少し涼しく、しっとりとした空気に包まれる。
奥へと進むと扉は閉ざされ、高い位置にある隙間と燭台以外の光はなくなる。
「さてと」
さあ、調べものだ。
正直に言えばどれをどう調べればいいかなどわからないし、そもそも私は父の筆記を見たことが無いから、どれがどれなのかもわからない。
ただ、重要なものには落款印がある筈だ。
ご丁寧に名前が書いてあるわけもないだろうが、印を探せばそれが近道となるだろう。
魏でならば、北郷隊の隊長の印があればそれでわかったのだろうけれど……許昌に向かうのは時間が掛かりすぎる。ならばこちらで、責任者の名前くらい書かれているであろう竹簡や書簡を調べた方が早い。
「………」
古いと思われるものから調べてゆく。
よくもまあこれだけ溜めたものだと思うほどの量に、軽く眩暈を覚える。
けれどそれでやめることはせず、ひとつひとつにしっかりと目を…………
都の建築についての案件───北郷一刀
……いきなり見つかった。
ちょ……ちょっと待ちなさい? こんな、ひとつ目で見つかるなんて予想外もいいところだわ。あ、いえ、そうね。そうに違いない。どうせこの古いものくらいしか書いたものがないという結果で───
「………」
次。……北郷一刀。次……北郷一刀。次───次……! 次次々……!!
「な……なに、これ……」
純粋に驚きの声が漏れた。
なんだこれとしか言いようがない。
同じ書き方、同じ名前、よく考えられた案。それらが書かれた竹簡書簡の数……。
「………」
ぐるりと、広い倉を見渡した。
書店ともとれるほどの広い場所にある、棚という棚に置かれたそれらの数。
どれを取ってみても北郷一刀の名前があり、どれに目を通してみても落款印があった。
そして、どれを読んでみても感心する内容であり…………私達姉妹が子供の頃からやっていた氣を使っての鍛錬が、北郷一刀が考案したものだということもわかって───
「はっ……は、は……!」
鼓動がおかしい。
初めて怖いものに遭ったような、目には見えない何かに心臓を鷲掴みにされているような内側の圧迫感に息が荒れる。
違う、違う違う違うと、自分の目の前にある事実を心が否定したがっている。
なんだこれは。
どうして。なんで。
だって、ぐうたらな筈だ。仕事をしていたとしても、どうせほんの少しな筈で。
「っ……!」
慌てて、新しい方のものを手に取る。
見てみれば、そこにはあの人が家出する前に書いたものであろう、自分が居ない際に起こるであろうことについてのこと、それに対する対処法、済んだあとの警戒の仕方など、よく考えられたものがそこにあった。
……おまけとして、誰に向けて書いたのかは知らないけれど、“眠いです”と。
「………」
“嫌な方向”での予想が当たってしまった。
やはり寝る間を削って仕事をしていたのだ。
呼吸が荒れる中で、古いほうから飛ばし飛ばしに書簡を見てみれば、私が産まれたばかりの頃のそれを発見。……もう疑う必要もない。そこには、“娘と仲良くする方法”とやらが書かれていた。
「…………っ……」
“俺の鍛錬は華琳から見ても異常だそうだから、娘には見せないように夜中にやる”
“仕事は夜に片付けよう。さっさと済ませて娘と遊ぶ時間を増やす”
“となると部屋に入れるのはまずいよなぁ”
“頭抱えてどたばたして処理するところを見せたくないし、よし立ち入り禁止”
“美羽に鍛錬とかを任せてみている。結構順調みたいだ。つか、これ日記みたいだな”
“いつか娘たちに聞かせようと二胡を猛特訓。でもやっぱり上手くいかん。何故だ”
“なのでまた真桜先生。氣で奏でる二胡を作ってもらった。もうほんとなんでもありだ”
“気持ちの強さで鳴る音が変わるっぽい。あの真桜さん? どうなってんのこれ”
“切ない気持ちで弾いてみたらアアアアェイ゛!!って鳴った。……どうしろと”
“ともかく楽しくなるのは確かだったので美羽の歌と一緒に奏でた。これは楽しい”
「……やっぱりあの二胡……」
となると、彼女の友もやはりあの人。
周公瑾とも友であり、命の恩人であり……
「………」
“調理が上手くいかん! 丕に食べされたら物凄く微妙な顔された!”
“華琳の料理の後だったとはいえ合わせる顔がないので、甘味を届けさせた。そっと覗いてみたら、美味しいっ! と笑顔を弾けさせていた。俺の料理、そこまで微妙か……”
「甘味? 甘味って」
“丕はどうやら、お汁粉とか綿菓子などが好きらしい。今度、驚かせる意味も込めて氷菓子でも用意しよう”
「氷菓子……あいす!? え……え!?」
“どうやら氷菓子も当たりらしい。……料理は普通扱いなのになぁ。もちっと頑張ろう”
“黄柄が酒が苦手という事実が発覚。祭さんが悔しそう。大人になったら日本酒でも送ろう。あれなら多分……いやどうだろうなぁ。気に入ってくれるように頑張ってみるから、部屋の扉蹴り開けて酒に誘うのは勘弁してください”
「日本酒……も……?」
“……丕が俺のこと嫌いになったみたいだ。泣いた。泣いたと言うか泣いてる。だからね、七乃さん? 人が泣いている横で氣の二胡をぎこぎこやるのやめてくれません? いえ、だからってアアアアェイ゛なんて鳴らさなくていいですから”
“仕事中、桃香がやらかしてしまった。なんと禅が部屋に来訪。仕事してる俺を見て、なんだか目を輝かせていた。……それから、禅がべったりになった。なんか感動した。他の娘たち、俺のこと嫌いっぽいもんなぁ”
「…………」
“娘たちがやたらと俺を蹴る。……嫌われたもんだなあ。なにが悪かったんだろう。遊べる時間、頑張って作ってたんだけどなあ”
「っ……」
“だからって手を伸ばさないんじゃ、今までの自分の道に嘘つくことになるよな、うん。積極的になってみよう。というわけで丕の部屋に”
「……あ……」
“あなたなんかのために割く時間などないと言われました。ふふふ、だが甘いぞ丕よ。それしきで諦めるくらいならば、三国を回って歩いた際にいろいろ諦めておるわ。あ、でもちょっとオヤジの店いってきます。いえ折れてませんよ? ただちょっと生き抜きしたいなーなんてうわぁあああん!!”
「…………ち、ちが……わたし、わたしは……」
“寒くなってまいりました。ていうか雪降ってる。せっかく積もったのでいつかのように華雄と雪合戦をした。死ぬかと思った。雪って凶器だよね。物珍しさから、誘えば丕も来るかなと誘ってみたが、結果は……いつまで子供でいるつもり? と鼻で笑われてしまった”
「知らな……かったから……っ……」
“いろいろ言われてきたけどその言葉だけは聞き捨てならん。童心こそ人の原動力だーと叫びたくなった。……なったんだけど、急に大声張り上げても今さら嫌われるだけだろうなぁ。そう思ったら素直に引き下がれた”
「知らなかったの……っ……」
“夜間鍛錬に禅が参加し始めた。娘とする鍛錬……素晴らしい。なので調子に乗って自分の知る氣の使い方などを伝授。……やっぱり簡単に行使してた。人がどれだけ苦労したと……! やっぱり、俺って才能ないのかなぁ”
「う、うぅう……」
“そろそろ心が辛くなってきたので旅に出ようと思う。探さないでください的なことはいつも通りだ。えぇとなに書こう。ああそうそう、最近隊長が誤解されっぱなしなのは、って言ってくれる兵が増えた。前から居たものの、むずがゆいけど嬉しい。けどまあ、今さら教えたところでどうせ最近になって始めたんだろとか言われるだけだろう。だったら今まで通り、誤解されたまま、ああはなるまいと頑張るほうが娘達のためになるだろう。これでいいのだ”
「───」
……目を通した言葉が胸に突き刺さる。
掌返しは嫌いだ。
だから、私はきっとあの人がどれだけ努力していたとしても、その結果を“なにを今さら”と笑っていたに違いない。
なのに現実はこうだ。
書簡の中には北郷隊に関することも書いてあって……いえ、むしろ母に向けた言葉までもがあって、そのどれもが私を心配する言葉や、姉妹を心配する言葉、そして世話になった将や兵、町人らに向けたものも書いてあって。
それを見たら、耐えていたはずの涙がこぼれて……気づけば泣きながら、ごめんなさいを繰り返していた。
……。
あれから何度か日を跨いだ。
警備隊の仕事は相変わらず続けていて、ただ……以前ほど身体は疲れず、少しは慣れてきたのだろうかと自分の手を見下ろした。
ああ、あと……男性を見下すこともなくなった。立派な掌返しかなと思ったりもしたけれど、そんな自分のつまらない意思よりも、父への申し訳なさのほうがあっさり勝ってしまったのだ。
……泣かされもしたし、あれは一種の敗北ととるべきで、負けたなら従う。それでいい。むしろそうじゃないと自分を無理矢理にでも納得させることなど出来そうになかった。
「はぁっ……」
貰った休憩時間に大きく息を吐いた。
最初の頃に比べれば、あまり汚れなくなってきた警備隊の服を見下ろして……誰かにどんなもんだと胸を張りたくなったのは、べつに言わなきゃいけないことでもないだろう。
「………」
街の出入り口をちらりと見た。結構遠くにあるそれだけれど、あの人……父はまだ帰って来ない。こんなにもあの人……うう、父が戻ってくるのを待ったことなどあっただろうか。
訊きたいことが、話したいことが山ほどある。許してもらいたいことも山ほど。
情けないとは思う。でも悪いのは、答えを得たわけでもないのに勝手に誤解した私だ。
だからひとりで謝りたい。集団の一人に混ざって謝るなんて、誤魔化しにも似たことはしたくない。そんな心境の表れなのか、姉妹にはあの倉で見たことは話していない私が居る。
相変わらず父に対してぶちぶちと愚痴をこぼす姉妹に、そうではないのよと言いたい自分が自分の中で暴れているものの、そんなものは自分の今までを辱めることにしかならない。一言で言うと情けないのでやめた。
“私は秘密を知っているんだ”という優越感に浸りたいという感情も、まあ……当然のようにあるのだけれど。
「はぁ……」
憂鬱だ。
父が偉大であったことは素直に嬉しいと感じた。申し訳ないという気持ちはその数倍。
謝って許してもらえる問題かといえば……あの人のことだ、絶対に笑って許す。
そんな確信はあるものの、今までが今までだったために謝ることに躊躇している自分が居る。大変、まことにひどい話だ。勝手に誤解して勝手に見下していたというのに、あろうことか謝らずに済むのならそれでいいのではなんて思っているのだ。
これはいけない。
「うぅ……」
呆れた。私はこんなにも父っ子だっただろうか。
そりゃあ、母がああいう人だから……甘えるといえば父だった。
悩みを話すのも父だったし、母は偉大だとは思っても……近寄りがたかったのは確かで。
「っ……」
少し考えただけでも立派な父っ子だったと自分で理解した。
なんだこれは、ばかなのか私は、と頭が痛くなるくらい。
けれどそれも終わりだ。
素直になるのは難しいだろうけれど、これからは普通に───
「隊長が帰ってきたぞぉおおおーっ!!」
『!!』
誰が叫んだのか、その一言で街の人が一斉に都の出入り口へと目を向けた。
私もその中の一人で、見れば視界のあちこちから警備隊の人たちが現れ、出入り口へ向けて駆けていた。
(ちょっ……ま、待っ……!? まだ、心の準備がっ……! え!? これ、私も行ったほうがいいのっ!?)
行くべきなのはわかっていた。
戸惑った理由は、“隊として行くべきか”を悩んだから。
その割りに、この身体はさっさと走ってしまっていることに、途中で気づいた。
なんと言おうか。
ごめんなさい?
許してほしい?
何も知らずに居てごめんなさい?
いろいろな言葉が頭の中に渦巻いて、けれども兵や町人に囲まれて笑う父を見たら、そんないろいろなど吹き飛んでしまった。
好かれるわけだ、当然じゃないかと彼の凄さを胸に、速度を落とした足を動かして前へ。
周囲の人と話しながら城へ向かう父へ、期待を込めて声をかけて───
「あ、あのっ───」
「? …………」
かけて…………固まった。
父は私を一瞥すると、特に何を言うでもなく視線を戻して……私の横を通り過ぎた。
「え───」
そんな筈はないと振り向いてみても、兵や町人は楽しげに話すのに夢中でそんな違和感に気づかない。
どうして、と手を伸ばしかけるけれど、伸びきる前に心が理解してしまった。
“どうしていつまでも構ってくれると思えた?”
父である自分を見下す娘……そんなかわいげのない子をいつまでも見ている親など居ないのだ。
結論が浮かぶと同時にやるせなさが込み上げて、それは次第に後悔という言葉で塗り潰されて……涙しそうになるのを空を見上げて堪えた。
周りの声も聞こえないくらいの困惑に胸を締め付けられて、呆然とした。
「……ん? んおっ!? ちょ、隊長!? なんで泣いてるんですか!?」
「泣いてないよ!? 僕強い子だもん!」
「いやいやなに言ってんですか!」
なにか騒ぎがあったような気がする。
でも私は自分の中に浮かぶ後悔をどうにかするのにいっぱいいっぱいで、そんな言葉さえ耳に届いていなかった。
「《モチャリ……》ボブネミミッミ……!」
掠れたあの声が大好き……こんにちわ、凍傷という名の麺類です。
いやー……激辛ペヤング大好きです。どうでもいいですね、はい。
今回は5話投稿……まあ二話を分割しただけなので、5話と言えるのかは微妙ですが。
あとお報せをば。
5月の中盤あたりから6月の中盤辺りまで、ちょっと別の用事で更新できないかもです。
それまでにはもうちょっと頑張りたいなぁと。
ではではまた次回で。