201/懐かしむ暇もないくらい、賑やかでいられればいい
見上げた空が蒼かったのを覚えている。
泥まみれになりながら遊んだ日は遠く、ふと思い返してみると、自分は今よりもよっぽど笑っていたなと苦笑する。
新しいことだらけの日々が好きだった。
それは、いつから“新しいこと”が怖くなったのかなんて、思い出せないくらい。
知らなければ楽でいられたことがたくさんあることを知った。
世界は、無くしてしまえば戻らなくなるものが多いことを知った。
同じものを用意されても、前のものにはあった筈の思いがそこにないことを知った。
知れば知るほど“なりたかった大人”になった筈なのに、手を広げてみても守れるものはとても少ないことを知った。
じゃあ自分はなにが出来るのか。
周囲の人に勝てた。
だから調子に乗って、本物に出会って、敗北を知って、強くなることから逃げ出した。
人の一生ってものを考えてみる。
なにがきっかけで自分に幸を運ぶのかはわからないそれを、静かに。
城壁の上から見上げる空は、小さな頃よりよっぽど蒼く見える。
自分が立っている時代は過去なのに、自分が歩む今はとっくに未来だ。
見上げる蒼は過去より過去で、悩む自分はあの日よりも大人だった。
そんな自分は、あの日よりもよっぽど強くなれたと思っている。
なのに最果てで世界を肯定するには、どこまで強くなればいいのかもわからない。
そんなことを思えば、なるほどとも頷けるのだ。
こんなことばかりを考えていれば、心の癒しくらいは必要にもなると。
で、そんな心の癒しが今なにをしているのかと言えば。
「ほわぁあーっ! ほわっ! ほわぁああああーっ!!」
……城壁の外、天下一品武道会にも使われた舞台の上で歌う数え役萬☆姉妹を前に、奇声をあげていたりする。
同じ舞台上で一緒に歌う美羽も、今ではすっかり三人と息を合わせている。途中途中で……及川と同じように舞台の傍に居るのではなく、城壁の上で彼女らを見下ろす俺を見上げては、ぶんぶんと手を振ってくるので……それはやめなさいとゼスチャーするのだが……それを応援のサインとでも受け取ったのか、一層手を振ってくる始末。
そして何故か邪魔しないでくださいとばかりに人和に睨まれる俺。
いや、いいんだけどね、今は客が及川と璃々ちゃんだけの、ただの練習風景だから。
「………」
賑やかな場所に居ると、ふと周囲の音が気にならなくなることがある。
無意識に、自分の意識が孤立するとでも言えばいいのだろうか。
そんな時に過去を思うと、ふとその頃に見た何かを追いたくなる。
空を見上げた理由なんてそんなものだ。
よく“離れていても、この空は繋がっている”なんて言葉があるけど……いや、あるよね? あるってことにしておこう。
……けど、この空は繋がってないんだよな。
日本を目指したってフランチェスカがあるわけでも実家があるわけでもない。
未来に行ったって俺が産まれることもないのだろう。
いろいろと考えていたら、あの頃に戻れたら、なんてことを考えてしまった。
過去に戻れたとして、やりたいことといったらなんだろう。
自分の汚点を消すこと? いいかもしれない。そうして進んだ先で、知らない未来で汚点を残すのが簡単に想像出来るあたり、自分はあまり賢くはないのだろう。
「ひぃいやっほぉおおーい!! ええ声やで四人ともぉーっ!! ……ああ! 一年前のあの日、あきちゃんに写真集のこと話したことすら懐かしい! やっぱ有名な人ぉ見るなら平面よりも本人やね!」
そうして自分の軽い行き先を苦笑する最中、そんな脱力感さえ吹き飛ばせるあの燥ぎっぷりは、なるほど。確かに心にはやさしいのかもしれない。精神的にはどうかは知らないけど。
「なーなー璃々ちゃんも歌わへんの? 袁術ちゃんとええコンビできる思うんねやけどなぁ」
「私は無理だよ。目立つの、苦手だから」
「えーやんえーやぁ~ん、これを機会におもっくそ目立って、慣れてまえばえぇんやって」
「でも、恥ずかしいし……」
「恥ずかしがることなんてあらへんやぁ~ん♪ そぉんな立派なもん持っとるのに今さら目立つの嫌ぁ~なんて」
「ちんきゅぅきぃっく!」
「ブオォッホオッ!?」
恥ずかしがる璃々ちゃんに、じりじり迫りつつも熱弁していた及川の脇腹に、駆けつけたねねの蹴りが減り込んだ。
おお、いい助走だった。あれは痛い。
そして他人事として見ていると、いっつもあんな鋭い蹴りくらってたのかー……と軽く引いた。
いや、うん。城壁の上から氣弾投げてくれようかと、とっくに構えてはいたのですが。
「まったく男というのはどうしてこう……! そこのお前! 璃々を怯えさせるとはなにごとです! ことと次第によっては蹴るですよ!」
「も、もう蹴られとりますが……!?」
「……急所を」
「やめて!?」
咄嗟に股間を両手で隠すようにした及川……が、前屈みになった瞬間に顎をカポォーンと蹴り上げられた。おお、物凄い誘導だ。
「なんで蹴るん!? 言葉に対しての暴力反対! もっと優しゅーしたって!?」
「ほほう、ならば一言言ってやるです。璃々ににやにや顔で近づくなです」
「えっ……やぁ~……それはただ、璃々ちゃん歌ったら似合うかなぁ思て……やなぁ」
「即座に諦められずにねちねちとしつこくする時点で、一言で済まないことは明らかです。聞き分けの無い存在に説得なぞ必要ですか?」
「イェッサーやめます! やめますよって視線落として構え取るのやめたって!?」
大慌てで距離を取る及川を城壁から見下ろす。
なんというか……うん、俺も普段はあんなふうに映ってるんだろうなぁってしみじみ思った。大丈夫、泣いてない。
「あ……璃々ちゃんがだめやったらえーと、ちんきゅーちゃん? どないなん? 背丈もあの三人とよー合っとる思うんやけどなぁ」
「歌になぞ興味はないです。それよりもねねは、恋殿とこれからのことを考えるので大変なのですから。まあもっとも、仕事などねねと恋殿が居ればいくらでも用意できますが」
「んー……こんだけべっぴんさんやのに女の子ぉが好きっちゅーのはもったいないなぁ。ちんきゅーちゃんはどないやの? かずピーのことは好きやったりせんの?」
「ふん、あいつはただの友達なのです。どれだけ周りになんと言われようと、友達よりも気安い関係などないのですから」
「んっへへー、そう言う割には顔赤くして、頬膨らませてそっぽ向いとるや~ん♪ 隠してもおふぅ!? ちょ、喋り途中に蹴りとかやめて!」
「うるさいのです! 男への評価を嬉々として、面と向かって男に話す馬鹿が何処に居るですか!」
「言われてみればそうやったァアーッ!! あっ! やめたってっ! 蹴らんといて!」
顔を変色させて驚いた及川へ、げしげしと蹴りが放たれる。
そんな中でも俺は無心に数え役萬☆姉妹の動きを見守っていた。
大丈夫、無理に話に混ざらなければ、あらぬ誤解をかけられて俺が蹴られることもないだろう。
というか。
「ご主人様、楽しんでますか?」
「いつ来たの璃々ちゃん……」
振り向けばそこに。
隣で舞台を見下ろす璃々ちゃん参上。
「今ですよ? 城壁を登って、こう」
「あのー!? ここ結構勾配すごいんですがー!? 勾配っていうかもうそれこそ壁なんですがー!?」
氣の使い方とかいろいろ教えたとはいえ、どうしてこう成長がすごいかなぁこの世界の子! お願い! いい娘だからちゃんと階段とか登ってきましょうね!? 城壁が城壁の役目果たしてないからァ!!
「ご主人様が“逃走用に”ってつけた凹凸じゃないですか」
「なんで知ってるの!?」
秘密裏に、屋敷から抜け出すために作っていた凹凸を、まさか璃々ちゃんに知られていようとは……! や、ただ門番にも見つからずに外に出て、鍛錬してただけなんだけどね……?
だってもう今となっては、朝食⇒仕事⇒昼食⇒仕事⇒夕食⇒子作りとか、鍛錬の時間とか思いっきり削られちゃってるしさ。だったら多少無茶してでも鍛えないと、最果てでなんて戦えなさそうだしっ……!
「なんで、って。邵ちゃんが言ってましたよー? 母さま……ええと、幼平様が抜け出すご主人様を見た~って」
「……なんか俺いっつもこうだね」
バレてないと思っているのはいつも自分だけってパターンだ。
まあそんなわけで、城壁の隅……見張り台の隅っこのほうを外側に乗り越えると、目立たない出っ張りがある。ええ、夜な夜な壁を削って、足場になるように調整したのだ。出っ張りと言うのはちょっと違うが、パッと見じゃあ気づかれない程度の仕事だった筈なのに…………出ていく俺が見つかっちゃってちゃ意味が無かった。迂闊である。……いや、なんかもういつも通りって気がする。迂闊って言葉すら通用しないんだな、俺の失敗って。
ていうかごめんなさい、建造物勝手に削っちゃってごめんなさい。でも夜に無駄な体力消耗をするとみんな怒るから、黙ってやるしかなかったんだ。
「ところで璃々ちゃん? 何度も言ってるけどべつに敬語とか使わなくていいよ?」
「う、うん。でもお母さんが」
「……このやり取りも毎度のことか」
ある程度育ったら敬語しか許してくれなくなった。
俺は別にいいって言ってるんだけど、そこは紫苑の性格らしい。
なにせ紫苑自身が敬語だもんなぁ……その割に、他の娘が敬語じゃなくても気にはしないらしい。我が子故の躾ってやつなのだろうか。
(俺は……今さらだなぁ)
我が子に偉そうに躾をすることが出来るほど、積極的な躾というか係わり合いが出来なかった。これは俺が悪い。うん。
でも今の元気な娘達を見ているだけでも十分ほっこりできるのだ。それはそれでいいのだろう。
「………」
ちらりと見下ろした舞台で、借りたマイクで及川が歌っていた。
俺の隣では璃々ちゃんがにこにこしながら手拍子を取っている。
うん、それはいいんだけど……なんで演歌なんだ、及川よ。
「っと、そろそろか。この後のことも見ておきたい気もするけど、仕事なんだよなぁ」
時計なんて無い世界では、時間なんてものは感覚で覚える。
なので案外時間には大雑把なものの、それを何年も続けていれば慣れるというもので。
「ごめん璃々ちゃん、仕事があるからこれで行くね」
「あ、はい。頑張ってきてくださいね」
「ん。りょーかい。……」
あれが、前までは“がんばってねー!”と送り出してくれた子である。
なんだかちょっと寂しい。敬語になると、途端に妹みたいな子だった筈が、他人って壁を作られてしまったみたいで、こう……ねぇ?
ともあれ仕事だ、さすがに遅れるわけにはいかない。ちょっと急ごう。