夕刻が来る。
陽が沈もうとする中、三国から出された三人とともに、俺は城壁の上へと立った。
また華佗の鍼のお世話になることになったが、お陰で腕も痛くない。
「ふっはっはっはっは! 北郷! 貴様、愚かにも魏に挑戦するらしいな!」
「魏は春蘭か。確かに、速そうだ」
「貴様ともなんだかんだと長い付き合いだが……本気でやるのは幾度目か」
「呉は思春か。よろしく。ほんと、なんだかんだで長いよな」
「はっはっは、いやいや、人の関係というのは付き合いの長さだけでは決まらんものですぞ」
「蜀は星か。……まあ、付き合いっていうかメンマだったもんな」
魏は春蘭、呉は思春、蜀は星、天は俺。
その四人が並び、合図を待つ。
右隣の思春が前を見たままに呟いた。
「笑っているが、余裕でもあるのか?」
「いや、勝てればいいなって、そのくらい。でも、本気だ」
「勝つ、ではなく勝てればいいなを本気でか。つくづく志の低い男だ」
「いいんだよ。間違ったら止めてくれる人がいっぱいいる。なら、間違ってでも躓いてでも、助け合いながら“いい支柱”を目指すよ」
「…………そうか。ここで言うのもなんだが───」
「うん?」
フッと思春が笑う。
それとほぼ同時に、端に立つ地和がスタートの合図のために手を振り上げて───
「嫌だ嫌だと逃げ回っていた頃より、いい顔をするようになったな。その顔は、嫌いではない」
「───へ?」
戸惑いが生まれた瞬間、地和の手が下げられた。
それと同時に俺以外のみんなが駆け、俺も慌ててあとを追う。
「え、やっ───し、思春っ! お前っ!」
「フン、ここぞという時に集中出来ん癖は直っていない。やはり貴様は半人前だ」
「おっ……お前なぁああっ!!」
慌てて追うが、スタートダッシュで完全に出遅れた。
妨害はいつでも大いに結構って書いたのは俺だけど、まさか自分が引っかかるとは……!
や、でもまさか思春があんなこと言うなんて思わないだろ!?
……あれ!? ていうか呉なのに雪蓮が出てこないってどういうことですか!?
勝負って聞いた時はうきうき笑顔をしてたくせに、ええいくそ!
「思春! 雪蓮はどうしたんだよ!」
「……走ると胸が揺れて痛いからやめる、だそうだ」
「………」
思春と一緒に重苦しい溜め息を吐きながらも駆けた。
先頭は春蘭、次に星で、思春、俺の順位で駆けている。
さすがに春蘭は速いな……。
とか言っているうちに最初の関門、紙が置かれた場所へと辿り着く。
春蘭は既に紙を開いており、首を傾げている。
すぐに俺達も追いつき、紙を開くやすぐに駆けた。
しかし戸惑う春蘭が紙を開いたまま、俺の背中に声を投げる。
「あっ、おい待て北郷! なぜこの紙に他国の軍師の名前が書いてある!」
「“軍師を連れてくる”って書いてあったろ!? そういうことだ!」
「───な、ななななにぃいいっ!!?」
そう。
この借り物競争、連れてくる軍師は必ずしも“自国の軍師”ではない。
俺は躊躇無く城壁の上から飛び降りると、上空の映像を見ていたみんなのもとへ。
途中で壁を蹴って横に跳ぶと、落下の衝撃を足に籠めた氣で吸収、解放。ようするに化勁で殺す。
蜀で美以と山を駆けずり回った時に、なんとなく得たものだ。
地面に着地すると紙に書かれた軍師───詠の手を引いて、走り出す。
「え、ちょ、なにっ!?」
「はい紙! 書かれてるのが詠だったから協力頼む!」
「えぇっ!? ちょっと! 自国の軍師じゃないの!?」
「軍師からの妨害もありだけど、どうする!? 走りたくなきゃ抵抗してもいいし、答えたくなきゃ答えなくてもいいぞー!」
「~~~……こ、答えるに決まってるでしょ!? 問題出されて答えないなんて、軍師として恥よ!」
「よし!」
了解が得られればこっちのもの。
俺は詠をぐいっと引っ張るとお姫様抱っこをして、氣を籠めた足で地面を蹴り弾く。
「急になにすんのよ! このばかち───ば、ばか!」
「あとでいくらでも謝るから今は勘弁してくれ! この戦い、意地でも勝ちたい!」
見れば、怯える亞莎を強奪せんと襲い掛かる春蘭と、それを守る明命の姿が。
思春は早々にねねを掻っ攫い、壁を蹴ってそのまま城壁を登っ───てぇええ!?
どこまで器用なんだよ思春さん! やばいまずい! これは予想外だ!
あ、あー……でも、ねねだしなぁ。
「って、星は───」
「はっはっは、すぐ横だ、北郷殿」
「ってうぉおあっ!?」
「やあ~」
声がして横を見てみれば、小脇に風を抱えている星が。
風は風で、のんきに「やあ~」なんて言って軽く手を上げている。眼は糸目だ。
「よく無傷で掻っ攫えたな……」
「いやなに。軍から離れ、隅で猫と戯れておったのでな。こうして攫わせてもらった」
「……風……」
「いえいえ、隠れていたつもりだったんですがねー……そこへ猫がぴょこんと現れまして、にゃうにゃうと言うので話しておりましたらこう、後ろから攫われてしまいましてー……」
言っている間に階段を上り、問題を出してくれる兵の前へ。
既に思春がねねとともに問題を出されているようだが───
「貴様……答えない気か」
「ふふーん、ねねがそう簡単に答えると思ったら大間違いなのです」
予想通り、ねねがごねていた。
「では問題です。軍師だけが考え、答えてください。走者が喋ることは禁止されています」
「いいから早く問題を言いなさいよ」
「は、はい、では。───野菜市場に売っている“肉”とはなんでしょう」
「え?」
(───エ?)
…………問題って……なぞなぞ!?
野菜市場に売ってる肉って、あれだよな……“にんにく”。
少し前に天和と人和が“天の、遊びに向いた問題を教えて”とか言ってきたけど、これのためか!? そりゃ確かに同じ問題を教えたけどさ!
「や、野菜市場に…………肉……!?」
あぁああ詠が、詠が悩み始めた!
なぞなぞに対する基本知識がないから、そのままの意味で考え始めてるよ絶対に!
「鳥が何かを食べる時に使う箸とはなんでしょう」
「くちばしですねー」
「正解です」
「早っ!?」
そして俺の隣で、出された問題を即答で解く風の姿が!
くぅ、思えば風と星は最初に出会った頃から仲が良さそうだったっけ……!
「ではお先に失礼する」と言って走ってゆく星を見て、心の底に焦りが生まれた。
「つ、次の問題を要求するわ!」
「では二秒お待ちください」
「くぅう……」
とうとう詠は次の問題を要求。
風の解き方で要領はわかったと思うから、次で一気に解くつもりなのだろう。
「二秒です。二つ連ねて書くと恥ずかしいものとはなんでしょう」
「恥ずっ……!?」
あ。赤くなった───って、何を想像した!?
おかしな方向で軍師さまの思考回路が高速回転してらっしゃる!?
あ、いや、大丈夫、大丈夫だ。一生懸命深呼吸して落ち着かせてる。
「二つ書く……重要なのはここよね。書く…………絵、じゃないわよね。さっきの“くちばし”みたいに単純に考えればいいんだ。書く……字、文字…………文字、文字……あ」
! 気づいた! でも物凄い脱力感だ!
「……答えは“文字”ね? 二つ書くと“もじもじ”になる……はぁ」
「正解です」
「で、その前のは“にんにく”……」
「せ、正解です」
「誰よこんなくだらない問題考えたの!」
「痛っ! ~っ……誰だとか言いながら人の弁慶蹴るなよ……!」
足に痛みを感じつつも、兵から渡された紙を手にし、開く。
そこには───
FU・N・DO・SHI
「これを書いたのは誰だぁああああああっ!!!」
もちろん普通にふんどしと書いてあっただけだが、ああぁあもうどうしてくれようか!
ふんどし!? よりにもよってふんどし!?
こんなもん誰が持ってるっていうんだよ!
と、城壁から下方を見下ろしてみれば、大勢いらっしゃるみなさま。
こ、この中にふんどしの予備を持ってらっしゃる方はいらっしゃいますかー?
……言えるかぁああああっ!!
隣で紙を覗いてきた詠が、何も言えないって顔でこっち見てるよ! 泣けるよもう!
「───! い、いや! 諦めるのはまだ早い!」
詠にありがとうを言うと再び駆ける。
それと同時に、脅迫されたねねが問題を解き、紙を貰った思春も駆けた。
「ちぃっ───悪いが妨害させてもらうぞ!」
「ホォワッ!?」
目の前に鋭い蹴りが突き出された。
慌てて止まったが、思春はそのまま姿勢を正すと駆けてゆく。
「負けられるか! とにかく明命を───アレ?」
明命に頼もうと思ったが、そういえば思春もそのー…………ねぇ?
「……妨害ありならそれも良し!!」
こうなったら思春を掻っ攫ってそのままゴールだ! ……全力で抵抗されるイメージしか浮かばないな。最悪、事故ということで始末されかねない気が……ああもうやっぱり明命だ!
ふんどしと書かれてるからって、ふんどしだけを持っていかなきゃいけないわけじゃないんだから、装着している人を連れていけばなんとかなるはず!
「えーっと明命は───居た! 春蘭と戦って───ってまだやってたの!?」
とにかく一秒でも惜しい!
再び飛び降りると明命を後ろから掻き抱き、そのままの勢いでダッシュ!
自分を抱き締めたのが俺だと知るや、言葉とは思えない謎の悲鳴を上げられたが、それでも無視して今は走る! ……その後ろで亞莎の悲鳴が聞こえたが、今はごめん!
「あぅあああっ……!? かかかっかか一刀様っ!?」
「今はなにも言わずに頼む!」
「あ……は、はいぃ……」
駆ける。
思春のように壁を蹴って登る……のはさすがに無理だから、中庭に入って石段を登ってゴールを目指す。
その際、星と思春と出くわし、二人の妨害攻撃に巻き込まれることに。
「ほう、北郷殿は人物が借り物か……」
「そういう星は…………弓? 思春はリボン……か?」
なんか……差がないか……?
というか、これ明命連れていったら物凄く恥ずかしい思いをさせることになるんじゃ?
……い、否! ここは鬼なるのだ北郷一刀!
負けられない戦いがある……! それが今なんだ!
「っ───突っ切る!!」
「ぬっ!?」
「いい判断だが、させぬっ!」
地面を蹴って前へと出るが、そこを思春に妨害され、隙を突いて駆け出す星をこれまた思春が妨害。そうやって互いが互いの行動を殺し合っているうちに、そこに春蘭が加わり───
「もう借りてきたのか!?」
「まだだ! だが借りにいくまでもない! これを見ろ!」
どうだーとばかりに突き出される紙。
そこには“御遣い殿の服”と書いてあって───ホウワーッ!?
「なんで!? どうして俺の服!?」
「知らん。大方貴様が参加するはずもないと思ったやつが書いて、混ざっていたんだろう」
「───……」
ああ、今俺、血の気が引いてる音を聞いてる。
目の前の春蘭さんがベキゴキと指を鳴らして「さあ……脱げ!」とか仰って───
「うゎわいやちょっ待て待て待てぇえっ! 乱暴に引っ張るなって! これ間違い無く一張羅で、破れたりでもしたら替えがっ───」
「そんなものは知らん!」
「いやぁああーっ!!」
無理矢理脱がされてゆく! 抵抗虚しく強引に!
「そうはさせません!」
「ぬぐっ!?」
しかし俺の悲鳴を聞くや、明命が春蘭の腕に手刀を落とし、瞬間的に握力を奪う。
その隙になんとか春蘭の魔の手から距離を置くことに成功すると、俺は脇目も振らずに逃走を選んだ。
「貴様ぁあ! 誇りある魏の者が背を向け走るとは!」
「走った先に勝利があるんだから、走るのは当たり前だろ!?」
「そんなことは知らん!」
「ああもうほんと無茶苦茶だなぁ!!」
当然追いかけてくる春蘭。
俺の足じゃどれだけ走っても春蘭には勝てない───ならばどうする?
もちろんこうする!
上着を脱いで、中庭方面へ投げることで時間稼ぎを!
「───ってなんでついてきてるの!? 服! ほら服! 中庭に落ちたぞ!?」
「? なにを言っている? 服ならばお前がまだ着ているだろう」
「───」
血の気が再び引いた! そして読みが甘くて浅くてどうしようもなかった!
しかもゴールまであと一歩というところで春蘭に捕まって、無理矢理服を───って、だからどうして強引に引っ張るぅうう!!
「いや脱ぐ! 脱ぐから八つ裂きにせんばかりの力で別方向に引っ張るのやめよう!? そしてさせるかぁっ!!」
『!?』
俺が春蘭に捕まっている間に、横を通り抜けようとした思春と星の足をキャッチ!
目の前のゴールに意識を奪われていたのか、ものの見事にびったーんと顔面から石床に激突する二人。
…………あ、あのー、自分でやっておいてなんですが、……だいじょぶかー……?
「っ……ぐ、ぐぐぐ……~っ……貴様……北郷ぉおお……!!」
「ぐ、く……! よもやここで不意打ちとは……! 勝利を前にすることで、どうしようもなく生まれる隙を突くとは……なかなかどうして、やってくれますな……!」
二人して鼻を押さえながら、涙目でこちらを睨んでくる。
そして俺は春蘭に襲われて涙目だった。
だが、救う神は居た。
「一刀様! ここは私に任せて先へ!」
明命だ。
彼女が再び春蘭の相手を請け負うために立ち、春蘭の両腕を掴み、盾となってくれた。
……つーかあの!? それは嬉しいけど、俺の借り物ってそのー……!
(……後ろから脱がして走れと? ───死ぬだろ!)
無理! でもこの状況で明命を連れて走っても春蘭にあっさり捕まるし、───あれ?
「………」
「庶人暮らしで鈍っているかと思えば、なかなかやる!」
「当然だ! 庶人になろうとも鍛錬を欠かしたことはない!」
視線をずらせば、俺のことなどそっちのけで戦う思春と星。
そして、戦いのさなかにちらりと見えるFUNDOSHI。
「…………ああっ!」
ポムと掌に拳を落とした。
迷わず駆け、星と戦っている思春を抱き締めると、即座に小脇へ抱える。お姫様抱っこだと攻撃される可能性が高すぎるからだ。
それを見るや星も駆け、後ろからは明命を強引に捻じ伏せた春蘭が、恐ろしい速度で走ってきて、って速ァアアーッ!?
「ええい面倒だ! 貴様ごと来い!!」
「うわバッ───そんな強引に前に出たらっ───!」
吐き出された言葉とともに、俺は春蘭に捕まった。
俺達はそのままの勢いで雪崩れ込むようにゴールへ到達し───……戦いは、終わった。
……。
祭りが終わった。
終始騒ぎ続けた会場も今では静まり、俺は城壁の手すり(?)に座り、城下を眺めながらたそがれていた。
みんなで騒ぎ、笑いながらの撤収作業も無事終了。
あとは寝るだけな筈の、とっぷりと暗い夜の空の下。
出る溜め息は何を思ってのものなのか、自然に吐き出されたから自分にも解らなかった。
「随分と暗いわね」
「ん? ……華琳か」
かけられた声に振り向けば、そこには華琳。
どこか呆れた顔をしているようだが、それに笑顔を返す元気もない。
「なにをそんなに辛気臭い顔をしているのかしら?」
華琳が俺が座る横の手すり(?)に肘をつき、俺を見上げながらニヤリと笑う。
ほんと、わかってて言ってるから性質が悪い。
「……華琳も座ったらどうだ?」
「いいわよ。そうしたら、失言をしたあなたを突き落せないじゃない」
「しないからやめよう!?」
また、くすくすと笑う。
それがまた、随分と楽しそうに見えた。
「あなたが今考えているのは、結果のことでしょう?」
「ああ。結局同着だったあの結果のこと」
……そう。最終種目の借り物競争は、同着で終わった。
散々と騒いでみたが、引き分けというカタチで治まった今回の勝負。
みんなはそれぞれ笑顔だったが、俺は……中途半端ってカタチで終わったために、覚悟をどこに向ければいいのか解らなくなっていた。
「悩むのは最後だって決めたのになぁ……まさか決着が引き分けだなんて」
さすがに引き分けた時の条件は固めてなかった。
それを考えるとさすがに笑ってばっかりではいられない。
なにせ引き分けた三国からは、平等に扱うことをお願いされてしまったのだ。
……その、もちろん世継ぎのことも。
じゃあ俺のお願いは? という話にもなったんだが───うん。
「何をそんなに悩んでいるかは知らないけれどね、一刀。勝ちもしたし負けもしたなら、やることなんて一つでしょう?」
「……まあ、そうするしかないんだろうけどさ。いいのかな」
「どちらか一方しか選べないなら支柱になどなれないわよ。そういう貴方だから、私は良しと頷いたのだけれど?」
「………」
「………」
二人で眺める。天下に辿り着いた者の町を。
夜の膜に遮られて、遠くまでは見えない大きな町。
人一人で背負うことなど到底無理だと思う自分と、彼女ならばそれが出来ると頷ける自分。そう考えてみると、人の考え方になんていつだって勝ち負けが存在するのだろうって思えた。
こっちがいい、いいやあっちだ、なんて考えをしながら、自分や他にとっての最良を選び続ける。失敗したって支えてくれる人が居るなら、それだけ自分が立っている位置は恵まれているのだろう。
そんな位置からの歩みに、歩く前からケチをつけていたら誰も進めない。
「じゃ、いいんだな? 歩くぞ、俺」
「好きにしなさい」
「そうなると、俺の一番が華琳じゃなくなるぞ?」
「……好きにしなさい。支柱になろうと、貴方は私のものなのだから」
「……そっか」
その言葉が冷たいとは思わない。
自分だけを見てくれーなんて言葉、この世界で生きてきた人に向けては言えないものだ。
それを思い出せば、我が侭だけを言うことなんて出来やしないのだ。
言ってはみたが、一番じゃなくなるなんてことは俺の中では在り得ないだろうし、たぶん……華琳もそれを知っている。
しかしまあ、今ならまだ受け入れ切る前だから。俺は城壁の柵から後ろへ降りると彼女の隣に立ち、きょとんとこちらを見る彼女の唇を奪った。
「!?」
暴れるけど気にしない。
散々振り回された分を取り戻すために、情熱的なキスを続けた。
「ぷはっ……あ、あなたふむぐっ!?」
離れても再び。
勝ちも負けも一緒、引き分けたなら、せめて願いごとの半分くらいはもらいたい。
国のための第一歩として、望むのが華琳の唇っていうのもおかしな話だが───結局俺はみんなの前でお願いを言うことはしなかったのだ。
考えておくよ、なんて言葉で濁して、そのままだった。
……なので、何を言われても知りません。
俺がどれだけ華琳のことが好きなのかを、この夜に伝えきるつもりで抱き締め続けた。
押し退けようとする力が緩み、互いに抱き締め合うまで、いつまでも。
「……ん、充電完了」
やがて、ゆっくりと離れてからそう言う。
どれだけ唇を合わせていたのか、頭の中が痺れていて、上手く頭が回らない。
それでも心は満たされたから、ゆっくりと離れた。
「……はぁ。覚悟は、決まったのかしら?」
「ああ。我が侭はもう終わりだ。“国に返したくて選んだ道”が支柱なら、俺はその道をのんびり歩くよ。間違いを犯したら遠慮なく叱ってくれ。自分が出来ることと出来ないことくらい、弁えてるつもりだから。そこは叱られてでも成長していくよ」
「そう」
そう言って華琳は笑った。
暗い空の下でもわかるくらいにその顔は赤かったけれど、そんな顔を素直に綺麗であり可愛くもあると思ってしまうあたり、俺は本当にこの人のことが好きなんだろう。
でも……その気持ちとは、少しの間さよならをしよう。
まずは支柱って立場に慣れることから。
都が出来たらそこに住んで、いよいよ本当の支柱になる。
覚えなきゃいけないことは山ほどだ。
「最初は、やっぱりそこまで気負わずにやってみようと思う。最初から全部上手くいくなんてことは無いだろうし、上手くいくようにするには力不足だ」
「ええそうね。無茶を押し通すのは、あなたがその地位に十分に慣れてからにしなさい」
「ああ」
返事をする声に苦笑が混じる。
少しくらいは“そうでもないわよ”的なことを言ってほしかったなぁ、なんて思ったからだ。しかし事実は事実なので、その言葉をしっかりと受け止める。
「でも……はぁ、支柱かぁ。随分遠いところまで来たよな、本当に」
「いきなり弱音?」
「違うって。拾われの御遣いが軍師もどきをやって、次に警備兵、警備隊長ときて、今度は三国の支柱って。他の国の人に多少気に入って貰えたから成り立つことで、もし最初から呉や蜀に行く案がなかったら、自分はどうしていたのかなってさ」
「普通に魏で暮らしていたでしょうね」
「だよなぁ」
その普通に届きたかった自分が、実は居る。
経験は今の自分に劣るだろうが、それでも想像の中の自分は随分と幸せそうだった。
今が幸せじゃないかって言ったらもちろんウソだが、幸せにもいろいろあるんだ。
「ん~……」
「なっ!? ちょ、一刀!?」
その幸せの分を、華琳を抱き締めることで充電。
さっきしたばかりだろうがと言われようが、人の意識なんてそんなすぐには変えられないのだ。……ああ、華琳だ。華琳だなぁ。
いっそこのまま───…………いやいやいや、それはまずい。
そういうことは都暮らしが安定してからって決めたじゃないか。
いやでも、都が出来るまではまだまだかかるだろうし………………ああもう。
「華琳」
「な、なによ」
「好きだ。愛してる。俺、勝手に察するからな。都合のいいように受け取るから」
「………」
言って、ぎゅっと抱き締める。
びくり、と華琳の体が震えたが、少しすると華琳も俺の背に手を回し、力を籠めた。
そして言うのだ。いつもの、なんでもないような口調で、けれど顔を真っ赤にしながら。
「良い心掛けね」
と。