そしてごっちゃりしてます。
「俺が天の御遣いだ」って言った途端だった。
賑やかだった料理屋の喧噪は一呼吸のうちにピタリと止まり、次の瞬間に生まれたのは俺を睨む幾多の視線。
“もう少し親密になってからの方が良かったか”なんて考える暇もなく、人気の無い場所へと連れてこられ、壁に叩きつけられた。
人気が無いなんて言っても、俺の目の前には結構な人数が居て、鋭い目付きで俺を睨んでいるわけだが。
「お前が天の御遣いだったとはな……。ここには何の用で来たんだ……? 偵察か……!?」
俺を壁に叩きつけたのは、さっきまでの息子の死についてを話し、酒を呑んでいた男性だった。“見る者全てが敵”って目をしていて、一目で周りが見えていないのだろうと思える様相。
怒りのためか目が血走っていて、握る拳もぶるぶると震え、語気も段々と力が篭っていっていた。
「それともなにか? 騒ぎを起こす輩を探して来いって言われたのか?」
「………」
「なんとか言えこらあぁっ!!」
男性は叫びながら、乱暴に俺の胸倉を掴み、顔を寄せる。
ぎりぎりと食い縛られた歯から漏れる荒い息遣いが、彼の怒りを俺に伝えているようだった。
けど……ここで慌てるのはダメだ。
怖がるのもいけない。
どちらかが周りが見えなくなった状態で、もう一方まで暴走するのは一番危うい。
だから、努めて冷静に。
「偵察しに来たわけでも……誰かに言われて来たわけでもない。俺はただ本当に偶然、あの店に───」
「嘘つくんじゃねぇっ!!」
聞く耳持たずだった。
そりゃそうか、相手にとっての俺は、ついさっきまで話していた自分の息子を殺した軍の人間なんだから。
俺が何を言おうが、ただの戯言にしか受け取れないのかもしれない。
幾多の視線に睨みつけられながら、気づかれないように息を飲み、目の前の男性の目を見る。
相手が引くつもりがないなら、俺だって引く気はない。
まさかこんな早くに騒ぎに巻き込まれるだなんて思ってもみなかったけど、無視なんて出来なかった。
あのままおやっさんのところで働き、目の前の人と親しくなってから“自分が御遣いだ”なんて言えば、それこそ裏切られた気持ちにさせていたかもしれないから。
だから言った。自分が御遣いだって。
隠し事をしたまま仲良くなりたいだなんて思えなかったんだ、仕方ない。
(……覚悟を)
静かに目を閉じて、今一度心に刻み込む。
そう、じいちゃんが言っていた。“本気には本気でかからなければ礼を失する”と。
だったら俺も、どんな結果になろうとも自分の本気をぶつけて、意思を通す。
なにかが出来る状況でなにも出来ない自分は、もう卒業するって決めたんだから。
思い通りにいかなかったとしても、せめて彼らが日常を放棄しないように頑張ろう。
「じゃあ……俺がもし偵察に来てたとして、あんた達は俺をどうしたいんだ」
「どうする……!? 決まってるだろうが! 気が済むまで殴って! 謝らせて! それから! それから……! ~……許せるかっ! 死ぬまで殴ってやる! 息子の仇だ!」
「死ぬまで……!? そんなことしたら───」
「同盟が決裂するってか!? はっ、ここでバラして埋めちまえば誰にも気づかれねぇ! お前が勝手に消えるだけだ! 何も変わらねぇのさ!」
「っ……」
本当に……本当に周りが見えてない。
後ろに居る人たちも、目の前の男性の言葉に賛同するようにウォオッと叫び、ギラついた目で俺を睨んでいる。
───どうするべきかを考える。
時間はない。出来るだけ早くだ。
祭さんと話し合ったように、殴られてしまうのはまずい、と思う。
一応俺は客扱いだ。それが民に囲まれてボコられました、というのはまずいだろう。民の諍いを無くすために呼ばれたっていうのに、それに巻き込まれて怪我をしました、っていうのは。
「………」
けど、と考える。
雪蓮は“大丈夫。一人の兵士の死を大事なことだって悲しめる一刀なら、きっとそれが出来るから”と言ってくれた。
調子に乗りたいわけじゃない。でも、わかりたいって思うことだってあるのだ。
呉を内側から変えていってほしいと言った雪蓮の言葉を思い出す。
(たとえば……)
たとえばここで、無傷でいるために逃げたとして、それから───呉の将に守られながら語る俺の言葉が、呉の民たちに届くだろうか。
たとえばここで、全ての攻撃から、罵倒から身を逃がしたとして、それから“貴方たちの気持ちがわかる”なんて言葉を口にして、果たしてそんな言葉がどれほど届くだろうか。
だったら殴られる? 無抵抗のまま、殴られ続け、出てくる罵倒の全てを受け止めるか?
……いや、その場合この人達はほぼ確実に罰せられる。呉に来ている大使をよってたかって殴り続けた、なんて笑えない。国同士の問題として危機感ってものを考えるなら、そもそも名乗り出ること自体が間違っていた。じゃあ黙っていればよかったのかといえば、それも違う。
あの飯店で話を聞いて、顔を知られていた時点で偵察だなんだって言われ、口にする発言のほとんどを胡散臭いものとして受け入れられていたに違いない。
じゃあ抵抗する? いっそ全員を殴り倒してでも無力化させて、襲われたから鎮圧した、と。正当防衛って意味じゃあ真っ当であり、正解なのかもしれない。
後日きちんと話し合いの場を設ければ、冷静には話し合えるのかもしれない。
多対一は学んできたんだ、やれるところまでは頑張ってみるのもいいけど……この人数を相手に素手で? 出来るだけ無傷で? ……いや、無理だろ。どんな超人だよそれ。
そもそも、鍛えた成果を向けたいのは“民へ”じゃないんだ。必要に駆られたのに使わないなんて持ち腐れだとは思うものの、イメージとしてしか多対一をやれなかった上、一斉に襲い掛かられれば簡単に捕まる未来しか想像できない。
……殴るのは最終手段だ。じゃあ、だったら、俺は……。
「~……!」
波風立てないなら、きっと無傷で逃げるのが一番いい。
逃げて、冷静になってから改めて話し合えば……そう思ってしまう。
向き合わずに逃げたくせに、とどうあっても言われてしまったとしても、安全を考えるならそれが一番なのだろう。時間はかかるだろうけど、頑張ることは出来るのだと思う。
でも……どうしてだろう。それをしてしまったら、もう二度と……彼らの“本音”は聞けない気がした。
よせばいいのに、そんなことを考えてしまったから、俺は───
「あんた達は……それで納得出来るのか? それで治まりがつくのか? 俺を殺しただけで、同盟に納得して生きていけっ───!? ぐっ!?」
「うるっせえんだよ!!」
口にする言葉も半端に左頬を殴られる。……殴られて、しまった。
喋り途中だったために頬を噛み、口の中に血の味が滲んでくるのが解る。
これでもう、無傷で逃げる、という選択肢はなくなってしまったのだ。
「どうなったって知るか! もう生きる希望もねぇ……! ねぇんだよ! たった一人の息子だった! 憎まれ口ばっかり叩く馬鹿な野郎だった……けどな! 大事な息子だったんだ! それを……それをてめぇらが! 魏が! 蜀が奪った! なにが同盟だ! 殺された息子のことを忘れて仲良くやれってか!? 出来るわけねぇだろうが!」
隠すこともしない“怒り”という感情が、俺へ向けて振るわれる。
出来る限り避けないと、と距離を取ろうとするも、すぐに背中が誰かにぶつかり、自分を囲んでいる民の一人に背を押され、俺は拳を振るう男の前へとたたらを踏むように突き出された。
「っ!」
振るわれた拳を咄嗟に受け止める。けれどすぐに横から別の人に脇腹を蹴られ、再びたたらを踏む。
次の瞬間には、再度目の前の男性が拳を振るい、俺の腹を殴りつけていた。
「……っぐ……!」
男性は目に涙を溜め、それを散らすたびに叫び、拳を振るって俺を殴りに走る。
頬を、腹を、何度も何度も。
見える部分への攻撃は出来るだけ防いで、もちろん他への攻撃も出来るだけ避けて。
けれどそんな行動が火付けになったのか、後ろに居た人達も暴行に加わり、全員が全員、俺に向けて恨みを吐き出しながら拳を、足を振るう。
「っ……!」
防げば突き飛ばされ、その先で蹴られ───そうになるのを防ぎ、背を殴られ、腹を殴られ、咳き込み、壁に押し付けられ───
(考えろ、考えろ、考えろ……!)
狂気とは呼べない、ただただ深い悲しみに染まった目たちが俺を睨み、口からは恨みを吐いていく。
全て俺が悪いのだと言われているようで、心が辛くなる。
悲しみと恨みだけに飲まれた“人”っていうのは、こんなにも悲しく怖い存在なのか。
殴られる事実よりも、そんなことが悲しかった。
(…………、このまま……)
このまま殴られ続けていれば、いつかは彼らの気は治まるんだろうか。
殴って殴って、殴り疲れた時……彼らは“自分”を取り戻してくれるんだろうか。
悲しみに囚われるだけじゃなく、もっと……生きている今を大事に思ってくれるんだろうか。
(……ち、がう……それは違う……違う、よな……)
……違う。
彼らはきっと治まらない。
俺の“御遣いだ”って一言を簡単に信じて、こうして殴りかかってきている。
周りが見えていないのは事実なんだ。
悲しみが強すぎて、カラ元気でもなければ自分が無くなってしまいそうなくらいの心。
そんな彼らが同じく子を亡くしたおやっさんのところに集まることで、なんとか絶望に飲まれずに済んでいた。
けど、俺が御遣いだって名乗った瞬間、“カラ元気”も“自分”も、保つ必要が無くなってしまったんだろう。
怒りのぶつけどころを見つけて、気が済むまで殴る。
気が済むまでっていうのはいつまでだ? この人数が、この怒りが差す“果て”っていうのはどこにある?
(……簡単だ、俺を殺したその瞬間だ)
彼らはきっと、“人を殺す”っていうのがどれだけ辛いことかを知らない。
知らないからこんな人数で、たった一人を殴り続けられる。
(……なぁ、華琳……俺は……どうするべきなんだろう……)
きっと、望んで息子を兵にさせたわけじゃない。
そりゃあ、中には望んで向かわせた人も、息子さん自身が志願した家もあっただろう。けど、全員がそうなわけじゃないんだ。望んで向かわせた人も、息子さんが志願した人も、自分の子に限ってって、生還を信じていたに違いない。
そんな彼らに俺はどうしてやればいいんだろう。
哀れめばいいのか? 一緒に悲しんでやればいいのか? それとも……死んでやればいいのかな。
(───)
違う。
俺が死んだら、この人達が人殺しになる。
俺はそんなの許せないし、そもそも死ぬわけにはいかない。
哀れみたくなんてないし、“一緒に悲しむためだけ”に謝りたくもない。
だったら……? ───だったら……!!
「……っ」
歯を食い縛って、拳を硬く握って。
一歩を踏み出して───それを、振り抜いた。
「……へ……?」
拳と、肘と肩に重い衝撃。人が一人、俺から離れた。
その一発で、あれだけ騒がしかった喧噪は止んで、俺を殴ろうとしていた目の前の男性の手が停止する。
そんな彼の横で、一人の男性が倒れ伏した。
……俺が、拳で殴ったからだった。
「なっ……て、てめ……!?」
抵抗されるだなんて思わなかったのかもしれない。
男性はこちらが呆れるくらいに驚いた顔をして、俺と倒れた男性とを交互に見た。
「……くそっ……くそくそくそっ……! なんでこんなっ……!」
苛立ちを吐き捨てる。すでに目立つ部位を守りながら、散々と殴られた自分に対してじゃない。眼前に存在する人たちの在り方にこそ、苛立つように。
痛む体を庇うこともせずに、キッと真っ直ぐに睨み返して。
「なんだその目は……! てめ……今殴りやがったのか!? てめぇが! てめぇらが悪いくせに!」
怒りと一緒に踏み込んできた男性の左頬を、
「ぷぎゃあっ!?」
右拳で思いきり殴り───何人かを巻き込んで倒れた彼に一瞥をくれると、苛立ちを、悲しみを吐き出すように叫ぶ。
「誰が悪いとか……! なにが悪いとか……! そんなことを理由に戦ってたんじゃないっ!!」
その叫びに数人が身を竦め、しかし次の瞬間には急に叫ばれたことに苛立ちを覚えたのか、殴りかかってくる。
そんな彼らを、もはや殴られるだけの自分を捨て去った拳で殴り返していく。背後からは狙われないように、壁を背にして。
多勢に無勢にもほどがある状況でも、退くことはせずに殴り飛ばしていった。
相手が誰だろうが関係ない。守るべき民だから、なんて言葉は意味を為さない。相手が殴るっていうなら、こっちだって殴り尽くす。
当然、超人なんて存在じゃない俺は、全てを思い通りに運ぶことなんて出来ず、殴られも蹴られもした。それでも……殴った先で“どうだクソガキが”と笑うように見てくる男性の顔を遠慮なく殴り───殴った上で、言いたいことを全部伝えてやる。相手の本気を受け止めるために、自分の本気をぶつけていく。
「誰かを殺したかったから旗を掲げたんじゃない! 誰かが憎いから武器を手に取ったわけじゃない! みんながみんな、自分なりの泰平を目指して立ち上がったんだ! 殺したくて殺したわけじゃない!」
途端に殴られるが、仕返しとばかりに殴り、地面に叩きつけた。
「泰平だぁ!? だったらどうしてもっと早くに同盟を結んでくれなかった! 最初から争わずにいられたなら、そもそも誰も死ぬことなんてなかったんだ!!」
相手の膝が腹に埋まり、痛みに肺の中の酸素を思わず吐き出し、そうした途端に顔面を殴られた。
「っ……ふざけんなっ! “最初から争いがなければ”なんてこと……! 誰も考えなかったって本当に思ってるのかよ! 争いたくなかったのは誰だって同じだ!」
それでも殴り返す。
手加減なんてしないで、思い切り振り切るつもりで振るった拳で。
「最初から俺達に国を動かすだけの力があればって! “そんな力があったら”ってどれだけ考えたと思ってる!」
「ぐっ……て、めっ……!」
「力を得るために戦った! 戦うたびに誰かが死んだ! 力を得るたびにみんなが“自国の王こそが”って期待した! 期待に応えるために理想を目指して戦った! 自国の王なら平和な未来を、って期待したんだろ!? そんな王を今さら否定するのか!? じゃあ訊くけどな! 期待に応えない王にあんた達はついていけたのか!? 信じることが出来たのか!? 理想を追い続けた王だったから、あんた達は息子を託せたんじゃないのかよ!!」
「っ……うるせぇうるせぇうるせぇええーっ!!」
もう、誰が相手でも返事はきっと変わらなかった。
叫び合い、殴り合い、血を吐きながらも自分の、自分たちの言葉を、怒りを、悲しみをぶつけ合っていく。
痛みに負けて倒れてしまいたくなるのを、歯を食い縛りながら耐えて。
「人の生き死にを背負って、様々な命令を下さなきゃいけない将の気持ち、少しでも考えたことがあるのか!? その決断が間違っても間違ってなくても消えてしまった命があったんだ! 戦だから仕方ないだなんて言葉で片付けられるほど軽くない……軽く思えるわけないじゃないか! だってみんな生きてたんだ! 戦う前まではなんでもない日常の中で一緒に笑ってたんだ! あんた達にとってだけ大切なわけじゃない! 俺達にとってだって大切な命があったんだ!」
「だったらなんで死なせちまったんだ! なんで守りきらなかったんだよ! 強いんだろ!? 国を守るやつらが弱いわけないだろうが!」
「~っ……このっ……! どうしてわかろうともしないんだよ! 王だけで国が成り立つもんか! たった一人が強いだけで、戦で勝てるわけがないだろうが! どれだけ強くたって、どれだけ頭が良くたってなぁっ! 俺達は同じ人間なんだよ! 守りたくても守れないものなんて山ほどあるんだ! 守りたいって思うだけで守れるんだったら……っ……俺だって、……俺、だって……! 誰も死なない“今”が欲しかったよ!!」
涙が溢れる。
滲む視界をそのままに向かってくる人たちを殴り、慟哭する。
殴られようとも蹴られようとも、歯を食い縛って受け止めて。
「俺達にだって魏の兵を殺された辛さがある! 悲しみがある! あいつらが死なずに、今を笑って生きている未来があるなら欲しいって思うさ! 最初からそうだったらって今でも思うさ! でも───でもなぁっ!!」
次々と殴り倒し、殴る数が減っていき、気づけば立っている人なんて二人程度の今。
おやっさんと、料理屋で息子を殺されたことを苛立ちながら話していた男を前に、俺はおやっさんではないもう一人の男に掴みかかり、壁に押し付けた。
その人は俺の手を掴んで抵抗したけど───
「そんな“もしも”に手を伸ばして“自分が生きている今”を手放したりしたら! 死んでいったあいつらの意思や託された思いはどこに行けばいい!? あいつらと目指した平和な世界を捨てるのか!? その世界を選ぶ代わりにこの世界の全てを忘れるっていうなら───そんな世界なんていらない! 辛くても悲しくても、この世界で生きていく!」
「っ……」
「平和を目指したんだろ!? 天下統一を! みんなが笑っていられる天下泰平を王と一緒に! だったらどうして一年も腐ったままで生きたんだよ! たしかに目指した形とは違う泰平かもしれない! けどもう戦は終わっただろ!? 平和になったんじゃないか! なのにどうして笑おうともしないんだよ!」
「……笑う、だと……!?」
怯むことなく思いをぶつけるが───次の瞬間には頭突きをされ、たたらを踏んだところへ腹部に前蹴りをくらい、無理矢理引き剥がされる。
「笑えるわけねぇだろうが! 子を殺されて……へらへらへらへら笑ってろってのか!?」
「づっ……く……! ああ、そうだよ……! 笑わなきゃいけない……! 笑ってやらなきゃ嘘になる……! だって───俺達は生きて“今”に立ってるんだから……!」
「今だぁ!? なに言ってやがる!」
「死んでいったやつらが、争いのない未来を望んで武器を手に戦ってくれたなら……その“今”に立ってる俺達が笑ってやらないで、誰が今を笑ってやれるんだ……! 与えられた平穏かもしれない……望んだ泰平じゃないかもしれないさ……! それでも、“平和”に辿り着いた俺達が“ここまで来れたよ”って笑ってやらなきゃ……っ……あいつらが安心して眠れないんだよぉっ!!」
「!!」
勢いをつけての“ストレート”とも呼べない乱暴な右拳が、男の顔面を捉え、叩きのめした。
「ぶっはぁっ!!」
地面に倒れる男を見下ろしながら涙を拭い、嗚咽と疲労に乱れる呼吸もそのままに歩く。
間違った考えかもしれない。怒られて当然のことかもしれないけど、せめて言葉だけでも届きますようにと願い。
「俺達は……っ……はぁ……! いろんな人の犠牲の上で、今……ここに立ってるんだ……。傷ついた人はもちろん、癒えない傷を負った人……体の一部を失った人や……死んでしまった人たちの思いの先にある今に……、いつっ……!」
「………」
殴られたり蹴られたりした腹部の痛みに、身を竦めながら近づいてゆく。
立っているのは、おやっさんだけ。
倒れながらも聞いてくれている人は居る。
だから、きちんと聞かせるように、痛みに声を震わせながら伝えてゆく。
「そうだ……犠牲の上に、なんだ……! 最初からこんなところに立っていられたわけじゃないんだよ……! 起きたことがきっかけでこうして集まることが出来て、それがあったから続けられることもあるんだ……! だから……っ……頼むよ……! 生きている今を、“どうだっていい”だなんて言うなよ……。“生きる希望がない”なんて……言わないでくれ……っ!」
「………」
体を庇いながら歩み寄った先の彼───おやっさんは、昨日と今日、見てきたそのままの沈んだ顔で、俺を見ていた。
睨むのではなく、“なにも見ていない”ような様相で。
それでも俺は言う。どうか届いてほしいと願いながら。
この世界においてなにが正しいのか、自分は本当に正しいのかなんてのは結局のところ誰にもわからない。
わからないから信じるしかないし、信じるなら貫かなきゃ嘘になる。
だから……たとえ間違っているのだとしても、我を通すと決めたなら歩みを止めちゃいけないんだ。
「足りないものがあるなら補い合えばいい……。届かないものがあるなら、手を伸ばし合えばいい……。不満があるなら言ってくれ……届かないなら叫んでくれ……! 叫んで、自分はこんなにも苦しいんだ、助けてくれって……もっと周りに頼ってくれ……! “それは絶対に届かないものだ”って決めつけないで……わかり合う努力を、っ……!」
言いたいことがあるのに視界が揺れ、意識が保っていられなくなる。
一撃で確実に立ち上がれなくするためとはいえ、氣を無理に移動させすぎた。
ふらつき、倒れないためにと伸ばした手はおやっさんの肩を掴み、俺の体重がそこへと加わる。
けど。倒れてしまう───そう思ったのに、倒れることはなかった。
「補う……? 無くしたものを……子をお前が補えるとでも言うのか……?」
目の前から聞こえるのは歯が軋む音。
触れている手がおやっさんの震えを感じとり、語調が怒りに染まる事実に息を飲んだ時、少しだけだけど消えかけていた意識が戻ってくれる。
「子を失った悲しみを、お前みたいな孺子が補えると……? 不満を言えば届くと……!? 叫べばこの苦しみが! 悲しみが! 届くとでもいうのかぁああっ!!」
だっていうのに、意識が戻った瞬間に思い切り怒気をぶつけられ───思わず、怯んでしまった瞬間。
……鈍い音が、自分の体から聞こえた。
「……、え……?」
見下ろせば赤。
その赤は、俺が着ている服から……いや。俺の腹部から滲み出し、流れていて。
伝う先には赤く染まっていく……ついさっきまで、誰かが美味しいと喜んでくれる料理を作っていたであろう包丁が。
「補える代わりなんて居ねぇ……居るわけねぇだろ! ───届くわけねぇだろ! 俺達の痛みが、命令するだけの将に! お前らはそうやって、自分たちは安全な場所で命令しているだけなんだろう!」
「……っ……あ、ぐ……っ……」
刺された。
そう意識した途端、おぼろげだった意識が無理矢理覚醒させられるくらいの痛みが走る。
「馬鹿者! なにをしている!」
その時だ。
声が聞こえて、自分の感覚が傷口に向かう前に、その姿を視界の隅に捉えた。
おやっさんはその誰かを気に留めることもなく……いや、たぶん怒りに呑まれているから気づかぬままに、俺へと怒りをぶちまけ続けた。
「どうだ刺された気分は! どうせ味わったこともない痛みなんだろう! 息子はそんな痛みよりも、もっと痛い思いをして死んだに違いねぇ! 苦しいか! どうだ! 苦しいかぁっ!!」
……痛い。
頭が考えることを放棄してしまうくらい、痛い。
痛くて痛くて、なにもかもを放棄して叫び出したくなる。
叫べば痛みが引いてくれるだろうか、なんて考える余裕もない。
ただ痛くて、苦しくて。訳も解らないままになにかに謝りたくなった。
“痛い思いをしているのは自分が悪いからだ、だから謝ってしまえ”って、ようやく考えることを始めてくれた頭の中が混乱を見せる。
長く吐けない息がもどかしい。
痛みに呼吸が乱れて、呼吸が苦しくて。
「~っ……」
知らなかった。
ドラマとかで刺された人が、あっさりと倒れていく理由がわからなかった俺だけど、今ならわかる。
人はあまりの痛みの前では、立っていることすら出来ない。
ひたすらに痛みから逃れたいと願うあまりに、体が“立つこと”すら放棄する。
現に俺の膝はゆっくりと折れていき、力を入れないで済む格好を求めるかのように多少の力を込めることさえ放棄しようとする。
(……、でも…………)
……でも。
刺された場所が熱いのに、体は冷たく感じる気持ちの悪い状況でも、視線だけは戻し、おやっさんの目を見た。
つい今まで俺を見て、罵倒していたその目を。
その目は俺しか映しておらず、駆けてはきたが刺激しないようにと速度を緩めた彼女を映さず、だからこそ……ようやく、広がってゆく赤を見て、息を飲んだ。
「ど、どう…………だ………………どう…………」
震え、少しずつ力を失っていく俺を見て、おやっさんはやがて顔を青くしていった。
俺の腹の赤と、血で赤く染まった手を見て、どこか見下すように歪んでいた表情は怯えに変わり、足が震え、歯がガチガチと音を鳴らしていた。
「え……、え……? お、俺……?」
取り返しのつかない間違いを起こしたその姿に、もうさっきまであった怒りなど消え……人を殺してしまうという事実に怯える姿だけが、そこにはあった。
そうだ……どんなに間違っていても、人を殺すなんてしちゃいけない。
まして、この包丁は───誰かを刺すためじゃない、料理で人を満たすためにあるのだから。
「……ち、ちが……違う、俺はっ……! 違うんだっ、これは───! ほっ……ほらっ、すぐ抜くからっ!」
頭がボウっとする。
だから、混乱したおやっさんがなにをしようとしているのか、咄嗟に判断できなかった。
伸ばされた両手が、腹部に刺さったままの包丁を掴んで───そして。ぐい、と引っ張られた気がした。
……それがどういう意味に繋がるのかに気づいたのは、傍まで来ていた彼女の声が耳に届いた時だった。
「よせ! それを抜くな!!」
「へ……?」
聞こえた声におやっさんは振り向いた。
……その手で、包丁を掴んだまま。
「がっ……! ──────!!」
瞬間、噴き出す鮮血。
ぐぢゅり……と、体を伝って耳に残る嫌な音が俺の五感の全てを支配した。
声にならない叫びが場に響き、その声に振り向いたおやっさんの顔に、鮮血が飛び散った。
「え、あ、……えああ……っ!?」
もう、怯えも怒りもなにもない。
ただ、もはやなにがなんだかわからなくなってしまい、目の前の光景の意味だけを求める子供のような目が、俺を見ていた。
そんなおやっさん目掛け、一気に距離を埋めて、己の武器を抜き取らんとする姿が視界に入った。
そんな姿を見たら、もうダメだった。
よせばいいのに、このまま死ぬんじゃないかってくらい苦しい体を無理矢理に動かして……呆然とするおやっさんと、地を蹴り走る───甘寧との間に立った。
「───!? ……なんの真似だ」
甘寧が言う。“信じられない愚か者を見た”といった、冷静さに驚愕を混ぜたような顔で。
ああ、本当に……なんの真似なんだろうな。自分でも笑えてくるよ。
「い、ぐっ……つ…………ぁ……は、はぁっ……は、ぁ……!」
借りた庶人の服が真っ赤に染まる。
あまりの赤さに気を失ってしまいそうなのに、痛みが気絶を許してくれない。
……、今はその痛みに感謝を。今、気絶するわけにはいかないから。
「っ……なにを……するつもりなのかっ……知らない…………けど……っ……はぁっ……! この人を……傷つけるっていう、なら……っ……黙ってなんか、いられない……!」
心臓が鼓動するたびに、脈の鼓動さえもが激痛を走らせ、言葉が途切れ途切れになる。
こんな思いまでして、本当に……なんのつもりなんだ。
自分でそう思えてしまうくらい、今の自分は滑稽だっただろう。
でも。でもだ。
「正気か? そこまで殴られ、刺されてなお民を庇うなど」
「っ……はは……うん、馬鹿みたいだけどさ……正気、だよ……」
「貴様がどう出たところで、その男には相応の処罰が下る……当然、貴様を見極めようと傍観していた私にもだ」
「え……」
傍観、って……それって、俺が囲まれてた時にはもう来てたってこと……?
じゃあ、すぐに助けに入らなかったのは…………もしかして、聞いていたんだろうか、俺と祭さんとの会話を。
「───だが、貴様がこうして間に立つことは無意味だ。……この路地へ踏み入る前に、兵に治療の出来る者を呼ぶようにと伝えた。黙って死なない程度に倒れていろ」
甘寧は俺が刺された事実に眉ひとつ動かさない。
包丁を抜くなとは言ってくれたが、ようするに死ななくて済むかもしれない者を殺したくはなかった程度の忠告。
普通は抗議でも口にする場面なんだろうけど、そんな冷たさを前に、逆に俺は安心していた。
「無意味なんて、そんなこと……ないさ……。は、は……っ……少なくとも、ぐあぁっづぅっ……ぁあああぁぁ……!!!」
「喋るな。本当に死ぬぞ」
ハキハキと喋れもしない俺を横に押し退け、甘寧がおやっさんへと歩み寄ろうとする。
それを、俺は通せんぼするように腕を左右に伸ばした。
「……もう一度訊く。なんの真似だ」
「~っ……刃物……抜かないでくれ……! 罰は……、人を刺した罰は、必要なのかもしれないけど……それは、自国の民に、躊躇なく向けていいものじゃ、ないし……っ、この人は……言って当然のことを言って……届かない思いを、届けようとしただけなんだから……」
「……? なにを言って───」
歯を食い縛る。
人を刺した事実に腰を抜かし、逃げることも出来ないおやっさんを後ろに庇いながら。
そうだ、歯を食い縛れ……力を抜くな。
脱力するのなんて、全てが終わってからでいい。
覚悟を……意思を貫け。どれだけ泥を被ろうと、貫き通すって決めただろ……?
「間に立つことが無意味なんてこと……ない……! 伸ばしても届かない人の手を……繋いであげられる……! 届かない、届けられない小さな声を……代わりに届けてあげられる……!」
「………」
「だから……頼むよ……! っ……辛い、って……苦しいって……助けを求めてる人に、他でもない自国の将が……刃物を抜いて、威圧を向けるようなこと……しないでくれ……!」
甘寧が俺を睨む。
本当に、なにを言っているんだって目で。
内心、呆れているのは俺も同じなんだろう。
誰を呆れるでもない、自分自身を一番呆れる。他人に刺されて、その事実を後回しにしようなんて、本当に馬鹿な話だと思う。誰かから“そんなヤツが居る”と聞かされれば、きっと頭がどうかしてる、だなんて思ったんだろう。……現代に居れば。
でもここは戦が終わったばかりの世界で、これから手を取り合って平和に生きようとしている、大事なスタートラインだ。よその国の男が大使として向かって、他国の民に刺された。……詳しく言えば、冷静さを失い、気が動転したまま勢いで刺してしまった。
刺されたヤツは生きいてるけれど、じゃあその刺した民は殺そう、なんてことにはなってほしくない。
大事なスタートラインだからこそ、見せしめに、なんて考える人だって居るのだろうけど、出来ればそれはしたくないし、そうなってほしくない。
呆れるくらいに甘い考えだって自覚もあるけど、そんな血生臭い処罰は乱世と一緒に置き去りにしてしまうべきだとも思うのだ。
祭さんの言う通りだ。平和をと願うあまりに、それを乱す者の全てを排除することを意識しすぎているのだろう。
それは確かに大事なことだ。
やっと手に入れたものだ、それこそ様々な人の犠牲の上にあるものなんだから。
無くすわけにはいかない……それは当然だよな。誰かの勢いや気の迷いで潰していいものじゃない。
それでも、たとえば……そんな意識がいきすぎればきっと、警備隊がきちんと組まれる前の“曹の旗”の下、あの息苦しい街の光景しか、未来には残っていない気がするのだ。
……届けたい言葉は受け取りたいって思う。けど、常に剣を構えた人を前に、いったい誰が本音を届けられるのだろう。言ってしまえば斬られるってわかってて、そこに自分の悲しみを届かせるには、民と国の偉い人とじゃ差がありすぎるんだ。
刺された全てを許すことは、それはもちろん無理なのだ。
そんなことをすれば、民は人を傷つけてばかりになる。
だから、力を振るわれれば力を振るおう。振るった上で、だからといって刃に対して刃を振るうのではなく、言いたいことは届けてくれって何度だって伝えたい。
貫くと決めた意思を、決めて向かった覚悟を、最後まで責任として刻み込むために。
……ああ、やっとわかった。
この国の王でも重鎮でもない俺に出来ること。雪蓮や孫権に出来なくて、俺なんかができること。
ただ俺は俺として、真っ直ぐにぶつかってやればよかったんだ。
国のことをどうとか言うんじゃなく、民の苦しみ、辛さを受け止めてあげればよかったんだ。
それがたとえ怒りでもいい、王に向かってなんてとても叫びきれない嘆きの全てを、殴れる、殴らせられる立場の自分が受け止めてあげれば。大使って意味じゃ相当無謀だし、華琳には本気で怒られそうだけど。
この国の王は民を傷つけることなんて出来ず、民は王を傷つけようだなんて考えれない。
だから……いくらボロボロになろうとも、俺に出来ることなんてのはこんなことでよかったんだ。……避けられるなら避けて、その上で話したかったけど……だめだなぁ。鍛錬不足だ。
「集団で殴りかかる相手を……自分を刺した相手を庇うというのか? 正気を疑う」
「だよな……うん……。でもさ……疑われてもいい……笑われたっていいよ……それでも俺は、補いたいって……そう思うから……」
だから、痛みの所為でいい加減下げてしまいたくなる両手を、横に伸ばしたまま言うのだ。
甘寧が構えた刃を見ながら───さっきは否定された、補うための言葉を口にした。
“俺の親父たちだ、手を出さないでくれ”、と。
“刺されたから刃を構えて斬る”のではなくて、無力化から入ってくれてもいいから、せめて言葉だけでも受け取ってほしいと願い。
それが暴徒の類なら仕方ないのかもしれない。
こちらがいくら受け止めようが、相手は受け止めてくれないかもしれない。
伸ばした手は伸ばされたまま、相手は握ってくれないかもしれない。
それが泥を被るってことで、道化だなんだって馬鹿にされようとも───伸ばした手は引っ込めたくない。
そんな道化を見て誰かが笑ってくれるのなら、それでもいいじゃないか。
子の死を嘆くだけで、笑むことが出来ないよりかはずっといい。
一方的な気持ちの押し付けなんだとしても、誰かがいつかは踏み込まなきゃ始まらないなにかって、やっぱりどうしてもあるんだ。民を、国を愛するあまりに踏み込めなかった、雪蓮や祭さんが想うように。
そういうことをしてもいいくらいには、この国を愛していると祭さんが言ったように……俺だって、魏のみんなのためにならって思えるものが確かにあるんだから。
死人はさ、そりゃあ……もうなにも伝えてはくれないよ。
どれだけ綺麗事を並べたって、理想でしかないことばっかりだ。
でもさ、生きている人に元気でいてほしいってくらい、故郷から遠く離れた子が、故郷の親を思うくらいには……たとえカラ元気だとしても、元気であってほしいとは考えると思うんだ。
だからどうか、彼らが目指したこの平和の中で笑うことを……忘れないでほしい。
「睨み合うだけじゃなく……もっと歩み寄ってくれ……。言えないことも言い合えるくらい……歩み寄って……。不満を持ったまま、っ……つぅ……! っ……平和の、中に居ても……はぁ……きっと、笑えないから……だから……」
もう力の入らない手で、右手でおやっさんの手を、左手で甘寧の手を取って、触れさせる。
二人は手を繋ぐことはしなかったけど、嫌がって手を振り払うことをしなかっただけでも、俺は嬉しかった。
(あ───)
そうして喜びと安堵を得た途端、体から力というものの全てが消える。
まだ言いたいことがあったのに、力を込めることを放棄した体は、なんの受身もとれないままに地面に倒れ───ず、甘寧に支えられた。
意識が遠くなるさなか、俺を呼ぶ声が何度も聞こえる。
それが、甘寧とおやっさんの声だったことがどこか嬉しくて……それを安心の材料にするみたいにして、俺は意識を手放した。