翌日。
目が覚めるとけだるい身体を起こして、まずは柔軟体操。
ぼやけていた意識が完全に起きると、氣が回復していることを確認してから着替えて、部屋の外へ。
髪の手入れなどは当然着替えの中に含まれている。大丈夫、完璧だ。
「……えぇと」
部屋に居るだろうか。
今日の隊の仕事は夕方からだから、朝からはまあ時間がある。
まず厨房へ行って水を貰うと、喉に通して息を吐く。
それからはなんとなく中庭へ向かう……と、既にそこには柔軟をする父の姿が。
その傍らには動作を真似ている柄、邵、禅の姿が。昨日はあった登と述の姿は……居た。東屋の傍の斜面でぐったりしている。
ど、どうしよう。私も混ざろうかしら。でも急に行ったらおかしな子だとか思われないだろうか。
とか考えているうちに柔軟を終えたらしい父が駆け出して、それらを追う妹三人。
延と琮は居ないようだけれど、まあ……鍛錬って子たちじゃないものね。
「あ」
「あ」
ぶつぶつと呟いていたら、禅と目が合った。
よ、よしなさいっ、ほうっておいてと目で語ってみるも、わからないのかそのまま私のところまで駆けてくる。ああ、これはあれだ。お節介を焼きにきたのだ。この子は根はいい娘なのだけれど、妙なところで強引で、張り切ると失敗するから……今も妙に張り切っているように見えるし、誘いか何かだったりするなら……乗っかると絶対にろくな目に遭わない。断言する。
「曹丕姉さま! 一緒に鍛錬をしましょう!」
「いやよ」
即答だった。
にも係わらず、禅は私の手をむんずと掴んでぐいぐいと引っ張りだす。
「ちょっ……よしなさい! 私はべつにっ……!」
「だって曹丕姉さま、昨日は柱の影であんなに混ざりたそうにしていたじゃないですか!」
見られてたぁああーっ!!
「なっ……ななななにを言っているのかしら? わたたっ……私が、そんなっ……」
「それにその……少し協力してもらえたらって。……あの、かかさまから聞きました。というか、愛紗さまに相談しているところを聞いてしまったのですが」
「え? 聞いたって、なにを?」
まさか、私が頬を緩ませて足をぱたぱたさせていたという事実を、兵づてで……!?
……ねぇ禅……いえ、公嗣。口、封じてもいいかしら。
「段階を追って話しますけど……落ち着いて聞いてくださいね。今、ああして妙な紙袋を被ってる人……実はととさまです」
「───」
ちょっと待て。あなたはなにか。私がそれを知らないとでも思っていたのか。
やっぱり口封じね。少しぽやぽやしたところがあるなぁとは思っていたけれど、これでは妙なところで口を滑らせる可能性は大だ。
「……公嗣? 私が、それがわからないとでも思ったの?」
「え? ……そ、そうですよねっ!? わからないほうがおかしいですよねっ!? でもでもっ、他のお姉さまがたは気づいてくれないんですっ! 柄姉さまなんて、“校務仮面……恐るべき男よ”とか言って、汗を掻いてもいないのに顎下を腕で拭って……!」
「わからないの!?」
わ、我が妹たちながら、なんともまあ……いえ、これは純粋だと受け取るべきなのかしら。
……純粋でも、呆れていいわよね。
「えと、そんなととさまですが、呉から戻ってきてからおかしいんです。私達のことを見てくれなくなりました。それで、さっきのかかさまの話に戻るのですが」
「そ、それと私がどう繋がるというのよっ! 私はべつにっ、好きであんなことをしていたわけではないわっ!」
「……え? あの、曹丕姉さま? なんの話で───」
「だから! わ、私が、と───あの人の鍛錬を真似て、頬を緩めていたとか……!」
「………」
「………」
「え?」
「え?」
……マテ。
え? いやあの……えっ!?
「ちっ……違う、の? 私の話じゃ───」
「いえ、その。あくまでこれはととさまの話で…………その。曹丕姉さま、そんなことを……」
「───……」
「曹丕姉さまっ!?」
膝から崩れ落ちた。
両手を母なる大地につけて、なんかもう泣きたくなった。
まただ。またなのか。どこまで私は妙な失敗を繰り返せば……!
「あ、あの、曹丕姉さま? そのっ……」
「いいの……いいわよもう……。どうせ私はこれだと思うと勝手に暴走して勘違いする馬鹿者よ……。どうせ母のようにも父のようにも立派になんかなれないんだわ……」
「え? ………………あの、曹丕姉さま? ……もしかして、ととさまのこと」
「ぐっ……!」
言われて、ズキリと胸が痛んだ。
そうよ、今さらよ。今さら知って、今さら構って欲しくて空回りしているわよ! だからなに!? 仕方が無いじゃない! 知らなかったんだから!
そんな気持ちを込めて、涙が滲んだ目で禅を睨んだ。彼女はべつに悪くないのに、ひどい八つ当たりだ。
だというのに禅は嬉しそうに、ぱあっと笑顔になると、「やっとととさまのことを話せるお姉さんが出来ましたっ!」と喜びを口にした。
「え……」
「あ、でも大丈夫です曹丕姉さまっ! 勘違いして暴走して、今の曹丕姉さまのように両手両足をついて落ち込むの、よくととさまもやっていますから!」
「全然嬉しくないのだけれど!?」
いくら私が今、父の姿に焦がれていようと、こんな格好で落ち込むことに喜びを感じたりとか……!
「………」
「……曹丕姉さま?」
「はっ!? な、なんでもないわよ!」
だから冷静になりなさい曹子桓!
こ、こんな、無意識にとった行動が父に似ていたからといって……!
「……こほん。それじゃあ話を戻しましょう。それで……禅? ち……あ、あの人が急に私達の前で鍛錬することになった理由は、なにか聞いている? それとも盗み聞きしたというのがそれに当たるのかしら?」
「たまたま聞こえただけですよっ!? ……うぅ……でもその、はい。理由、と言えるかはわかりませんけど、聞きました」
……それから、禅は語ってくれた。
父が呉で、なにか“どうしてもやらなければいけないこと”を知ってしまい、それをやり通すには強さが必要だったこと。そのために、娘たちに秘密だとか言っていられなくなったこと。どうせ娘達には嫌われているのだから、もう娘達のために時間を作る必要はないだろうと判断したということ。
「………」
愕然。
やはり今さらだったのだろうか。
もっと早くに倉のことに気がついていれば、現状を変えることは出来たのだろうか。
父は……書簡を通して知った父は、覚悟というものを大事にしていた。
あの娘に甘かった父のことだ、今回の決断も相当に悩んだに違いない。
となれば、覚悟だって決めただろうし……現に昨日、登や述がどれだけ苦しがっていても見向きもしなかった。
それを思い出した途端、“もうだめなのかな”と心が弱ってしまい、ようやく緩み方を思い出した頬が、再び強張っていくのを感じた。
妹の前なのだからとか、そんな意識は働かなかった。むしろ、そんな感情は知らなかった。
母のように気高く在れ。
自分の在り方を戒めるように生きてきた私は、こう言うのはひどい話だけれど、子高のように“姉なのだから”を言われたことがない。傍から聞いていてあまり気分のいいものではなかったけれど、そういうものなのだろうと聞き流していた。
だから、妹の前では凛々しい姉で在れなんて言葉も深く知りもしないし、そんな小難しいことを考えていられるほど……今の私には余裕がなかった。
(……あぁ……)
どうしてこうなってしまったんだろう。
あの夕暮れの日、余裕がなかろうが棒読みのような言い回しだろうが、“ととさま”の話をきちんと受け止めていれば……なにかが変わってくれていたのだろうか。
後悔したってもう遅い。
むしろ、わくわくしていた心が打ちのめされてしまい、こんなことなら知ろうとするのではなかったと、心が弱りだして───
「ですので、今が好機です!」
「───……え?」
弱ったところへの救いは、急に来た。
好機? いったいなにが? と目で問いかけると、禅は楽しそうに笑って言うのだ。
「姿を偽っていようとこちらを気にしてなかろうと、あれはととさまなんですよっ?」と。
…………考えてみる。
ろくにあの人を相手にしなかった私と、今の……私達を相手にしないあの人を。
……逆になっただけだ。そんなこと、私だって自分でも言っていた筈じゃないか、今度は私の番だと。
あの人は今まで諦めず、構おうとしてくれていたじゃないか。
それをほんの二日三日で諦めようとするなんて、私は……。
「……ねぇ、禅。あの父だから、謝れば簡単に許してもらえるなんて考えていた私を……愚かしいと思う?」
「許すも許さないも、ととさまはどうせ怒ってもいませんよ? むしろその“どうしてもやらなければいけないこと”が無ければ、今も私達のために時間を作ってくれていたに決まっています」
「………」
眩しいなあ。素直にそう思えた。
愕然とした状態から力が抜けてしまい、座り込んでしまっていた身体を立ち上がらせると、じゃあ、と歩く。
父は今も物凄い速さで城壁の上を駆けている。
追いすがる妹たちは既にぐったりだ。
「禅。あなた……夜中のあの人の鍛錬に混ざっていたそうだけれど」
「? うん。ととさま凄いんですよっ? 今も随分と速いけど、もっと速く走ったり、火の球を出したり、木剣から光を出して飛ばしたりっ」
「……え、あ、ああ、うん……そう」
どうして教えてくれなかったのだという自分勝手な視線に気づくこともなく、我が妹は元気だった。いっそ清々しいほど純粋ね、この娘。
そして、自分よりも父のことを知っていた妹に嫉妬する自分に頭痛を感じた。
…………頭痛なんて割りといつものことね。あぁ頭痛い。
「曹丕姉さま」
「? なによ」
「どうしてととさまのこと、あの人とか呼ぶんですか?」
「…………っ……!」
突き刺さった。
かなり鋭く、深く。
違う、これでも頑張っているのだ。
頑張って父と呼ぼうとしているのに、これまでの日々と妙な自尊心などが邪魔をして、思うように呼べないだけ。
掌返しなんて嫌いだ。だからととさまと呼びたいのに“子供っぽい”などと言い訳をして、ならば父さまと呼ぼうとしてもまだ意地を張る。結果として父になりそうだというのに、なまじ“あの人”だの“彼”だのという認識の仕方をしていたため、呼ぶ時にまで影響が現れてしまった。
「………」
「曹丕姉さま?」
「父と……父と認めるのも躊躇われた時期があったからよ。彼……あの人……と、父さま、が、やっていることを知らなければ、今だってこんなところには居なかったわ」
そうだ。こんな風にまごまごとせず、自分の趣味と称しているもので時間を潰していた筈だ。
だというのに、今の私は……。
「おかしいでしょう? 笑ってくれていいわよ。ていうか笑いなさい。掌返しが嫌いだったくせに、今の私はひどい掌返しを───」
「……あの。それをして、誰が困るんですか?」
「え?」
きょとんとした顔で訊ねられて、訊かれた私のほうが戸惑ってしまった。
誰が? 誰が困る…………え?
「誰かが困る、誰かが嫌な思いをする、誰かが不快に思う掌返しならやるべきじゃないです、最悪です。でも、曹丕姉さまの掌返しはととさまへの誤解が解けた、いい方向での掌返しですし、それをして嬉しいのは曹丕姉さまも同じです」
「え、い、いえあの、禅? わわ私はべつに嬉しいだなんて一言も」
「嬉しくないんですか?」
「え……と」
「踏み出してしまえば、もう柱の影から真似る必要なんてなくなるんですよ?」
「それは忘れなさい今すぐ」
怯んだ顔から一変、真顔でつっこんだ。……でも、そうだ。
誰もが困らない掌返しに、なにを怯える必要があるのか。
“掌返し”という言葉に嫌悪するのではなく、誰かが悲しむ“掌返し”を嫌えばいい。
……やっぱり私は単純すぎるのだろうか。こうと思うと、それに係わる全てを誤解してしまう。
「とにかく、それで曹丕姉さまが笑えるなら、掌なんていくらでも返せばいーんですっ! 遠慮なんかいらないんですっ!」
「………」
うん。まあ…………うん。
あれー…………ところで何故私は、妹に説教されているのだろうか。
そういう話だっただろうか。
………………そういう話ね。結果としてこうなっているのだから、つまりは踏み出せない私が悪いのだ。
きっと一緒に鍛錬をしたところで、父は紙袋を被ったまま見向きもしないのだろう。
それでもいいと思えた。
ろくに鍛錬も一緒に出来なかった私達だ。
せめて一歩でも傍で、今まで誤解をしていた分……自分から歩み寄ろうと思う。
もちろん、仕事優先で。
近づくことで何かが遅れるのは、父も母もきっと認めないだろうから。
「行きましょう、禅」
「あ……はいっ!」
走り出す。まずは一歩。
見向きもしなかった分、今から全力で彼……あの人、じゃなくて、父……えと、と、父さま……の、あとを追う。
これでも警備隊で随分と走りまわされたのだ。氣だって充実している。
すぐに追いついて、あの人が見ている景色を、私も───!
……。
コ~ン……
「げほっ! ごっほっ……! はっ……はひっ……ひぃっ……!」
前略お母様。無理でした。
私の中にはまだまだ父さまに対して“ぐうたら”の印象が残っているようです。
きっと余裕だなんて思っていた私はあっさりと氣を枯らし、体力も枯らし、城壁の上で目を回していました。
だというのに未だ走り続ける父さま。
うんわかった、私の父は化物だ。
それでも追いつきたくてふらふらと歩いていると、途中で見張りの兵が座る場所を用意してくれた。
情けなくもありがたく座らせてもらうと、軽い調子で兵が始める昔語り。
私が父さまのことを知っていることは、兵らの中では(あくまで兵の中だけで)常識的に知れ渡っているらしく……むしろ父さまのことを話したくてうずうずしていた分を吐き出すように、彼は話した。
……書簡竹簡から得た知識で、鍛錬がとんでもないものだとは知っていたけれど……父さまはあくまで当然のことのように書いていたから気づけなかった。聞いてみたら呆れた。
「そうですねぇ……女性が強いのは常識的なものですし、我々が鍛錬して身につけるもの以上のものを、一度で得る女性というのももう呆れるほど見てきていますが……」
兵は語る。
それでも、北郷一刀という人物が今までしてきた鍛錬の量は、普通ではちょっとついていけないものだと。
笑顔で言われたわ。「一度最後までついていけばわかります。確実に吐けますよ」と。
なんでも父さまは、ある事情で身体が成長しないらしい。
天から舞い降りたのだから、きっとその気高さのために違いない。私達とはいろいろと違うのだろう。父さますごい。
で、なのだけれど。
身体が成長しないということは、筋肉も発達しないということ。
そのため、氣を鍛える以外に強くなる方法がない。お陰で、と言っていいのか、過去から今にかけてを氣の成長のみに向けたのが今の父さまなのだそうだ。
「………」
本当に呆れてしまった。
つまり、あれらの速さは全て氣で行なっていると。
「“氣だけ”を見れば、将の皆様にだって“きっと”負けていませんよ」と言う兵は、少し苦笑気味だ。あれで、筋肉も成長すればなぁ、なんて何かを懐かしむように言ってくる。
どうして成長しないことがわかったのかを訊ねてみれば、「何年も一緒に居て、他の方々が変わってきているのに一人だけ変わらなければ、嫌でも気づきますよ」……とのこと。
「ふっ……く……!」
どうやら歳も取らなそうな父が走る姿を見て、だったら同じくらいの外見年齢になるまでに追い抜いてやろうと立ち上がる。
こんなところで躓いている場合じゃない。
偉大なる母と偉大なる父、そのどちらにも追いついて……胸を張って生きてやる。
父さま相手なら料理では勝てる、つもり。あいすとかお汁粉では勝てる気はしないけど。
本当に、とんでもない人を両親に持ったものだと笑えてくる。
そうだ、笑えるならまだ大丈夫。
やってやろうじゃない。兵が言う、吐くほどの鍛錬を終えてもまだ、諦めずに進んだ先に父さまが居るのなら、そこへすら辿り着けないようでは一生孫策にも勝てないし、両親に追いつくことなど出来やしない。
今は吐いてでも前へ。
その過程で、機会を見つけられたら……謝ろう。
受け入れてもらえるとは到底思えない。
父さまがなにを思い、何を目指しているのかなんていうのは知りもしない。訊いてもきっと話してはくれないだろう。
でも、それなら届くまで我慢だ。
辛くても笑える瞬間があるのなら、きっとまだ大丈夫。
我が儘を言うのなら、いつかのように頭を撫でてほしい。褒めてほしい。笑ってほしい。
昔は当然のことのようにあったそれらが、自分が拒絶してしまった所為でなくなってしまったことを思うと、泣きたくもなるけれど……自業自得だ。今はそれでいい。私に無視されて傷ついた父さまのことを思えば、こんなことくらい我慢できないでどうするんだ。
「吐くまでっ……」
吐くまで頑張ってやる。
吐いたって頑張ってやる。
父さまが自分を見てくれないのは……悲しい、寂しい。
いつ、父さまが自分で満足する位置に立てるのかなんてことは、きっと誰にもわからない。父さまだって知らないかもしれない。
最悪、これからずうっと、私達のことなんか見てくれないのかもしれない。
ならどうすればいいのか。なにをすればいいのか。
「っ……」
ならせめて。会話が無くても、一緒に同じことが出来る今を大事にしよう。
邪魔をしたいわけじゃないんだから。謝ろう謝ろうとする所為で、目指す位置を邪魔することになるのは本意じゃないから。
「はっ……禅はっ……」
無理矢理動かした身体で、そういえばと禅を探す。……と、私の後方で目を回して倒れていた。それでも進もうとしているあたり、どこまで頑張り屋なのか。
「……、……」
足がふるふる震えている。
そんな足を動かして、禅の傍へ。
腕を取って肩を貸そうと屈み込んだ瞬間、かくんと力が抜けて、膝から強く倒れこんでしまう。
「つっ……!」
途端に“なにをやってるんだろう”なんて、自分を馬鹿にするような感情が沸いて出る。
心が弱っているところに、小さな失敗は深く突き刺さる。わかっていても止められない。
(……本当に、なにをやってるんだろう)
こんなことなら何も知らないままのほうが良かった。
なにも知らず、孫策が言っていたみたいに女の人でも好きになって、男なんて見下して。
何も知らずに生きていられたら、こんな寂しさを味わうことなんてなかったのに。
なんて。膝に滲んだ血を見たら、嗚咽が込み上げてきた。
動きやすいようにって、転んだ時のことなんて考えない着衣を選んだ結果がこれだ。
禅に誘われて一度は断ったくせに、最初からそのつもりだった自分さえもが情けない。
そして、今日もまた、いつかのようなことは起こらないのだ。
自分にはもう、どうしてかつてはあんなにも簡単に痛みが引いたのかもわからない。
見下ろす膝は痛くて、今を思う心は苦しくて。
こんな痛み、あの頃のようにすぐに暖かさと一緒に無くなってしまえばいいのにって……
「……、え───」
目尻で膨らむ涙を拭おうともせず、もうこぼしてしまえとまで諦めていたそんな時。
いつかのような暖かさに包まれて、見下ろしていた膝の傷から痛みが消えていって……。
「え、え……? なんで───」
おろおろと自分になにが起こったのかと焦る。だって、氣はもうろくにない。
癒しの氣なんて気の利いたものも、私は上手く扱えないし、そもそも言った通り氣はろくにない。
なのにどうして、と自分の内側を覗いてみれば、自分のものではないなにかが自分に繋がっていることに気がついた。
はっとして顔を上げてみると、さっきまで私達のことになんか見向きもしなかった、紙袋を被った父さまが立ち止まっていて……柔軟運動をする振りをしながら、私に氣を繋げていた。
「───」
もう一度、思い出してみよう。
もっと小さい頃、転んだときに一番近くに居てくれた人は誰だっただろう。
痛みに泣いたとき、傍に居て頭を撫でてくれていた人は誰だっただろう。
……涙が溢れた。
答えを得てしまえば我慢なんて出来なくて。
私は……ぜえぜえと息を乱してぐったりする妹の目の前で、子供のように泣いたのだ。
痛みが消えたと同時にまた走り出す父さまに何も言えず。
父さまも、目の前で泣く娘に何も言わず、目もくれず。
城壁の上で影を重ねた私達は、結局なにも伝えられないままに、言葉も視線も交わさないままに、ただ静かに……擦れ違っていった。