……さて。
ひとしきり華琳が笑っ───もとい、震え、治まってしばらくした今。
無事に許昌に戻った俺達を待っていたのは、にっこり笑顔の流琉だった。
何故流琉が待っていたのかを考え始める華琳だったけど、すぐに俺を見て「何を企んでいるのかしら」と不敵な笑みで仰った。企むというか……まあ、企んでるか。ひとまずそんな視線には「まあまあ」と返して、流琉に訊ねるのは「出来てる?」という一言だけ。返ってきた「はい、ついさっき」という言葉を受け止めるや、ならばと急いで厨房に向かった。
「ちょっと一刀、なにが───」
「いいからいいからっ! えっと生クリームはこっちの容器だったな。よしっ」
まだ温かいそれを振るいながら、馬を戻して厨房への道を走る。厨房に辿り着く頃にはいい具合に生クリームが水分と固体とに分かれており、それを別の容器に取り出して、そこに軽く塩を混ぜてから静かに混ぜ、十分に水分を取れば───香り良いバターの完成である。
もうおわかりであろう……そう、流琉に頼んでおいたのはパン! これに出来たてバターを塗って食べてもらう! 地味であり、華琳にしてみれば料理とはおよそ呼べないものかもしれないが、だからこその美味がここにある!
流琉が急いで出してくれたパンを食べやすい大きさにカット。
そこに出来たてのバターを塗り、「さあっ!」と突き出す!!
「……これが企み?」
「食べてくれ!」
「あのね一刀。わたしは」
「た・べ・て・く・れ!!」
「……な、なんだというのよ……」
華琳のことだ、出来たてのパンが香ばしくて美味いことくらい知っている。
三国時代の歴史でも主食とまではいかないものの、結構食べてたっていわれてた筈だし、パンは知ってて当然だ。
けどバターは違う筈。
ならばこの新しい味を、少しでも新鮮なうちに!!
「……~……」
しぶしぶといった感じにパンを受け取ると、それをさくりと食べる華琳。
小さな口がパンを千切り、さくさくと咀嚼し───
「!!」
仕方が無いとばかりに面倒くさそうだった目が見開かれ、頬には軽く赤みが差し、パンを見ながら固まった。……と見せかけて口は動いて、やがてコクリと嚥下。直後に俺をキッと睨み……なんだか悔しそうな顔をしてから、今度はさくさくとパンを食べてゆく。
その反応だけで十分です。
してやったり顔で流琉を見ると、驚きの表情をしながらも俺を見上げる彼女とハイタッチをする。
「兄様、これは?」
「よくぞ訊いてくれました! その名も───バター!」
マーガリンではなくバター。
出来たてのパンにはやっぱり出来たてのバター! 市販品とは違うこの味を、是非!
……などと心の中で宣伝していないでと。
「一刀、作り方を教えなさい」
「もう食べたの!?」
どこかそわそわした華琳が、やっぱりちょっと悔しそうな顔で俺を睨む。
えと……美味しかったから作り方を訊いてる……んだよな? なんで悔しそうなんだ?
「すごいです兄様……こんなにあっさりと華琳さまを味で納得させるなんて……」
「あ」
あ、あー……つまりはそういう……こと?
強引に突き出されてしぶしぶ食べたものが美味しかった……それが悔しかったと?
……華琳って結構負けず嫌いだね。
「美味しかったか?」
「……ええ。“あいす”にも“ぐらたん”にも驚かされたけれど、食べたことがあるものでこうまでの味の変化を見せつけられるとはね……」
「そ、そっか」
恥ずかしそうに頬を染めて、しかししっかりと味を認めてくれた華琳。
でもやっぱり素材の良さだし、“料理”とは言えない点を考えると自分で美味さを表現した気分になれない。今一歩足りないというのか、うーん……。
いつかきちんとした料理で“美味しい”って言わせたいもんだ。
その時もこんな、少し悔しそうな顔をしたりするのだろうか。
「な、なによ」
「ああいや、なんでも」
想像してたら自然と頬が緩んで、そんな表情のままに華琳を見つめていた。
よし、気を取り直して作り方だ。特に難しいこともないし、デザートを作りながらでもささっと説明しちゃおうか。流琉も興味津々で見つめてきてるし。
……。
そんなわけで───厨房ではささやかな試食会が開かれていた。
バターとパンの香りに誘われた食いしん坊さんを始め、勘で辿り着いたご隠居さんや、それに付き添っていた美周郎さん、そして小さな赤髪の食いしん坊さんと一緒に来た美髪公、数えればきりがないほどの方々が厨房に集い、出来た傍から一口ずつデザートを味見してゆく。
……ええはい、全員分作るの無理です。材料が足りない。というか生クリームの大半を華琳が取っちゃった。よっっっっっぽど、バターがお気に召したらしい。
「ちなみに華琳、そのバターを多めに使ってハンバーグをじっくり弱火で焼くと、かなり美味しく仕上がるぞ」
「……応用が利くのね……」
で、その華琳なんだが……自分で作ったバターが入った容器を手に、おもちゃを手に入れた子供のような瞳をきらっきら輝かせていた。
やばい、こんな華琳初めてだ。
食のことでは多少人が変わるのは知ってたけど、ここまでなのは初めてだ。
パンをパンのままでしか食べず、しかも今まで食べたのは硬いパンばかりだったというのだから、今回のは随分と衝撃的だったのはわかるけどさ。
むう、でも……ちょっとだけ、その……あの。
「………………ハッ!」
い、いやいや、撫でたくなったりなんかしてないぞ? 珍しく子供っぽい華琳をそんな、いい子いい子したいだなんて。───落ち着け俺、なんかいろいろと安心した所為か気が緩み始めてる。気をしっかり持て、おかしな気は起こすんじゃないぞ~~……!!
そ、そう、いっそ一度無我の境地に! 欲を無くして仏の領域に達するつもりで! だだだ大体気安く頭を撫でたりしてみろ! 春蘭や桂花が黙ってないし、今のこの状況じゃあ二人きりになんてなれないし、二人きりの時でもなければそんなことは出来っこないし、出来たとしてもまたビシッと額を叩かれたりして……いやそもそも今の華琳を可愛いと感じたわけであって、二人きり時にまたこんな顔を見せてくれるとは到底思えないしあぁあああああだから煩悩消えろぉおおおっ!!
「ちょっとあんたっ、気色悪いから視界でうぞうぞ蠢かないで見えないところで干乾びてなさいよ!」
「今日初めて交わす言葉が“干乾びてろ”ってお前……」
いつの間に居たのか、自分の煩悩に頭を抱える俺にツッコむ桂花さん。
ああでもお陰で戻ってこれた。
本気で落ち着け俺、煩悩もなにも、支柱になったからってそんなことが起こるわけがないじゃないか。真名も許してもらったし握手もしてきた。それは確かな信頼であり、友としての思い出な筈じゃないか。
そうだよ、こんな煩悩を友達に向けるのが間違ってるんだ。
貴方なりの甲斐性というものを見せてみなさい。
三国を愛し、三国を受け容れ……三国に死する貴方で在りなさい。
天が御遣い、北郷一刀。
そっと、華琳に言われたことを思い返してみる。
俺なりの甲斐性……三国を愛し、三国を受け容れ、三国に死する俺。
あの時、華琳と絶に誓ったように、真剣に求められれば受け容れようとは思っている。もちろん、半端な気持ちでなんて無理だ。真剣に想い、受け容れ、その上で。
その後もし、他に好きな人が出来たというのであれば、その相手を一発殴った上で託そうと思った。もちろん本気なら。政略結婚とかいいです。
その時の俺がそんなに簡単に諦められるのかは、その時になってみないとなんとも言えないし、出来るかぎり考えもしない。
今は……今の俺に出来ることをしていこう。
何度も何度でも、同じ覚悟も違う覚悟も胸に刻みながら。
「一刀一刀~っ♪ お酒っ! お酒ないの? ねぇお酒~♪」
「……冥琳。このウワバミさん、なんとかならない?」
「無理だな」
『即答!?』
そんな覚悟もどこへやら。
どんな時でも酒を求める元呉王とともに、冥琳の即答に大変驚いた。
「普段からどれだけ心労かけてるんだよ……」
「べ、べつにそんなにかけてなんかないわよー! いつもいつも、そのー……」
ぶちぶちと言いよどむ雪蓮の図。
この態度だけでももう十分なんだが、てっとり早く知る方法としてお酒のことならなんでもお任せなあの人に声をかけてみることにした。
「祭さ~ん、雪蓮がお酒が飲みたいって~」
「なんじゃまたか。策殿よ、そう何度も飲むのは感心せんぞ」
『───』
……で。
返った言葉に雪蓮がさわやか笑顔を見せ、そのままの表情で汗をだらだらと流した。
そして祭さん、あなたがそれを言いますか。
「雪蓮……? 酒飲みも無茶振りも大概にしないと、本気で冥琳が心労死するぞ……?」
「うぐっ……だ、大丈夫よっ、だって冥琳、なんだかんだで無茶なことを自分の知識でなんとかするの、好きだしっ」
「………」
「ほんとだってば! なんでそこで胡散臭そうに見るのよもー!」
「日頃の行いの所為だろ」
「ぁぅぐっ……! ~……むうっ……!」
あっさりと言葉を返すと、雪蓮は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
けど……無茶なことをなんとかするのが、か。
じゃあ場違いだけど、ひとつだけ頼んでみようか。
「なぁ冥琳、ひとつだけ頼んでみたいことがあるんだけど、いいか? あ、もちろん無理だったらいいし、あくまで“頼んでみたいこと”だから」
「北郷……ああ、なんでも言ってみろ。お前には借りがある」
「いや……借りがどうとかじゃなくて、厚意で頷いてくれるとありがたいんだけどな。えと……呉のみんなと美羽───」
「無理だな」
「また即答!?」
美羽の名前が出た途端に却下だった。
呉のみんなと美羽との間のぎくしゃくをなんとか出来ないかと訊こうとしたんだけど。
「んー……なぁ雪蓮? 雪蓮は今でも美羽のことが嫌いか?」
「嫌いね。でもまあ……この三日の間、様子を見てたけど……随分と丸くなってて、悪い気はしないわ。一刀に従順で可愛いもんじゃない」
「そう思うんだったら───」
「でもだめ。そういうのってほら、一刀ならわかるでしょ?」
「……そりゃ、誰かに言われて許す許さないって決めるもんじゃないだろうけど」
「あ、言っておくけど袁術ちゃんに言ったところできっと同じよ? 今のあの子だったら“一刀がそう言うのなら”~とかそんな理由で話し掛けてきそうだし。それじゃあもっと許せないわ」
そりゃそうだ、そんなのは俺だって嫌だ。
「まあこのまま気まずいのも嫌だし、避けられ続けるのもヘンに居心地悪くて嫌なのよ。だから───」
「だから?」
「袁術ちゃんから接触してきて、袁術ちゃんから謝るんだったら許すわ。決定するのはもう蓮華の役目だけど、わたしはもうべつに袁術ちゃんへの恨みとか怒りとかは無いから」
そう言って、彼女は厨房の卓に肘をついた手をひらひらと揺らして笑った。
もう恨みも怒りもないって……お、大物なのか暢気なのか……。
でもまいった。
俺が、雪蓮がこんなことを言ってたぞ~なんて美羽に言えば、美羽は俺に言われたからって理由で向かいそうだし……そうなったら雪蓮は許さないだろうし。
かといってこのまま放っておいても、美羽から話しかけるなんてことがあるかどうか。
「……なるほど。“これ”にも精神的な成長を望むところだが、それは袁術にも言えること、ということか」
「……なるほど。たしかに“これ”には精神的に成長してもらいたいと、結構思ったことがあるけど」
「ちょ、ちょっとちょっと、二人して人のことを“これ”とか言わないでよ」
困り顔で一応止めに入る雪蓮に「まあまあ」と返して、どうしたものかと考える。
そりゃあ、美羽はきちんと……少しずつではあるが、以前の美羽よりも成長する努力をしている(……と思う)。呉でどれほどの勝手っぷりを発揮したのかまでは知らないが、知らなくても拳骨する前までの美羽がどれだけ我が侭だったのかくらいは俺にだってわかる。
あの我が侭が人の命を左右していた時代があったっていうんだから恐ろしい。我が身がその場にあることを仮定として置いてみると、ちっとも笑えたもんじゃなかった。
そりゃ、簡単に許せるわけもないか。
「……? そういえば、っと、話は変わるけど、桃香は?」
「桃香? ああ、あの子ならあそこで華琳に料理習ってるわよ」
「料理を? 桃香が……へぇ……」
促されるままに視線を動かせば、デザートに夢中な将たちがごったがえす賑やかな厨房の中、釜戸に向かってお玉を手にする王と、それを見守る王が一人ずつ。
訊けば、「蜀に居た頃から華琳に料理を教わってるのよ」だそうで───ようするに、華琳がいろいろと纏めに蜀に行ってた頃から教えてもらっているってこと……らしい。あの華琳が料理を教えるなんて……もしかして俺は、意外に珍しい光景を目にしているんじゃなかろうか。……ああ、なのに自らが味見で気絶する料理を作られちゃ、指導もしたくなるか。
ていうか華琳さん、さっきまでそこでバター手にして目を輝かせておりませんでした?
「うちの蓮華にも一緒に教わったら~? って言ってみたんだけどね、あの子ったら“必要ありません”としか返さないのよ。せ~っかく料理の腕を盗んでもらって、美味しい料理をず~っと作ってもらおうっていい案、思いついたのに」
「自分で作りなさい自分で」
「北郷の言う通りだぞ、雪蓮。お前はやれば出来るんだからな」
「いや冥琳? それはちょっと」
まるで親ばかのオカンみたいだー……などとは言えるはずもなく。
続く言葉を出せない俺を、冥琳はただ不思議そうに見つめてきていた。
「……こほん。じゃあ、余った材料で何か適当に作るか。雪蓮、なにかリクエス……もとい、食べたいものはあるか?」
「私、またあいすがいいわ」
「太るぞ」
どこまで食うんだと言う目を向けてみても、雪蓮は不敵に笑むだけだ。一口ずつって約束のアイスを一人でがつがつ食っている姿は、なるほど……確かに不敵かもしれないが。
そんな不敵さんが目を伏せ自分の胸に片手を当て、少し踏ん反り返って仰った。
「食べ物ごときに負けるほど、やわな鍛え方なんてしてないわよ。だから一刀は安心して美味しいあいすを作って頂戴な。大丈夫大丈夫~♪」
……。
届ける言葉を頭の中で検索してみた。
……検索件数、1。
「冥琳、よく見ていてくれ。天ではこういうことを言うヤツほど太るんだ」
「なるほど、よーく見ておこう」
「ちょっ……ちょっとー!」
天という言葉に明らかな動揺を見せる雪蓮をそのままに、冥琳と軽く笑い合ってから釜戸へ。そこで奮闘している桃香を横目に、俺も腕をまくっ───……たら、まくった腕……ではなく、袖がちょいっと引かれた。
何事かと振り向いてみれば、少し遠慮がちに俯き、しかしこちらはしっかりと見る蓮華。
「蓮華? どうかしたか?」
……ていうか蓮華もさっきまで居なかったはずなのに……この世界のみんな、気配を消すのが上手くて困る。
ともあれ訊ねてみると、蓮華は顔を赤くしながらちらりと……桃香と華琳を見る。
「………」
「………」
「………………」
「………………」
戻された視線が俺と重なる頃には、その瞳は期待と不安に揺れているようで。
…………つまり、なんだろう。
(あれか、雪蓮には必要ないと言ったものの、やっぱり教わりたくなったから仲介を頼む……とか?)
い、いやいや、それなら俺じゃない人にも頼めるだろ。じゃあ───……じゃあ。
「……えと。普通にしか出来ない……ぞ?」
「! あ、ああっ、それでいいっ!」
間違ってたら気まずいなと思いながらも、言ってみればビンゴ。
本当に俺に教わりたかったようで、蓮華は顔を赤くしながらも頷き返してくれた。
「………うあ」
ごめん、アイス作るの少し遅れそうだ~……と報せようと、卓の雪蓮を見てみれば……雪蓮は楽しそうに手を振り、恐らく酒が入っているのであろう小さな猪口を傾けるとけたけたと笑った。
……ああ。いつか絶対にデコピンくらいかましてやろう。
王じゃなくなった彼女なら、そんな些細をすることにももはやなんの憂いも……ない、といいなぁ。自分の思考に溜め息を吐きながら、しかし期待の視線を向ける蓮華に頼られたからには気合を入れてと意気込んだ。
さて。せめて普通以上になれるよう、少し努力をしてみようか。
どうせなら、華琳が教える桃香よりも、蓮華が美味しいものを作れるように───!
…………余談だが。
のちに完成した双方の料理は、一方が味付けがされてなく、一方が目を離した隙に好き勝手に味付けをするというアクシンデントが起き、双方ともに無理矢理味見役にされた雪蓮にダメ出しをくらった。
もうひとつ余談ではあるが、味見役に立たされた雪蓮がお腹を壊して華佗の治療を受けることになったのは……まあ、それこそ余談。
冥琳に「食べ物ごときに負けぬのではなかったの? 麒麟児殿」とからかわれたのも合わせての、内緒のお話だ。
今~、わぁ~たしのぉ~、ねが~ぃごとがぁ~!
かなぁ~うぅ~なぁ~らばぁ~!
……時間をください。