彼女にキスをした。
答えとしては間違っていても、自分の気持ちは合っているのだからキスをする。
軽く閉じていた目を開きながら離れると、顔を真っ赤にしてふるふると震える彼女を真っ直ぐに見つめて───……合っているでも間違っているでもない、酒が少しこぼれたことに激怒され、その場で正座させられました。
「えと……でも、キスのことに怒らないってことは、正解ってことでいい───」
「うるさいっ!!」
「ごめんなさいっ!?」
怒られながら笑ってしまって、そのことについても散々と怒られた。
そうして俺は、“こぼれたのが俺の酒だったら、まだそこまででもなかったのかなぁ”なんてことを思いながら、華琳の口から放たれる言葉に耳を傾け続けた。