-_-/呂琮
───。
「はぁ……姉さまたちは何をやっているのでしょう」
ぽつりと呟く。
城内の一番高いところにて目を凝らす先に、ぷんすか怒る黄柄姉さまと、きあーと叫ぶ周邵お姉ちゃん。
あの二人が組んで何かをしようとすると、大体失敗している気がする。
……それは私がやっても同じなのですが。
「はぁ……目が良くたっていいことなんてないのに。どうして私は知の氣に恵まれなかったのでしょうかー」
甘述姉さまに言わせれば贅沢な悩みだといいますが、甘述姉さまの悩みだって私にすれば贅沢な悩みです。
私はもっと頭を使ったことをしたかった。
こんな、目ばかり良くたって知識面では役立たない。
私は……そう、目が良いからという理由だけで弓をやらないかと何度も勧誘されているのだ。私は、私は知識を活かして人々が楽しく暮らせる街づくりがしたいというのに!
「お陰で鍛錬鍛錬ばっかりで、ちっとも本が読めません……」
今日も鍛錬をサボって逃げ出してしまいました。
いけないことだなーとはわかっていても、私が目指したいのは知識方面であり武ではないので逃げてしまいます。
で、逃げた先で孫策さまに見つかって、町に連れ出され、初めて買い食いの素晴らしさを味わってしまってからは……なんというかこう、サボる楽しさというものを身につけてしまったといいますか。
いえ、私は悪くないですよ? 悪いのはあんなにも美味しかったごま団子です。ごま団子と一緒に飲むお茶のなんと美味なこと。しかもやりたくもないことから抜け出しての至福の瞬間……たまりません。
最初にサボって買い食いをしているところを見つかった時は、あの冷静さで知られる夏侯妙才さまに大笑いされました。どうしてでしょうね……てっきり怒られると思ったのですが。
「むむー」
そんなわけで目はいいです。目は。
ただ、気配察知とかそっちのほうはとても弱いです。
氣もそれなりにあるものの、視覚に特化したものらしくて、近接戦闘はまるで駄目。
いえ、そもそも頭を使うほうが好きなのですから武なんて無くてもいいのですが。
そんな考えだったからか、妙才さまに言われましたね。
目がいいのは良いことだが、気づかれずに背後に回られたらどうするつもりだと。
ええそうなんです。目は良くても気配には疎いのですから、接近されると弱すぎです。
何度か黄柄姉さまの悪戯で、“周邵姉さんが気配を殺して驚かせてくる”、という恐ろしきものがあったのですが……ええ、一度だけではなく何度も。
心臓が止まるほど驚くという比喩は、あの時のことを言うのだと思います。
あまりの驚きに泣き叫び、お手伝いさんに泣きついたのは消したい過去です。
「………」
お手伝いさん。
袁術さまと一緒にわいわいと騒いでいる、白くてきらきらしている服を着ている人。
あちらこちらで見掛ける人で、やさしい人です。
姉さまがたはあの人を父と呼んだりしていますが、母の皆様が忙しくしている中にあって、一人自由に動いている人が父なわけがありません。ええもちろんです。
そう、私には父が居ません。
母が愛した父は、きっと既に死んだのです。
国のための勉学を懸命にこなす尊敬すべき母が愛した父……そんな父は、きっと激しい戦いの末に天下に平和を齎し、戦いの中で負った傷が原因で死んだに違いない。
その頃からお手伝いさんとして働いていたあの人が、私たちの育ての親みたいな感じなのだろう。仕事をしろと姉妹からは言われているけれど、反論しないだけで……あの人にとっての仕事とは、私たちを構うことだったのだ。
「あの人はいい人」
父の代わりとしていろいろな人に陰口を叩かれたに違いない。
その筆頭が筍彧さまなのだろう。
けれども、嫌う人が居ればわかってくれる人も居る。
見回りの兵さんや将のみなさまは、あの人のことを好意的な目で見ている。
仕事をしていないように見えるのに慕われているのは、そうすることが仕事だからに違いない。きっと、いえ絶対にそうです。断言します。絶対に絶対です。
なのであの人を呼ぶ時は“お手伝いさん”。大丈夫、この呂琮だけはあなたの国への貢献を理解していますよ。頑張ってください。いつもありがとうございます。
「………それにしても」
あの人の周りには激しい争いがない。
なんだかんだで険悪な状況を宥めているし、衝突するものがあればその間に入って緩衝剤になっています。……緩衝剤になって、時につぶれていますが。
お手伝いさんなのに元譲さまや華雄さまとの衝突の中に突っ込んでいく勇気は、本当に素晴らしいものです。毎度つぶれていますが。
しかもどうやら私が苦手な気配察知などに特化しているらしく、黄柄姉さまや周邵姉さんが尾行したりするとすぐに気がつく。
私は……遠くからそんな状況を目で見ていられるので、気づかれていませんが。
「柄姉さまが言う、あの人の秘密というものには興味はありませんけど」
能力を隠しているのは確かです。
“脳ある鷹は一線を画す”でしたっけ? 以前、元譲さまが得意顔で仰っていました。
確信が持てないのは勉強不足の証明ですね。もっと頑張りましょう。
でも鍛錬はサボります。私には勉強さえあればいいのです。
……とはいえ、倉庫は危険ですね。陸延姉さまが捕まっているところを見ると、書物が置いてある場所は監視の目がきつそうです。
「とにかく、今は長所を最大限に利用して、好きなことを延ばすことに集中しへああうっ!?」
高い位置から中庭を覗いていた私のうなじに、とんと軽い衝撃。
慌てて振り返ると、そこには静かな微笑を浮かべた楽文謙さまが。
「ななっ、なななっ……」
「与えられたものから抜け出すとはいい度胸です」
静かな笑みなのに怖いです!
目を細めて笑ってらっしゃるのにとても怖い!
「どどどどうしてここがっ!?」
「隊長に散々と鍛えられた私に死角はありません。むしろ人の波に混ざろうとしないだけ、あなたを見つけることは容易い」
「う、ううう……逃げ助けてぇええっ!!」
逃げるが勝ち、を言い終えることもなくあっさり捕まりました。
そしてずるずると引きずられてゆく私。
「うう……あのー、今さらですけど、どうして文謙さまは私に敬語を?」
「隊長の娘であるあなたに失礼は働けませんから」
「曼成さまと文則さまは、ものすごく普通に話しかけてきますよ?」
「あの二人は特別です。隊長相手でもそう変わりませんから」
「………」
どんな乱世をくぐってきたのでしょうね、この人を含めての三人は。
「隊長……私の父のことですよね?」
「はい」
「どんな方だったんですか? 興味津々です」
「どんな、とは……ああいう方だとしか」
言って、中庭で袁術さまと戯れるお手伝いさんを見下ろす文謙さま。
……ああ、やはりあの人は代役を任せられているんだ。
「いえあの……私、知ってるから隠さなくても平気ですよ? 父は……三国の父と呼ばれた尊敬すべき素晴らしき父は……死んだのですよね?」
「何故そうなるのですかっ!?」
珍しく慌てた様子を見せる文謙さま。
それから、真実を語る私を前に必死になってあの人が私の父だという嘘を語ってくれる、やさしい文謙さま。ああ、この人もいい人だ。私のためを思って、あくまでお手伝いさんが私の父だと言ってくれている。
「父は、それはもう素晴らしい人だと母から聞いてます。娘の前で顔を真っ赤にして、聞いているこちらの耳がとろけるくらいに聞かされています。三国の支柱となり、生きる同盟の証そのものとなり、三国の王と種馬という形ではなく本当に好かれた上で、その位置に立っている人だと」
「ええ、はいっ、その通りですっ、隊長は素晴らしい方で……!」
「そんな素晴らしい方が日中歩き回って、娘の状態ばかりを気にしているわけがないじゃないですか。思えばそれを知ることが、父の死とあのお手伝いさんのあり方への確信に近づくきっかけになりまして」
「隊長ぉおおおおおおおっ!!!」
きっぱりと言ったら、文謙さまが頭を抱えて叫んだ。
「あぁああ……! 隊長のやさしさが完全に裏目に……! っ……呂琮さま!」
「え? は、はい?」
「いいですか? 隊長は───」
それから、文謙さまは隊長……父の素晴らしさをそれはもう必死に唱えてくれました。
私が知っていることから私が知らないことまで、それはもう。
しかも、大変驚いたことに父には私と同じサボり癖があったそうです。
なるほど、サボったというのに妙才さまが笑っていた理由がわかった気がします。
というか……父がまさか天から降りた御遣いさまだったなんて。
三国を導いて乱世に平和を齎す天の使者……素晴らしい響きです。
そんなサボり癖を持っていた父も、平和な世界ではとてもとても頑張って、さらなる平和を三国に振りまいていったのだとか。
……ああ、なんということなのか。
「そう……ですか。平和を願い、頑張りすぎたために若くして───」
「だから死んでいないとどれだけ言えばっ!!」
この平和は父のもの。
天を仰げば、見たこともない父が笑顔で見守ってくれている気がしました。
「文謙さま、私……頑張ります。父が愛したこの空の下で、この国のために」
「な、なにか引っかかるところがありますが……ええ、その意気です。では鍛錬を」
「鍛錬は嫌です。勉強を頑張ります」
「自室にこもっている時点でどこをどう受け取れば空の下になるのですかっ!」
「い、家の中も空の下です! それと敬語はやめてください! 父の子だから敬語を話すなら、もし自分に父の子が居たとしたなら敬語で話すつもりだったのですか!?」
「こっ……!? た、隊長と……私の……!?」
文謙さまが顔を真っ赤にして狼狽えます。
てっきり強い反論がくると思っていたのだ大変驚きました……が、同時に理解してしまったことが。もし父との子が居たとしたなら、と軽く“もうそうすることは出来ない”という匂いを漂わせてみたのに、それに対する反応がないのだ。
ああ、やはり父は……。
「偉大なる父上……一目でいいからあなたに会ってみたかったです……」
「だから勝手に殺さないでください!」
「あ、ではこうしましょう。鍛錬はします。弓のみで。的中一回ごとに父の話をきかせてくださいっ」
「……どこをどうすれば、あの呂蒙と隊長からこんな娘が……」
「その娘の前で“こんな”とか言える文謙さまも相当だと思いますが。えと、こんな言葉を聞きました。“反面教師”というものです。私の場合は母が重度の上がり症で恥ずかしがり屋で、子龍さま言うところの舌足らずなカミカミ語なので、ああなってはいけないと強く思いまして」
「……いや。呂蒙はあれで、自分に自信を持った時などはとても───」
「そして私の中の偉大なる父が、お前はもっと輝けと」
「だから勝手に殺さないでくださいと!! あぁああ! しかし隊長が偉大だと思われていることを否定するわけには……!」
文謙さまの中では、なにやらいろいろな葛藤があるようです。
頭を抱えてぶんぶんと体を振るようにして苦しんでいます。
きっと父の思い出を振り返っているのでしょう……心中、察します。(注:できていません)
「……呂琮さまは基本、人の話は聞いていませんね……」
「書物に曰く、人の出鼻を挫くのも戦略の内だとか。ただしやりすぎると相手の怒りを買うだけなので、多用は禁物です」
話術は相手の性格を読んで、自分の言葉で相手の反応を操ることから始まります。
数度言葉を交わしただけで相手の性格が読めれば、もう勝ったも同然です。
……ええ、孫策さまや劉備さまには通用しなさそうですが。
孫策さまは逆に飲まれそうですし、劉備さまはなんというか……少し天然でいらっしゃいますから、気づくと自分のあり方が崩されているんですよね。
…………曹操さまは言うまでもありません。話術で勝て? 無茶です。
正面から切られます。どれほど巧みに向かおうとも、横から攻めようとも、わざわざ横を向いてまで真正面から切ってきます。堂々すぎて怖いくらいです。
「ところで文謙さま」
「はぁ……はい、なんでしょう」
「東屋の影で、曼成さまと文則さまがなにやらやっていますけど」
「───」
文謙さまのこめかみに青筋が浮き上がります。
はい、あの二人のことで煽れば、文謙さまの行動は早いというのが経験則です。
これで文謙さまはあの二人のところへ走り、私は堂々とサボ……あれ? ……あの。この、腕を掴んで話さない文謙さまの手はなんでしょうか。
「私の経験から考えて、二人のことで慌てる私は一人で駆け、呂琮さまをサボらせることに繋がるものと思います」
「はうっ!?」
「ただ……あなたはまだまだ浅い。これしきで騙されるほどこの楽文謙、甘くはありません」
それってそれだけ父がサボってたってことですか!?
……この真面目な文謙さまをそれだけ躱せるとは……さすがは偉大な父です。
「大体、反面教師という言葉が出るのなら、サボろうとするのではなくきちんとですね」
「鍛錬を抜け出して食べるごま団子に勝る食事はないと思います。仕事はします。鍛錬はしません。それが私の反面教師!」
「……呂蒙は文武両道ですが?」
「ううっ!? ……さ、さすが偉大なる母です……私には到底、やろうという気すら起きません……!」
「出来ません以前にやる気すら沸かないのですか……」
「む、向き不向きの問題ですっ、私だって本当はやれば出来る子でっ」
「ではやりましょう」
「え、あ、えとその、明日から───助けてーっ!!」
結局中庭まで連れていかれました。
そののちは当然というか、黄蓋さまにみっちりしごかれ……その視界の隅で、東屋に隠れていた曼成さまと文則さまが文謙さまに怒られていました。
怒られている二人がなぜ正座だったのかはわかりませんが、三国ではいつの間にか常識的に広まっているらしいです。