【いやまあ、それでも子供ですから】
子供が駆ける。
知らぬ世界は冒険ばかり。
子供になってから日は経つものの、知らない場所の方が多いこの世界で、彼は四肢を動かし駆け回っていた。
「待って~一刀くん~! はやいよ~!」
「なにやってんだ璃々ー! 駆けっこ早くなりたいっていったの璃々じゃないかー!」
早朝より紫苑からの誘いで、昼食は何処かの飯店で食べることが決定。
朝は既に食し、その腹ごなしもかねての駆けっこ。
中々に広い中庭を駆ける二人を、紫苑が穏やかな笑みを浮かべて見守っている。
男の子を産んだなら、きっとこんな光景が普通に見れたのだろう。
そんなことが頭の中に自然と浮かぶと、昨日はそんな気持ちの浮つきもあって意地悪をしてしまったのかもしれないと結論を得た。
璃々は元気ではあるが、妙なところで少し大人びている。
その割りに少年一刀はなんというか素直で、言われたことに“うん”と頷く子供。
時々ひどく大人びた印象を受けることもあるものの、それが精一杯の背伸びであることに気づくと可愛くて仕方がなかった。
昨日の意地悪はその延長だろう。
「やっぱ氣がないとだめなのかな。ん~っと……ほら璃々、手ぇ貸せ」
「は、はぅっ……はぅう…………う? 手……?」
走り回って息を乱している少女に、少年は手を差し伸べる。
そこに乗せられた手をきゅっと握ると目を閉じて、息を整えていた。
ハテ、と紫苑が首を傾げるが、それがどんな行為なのかなどわかるわけもない。
ただなんとなく、見る人が見れば手を差し出して
……傅くというか、疲れて首を下げている我が娘なのだが。
「ん、んー……あった!」
「えぅ?」
さて。
一刀が璃々の中の氣を探り当てるのと、紫苑がそういえばと思い当たるのとはほぼ同時だったわけだが、まさか自分の娘が自分の主と同じ人に氣を解放させられるなどと思うはずもなく。
少女の中に眠っていた氣はこの時、ぽんと解放されたのだった。
「わっ、わわっ? な、なに……?」
「これが氣だ。俺もねーちゃん……思春ねーちゃんにやってもらった時は驚いたけど、これ使うと走ってもあんまり疲れないんだぜっ?」
「へぇえ、すごいねー!」
「すごいだろー!」
「………」
喜び燥ぐ子供たち。
口を開け、文字通りポカンと停止する母上様。
“そんな、簡単に……!”とツッコもうとするも、二人は早速駆けっこを始めてしまった。こうなると、捕まえるのも一苦労だ。
「………」
諦めて東屋の椅子に座り直すと、駆ける二人を眺めた。
元気なのはいいことだ。わざわざそれを止めることもないだろう。
何か忘れているような気もするけれど、我が子の楽しげな顔を見ていたら───
「───はぅ……」
「璃々ぃいいいいいいっ!!?」
───絶叫した。
考えてみれば覚えたての氣が長続きする筈もなく、早速体の中の氣を使い果たした璃々が倒れると、母は地を蹴り即座に駆けつけた。
「うわぁ璃々!? 璃々!? もう氣が無くなったのか!?」
「あぅうう……なんか……目がぐるぐるするぅう~……」
「り、璃々……平気? 痛いところは───」
「あ、大丈夫だぜ紫苑ねーさん! 俺、こういう時にすることもねーちゃんに教えてもらったから! えーと確か手を掴んで……」
どんと胸を叩いた一刀が璃々の手をきゅっと握り、目を閉じる。
それから氣を右手に集中させると、それを引き出す際に覚えた璃々の氣の色に変えて、静かに流し込んでゆく。
「ん…………あ……? あれ……? あったかい……」
「ど、どーだっ!? 俺もねーちゃんにやってもらってぇえぁぉおおぅ……」
「え? あら……!? 一刀くんっ!?」
そしてまあ、一刀も氣を使えるとはいえまだまだ覚えたての子供。
上手く調節出来ずに送り込みすぎてしまい、ぼてりと倒れた。
「一刀くん!? しっかりっ! ああ、氣を送りすぎてしまったのね……!?」
「う……うおー……だだ、だいじょ、ぶ、だいじょぶ……。“主様”はこれをやっても全然平然としてるって……ねーちゃん言ってたから……。お、俺だって平気なんだからなー……?」
んしょ、と倒れた体を起き上がらせる。
紫苑が寝ていなさいと言うが、なんとなく璃々が見ているところで倒れたままなのは嫌だった───……が、辛いと思ったら素直に辛いと言ったほうがいいかなと改め、ぽてりと倒れた。
格好つけの自分は捨てたつもりだ。
それでいろいろな人に情けないとか思われるならそれでもいいかなと。
知っていてくれる人が居るだけで十分だし、いいよな。……そう思って、ぽてりと。
しかし丁度そこには上半身を起こした璃々が居て、彼の頭は璃々の膝の上へと落ちた。
「う゛……あれ? ごつごつしない……?」
ごすんと草の上に頭を落下させることになっても、どうでもいいやぁと脱力したところにやわらかい感触。見上げてみれば、きょとんとした璃々の顔。
けれどその顔もすぐにふにゃりと和らぎ、「わぁ、膝枕だー」なんて暢気に笑った。
反射的に退こうとしたのだけれど、その体はくすくすと笑う紫苑と、にっこりと笑う璃々によって押さえつけられた。
「えぅっ!? あ、や、え? な、なに?」
「うふふ……疲れているのなら休まないと。それに、倒れたのに勢いよく立ち上がるのは、体によくないのよ?」
「えっ……マジでか!? じゃあ休む!」
「ぷっ……く、ふふふっ……!」
笑ってしまうくらいに素直な反応に、紫苑は自然と笑った。
璃々も笑いながら、目を瞑る一刀の頭を撫でている。
ふわりと静かに吹く風が心地よく、いい天気であることも手伝って、とても穏やかな時間を過ごせた。
ああ、本当に……男の子を産んでいたら、こんな日常を過ごしていたのだろうか。
目を細め、ぽんぽんと仰向けに寝転がっている一刀の腹部を撫でる。
びくりと体が震えて、一刀が目を開ける。
しかし別に危険なことがないと判断すると、目を閉じて呼吸を整え始めた。
まるで犬か猫のようだと紫苑は思った。
「つんつん~♪」
「うあー、やめろー……」
「あははははっ」
娘が一刀の髪の毛を摘んで遊んでいるのを見て、顔を綻ばせる。
止めようかとも思ったが、言葉こそ棒読み的なアレだったものの、嫌がってはいない。
青年の時もそうだったが、どうにも小さな頃からのクセっ毛のようで、ところどころでハネた髪の毛を璃々に摘まれ、遊ばれている。
しかし剛毛なのかといえばそうでもない。さらりと柔らかい髪だ。ただしクセが強い。
そんな髪を静かに撫でていると、しばらくして聞こえてくる寝息。
どうやら本当に眠ってしまったようで、璃々が呼びかけても返事はない。
「あうー……」
「璃々、疲れた?」
「足がしびれてきたー……」
ふにゃりと泣きそうな顔をする我が子の足から少年をどかし、今度は自分の膝へ。
随分と軽い頭をとすんと乗せると、何故だか自然と笑ってしまった。
「えへへー、璃々もー♪」
「はいはい」
こてりと寝転がった璃々が、一刀の隣に頭を乗せる。
同じ膝の上の娘は機嫌良く“にこー”と笑っている。
そんな少年少女の頭を撫でる紫苑は軽く鼻歌なぞを歌いつつ、静かな時を過ごした。
こんな調子で日々を過ごすことが出来れば、それはそれで幸せなのだろうなと考えながら。そして二人が大人になって結婚でもしたら……などという未来を想像してみると、くすぐったくて笑ってしまった。
それはきっと叶わないことだろう。
なにせこの少年はじきに青年に戻る。
璃々が大人になった時に彼を好きになるかどうかもわからない上に、他国の将との付き合い云々だけでも物凄く奥手な少年だ。きっと年の離れた璃々のことは妹のように見るだろうし、それは成長してもきっと変わらない。
なら今のうちに仕込んでおこうか、とも考えなかったわけでもない。
(………)
考えなかったわけでもないのに、この少年はそう考えるより先に美羽に恋をした。
こっぴどく振られてしまいはしたが、見事な振られ様を見て……その。微笑ましいと思うよりも惨たらしいと思ってしまった自分は、大人としてどうだろう。
頬に手を添えてハァとつく溜め息は、なんのカタチも残さないままに暖かな景色に消えた。
【そして、朱のあの日に辿り着く】
黄親子が蜀に帰ってから少し経ったある日の中庭。
「フンハァフンハァッ!」
じっとしていてもじわりと汗が出る陽気の下、少年は連続でポージングなぞをやっていた。もちろん意味はない。意味はないが、なんか強くなれる気がしてやってみた。
「ヘンだなぁ。アニメの角い金髪男は、こうするとビシバシって音が鳴ってたのに」
子供は様々から嘘と真実を学ぶ。
今回彼が学んだのはもちろん“嘘”でございます。
「…………!」
さて、そんな戸惑いを浮かべる少年の傍に、今回新しくこの都を訪れた将が一人。
体中に傷を持ち、すこしキツ目の目つきをしている女性。そんな彼女は現在、小さくなった己の隊長を前に、目を輝かせて興奮してらっしゃった。
「あ、あのっ、隊長!」
「だーかーらー! 俺は隊長じゃないって言ってるだろー!? 一刀って呼んでって言ってんじゃんかよぉ!」
「い、いえそんなっ……たた隊長を名前で呼ぶなど……! わわわ私には……!」
「楽進はなんていうか、へんだな。なんかずっと俺のこと見てるし」
「いえその……あの。隊長? 隊長はその、子供の頃から鍛錬を?」
「隊長じゃないったら……。子供の頃からって、おかしなこと訊くなぁ。今俺子供じゃんか。子供の頃から~って、赤ん坊の頃からってことか? …………覚えてないなぁ」
女性、楽進こと凪は鍛錬をする元隊長を見て、目を輝かせている。
カタチとしてはキリッとした鋭い目つきなのに、輝かせている。器用だ。
「な、なぁさー……じぃっと見られてるとやりづらいんだけどさぁ……」
「な、ならば一緒に! どこからでも打ってきてください隊長!」
「だから隊長じゃないったら! ……今度、ジョルジュの名前、ちゃんと聞くかなぁ」
「さぁ隊長! どどんと! 思春殿や華雄殿ばかりが将ではありません! 胸を張るのも図々しいかもしれませんが、私も戦ならば多少の自信が! ななななななのでそのっ、お役に立てたなら是非っ、是非そのっ、あのっ、ああああねっ、姉とっ! そのっ!」
「……? 姉? ねーちゃんって呼べばいいのか? なんかここに来るやつらって、俺にねーちゃんって呼ばせたがって───」
「───隊長。これから私が持つ、氣に関する全てを伝授します。いつでもいいです、どこからでも打ってきてください───存分に!」
「ヒィッ!?」
見上げ、ねーちゃんと呼んだ途端、凪の目が“キリッ”では済まないほどに引き締められ、表情から姿勢、纏う氣に至るまでの全てが凛々しく整えられた。それはもう、思わず悲鳴をあげてしまうほどに鋭く冷たく。
しかしながら氣を教えてくれるのならと、彼は地を蹴り全力で向かってゆき───
ギャアアアアアアアアアア……!!
……言葉通り、全てを伝授というか叩き込むような勢いでボッコボコにしごかれた。
……。
目が覚める。
どうやら気絶していたようで、しかし体に痛みは残っていない。
起き上がってみれば傍には凪が居て、脈絡もなく「続きですねっ!」と散歩を喜ぶ犬の尻尾を表すような笑顔で仰った。
その前にどうして痛くないのかを問おうとしたが、問答無用だった。
「隊長は氣の繰り方に妙な癖がありません。それを上手く生かして鍛えていけば、回りくどい練り方をしなくても錬氣が出来ます」
「う、うぇっ……へっ……へはっ……はぁっ……! はぁっ……!」
しごかれて疲労困憊。
なのにその体に凪が触れると、少しののちに体力が回復する。
そして言うのだ。「さあ、続きを!」と。
少年は思った。このお姉さまはいったい自分に何を望んでいるのだろうかと。
最強の男にでもしたいのだろうか。
それともただ一緒に鍛錬をしたいだけなのだろうか。
氣脈に氣が満ちるのを感じつつも、心はぐったりな彼はのそりと空を仰ぐと氣の解放に集中することにした。
なんのかんのありながらも、氣の使い方を学ぶのは楽しい。
自分はどうにも放出系が苦手らしいと思春に言われているが、なんとなくそろそろ夢にまで見たかめはめ波が撃てそうな気がするのだ。
氣の鍛錬でそれが可能になるならば、こんなぐったりな心なんて飲み込んでくれる。
少年が頑張る理由など、たったそれだけで十分なのだ───!!
「いっくぞぉおおお楽進ねぇちゃん!!」
「はいっ! 隊長!!」
そしてぶつかる。
言ってしまえば鍛錬はしたことがあるものの、ぶつかり合う“仕合”のようなものはしたことがないこの二人。
子供になってしまったとはいえそれが出来るやもと思った彼女の心には、もう止めるものなど存在しなかった。いつかは元の隊長に戻ると華琳様が仰っていた。そして、その前に子供の一刀に学ばせたことは大人になってもきっと引き継がれるとも。ならば妙なクセがつく前に出来る限りを学んでもらい、そしていつしか武でも自分を引っ張ってくれる隊長に至ってくれたなら! 少し寂しい気もするが、守られてみたいとも───!
そんな葛藤が彼女を暴走させた。
普段冷静で大人しい人が暴走すると怖いといいます。
これはきっと、そんなことが実際に起こった、とある暖かな季節のこと。
……。
で。
「隊長っ! 汗を拭きます!」
その後はといえば。
「隊長っ! 食事です!」
姉と呼ばれた凪は暴走に暴走を重ね───
「た、隊長っ! そのっ……お、お風呂に……!」
「うわぁあああっ!? ジョジョジョジョジョジョルジュッ!! ジョルジューッ!! 楽進がっ! 楽進がなんかヘンだーっ!! たすけてぇええええっ!!」
風呂に連れ去ろうとしたところで叫ばれ、すぐに思春に止められた。
「少し落ち着け、馬鹿者」
「し……失礼、しました。目先の結果に欲を生むなど、隊長を慕う者としてなんという無様を……!」
「? 目先の……?」
「は、はい、その。華琳様が、隊長がこのままもとの姿に戻ったなら、今の記憶と経験もそのまま残るだろうと仰られて。ここへ来る前にも沙和や真桜にも言われました。頼れる姉のような存在であることを見せ付ければ、元の姿に戻った時にももっと頼ってくれるようになると……!」
「………………いや、あの、な。…………まさかそれが理由で、か?」
「隊長が都に住むようになってからというもの、魏は少々静かでして。そこに来て隊長が子供になったとの報せと、華琳様が都を取り仕切るという話。日に日に弱々しくなってゆく春蘭さまと桂花さまの様子は、見ていて痛々しく……」
「それと北郷を風呂に連れ込むのと、どういった関係がある」
「はい、あの……桂花さまが“幼い内から北郷を自分に夢中にさせておけば、あなたの帰還と同時に北郷も一緒に魏に戻ってきて、華琳さまから悪い虫も消え失せて一石二鳥よ”と……」
「………」
思春、通路にて沈黙するの事。
私たちはこんな相手に負けたのか……と思わず呟きそうになった。
「ひとつ訊くが……それはお前たちが望む北郷の在り方か?」
「いえ……なにせ子供の頃の隊長の姿など、自分は知りませんから……。どうすればあのままの隊長になってくれるのかなどわかりません。ならばいっそ自分らを好んでくれる北郷にしてしまえばいいと、桂花様が……!」
「……時々、本気で思うんだが。軍師を変えたほうがいいんじゃないか……?」
「………」
凪は答えなかった。
頭はキレるし、戦中は軍師としての腕も見事だった。
しかしここぞという時の判断は華琳に負けるものがあるし、頭の中の判断基準が主に華琳と一刀であることにいろいろと問題がある。
華琳には愛を、一刀には嫌悪をといったふうに、好きと嫌いとの最高最低で占められている。なにかしらの作戦中、華琳に危機が及べば華琳を優先させるだろうし、もう少しで何かが成功するという時に一刀が危険だと聞けば喜んでトドメを刺すことに参加、協力することだろう。
この二つが無くなれば相当なキレものになるだろうに、別の意味でキレた軍師。それが筍彧という軍師だった。
「北郷とともに筍彧の授業を見たことがあったが、あれは授業とは呼べんだろう……華琳さまへの褒め言葉と、他への侮蔑の言葉しか吐けないのか、あいつは」
「さすがにそんなことは…………………………あ、ありません、はい」
「………」
「………」
それ以上は口には出さず、目で語る。
頭がキレるのは確かだし、案を出すことに専念してもらい、纏め役を別の者に担当させれば全て上手くいくのではと言おうとした思春も、それはそれで食い違いが出そうだと結論を出し、口に出すのはやめた。
どのみち、個性がありすぎる者が強い立場に居ると、その下の者は苦労するものだ。
「ともかく。これをいじくりすぎるのはやめてもらおう」
「いえ。隊長のお世話は部下である自分が───」
「部下か、なるほど。そういった意味ならば、私も華琳さまに命じられた上に北郷に正式に登用された家臣だが」
「うっ……それは、確かにそうですがっ! その、嫌々やっているわけでは……?」
「嫌ならば嫌と言う。相手が主だろうと、その考え方は変わらない。そもそも“主の命令だから従え”という考え方を、北郷こそが納得していない」
「それは……はい、そういう方ですから、隊長は」
どこか誇らしげに言う。
そんな会話内容に挟まれている当の本人は、まさか自分のことだとは思わずに首を傾げていた。
凪は小さく溜め息を吐く思春を真っ直ぐに見つめ、思春もまた、そんな凪の目から視線を逸らさずに向かい合う。
双方、キリッとした表情だった。
「───では訊ねます。思春殿は、隊長のことをどう思っていますか」
「どう、とは、どういう意味でだ」
「こういった際は、問われて最初に浮かんだ言葉を口にするのが正直な言葉だと秋蘭さまから聞いています」
「………」
ふむ、と考えを纏める。
最初に浮かんだ言葉はなんだろうか。
自分でもう一度、北郷をどう思っているのかと問うてみる。
……浮かぶ言葉はなかった。
が、思い返された光景はあった。
朱を背に振り向く男。
いつかの日、ともに歩んだ朱の景色だった。
「っ……?!」
「思春殿?」
思い返した途端に心に動揺が走る。
どう思っているのか? それ自体に答えはない。なにせ思うより先に光景が浮かぶ。
そこばかりが浮かぶなら、その時に感じた思いが答えなのだろうかと考える。
……さて、では自分はその時に何を思ったのか。
「………………、……~…………、……!?」
思い出そうとするとどうしてか顔が熱くなる。
頭の中にハッキリと映し出された光景を、その場でもう一度見た気分だ。
“笑ってくれ、甘寧”と言われた。
その笑顔を、朱を、思い出しただけで顔は真っ赤になった。
何を思ったのかさえも思い出したら、抱きかかえられて“悪くない”と感じてしまったことも思い出してしまい、余計に顔の灼熱を感じた。
そんな自分を見上げる凪に、なんと返せばいいのか。
「わっ……悪く、ない」
一番最初に何を思ったかを口にしろというのなら、これだろう。
そう思い、赤くなった所為で冷静さを欠いたままに口走った。
「………」
言われた凪はといえば、しばし停止。
悪くない? 悪くないとは…………隊長との関係が?
顔を赤くして悪くない、などと言われるとさすがにいろいろと考えてしまう。
以前の隊長ならば魏に貞操を、といった妙な信頼はあったものの、今はそういったものは無しで付き合ってくれという条件を飲みながら暮らしているのだ。
しかも今は同じ寝室で寝ているという話も聞いた。
「あ、い、いやっ、勘違いをするな。別にあの男のをそういった意味で見る日々が悪くないと言っているわけではなく───」
「……いえ。むしろ自分はそういった意味で訊いています。隊長のことをそういった目で見ているのであれば、そうだと聞かせていただきたいのです」
「う……」
「………」
真っ直ぐな視線は、思春が眉間に皺を寄せても逸れることはない。
正直な気持ちを言えと言いたいのだろう。
正直な気持ち───……女にだらしがないと聞いていた北郷一刀という魏の種馬。
実際に会ってみれば仕事熱心ではあるし、魏のためならばと苦労も楽しむ男だった。
なにより他国のためにも懸命に働く男だ。
嫌いになれと命令されたとして、嫌いになれる部分を見つけるのは中々に難しい。
好きな女性が居るのなら一人に絞れと言いたいところだが、困ったことに三国共通の意思として、三国の父、支柱という位置を認められてしまっている。
「………」
「思春殿」
「ぐ……、っ……ほっ……他の男に比べれば、なかなか骨のある───」
「いえ。他と比べず、隊長だけを見た意見を聞きたいのですが」
「~っ!?」
僅かながらの逃げ道をあっさり塞がれた。
ここまで来れば、適当なことを言うのが逃げであり、はぐらかしでもあることくらいは自覚できる。ならば言ってやればいいのだ。悪くない、ではなく……きちんと北郷一刀という存在を男として意識して、自分がどう思うのかを。
「………」
「…………あの。思春殿?」
考える。
しかし、なんだ。
自分が相手を男として考えてみても、相手は自分を女として見ているのだろうか。
何日も同じ寝台で寝ようと、手も出さなかった相手だ。
その部分では既に警戒していないくらいに無害な存在。
それはつまり、自分を女としてなど見ていないのでは?
「………」
「? なに? ねーちゃん」
自分を見上げる少年を見下ろす。
今は自分を“ねーちゃん”と呼び、様々な質問をしてくる探究心と好奇心の塊のような少年。氣の扱い方を教えてみれば、すぐに吸収してみせた不思議な子供だ。
そろそろ川の中の魚の叩き方でも教えてやろうかと思っていた。
そんな少年を見つめ、何を思ったのかといえば。
「か───…………一刀」
「ふぇ? ……ど、どうしたんだよねーちゃん。俺のこと、名前で呼ぶなんてことなかったのに。───はっ!? お、俺なにかヤバいことした!? いやいやしてないぞっ!?」
名前を呼んでみれば、盛大に慌てる少年一刀。
少年の反応を前に、言った本人は一度深呼吸をしてから大事なことを訊ねた。
「一刀。貴様は強くなれるか?」
「へ? 強く? …………そんなのあったりまえじゃんっ! 俺強くなるぜ? そのうちねーちゃんにだって勝ってやるんだからなっ!」
「その言葉に、嘘はないな?」
「もっちろんっ! ぜってー勝つから、そしたら俺がねーちゃんを守ってやるんだっ! 男女差別とかそういうんじゃなくて、ねーちゃんが難しい顔しなくて済むように、安心させてやるよっ!」
「───…………」
真っ直ぐな瞳だった。
自分の成長を信じて疑わず、成長したなら自分を守ると。
しかもその理由が男だから女を守るというものではなく、いつもしかめっ面をしている自分を安心させるためだという。
その瞬間に感じた気持ちを、どう言葉として表そう。
嬉しい、と言えばいいのだろうか…………上手く言葉を見つけられない。
けれども胸がカッと熱くなったような気がした。
(…………そうだな。貴様は、そういう男だ)
彼はいつか言った。私の笑顔が見たいと。
誰かが笑っている中、私だけが笑っていないのは嫌だと。
それをあの時の都合だけで言ったわけではないということが、少年の彼の言葉で証明された。それが……何故だかとても嬉しい。
「───」
そんな言葉を純粋な瞳と心で伝えられたからだろうか。
思春は極々自然に、自分でもそう意識しないままに手を持ち上げ、少年の頭を撫でた。
少年が、凪が驚く中、初めて見ると言ってもいいくらいに柔かな笑みを浮かべて。
「───ああ。わかった。私の“先”は貴様───いや。お前に託そう、か……い、いや、北郷。ただし、守ると言ったからには半端は許さん。強くなれ、今よりももっともっと強く」
「あ…………お、おうっ! ままままかせとけっ!!」
しばらく硬直し、けれど慌てて胸を張る一刀。
思春は少しだけ首を捻ったが答えは得られず……その答えは、凪だけが理解していた。
少年の顔は真っ赤であり、ようするに思春の笑みに見蕩れていたのだ。
「……なんというか。さすが隊長だと納得するべきなんでしょうか。最近までは袁術を追い掛け回していたと聞いていたのに……」
「? なにがだ?」
「なにが?」
「………」
二人して凪を見て、軽く疑問符を浮かべる。
見つめられた彼女は素直に思った。“思春殿、あなたも相当鈍いと思います”、と。
それから、散々待たせた答えを話そうとする思春に「いえ、答えはもらいましたので」と返す凪は、少しの苦笑をもらして歩き始めた。
釣られて思春も一刀も歩き、ふと漏らす。「ところでどこに向かってるんだっけ」と。
「風呂場ですが」
「っ!? あ、うわぁっ! ははは離せぇえええええーっ!!」
答えた瞬間に逃げ出した一刀の腕をがっしりと掴むと、そのまま笑顔で引きずってゆく。
抵抗してみるが、腕力がまるで違った。
「た、隊長……私もその、恥ずかしいんです……。ですから、あまり抵抗されると」
「じゃあ別々に入ればいいじゃんか!! ねーちゃんも言ってやってよ! 男と女が一緒になんておかしいって! …………はっ!? あれっ!? それだと男女差別が……あれっ!?」
「凪。北郷は一人で入らせると頭を洗ってこない。たっぷり洗ってやってくれ」
「ねぇえちゃああああんっ!?」
「はいっ!」
抵抗虚しく引きずられる少年を見送り、思春は溜め息を吐いた。
認めてしまえば随分と落ち着くものだ。
強引に連れられ、見えなくなってしまった一刀を思い、もう一度溜め息。
「守る、か。あんな子供が、大きく出たものだ」
しかし嬉しいと感じてしまったなら仕方がない。
どう守るのかは別として、せいぜい成長を見守るとしよう。
自分が守られていると感じた時、きっとあの男の“国に返す”という覚悟も終わりに近づいているのだろうし。
「………」
その未来を近くで見れるという事実に、知らずに笑んでいた。
そしてそのまま、笑んでいるという事実に気づかぬままに歩いてゆく。
よく見ている人にしかわからないくらいの小さな笑みだったが、彼女は確かに笑んでいた。