179/夢はおっきく、最強の二番手
-_-/孫登
いろいろなことが起こった春が過ぎ、やがて暑いあっつい夏がくる。
そう。
その夏は、暑かった。
「はぁあああ…………! ふぅうううう…………!!」
熱い日差しの下、構えたままに呼吸をするのは父さま。
汗をたくさん流して、でも呼吸は乱さない在り方は実に見事だ。
こんな暑い日にも鍛錬は三日ごとに存在している。
もちろん私は一度たりともサボることなく参加。
不思議なもので、自分と述とで“こうすれば効率がいい”と思っていた考えが間違えだったと気づき、父さまが教える通りにやってみれば、以前とは比べものにならないくらいに成長していることを自覚できた。……自覚? 実感? ……んん、とにかく、成長してます、はい。
筋力の伸びもいいし、なにより氣の絶対量がぐんと伸びた。
それでもまだまだ弱いと感じる。
羨ましいことに、曹丕姉さまは自分よりもよっぽど強い。
くだらない鍛錬改変で寄り道していた私と述とは違って、姉さまはきちんと鍛錬をしていたのだから当然だろう。
ついでに言ってしまえば、やはり私には武の才はない。
どれにも手を伸ばせるけど、どれであろうと一番にはなれない。
今さら、それが悪いことだと思えない自分が…………今では可笑しく、大好きだ。
「父さま、暑いです……」
「ん。いいかぁ登。お前は普通がイヤだって前は言ってたけどな。普通ってのは悪いことばかりじゃない。ああ、もちろん今はわかってるだろうけど」
「はい」
「じゃあ勉強だ。中庭、昼の日差しの下。この状況で願う普通ってなんだと思う?」
「……? 暑くもなく、寒くもなく……ですか……?」
「そうだ。暑い中では少し呼吸を小さくしてみるんだ。ぜえぜえさせるんじゃなく、無意識にする呼吸みたいに浅く、ゆっくり」
「…………」
「…………」
「……暑いです」
「暑いな」
暑かった。
なので大きな樹の下……木陰まで歩いて、そこでやってみる。
「馴染むまでは、まあゆっくりとな。気づければ、多分大丈夫」
「?」
首を傾げながらも、最初は意識して。
次第に自然に、熱が取れてきた頃。
「……あれ?」
最初はよくわからなかったけど、これ……。
「父さま、これ」
「まあ、気休め程度の意識変化なんだけどな。暑いところでぜえぜえやると、案外内臓が無理矢理動かされてな、逆に熱くなるんだ。涼しいところでぜえぜえやってみればなんとなくわかることだけど」
「じゃあ、逆にこうしてゆっくり静かにしてると……」
「重要なのは内蔵を動かしすぎない呼吸だ。人間の体や脳って結構単純なところがあってな? こうやってニコーって作り笑いで口角を持ち上げて何かをしていると……そうだな、たとえば何かの作業をしながらずーっとそれを続けていると、頭が次第にソレは楽しいことだって意識し始めるんだ。まあ、もちろん本当につまらない、いらいらいするようなものに対して口角持ち上げても、絶対に溜め息が出る回数に負けるが」
「うん、そうだよね」
素直にこくりと頷けた。
ら、なんだか父さまが可笑しそうに私を見ていた。
…………あ、口調。
ハッとしたら、大きな手が私の頭を撫でた。
見上げてみると、目を合わせてから言うのだ。
「好きな言葉で喋ればいいよ」と。
「え、えと。お、おいどん、もっと強くなりたいでごわす!」
言った途端、父さまがずっこけた。
「と、ととと登サン? ああいやこれだと父親みたいだ。父さん。違うよな。うん。……子高? そ、そんな言葉、誰に聞いたのかなぁ……!?」
「え? 前に夏侯惇さまが」
「……また、なんかの罰でも喰らったンカナ……」
なんだか遠い目をした。
「子高は、それでいいのか?」
「言ってみたかったんです。母さまからはいつも厳しく言われてましたから」
そう。母さまは厳しい。
自分が駄目だったことを早い内からとでも言うように……祭が“実際そうだろうのぉ”と言っていたくらいに、私への躾は厳しかった。
それが当然だと思っていた私は、それを頑張って覚えていった。
頑張れたのは十分で、身に着いたのは五分。
どれに措いても上に届かない私は、何に措いても半端までしか届かない。
母さまは落胆なさっただろうか。
私を産んで、後悔しただろうか。
そう思うだけで、黒いなにかが込み上げてきたものだ。
前は。
うん、前は。
「あの。父さま」
「うん?」
「父さまは、私が娘で、嫌な思いとかをなされたことは───」
「蹴られて泣いた時くらい」
「うぅう……」
「過ぎれば笑い話ってやつだよ。トラウマだって笑い話に出来るくらいの胆力がないと、支柱なんてやってられないさ」
とらうま? 虎……馬?
なにか嫌な思い出でもあるんだろうか。
でもたとえ虎が来ようとも、校務仮面様たる父さまならばきっと大丈夫なのだろう。
「ともかく。暑い日には暑さに順応出来る体作りだ。あ、もちろん汗は出るから、水分補給は忘れずに。一緒に塩を舐めると、吸収率が上がるらしい」
「人とは複雑なのですね……」
「ん。俺はこの世界に降りるまで、もっと単純なものだと思ってたよ。もちろん、さっきも言ったように単純なところも結構あるんだけどさ」
まさかかめはめ波が撃てるようになるとはなぁ、なんて少しわからないことを言って、たははと笑っている。
くすぐったそうに笑う父さまは、なんだか楽しそうだ。
「それで、どうしましょうか。鍛錬続行ですか?」
「子高はどうだ? 身体がだるいとか喉が渇くとかはないか?」
「ん…………平気です。ただ少し、足がつっぱるというか、重いというか」
「よーし水を飲もうなー。ほっとくと脱水症状になる可能性が高いから飲もうなー」
「え? だ、だっす? 父さま? その竹の水筒は何処から?」
「こんなこともあろうかと父は常に竹水筒を隠し持っているのだ!」
どうだーと突きつけられたそれは、触れてみると……ぬるかった。
きりりと冷えた水を望むのは、この熱い空の下では無理だ。
「そんな単純じゃないけど、氣にもいろいろ応用があるんだ。もちろんなんでも出来るわけじゃないけど……登、気化熱って知ってるか?」
「知りません」
「そ、そか」
本当に知らないから即答してみたら、ちょっとだけ苦笑する父さま。
そんな父さまは木陰の下、取り出した竹筒に氣を向け始める。
こう、座って、足と足の間に竹筒を挟んで……両手を翳す感じだ。
「液体は蒸発する時に、周囲の熱を奪う。お風呂上りとかに経験があるだろうけど、身体を早く拭かないとすぐ寒くなるだろ? あれは身体についた水滴が蒸発する時、熱を奪っていってるからなんだ」
「はあ……」
「つまり、ぬるい水でも温度差を生じさせてやれば冷たくなる」
言って、集中する。
父さまがたまにやっている、氣で火を起こす時のような感覚。
氣をすごい勢いで動かして風を巻き起こす。それを摩擦させるんじゃなくて、竹筒に向けて……あ、そっか。
「……時間、かかりそうですね」
「だよなぁ」
二人で顔を見合わせて笑いました。
それからしばらくして差し出された竹筒は、確かにさっきまでのぬるさはなくて、けれど冷たすぎるというわけでもない、喉に通しやすい温度です。
「暑いからって冷たすぎる飲み物は飲まないように。胃がびっくりするし、お陰で上手く活動しないで食欲も無くなる。ものを食べる時には水を飲みすぎないのも大事だな。胃酸の効果が薄まって、消化に時間がかかる。そのくせ時間が経てば腹だけは鳴るから、また水を飲んで、ものを食べてで消化に時間がかかる。どんどん胃への負担が大きくなるから、飲みすぎは注意だぞ?」
「ふぇ……いろいろあるんですね」
「ほんと、もっと単純だったらいいんだけどな」
「あ、でも単純なものもあります」
「たらふく食べたら眠くなる?」
「それですっ」
また笑う。
以前までは考えられない状況。
父さまが傍に居ることもそうだけど、なにより自分がこんなに“楽しい”と感じていること。以前までなら笑うなんてこと、滅多になかったのに。
覚えている自分の姿なんて、辛くて泣いていることばかりだった。
……本当に、つまらない日々を歩いてきていたんだなぁ、なんて。自分のことながら呆れてしまう。
「よし、じゃあとりあえず今日の鍛錬はここまで」
「え? ま、まだやれますよ?」
「自分じゃ気づけないことも多いんだけどな。登、顔真っ赤だぞ。身体に熱が溜まってるんだ。このまま続けたら本当に脱水症状か熱中症になる。というわけで、鍛錬の続きは川でやろう」
「え? こ、ここまでじゃ」
「ん、“とりあえず”な」
「……知りませんでした。父さまって、案外考え方が面白い人だったんですね」
「童心ってものを大事にしてるんだ。童心っていうのは、発想の友だから」
はっそーのとも……よくわからないことを言われた。
訊いてみれば、ようするに理論や経験則から回転させる知識も大事だけど、子供が考えるような単純な考え方も大事だから、子供っぽさとは完全に捨ててしまうのはもったいないものだ、って……そういうことらしい。
童心は大事。覚えておこう。
「困った時は突撃粉砕勝利ですか?」
「それは童心とはちょっと違う」
言いつつも、父さまは私をひょいと抱きかかえて……そのまま自分の肩まで持ち上げて、肩車状態に。
………………はっ!? 肩車!?
なんて驚いた時には父さまはもう動いていて、景色が流れるように速かった。
なにを言っているのか自分でもわからないけど、速かった。
そんな速さと高い視界が楽しくて、私は自然と持ち上がる口角を自由にさせて……素直に笑うことにした。