真・恋姫†無双 魏伝アフター   作:凍傷

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13:呉/本の虫と鼻血と結盟②

34/誤解、戸惑い、擦れ違い。それと結盟

 

 人を背負ったまま正座をするという初体験ののち、ようやく解放された俺は夕焼けの空の下、倉の一角にあった机でぐったりしている陸遜を覗き見た。

 一応、服は正してあるらしい。が、頭を抱えてうんうん唸っている。

 ちなみに。シャオは冥琳が溜め息を吐きながら抱えていってくれた。ありがたい。ありがたいが故に、こうして倉の入り口から中をそ~っと覗き見ているわけだが。

 

「り、陸遜~……?」

「!」

 

 声を掛けると即座に顔を起こした。

 ……なんかこっちに走ってきたな。揺れる胸が目に毒だ。

 だが大丈夫、逃げるな俺……マイサン、お前は俺が守る。だから反応は起こすな。

 

「かぁああずぅううとぉおさぁああああはははぁああ~ん!!」

「見える!」

「ふえっ!? あわぁああああーはぶぅいっ!!?」

 

 走り寄ってきて、その勢いのままに涙目で飛びついてきた陸遜を紙一重の距離で避けてみせた。

 おお、なんと恐ろしい……! 抱きつかれていたら相棒が反応してしまうところだった……! ……陸遜は顔面から地面に転倒したけど。

 

「あー……だ、大丈夫か? 陸遜」

「よ、避けましたぁあ~……! 今、思いきり避けましたねぇ、一刀さんんん~……!!」

 

 顔を起こした陸遜は、どうやら本当に顔面をしこたま打ちつけたらしく、鼻血が……あーあーあー……。

 これはあれか。胸がクッションになるどころか支点になって、倒れる勢い+胸で弾んだ所為で首から先が加速されてゴシャアと……なぁ?

 そんな陸遜さんだったが、鼻血がこぼれるのも構わずに体を起こすと俺の手をきゅっと握って、

 

「あーああああのあのっ!? さっきのは違うんですよ!? さっきのはその、本を見ていたら体が疼いてしまってですねぇっ……!!」

「いや、うん……そういったことについては、さっき説教ついでに冥琳に聞いたから……。うん、人それぞれだもんな。それを克服しようとしてたんだから、むしろ手伝うべきだ」

「うぅ、わかっていただけで幸いです……」

 

 しょんぼりと溜め息。

 しかし本で興奮ねぇ……人それぞれとはいえ、凄いもんだ。

 

「けどさ、本を見て興奮するっていうのは……その。克服できるものなのか?」

「大丈夫ですよぅ、戦も終わりましたし、こうして日々を書物に囲まれて過ごせば……う、うぷっ」

「ああほらっ、鼻血鼻血っ! 鼻押さえてっ!」

「ふあ……あ、治まりました……」

「………」

 

 なぁ稟……どうして遠方に来てまで、誰かの鼻血の心配しなくちゃいけないんだろうな、俺は。というか鼻血を噴くまで本に興奮する人なんて初めて見たぞ。しかも他人に鼻抓まれて鼻血を止める女性ときたもんだ……。

 

「あー……えっとその。どうして、って訊いていいか? 本に興奮するってことの時点でもうわからないんだけど、その興奮がどうして性欲に向かうのか」

「そ、そんなのわかっていれば苦労しませんよぅう……」

 

 まったくだった。

 

「じゃあ解決法もわからないままってことか……げほんっ! えと、処理する以外」

「はぐぅっ! はっ……~……はいぃ……」

 

 倉で男女二人、顔を赤くして見つめ合う……激しく誤解される状況なのに、危機感もなにもあったもんじゃない。

 軽く引き受けた本の虫克服作戦がこんなことに繋がるなんてなぁ……。

 

「その欲求、睡眠や食欲に向けることはできないのか?」

「眠くはならないし食べたくもならないですよ~……それに本を見るたびに食べてたら、太っちゃいますよぅ」

「………」

 

 どうしてだろう。その脂肪はたぶん、全部胸に行くと断言できそうな気がした。

 

「こんな状況だから言うけど、その。俺だって日々性欲と戦って生きてる。今のところ俺だって勝ててるんだから、陸遜もやろうと思えば出来ると思うんだけど」

「…………無理です」

「へ?」

 

 黙ってはいたものの、考え込んでいたわけでもなかったように見える陸遜。

 そんな彼女の口が、きっぱりと“無理”を主張した。

 

「う~……だってだって、こんなにも本があるんですよ? もう匂いとか雰囲気とか倉特有のしっとりした空気とかで、ンッ……わ、私の心はぁあ……!!」

「やっ! だ、だからっ! そこで我慢することが必要だって言ってるんだって! だめっ! 手を伸ばさない! 耐えるんだ! ていうか耐えてぇえええっ!!」

「やぁあ~ですぅう~……。我慢は体にぃい……毒なんですよぅう……?」

「俺にとっては目に毒だからっ! あ、あぁあもうとにかくっ! えぇと……これっ!」

 

 本を結わうために使うものなんだろうか。

 倉の入り口の脇に吊るされていた細めの紐を数本とると、キツくなりすぎず、しかし抜けないように陸遜の腕を後ろ手に縛っていく。

 

「な、なにするんですかぁ一刀さぁん……!」

「こうでもしないとすぐに欲望に負けるだろっ! いい、俺決めたからなっ。絶対に陸遜の性癖を治してみせる!」

「こ、これは性癖じゃなくてですねぇ……」

 

 異論は認めません。

 一度頼まれたことを投げ出すのは誰にでも出来ることだが、それを受け入れた上で困難に打ち勝つことこそ願われた者の務め。

 熱っぽく息を荒くする陸遜を前にするのは、正直辛いわけだが……ならば俺もさらなる自分の向上を目指して───ってこらこらこらぁっ!!

 

「ちょ、陸遜! 机の角でなにしようとしてるの! だっ……ああもう!」

 

 人が考え事をしているうちに陸遜は倉の机へと歩みより、あろうことか、……ごにょごにょ。

 ともかくそれを、無理矢理椅子に座らせることで阻止し、再びそんなことがないようにと椅子にしばりつけていく!

 

「やぁあああ~っ! やめてください一刀さんんん~っ! 体が、体が熱いんですよぅ~っ!」

「だからそれに耐えるための克服運動なんだって! そもそも陸遜のほうから俺を頼っておいて、やめてくださいとか言われると俺だけが悪いみたいに───」

 

「おや?」

「ふえ……?」

 

 嫌がる陸遜を椅子に縛り付けている最中、入り口付近から聞こえる物音。

 はて、と振り向いてみると、顔を真っ赤にした孔明さんと士元さんが……!

 

「いや違───」

「はわわわわわぁああぁぁぁぁーっ!!」

「あわ、あわわわ……!!」

 

 う、と続ける間もなく絶叫。

 書物でも借りにきたのか、こんな状況で鉢合わせなんてどれだけツイてないんだと思いながらも、彼女等の視線がただ只管に、俺が持つ紐と泣きながらイヤイヤと叫ぶ陸遜に向けられれば……辿り着く答えなんてひとつに決まっているわけで。

 

「いやちょ、待って誤解だから待って! これは陸遜に頼まれて!」

「ひうっ……! い、い、いい、いえ、あの、その、あわわ……!」

「だだ、大丈夫です、その、人の趣味はいろいろ、ですから……」

「違う! そんなやさしい理解力が欲しいんじゃないんだってば! 聞いて! 頼むから聞いてお願い! 思春!? 思春居るんでしょ!? 説明してお願い! 俺はただ良かれと思って……!」

「だ、大丈夫ですっ、わわ私たち、誰にも言いませんからっ! ね、ねっ? 雛里ちゃんっ」

「あわわ……う、うん……言いません、言い、ません……!」

「言う言わないとかじゃないんだってばぁああっ! 違う本当に違うこれ俺の趣味とかそういうのじゃないって聞いてお願いだから聞いてくれお願いしますからぁあああっ!!」

「あ、の……大丈夫、です……。朱里ちゃんも……その、このあいだ、隠してたいやらしいご本を詠さんに見つけられて」

「雛里ちゃんっ!? どどどどうしてそれを言っちゃうの!?」

「ふえ……? で、でも一刀さん、困ってたから……」

「それでもだよぅっ! ちち違いますよ一刀さんっ! あ、あれはお勉強っ、お勉強のためにっ……!」

 

 ……散々慌ててた自分が、急激に落ち着いていくのを感じた。

 うん、目の前でここまで、いっそ自分よりも慌てられたら逆に冷静にもなるよね。

 ああ、さようなら、知将諸葛孔明……貴女のイメージは今死んだ。とはいえ、それが軽蔑に向かうかっていったら否だけど。

 

「うん、とりあえず呼び方はそのまま一刀さんでいいから。それより二人とも、落ち着いて」

「おちついてましゅっ! …………~っ……!!」

 

 あ、噛んだ。

 

「だ、大丈夫か、孔明……。ただでさえ舌がもつれやすいんだから、そんな力一杯喋ったら舌噛むぞ……ってもう遅いか」

「うぅう……うぅうう……お勉強……お勉強のため、なんですよぅ……?」

 

 そして、噛んでなお必死だった。

 ついさっきまでの俺も、きっとこんな感じだったんだろう。

 俯いて、痛さからか羞恥からか顔を真っ赤にして目を滲ませている彼女。

 そんな孔明の頭を、ちょこんと乗った帽子ごとふわりと撫でて、微笑んでみせる。

 

「……ん、わかった。そこまで必死なんだ、疑う理由なんてないよ。それと……こっちのことだけど」

「……? はうあっ!?」

 

 倉の中の陸遜を見るように促す。

 と、椅子に縛り付けられたままにうねうねと動く怪しい生命体がそこに居た。

 

「……本を見ると欲情するっていう、困った性癖の持ち主らしいんだ。それの克服を手伝ってくれって頼まれて、ああして縛りつけた。そうしないと、その……たぶん、孔明が勉強のために持ってた本と似たようなことをやりだすから」

「信じますっ!」

「あ、えと……そ、そう?」

 

 物凄い迫力での即答だった。

 そして、頭を撫でる手を両手でハッシと握ると、そんな状況に少し戸惑いと困惑を混ぜた俺の顔をじっと見る孔明。

 ……そういえば、孔明と士元ってやたらとその……俺が困った顔とか考え事をしてる時にジッと見てくるよな。面白い顔でもしてるんだろうか。

 

「あ、あのっ、か、かか一刀さんっ……」

「へ? っとと、士元? どうかした?」

 

 右手を孔明に掴まれていた俺の右後ろから、服をちょいと引っ張って見上げる士元さん。

 振り向いた先で困った顔をしていた彼女は、今度は俺に倉の中へと視線を促して……

 

「あの、そのっ……は、伯言さんが、鼻血を───」

「───……だぁああっ!! どこまで頭を沸騰させればそこまで鼻血が出せるんだよもぉおおおおおっ!!」

 

 急ぎ、孔明の手と士元の手を乱暴に振り解く───わけにもいかず、軽く離してくれるよう身振りをしてみるが、孔明は鼻血とはいえ血を見て驚いたのか、ぎうーと力を込めて離してくれず……教えてくれた士元までもが怖くなったのか、服をぎゅっと掴んで離してくれない。

 ……ひどい怯えようだろ。ウソみたいだろ。三国きっての軍師なんだぜ、これで。たいした血の量でもないのに、ただ、ちょっと鼻血を出しただけで……もう離してくれないんだぜ。な、ウソみたいだろ。

 などと某野球漫画の真似をしている場合ではなく。

 仕方も無しに身を捻ると、一言謝ってから彼女らを小脇に抱えた。

 右手を掴んでいる孔明を右腕で、左後ろでうるうると怯えている士元を左腕で。

 二人とも相当驚いたようだったけど、暴れないでいてくれたことには素直に感謝だ。

 そうして倉の中へと入り、とろけるような幸せ笑顔で鼻血ドクドクの伯言さんの傍へと駆け寄ったわけだが───どうしようか、これ。

 

「鼻に詰めものを…………ティッシュなんてものはこの世界じゃ高級だろうしな」

「てっしゅ……?」

 

 首を傾げる士元になんでもないと言うと、小脇に抱えたままに観察。軽いもんだなぁとしみじみと思う。片手ずつで持っているっていうのに、それほど苦に感じられない。

 …………マテ、そうじゃないだろ俺。何故抱えたままで観察してるか。とりあえずおろそう、じゃないと陸遜を介抱できないし。

 

「よっ……と。よし、それじゃあ……あれ?」

「………」

「………」

 

 二人を両脇に下ろし、いざ一歩をと前に出てみれば引っ張られる違和感。首だけで振り向いてみれば、暖かいなにかに包まれている俺の両手。

 いや、なにか、じゃないな。孔明と士元の手だ。

 

「あ、あーの、孔明? 士元? 離してくれないと……」

「はわっ、いえっ、あのっ、そのっ……! そそそそそれがいけないことだとは言いませんでしゅけどっ! でででもしょのっ、あにょっ……はわわぁあ!!」

「……? あの、士元? 離してくれると───」

「~……!!」

「…………」

 

 二人は顔を、これでもかってくらい真っ赤にして首を横に振るう。

 待ってくれ、俺……なにかしたか? 俺、ただ介抱しようとしているだけで───……あれ? ちょっと待て? もしかしてこれ、俺が陸遜にエロいこと、つまりその、達するまでアレコレして、落ち着かせるつもりなんだとか……思われてる?

 

「はははは伯言さんの興奮が、あの本のようなことで治まるんだとしてもでしゅっ! そそそそれをわたしゅっ……私達の前でなんてはわわわわぁああーっ!!」

「うわぁーおやっぱりだぁあーっ!! 違う! それ違うから! ていうかどれだけ過激な本読んでるの孔明さん!」

「そ、それはその……あわわ……と、とても口では言えないような……。わた、私も……一緒に見たのに、よくわからなくて……」

「雛里ちゃん!? その言い方だと私だけがいやらしいみたいに聞こえるよ!?」

 

 この状況がようするに、俺が陸遜を襲うような状況であると誤解した彼女らは再び混乱し始め、そんな中で俺は、孔明がかなりのエロスであることを確認した。

 ……世の中、わからないものだなぁ……と、見えもしない倉の奥のさらに先……遠い空を眺めるように、ここではないどこかを眺めた。

 

「あぅう……な、内緒ですよ? 私と雛里ちゃんがその、そういった本を持っていることは……」

「え……? 持ってるのは朱里ちゃんだけで───」

「内緒ですよ!?」

「ふえぇええ~、朱里ちゃぁあ~ん……!」

 

 乙女心は大変複雑らしい。とりあえず俺は苦笑ながらも笑ってみせて、それを了承。

 士元が大変不服そう、というかがっくりと項垂れていたが、それを合図にするかのように手は離れ───た、と思ったらまた掴まれた。

 

「みみ、みっ御遣いさまっ!」

「うわぁなにっ!? 呼び方は一刀でいいってさっき───」

「頷くだけじゃだめですっ! そそ、そうです、正式に誓約書を書いて……はわっ! それならいっそ秘密を持つ三人で結盟を……!」

「オイィイイイッ!! なんだか恐ろしい言葉がさっきからごろごろこぼれてるぞっ!? 大丈夫だからっ! 誓約書とか書かなくたって俺は───って秘密を持つ三人って俺も!? 俺はべつに秘密なんて───陸遜を指差して目を潤ませないのっ! これは俺の性癖とかじゃないって言ってるだろっ!?」

 

 俺ってそんなに信用ないんでしょーか。そりゃ知り合ってから半年も経たない俺だけど、こうまで暴露すること前提みたいに言われるとかなりショックだ。

 が、ここでこうして動かないでいるわけにもいかない。未だに陸遜が鼻血地獄であるわけだから、早急に介抱してやらないといけない。のだけど───うあああ……! こういうときはどうしたらぁああ……!

 

「………」

「………」

 

 と、悩んでいると、そんな俺をぽーっと目を輝かせながら頬を染め、見つめてくる二人。

 

「いや、だから。どうして二人とも、俺が唸ってると顔を赤くして俺のことを見るんだ? 俺、へんな顔してるか?」

「はうあっ!? ななななんでもないでしゅよ!?」

「あぅ……なんでも、ないです……!」

 

 ……顔になにかついていやしないかと確かめたいものの、こうぎゅっと掴まれていると出来ることも出来ない。

 彼女たち……もとい、孔明はそうまでしてその本とやらのことを知られたくないんだろうか。

 話から察するに、すでにその詠さんとやらにはバレてるわけだよな? その人がきちんと秘密を守っているならまだしも……いや、案外知られていないと思っているのは彼女だけで、みんな知ってるのかも……。

 そう思うと、ここまで必死になる孔明が少し可哀想に思えてきた。

 

「わ、わかったわかった……誓約書でも結盟でもなんでもするから。今はまず介抱を───」

「本当ですかっ!?」

「二言はないっ! ただし書いた誓約書はちゃんと隅から隅まで読ませてもらうからっ!」

「はわ……しっかり者です……」

「なに書こうとしてたの!?」

 

 ひとつわかったことがあった。孔明は普段は慌てたりはわはわ言ったりしてるけど、そのー……いやらしい本? のことになると随分と人が変わる。

 それが本性なのか、普段の彼女が虚像であるかと問われれば、たぶんどっちも本性。

 必死になれば悪巧みのひとつでも働くってもんだろう。と、そんなこんなで解放された俺は陸遜を縛る紐を解いて───

 

「あぅうう~ん! 一刀さぁああ~ん!!」

「うわっ!? うわぁああーっ!?」

 

 解いた途端に両手を広げて襲いかかってきた陸遜を前に、大変驚愕! あれだけぐったりしてたのに、げに恐ろしきは人の欲求……!

 

「あ」

 

 しかし興奮が最高潮に達したのか、顔はおろか体まで真っ赤にさせた陸遜は、“きゅううう~……”と喉の奥から変な音を出して……俺と擦れ違うようにして倒れた。

 

「……うん」

 

 無理だねこれ。

 荒療治も駄目、地道な克服も無理っぽい。

 鼻血が出るまで、ぐったりするまで耐えてみせたというのに解放した途端にこれである。

 

「はぁ……とりあえず倉の外に出すか」

 

 仕方もなし。完全に目を回している陸遜の背と膝裏に手を通して、お姫様抱っこで倉を出る。

 そこから少し歩いた木の下に彼女を横向きに寝かせ、ハンカチで鼻血の処理を……ってしまった、ハンカチは明命の怪我の治療に……。

 ここからじゃあ小川も遠いし……

 

「……はぁ」

 

 溜め息ひとつ、陸遜の小鼻を軽く抓みながら、空いた手で鼻血を綺麗に拭っていく。

 拭くものがないのは問題だが、ここは大地に在住の雑草様に犠牲になってもらおう。ごしごし……と。

 

「まあ、完全に拭うのは無理か」

 

 鼻の下にも指にも、血の赤が染み込み残っているような状態だが、諦める。

 鼻血が止まったら小川にでも直行しよう。城で水を借りるって方法もあるけど、出来るだけ俺からの負担は削っていきたい。それがたとえ、手を洗うだけの水であっても。

 

「……さて。澄んだ空気にそよぐ風。ざあっと流れるように揺れる草花にゆっくりと赤らんでいく空。座る隣に綺麗な女性、と……耳にだけすればいい状況なのに……どうして俺は相手の鼻を抓んでるのかなぁ……」

 

 現状を口に出して愚痴ってみた。……返事はゼロだ。

 そうした今に溜め息の一つでもと思ったが、倉のほうからパタパタと走ってくる音に気づくと顔を上げ、走ってくる孔明と士元の姿を確認。

 その手には……倉の中で書いていたのだろう、一枚の質素な紙と筆が握られていた。……どうやら本気らしい。

 

「しぇっ……しぇい……誓約書、書けましたっ」

「………」

 

 はいっ、と突き出される紙を受け取って、たった今書かれたばかりの文字に目を通す。

 

 

 『◆秘密結盟誓約書

 

  一、各々、結盟せし者の秘密を他者に話すことを禁ず

  一、話すことをせず、図として知らせることも禁ず

  一、互いを信頼し、よほどのことでない限り隠しごとも禁ず

  一、保管せし書物は結盟者同士の共通の宝とす

  一、それらの書物を手に入れた際、結盟者にも報告することとす

  一、結盟者の危機には手助けをするものとす

 

  以上の誓約を守れぬ時、その者には辛い罰を与える      』

 

 

 …………といったことが書かれていた。

 えーとつまりなんだ。秘密をもらさず互いを信頼して? みんなで隠してあるいやらしい本を財産として? 危ない時は助け合いましょう、って……そういうことか?

 危機ってあれか? 本が見つかった時はフォローしてくださいとかそういうことか?

 そういうのは二人のほうが回避しやすい気もするが。なんてったって蜀にその人ありってくらいに有名な諸葛孔明と鳳士元───…………ああ、なんだろう。今日のこの時のことだけで、それがどれだけ無謀な信頼かがわかる気がした。

 

「それではここに、一刀さんの名前を」

「………」

 

 さらにはい、と渡された筆を手に、連ねられた孔明と士元の名前の下に自分の名前を書く。

 書き渋っていると泣かれそうな雰囲気だったんだ、勘弁してほしい。

 共通の宝とす、ってところに多少の引っかかりを覚えないでもないが、大丈夫だろう。

 

「じゃあ、これ」

「はいっ、北郷、一刀……はいっ♪」

 

 紙を渡されて何度も頷く孔明は、それはもう大変嬉しそうだった。

 一方の士元も誓約書を横から覗き見て、顔を綻ばせていた。

 秘密を守れることがそんなに嬉しいのかな……と考えてみて、そりゃそうかと納得する傍ら。

 二人がどこか興奮した風情で、陸遜の隣に座りつつ鼻を抓み直した俺へと詰め寄った。

 

「おわっ……な……なに?」

「あ、あの……私達、同志ですよね?」

「え……あ、ああ……そうだよな? 同じ志っていうのがいやらしい本で結ばれているのはどうかと思うけど」

「お勉強のためですっ!!」

「そ、そうでしたっ、はいっ」

 

 間近で凄まれると、ぷくっと膨らませた頬でも怖いことをたった今知った。

 

「それでですね、あの……互いを信頼するのでしたら、もっと、呼び方も……えと……」

「あぅ……朱里ちゃん、頑張って……」

「えぇっ!? 雛里ちゃんも言ってよぅ!」

「………?」

 

 呼び方? ……あれ? もしかして孔明とか呼ばれるの、嫌だったとか?

 

「あのそのえと、呉で一刀さんと正式に知り合って、お話をして……一刀さんがとてもその、やさしい人だっていうことはわかっているつもりです。それはまるで桃香さまのようで、兵にも民にもやさしく、気づけば人に囲まれているようなお方で……」

「なぁ、孔明、士元。もしかして字で呼ばれるの、嫌だったか?」

「はわぁっ!? いえいえいえいえいえいえいえそんなことないです絶対にないでしゅっ!」

「違います違いますあわわぁあ……!!」

「………」

 

 違うらしいけど、じゃあ……って、まさか真名で呼べと?

 

「あの。まさかとは思うけど、真名で呼べ、なんて……」

「その通りでしゅ…………~っ」

「うわっ、また噛んだっ! だ、大丈夫か? 慌てることないって言ってるのに……! ほら、ちょっと口開けてみて」

「ふえっ!? はわっ!?」

 

 ズイと顔を寄せて、二度目ともなる(知り合ってから何回噛んだかは伏せておくが)舌噛み。その傷がないかを調べる。

 恥ずかしがっていた孔明も真剣に頼むと頷いてくれ、小さく開かれた口から覗く舌は……うん大丈夫、傷らしき傷はなさそうだ。

 

「ん、大丈夫。しばらくすれば痛みも引くだろうから、あまり噛んだところを刺激しないようにすること。嫌な感じに喉が渇くかもしれないけど、そのときは唾液じゃなくて水を飲むこと。無理に唾液を搾るようにして飲む動作をすると、薄い傷が広がるから」

「わぷっ……わ、わかりました……」

 

 最後に帽子の上からぽふりと頭を撫でて終わり。

 さあ、陸遜の鼻血も止まったことだし部屋に戻って学校の話を───と起き上がった途端に、手をがっしと掴まれた。

 

「その……結盟を結んだから、というわけではありません。私と雛里ちゃんは、きちんと自分の目で一刀さんのことを知った上で、真名を預けるんです」

「迷惑なら謝りますから……逃げるみたいにしないでください……」

「はぐぅっ!?」

 

 いたっ……痛い! 自然的にそうして、呼び方とかは学校の話の最中でもいいかなって思っただけなのに……逃げるつもりなんてなかったのに、確かに今求められていることを後に回すのは逃げかなとか思ったら痛い! とても痛い!

 

「迷惑なんかじゃっ……! ただ、その……いいのか? 俺、二人の信頼を得られるほどのこと、してきたつもりがないぞ……?」

「信頼なら……他国であれだけの民や兵に慕われているところを見れば、十分です」

「一刀さんは、とてもやさしくて頼りがいがあって、その……あぅ……困った顔が可愛くて……」

「雛里ちゃんっ!?」

「へぅっ? あ、あわわ、今のはちがっ……あわわぁあ~……!」

 

 …………空耳? 困った顔が可愛いとか言われた気がしたんだが。

 問い返してみようにも、士元は大きな帽子を深く被って俺の目を見ようとしない。

 え? なに? じゃあ今までどこか赤い顔で俺のこと見てたのって……つまりそういうこと?

 ……はは、まさかなぁ。男の顔を見て可愛いだなんて、思うわけがない。

 

「と、とにかくですねっ、一刀さんが呉の民や兵のためにあちらこちら走り回っていたのを、私も雛里ちゃんも知っていますっ。本来なら魏の発展にこそ尽力をするべきお方なのに、他国の物事に尽力を振るう……そんな姿を私も雛里ちゃんも凄いなって思っていたんですっ」

「……!」

「う……や、俺は、ただ……」

 

 真正面からそんなことを言われ、無言で必死に頷かれると、さすがに照れる。

 素直に受け取っておけばいいんだろうが、まだ全ての人の心を救えたわけじゃない。

 全てを救うなんてことは普通に考えて無理だが、それでも手放しで喜んでいいのかが、俺にはわからなかった。

 

「一刀さん、その……私が言うのもなんなのですが、一人で背負い込みすぎるのはよくないですよ」

「そ、そう……です。自分に出来ないことを誰かが支えてくれる……そういうものを目指しているのなら、えと……もっと、呉の皆さんや、えと、えと……わ、私たちを、頼ってください……」

「孔明……士元……」

 

 心の中に、涼風が吹いたようだった。

 どれだけ考えても頭を熱くするばかりで、答えなんか見つけられない中で───それは一人だけで頑張るものじゃないと教えてくれた。

 そんなもの、自分こそが周りに散々と言ってきた言葉なのに、自分こそがそれを見失っていた。

 誰かの助けになればと思うあまり、なんでもかんでも自分で背負おうとしてしまっていたのだろう。

 結局俺は……誰かの助けになれるって部分がどこからどこまでなのかを、てんでわかっちゃいない。

 ……もう少し、力を抜いてみようか。自分はまだまだ守られる存在だ。そこから早く抜け出たいからって、焦ってしまっても仕方ない。

 以前にもこうやって自分の在り方についてを考えたけど、今度こそはと。

 

「……ありがとう、孔明、士元。俺……もうちょっと肩の力を抜いてみるよ。……今にして思えば、周りがとんでもない人だらけだから焦りすぎてたのかもしれない。みんなに追いつこう追いつこうって、そればっかり考えて。結果として善い方に転がってくれたけど、一歩歩く道を外していれば、こんなふうにして笑っていられなかったかもしれないんだ」

 

 何かを受け入れるのは難しく、何かを許すのはとても難しい。

 学ぶことは簡単だけど、覚え続けるのは大変で───栄えるのは簡単で、維持することは難しい。

 この世界はなにもかもが難しくて、いっそ全てを投げ出したいと思うことはあっても、それを本気でするなんてことは、結局自分には出来ないのだ。

 人は、本当に好きなものからは離れがたく、意識的にではなくても大切に思えるものだ。

 誰かが言ってたな……“私は私という個人ではなく、もっと大きな何かの中の一つだ。私には私として産まれた、何かの意味がある”って。

 俺にとってのそれが御遣いとして華琳に求められ、乱世を治める手伝いをすることだったなら……今こうして誰かに頼りながらでも強くなることも、俺にとっての何かの意味の一つなんだろうか。

 考えてみたところで答えらしい答えは見つかってくれない。それでも腐らないでいられるのは……

 

「………」

 

 こうして、たくさんの人に支えられ、励まされているからなんだろう。

 ああ……どんな場所でも状況でも、一人じゃないっていうのは……こんなにも暖かい。

 きゅっと握られた手から二人の温度が伝わってきて、そんな温かさがこんなにも心地よい。

 

(……やっぱり、誰かと繋がっているって……いいな)

 

 日本で鍛錬に明け暮れていた時には得られなかった温かさがある。

 ただ只管にこの世界に戻れる日を夢に見て、戻った時の自分が情けないままの自分で居たくないと思ったからこそ鍛えていった。

 今……その鍛えたことが役に立てているのかもわからない現在に立って、それでも俺は鍛え続けた自分よりも、他の誰かにこそ感謝せずにはいられない。

 だから、そっと二人の手から自分の手を逃すと、ゆっくりとやさしく、二人の頭を撫でた。

 感謝を、思いを、想いを込めて……やさしく、やさしく……。

 

「ありがとう、二人とも……ありがとう……ありがとうな」

 

 口から自然と漏れる感謝に、自分こそが驚いた。

 けれど嫌な気分など微塵もなく、自然に───本当に自然に微笑んでいる自分だけが少し恥ずかしくて、おかしてくて。

 二人はどうして感謝されているのかわからないといった風情でわたわたとしていたけれど、やさしく撫でているうちに目を細め、気持ちよさそうにしていた。

 

……。

 

 さて、そんなことがあってから数分。

 すっかり血も止まり、目を覚ましてくれた陸遜を前に、俺はきっぱりと言ってやった。

 

「ごめんなさい無理です」

「うぅぇええ~っ!? そ、そんなぁ一刀さぁ~ん!!」

「克服のために身動き取れなくしたのに、解放した途端に客人に襲いかかってどうするんだっ」

「うう、あれはなんといいますか頭がぼ~っとしてたから、つい、ついなんですよぅ? そんないつでも発情してるみたいに言われましても……そ、それに私、見境なしなんかじゃないですからね? 一刀さんだったから、ああして───」

「言い訳はいいから、とりあえず鼻を洗いにいこう」

「うぅう~……言い訳だけってわけでもないのに……その証拠に真名だって許せるんですよ……? なのにいつもいつもどこか線を引いた接し方をして……。亞莎ちゃんと明命ちゃんは頑張り屋さんですよねー……そんな線、ぴょいと飛び越えちゃったんですからー……」

 

 とほー、といった感じの表情を見せた陸遜は、拭いきれなかった赤を鼻に残したまま立ち上がると、ぶつぶつ言いながらよろよろと小川のある方向へと歩いていった。

 なんだろ、やたらと気になることを言っていた気がするんだけど。

 

「……よしっ、それじゃあ今日も学校会議をしようかっ。その後に食事で、最後に軽いおさらい……いつも通りってことで、大丈夫かな」

「はいっ。それで、あの……一刀さま」

「さん、ね? 様は勘弁してほしい。せっかく御遣い様って呼び方もやめてくれたんだから、様もやめてみてほしいかな。亞莎と明命はもう馴染みすぎちゃっててだめだけど、二人は今ならまだ変えられると……勝手に信じる」

「はう……か、勝手に、ですか」

「……期待に応えるのが、軍師の務め……だよね、朱里ちゃん……」

「…………あのっ、では一刀さんは私たちのことを真名で呼んでください。私達は固い絆で結ばれているんですから」

 

 えっへんと得意げに胸を張りながら言う孔明さんなのだが、その固い絆とやらが“いやらしい本”という事実が、ほら、こう……ど~しても頭の中に浮かんでは消えるわけで。

 そんなことに頭を痛めているうちにあれよあれよと話は進められ、

 

「姓は諸葛、名は亮、字は孔明。真名は朱里っていいます」

「あぅ……せ、姓は鳳、名は統、字は士元…………えと、雛里って……呼んでください……」

 

 もはややっぱりだめだなんて言ったら泣かれてしまう場所にまで辿り着いてしまっていた。(特に士元)

 なにせ、うー……と唸っていると、不安とか可愛いものを愛でるような目とか、いろいろな色の目で見られ───って、だからどうしてそんなほやほや顔で見るんだ。

 まさか本当に可愛いとか思って……? いやいやまさか。

 っと、本当に早く決めないと泣きそうな……ってきてる! ウルウルきてる!

 

「わわわわかったわかりました! 同志だもんなっ、大切な仲間だもんなっ、盟友だもんなっ! 大丈夫っ、二人が頭脳で俺を守ってくれるなら、俺は力で二人を守るよっ! これからよろしくなっ、朱里、雛里っ!!」

 

 口早に言うべきことを言い放ち、まずは一息。

 二人の様子をソッと覗き見ると、二人はとてもとても嬉しそうな顔でこくこく頷いていた。

 俺はそんな二人の頭を改めてやさしく撫でると立ち上がり、城へと歩き出し───たところで、再び二人に片手ずつを握られた。

 

「あ、っと……?」

「…………えへへ」

「……~……」

 

 夕陽が沈んでゆく。

 そんな眩しい景色の中を、今日一日だけでいろんな人との距離が縮まったなぁと思いながら、三人揃って歩きゆく。

 朱里は俺の手を握りながら、小さな声で「一刀さんが蜀に下りてきてくれればよかったのに……」と呟き、雛里は一度俺と目が合ってからは、俯いたままに目を合わせようとはしてくれなかった。

 なのに二人とも、俺の手だけは大事に大事に離さないようにしっかり握り、逃してはくれない。

 どこか擽ったい気持ちのままに、俺たちは城への道を歩いていった。もうすっかりと、どこになにがあるのかが大体はわかってしまった、住めば都のような他国の地を。

 ……その。エロ本というブツで結ばれた、固い絆とともに。


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