-_-/華琳
軽く睡眠を取り、目を開けた先には積みあがっている書簡竹簡。
既に終わっている仕事の山に軽く笑ってみせ、静かに着替えて扉を開ける。
心が軽い。
もはや自分の邪魔をする者は居ないのだ。
……べつに少し眠くて思考がおかしくなっているなんてことはない筈だ。ええ、私は冷静よ。
冷静だから一刀の部屋の前まで来ると、ノックもせずに扉を開けて……誰も居ないことを知った。
「………」
魏でもあったことを思い出した。
また入れ違いばかりを起こすのだろうかと思うと、自然と口角が引きつる。
……いいえ、待ちなさい? 朝早くなら、一刀は恐らく厨房だ。
まずは水を飲みに行く筈だから、それを追えば……いえ、それも待ちなさい。
追って、“今日は私に付き合いなさい”と言うの?
追ってまで? この曹孟徳が?
「………」
なにやら無性に癪だった。
こんなものはいつでも損な結果しか招かないことなどとうに知っているというのに、それを制御出来ない自分に呆れる。
待ったところであの受身ばかりの一刀が誘ってくるなど有り得ない。
ならば結局自分が行くしかないのだ。
「……!」
しかしここで気づく。
机の上の書簡竹簡の山。
歩み寄り、調べてみればほぼが終わっている。
しかも中には乾ききっていなかったのか、開いたままの竹簡までもがあった。
つまるところ……彼は徹夜で書類整理をしていたのでは?
それはなんのため?
「………」
顔が静かに、少し熱くなるのを感じた。
い、いえ、違うわよ? よく考えなさい曹孟徳。あの一刀よ? あの一刀が、その。私と同じ考えで、徹夜で仕事を終わらせる? 同じ考えで───
「~……!」
だだっ……だから落ち着きなさい!
どうせ結果はどうあれ、なにかしらの呆れるような理由がきっかけで徹夜をしたのはほぼ間違いないのだろうから、妙な期待をするだけ…………そもっ……そもそも、ええ、期待? 一刀に? すすすっ、すすする必要がないじゃないの。ねぇ?
「…………~っ……!!」
勝手に緩みそうになった頬を強く何度も叩き、顔を引き締めた。
とにかく。一刀の考えがどうあれ、仕事がほぼ終わっているのは事実なのよ。あとは一刀を捕まえて連れ出してしまえば、ようやく私は息抜きが出来るのだから……!
「……というか。なぜ私はこんな回りくどいことをしなければ息抜きが出来ないのかしらね……」
ええ、自分自身を納得させる、説得力のある理由をなかなか自分で出せないからでしょうね。
わかっているわよそんなこと。
けれど、楽しいことをしようとするのなら、いろいろな面倒など忘れることだと一刀自身に言われたのだから。
……まあ、相手が小さい頃にだけれど。
-_-/一刀
厨房で水を飲んでから、さあと腕まくりをして調理を開始する。
腕まくりどころか制服の上着自体を脱いだわけだが……油使うから汚れるしね。
「今日はなにを作るのかの」
「朝だからさっぱりと、でも力のつくものでいきたいな」
そんな俺の横にちょこんとスタンバイしているのは美羽だ。
待つのも退屈なので手伝ってくれるという。
いい機会だしいろいろ覚えてくれると嬉しい。
「そういえば……この時代の人って料理のさしすせそとかって───知ってるわけないか」
「うみゅ? さしす……? なんなのじゃ?」
「料理のさしすせそ。さしすせそっていうのが、それぞれの調味料の頭の文字になってるんだ」
「?」
首を傾げられた。
あ、あー……こういう時ってどう説明したものかって迷うよな。
「つまりさしすせその“さ”なら、砂糖とかそういう意味で」
「さしすせそのさは砂糖……ならば“し”にも何かの意味があるということじゃのっ!」
「おおっ! そう、そういうこと! 飲み込みが早いな美羽っ!」
「うははっ、そうであろそうであろっ! もっと褒めてたもっ!」
……褒めるのはいいんだが、ここで褒めると七乃がやってるのとあんまり変わらないのではなかろうか。いやいや、でも褒めてやるのは大切なことだよ。否定的な言葉ばっかりだと、人ってぐったりしちゃうし。
「じゃあ、“し”はなんだと思う?」
「し? し、しー…………シュウマイなのじゃ!」
「それ料理だから! 調味料! 調味料ね!?」
「調味っ……わ、わかっておるのじゃ!? い、いぃい今のはちょっとした冗談なのじゃ!?」
その割には声が裏返ってるぞー。
なんてことを考えつつも、必死に考える美羽を見守る。
なんというか……俺にいいところを見せたいのかどうなのか、美羽は失敗を認めたがらない。素直に認めてくれたほうがプラスになることもあるのに。……や、俺もそういう気持ちはよーくわかるんだけどさ。改めてこういう姿を見ると、華琳の前の俺もこんな感じなのかなーって。……華琳だけじゃないか、じいちゃんや、多分祭さんの前でもこんな感じだったんだろう。
「し……塩! 塩じゃの! 正解であろっ!?」
胸は張るものの、顔が不安に満ちているおかしな態度の美羽。
そんな姿が子供の頃の自分とダブった気がして、少し笑った。
途端に美羽が言葉を改めようとするのを止めて、正解であることを教える。
「正解ならばなぜ笑ったのじゃーっ!!」
怒られた。
懐いてくれるようになってからは珍しいことながら、それでも本気で怒ったわけではないらしく……謝罪と頭撫でであっさりと笑顔。……ううむ、この子の将来が心配だ。
「じゃあ“す”は?」
「うははっ、考えるまでもないのじゃ! そのまま“酢”なのじゃ! ……そうであろ?」
わざわざ訊ねるところがさすがですお嬢様っ! とか七乃なら言いそうだ。
酢って日本人からすれば米酢の印象が強いから、日本が開発したって考えが無駄に染み付いてるんだが……日本へは中国から伝わったらしい。その時点での酢の原料がなんだったのかまではさすがに知らないが、後漢後期の時点では既に存在して……たっけ? この時代で生きてると、いろいろとごっちゃになって困る。特に真桜の開発するものの影響で、もはや何があってもおかしくないって状況になってるし。
「はい正解。じゃあ“せ”は?」
「───」
これはさすがにわからないだろうと、少し意地悪げな心を胸に秘め、ちらりと見つめる美羽の顔。しかし美羽はフッ……と厨房に吹く静かな風を受け流すように笑うと、自信に溢れた目で俺を見つめ返した。
……!? 馬鹿な、まさか知っているとでも……!?
俺は思わずごくりと喉を鳴らし、そんな俺の前で美羽は胸を張ったままに───!
「背脂なのじゃぁああーっ!!」
「なっ、なんだってぇええーっ!?」
無駄な迫力とともに間違っていた。
……。
さて。
美羽が盛大に間違えたのち、“そ”である味噌だけ何故頭の文字ではないのかまでをしつこく訊かれた俺の困惑も今は過去。
見事に拗ねた美羽を宥めつつも作った料理はなかなかに好評で、美羽はすっかり機嫌を直してくれていた。
「大体妾は醤油なぞ知らんのじゃ! それを問題として出すのは卑怯というものであろ!?」
「確かにそうだけど、背脂を調味料だと思っていた時点でいろいろおかしいから」
「調味料ではないのかっ!? ら、拉麺には入っておるから、妾、てっきり……。それに七乃も“お嬢様がそう言うのでしたら調味料なんですよ。お嬢様の中ではね”と……」
「あの人はいったい何の影響を受けて生きてるんだろうなぁ」
機嫌が直ったのは確かだ。現に今はぷんすかとしていた表情を和らげ、笑ってはいる。ただ、なんというかこう……拗ねていれば構ってもらえると踏んだ子供のような状況なんだろう。話しかければ笑顔だし、かといって別のことに意識が向くと服をちょいちょいと引っ張ってくる。
…………惚れ薬の効果が残ってるとか……ないよな?
こうまで構ってオーラが出てると、惚れた身のこっちとしては顔が熱くて仕方ない。
「うん」
さて現在、場所は中庭。
本日の仕事は……特に急がなければいけないもの、無し。
調べればわかるであろう華琳の部屋へはまだ行っていないものの、なんというかこう、探してまで行くのが気恥ずかしい現状にございます。だ、だってほらっ、気になるあの子の部屋を調べてレッツゴーって、ストーカーみたいじゃ…………それは考えすぎか。知らない関係ってわけでもないし。
「主様、今日は鍛錬かや?」
「氣の鍛錬なら仕事しながらず~っとやってるけどな。ただ、そうしてても体を動かしながらの鍛錬は出来ないから」
たまには動かしてやらないと、体が勘を忘れそうで困る。
特に子供の時の感覚が体に染み付いていたら困るし。
ようはあれだ、子供の頃の感覚と現在の感覚の“良いところ”を上手く引き出せるように、体を鍛えていこうって考え。
「じゃ、早速……」
意識を集中させて氣を丹田から全身へ。
体は鍛えられないくせに気脈だけは広がるこの体を、とにかく氣で溢れさせてゆく。
周囲に美羽以外誰も居ないことを確認。気配も探ってみて、まさに誰も居ないことを確認し終えると、はおぉおおと無駄に唸ってみる。
いつもやっているだろうに、なんで視線を気にするんだーと問われれば、格好の問題と答えましょう。や、常々思っていたことなんだが……“氣を解放するのに適した姿勢というのはあるのだろうか”って、他の人は気にならないだろうか。
たとえばドラゴンボールみたいに重心を腰から下に落とすような氣の解放とか、背伸びをするような解放とか……そっちの方が出力が強いんじゃないかーって感じはするよな。漫画とかの影響だろうけど。
じゃあ実際にやってみるとどうなんだろうってことで、ちょっと探ってみようかと思う。
「ん、んんー……んー……はっ! ほっ! はぁーっ!」
いや、掛け声とかでも微妙に変わるかもしれない。
「ぬおおおおーっ!! オアーッ!! ハワァーッ!! ……ほわぁーっ!! ほっ! ほわぁあーっ!! ……きぇえええーっ!! きえっ! きえっ! ひきぇえええーっ!! …………」
よし変わらん。
普通に錬氣するか。
やり遂げた男の顔で、額の汗を優雅に拭う俺が居た。
-_-/華琳
……居ない。
ただし水に濡れた食器はあるようで、どうやら食事はしていったようだ。
侍女に訊いてみれば、確かに食べていったという。
ここでは王ではなく魏からの客、というだけで、その日の将らの行動予定がわからないのは……これで結構面倒なものだ。予定が報されていれば、回り込むことくらい出来るでしょうに。
侍女に訊いてみたところでそれから何処に行ったのかなどわかる筈もない。
「徹夜だというのに鍛錬……は、考えにくいわね。というかそもそも行動が自由すぎるのよ一刀は」
ならばと、最近の仕事馬鹿な一刀の行動を頭に浮かべつつ歩く。
華雄や思春が霞と冥琳についていっているなら、警邏を代わりにやっている可能性がある。
……はぁ。相手が一刀でもなければ、もっと行動が読みやすいのだけれどね。普段は単純で読みやすい行動を取るのに、一歩目から躓かされると次が読めないのよ、あのばかは。
春蘭ほど単純であってくれたなら、呼べばすぐ来るでしょうに。
呼べば…………、───。
「…………こほんっ! ……か、一刀?」
………………。
…………わ、わかってたわよ? ええ、来るはずがないじゃない。
そんなことはどうでもいいのよ、ともかく街へ───
「人というのはどうしてこう、自分の意思に反したものばかりで構築されているのかしらね……」
お腹が鳴った。……ので、朝食を摂ることにした。