真・恋姫†無双 魏伝アフター   作:凍傷

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150:IF3/過去形にはしない想い⑤

 黒の空の下に居る。

 いつかの夜のように、眼下には騒ぐ人々。

 城壁から見下ろす景色は賑やかで、今も宴会騒ぎのようなもので溢れている。

 娘も孫も曾孫も騒ぐそんな景色はひどく平和だ。

 これから別れが待っているだなんて、あの頃の華琳も思ってもいなかっただろう。

 

「……“こんなところにいたのか”」

「“ん? ……ああ、一刀。どうしたのよ、三国連合の立役者が”」

 

 宴を抜け、城壁の上で空を見上げて居た少女に声をかける。

 まさかこう返されるとは、と思いながらも二人、ふっと笑って並んで立った。

 ……見下ろせばあの頃の景色が見えてくるような喧噪。

 魏呉蜀、どこの存在であろうと関係なく、集ったことで騒ぐ大宴会の真っ最中だ。

 ただし、華琳の提案で酒は無し。

 ……何処まで見越してらっしゃるんだろうなぁ、この覇王さまは。

 

「まったく。柄があんな歳になっても酒が嫌いなままとは思わなかったよ。冗談で用意するかって訊いてみたら、抱き付いてきて……それだけはやめてくれって言ってくるんだぞ?」

「ふふっ……飲んだのは生涯でたた一度、祭が眠る時だけ、だったわね」

「まあ、これからはわからないけどな」

「華煉も、結局誰ともくっつかなかったわね。あなたも妙な意地を張っていないで、抱いてあげればよかったのに」

「近親相姦の趣味はありません」

「娘を泣かせる趣味も無かったでしょうに」

「いや、こっちもどうしてあそこまで好かれてるのかわからないくらいだぞ? むしろそんな子が一人だけじゃないっていうのが正直辛い」

 

 華煉(曹丕)や、虎瑠(こる)(呂姫)はその筆頭と言える。

 吹風(すいか)(楽綝)は好きというよりは憧れ的なものだったからよかったんだが……華煉と虎瑠がなぁ。

 苦笑を漏らす俺に、華琳も苦笑で応え……ため息をひとつ、ここから見える景色を眺めた。

 見下ろせば大宴会。

 いつかの、大陸全土を巻き込んだ宴会を思い出す。

 腕の見せどころだとばかりに腕を鳴らした娘や孫たちの手で作られた未来の料理は、もはや炒飯から魚が飛び出るような失敗もなく……どうしてかなぁ、そんなことさえ懐かしく思えるのは。

 

「……そろそろ、か?」

「そうね。むしろ今日はずうっと、足がふらついているわよ。今まで平気な顔をしてみせた自分を褒めてもらいたいところだわ」

「ん。いい子いい子~♪」

「………」

「……華琳ってたまに頭撫でられると、動かなくなるよな。恥ずかしがってる?」

「長く生きていると、余裕というものが生まれるものよ。頭を撫でられるくらいがなによって、そんな感じにね。むしろ当然の報酬だと受け入れるべきね。そう思えば、若い頃なんて無駄に尖ってばかりで、恥ずかしいったらないわ」

「……華琳の口からそんな言葉が聞けるとはなぁ」

「なによ。尖ってなければ私じゃない、みたいな言い方じゃない」

「甘えてくれ~って言ったって聞きやしなかったじゃないか」

「当たり前でしょう? 十分に甘えているのだから」

「…………」

 

 言われたあと、少し乱暴に頭を撫でた。

 また蹴られるかなって思ったけど、そんな仕返しもなく。

 ただ、彼女が手を差し伸べてきたから手を取って……ゆっくりと歩いた。

 向かう場所はたったひとつ。

 ……別れは、月の下、小川の傍で。

 

……。

 

 いつかを思い出すような、静かな夜だった。

 宴会の声は遠く、小川の周辺は……あの頃のように虫の鳴き声しか聞こえない。

 

「……間諜は居なくても、五胡は居たよなぁ」

「なに? いつかの仕返し?」

 

 辿り着くや、あの日の会話を思い出して笑う。

 景色がそうさせるのか、あの日の言葉が頭に浮かんでは消えていく。

 こんなふうに、忘れてしまった兵らの笑顔も思い出せればよかったのに。

 

「あの頃の成都よりも、今の世は安全かな」

「そうね。随分とまあ好き勝手に、人の理想を形にしてくれたものだわ。私がやることが少なかったくらいよ」

「華琳は華琳で好き勝手してたじゃないか」

「やるべきことの大半をあなたがやっていたのだから、当然じゃない。今だから言うけれど、支柱になれとは言ったけれど支えすぎよ」

「そういうことは思った時点で言ってくれません!?」

 

 なんでもない話で笑い合って、もう足が震えて立っていられない彼女をやさしく、支えるように抱き締める。

 

「はぁ。立ちながら、あなたが見ていない状況で逝ってやろうとずうっと思っていたのに。死というのは、さすがに人を自由にはさせてくれないものね」

「こんな時まで武人であろうとするなったら……俺、この言葉、今まで見送ってきたほぼ全員に言ったんだぞ……?」

「支えられていたくないから言ってしまうのよ。……死にたくない、ずっとこうして寄り添って居たいと、そう思ってしまうのだから」

「…………そっか」

「……今、あなたが考えていることを、私もあの時思ったわ」

「そうだよな。逝かないでって……言ってくれたもんな」

「ええそうね。仕返しは必ずすると決めていたから、もちろん聞いてあげないわよ?」

「笑いながら言う言葉じゃないよな、それ……しかもこんな状況で」

「こんな状況だから許されるんじゃない。散々と歩いて、散々と願いを叶えた今だからこそ」

「………」

 

 ゆっくりと、草の上に腰を下ろし、掻いた胡坐に華琳を座らせる。

 後ろから抱き締めるようにして座らせた彼女の頭をやさしく撫でて、ただ、いつかを……何度も、何度も思い出す。

 

「なぁ、華琳。俺は……恩を返せたかな。華琳が言ってくれた、“この場に居ないことを死ぬほど悔しがるような国”を……支えてこられたかな」

「十分よ。皆は満足して逝ったのでしょう? 何を疑問に思おうと、その笑みを信じなさい」

「……うん」

 

 見上げた月はまんまる。

 いつかのように綺麗な満月と、雲も見当たらない黒の下、ただ静かに流れる時を過ごした。

 別れは必ずくる。

 そのことを、誰かが死ぬ度に味わってきた。

 その度に立ち上がろうと心を奮い立たせ、その数日後に別の誰かを見送り、涙した。

 楽しい思い出を思い出しては立とうとして、その悲しみが楽しさを埋め尽くしてしまった時、心の奥底の、なにか大事なものが軋む音を聞いた気がした。

 こんな日々を続けてもまだ、自分は肯定し続けられるのか。

 こんな日々を続けたからこそ、最果てで待つ彼は否定しようと思ったんじゃないか。

 そんな疑問に辿り着いても、そうなんじゃないかって思ってしまう時があっても…………笑顔で逝けた彼女たちが、まだいくらでも思い出せる今なら。

 

「ねぇ一刀。この場合、未来はどうなるのかしら」

「未来って?」

「あなたの世界と繋がるか、と訊いているのよ」

「……元々、俺の居た世界での“曹操”は華琳じゃなかった。曹操は大陸統一を成し遂げられなかったけど、華琳は成し遂げた……そんな歴史があっても、根本が違うなら、天の歴史には届かないよ。元からね」

「……そう。どれだけ願っても、それだけは叶うことはないのね」

「………」

「欲しいものを求めて、歩むべき道を歩んだ。その歩んだ道も、望んだ道に辿り着けないのであれば、意味が無いものだと……あなたは思う?」

「そんなことはないだろ。辿り着けないなら手を貸すよ。一人じゃ駄目ならみんなでだ」

「なに? 自分なら歴史さえ変えられるとでも言うつもり?」

「生憎と、覇王様が拾った種馬様は、一度そんな経験がございます故」

「それで自分が消えていれば、世話がないけれどね」

「それは言わないでおこう!?」

 

 笑みが弾けた。

 人の鼓動が温かい。

 こんな命の輝きが、もう消えてしまうものだなんて信じたくない。

 なのに、信じないでいた願いの全てはもう何度も裏切られて……だからこそ、そんな願いなんてするだけ無駄だと知ってしまっているのだ。

 

「……───」

 

 すぅ、と華琳が長く長く息を吸った。

 途端に跳ね上がり、臆病になる鼓動をなんとか押さえて、震えそうになる声を絞り出して……笑う。

 怖い。怖い怖い怖い。

 置いていかないでくれと叫びそうになる心を押さえつける自分さえ、そうしようとしてしまう自分さえもが怖い。

 いっそ子供のように泣き叫べばいい。

 泣かなかった過去に後悔したというのに、最後の最後で意地を張るのか。

 

「一刀……?」

「あ、ああ……うん、なんだ?」

「私が死んだあとのことだけれど」

「なんだよ、遺言か? 大丈夫だぞ、どんな無茶だって受け取ってやる。これでもほら、祭さんに命じられて大都督になったこともあったし」

「ほぼ似たようなことを毎日やっているでしょう……」

「祭さんがそんな俺を見てみたいって言うから……あ、あぁえっと、まあいいや。で、なんだ?」

「………」

「……華琳?」

 

 他愛の無い会話が途切れて、まさかと覗きこむ表情が、とてもとてもやさしいものに変わっていた。

 そっと頬を撫でる手はやさしくて、嫌でもこの後に訪れるものを連想させて、みんながそうであったことを思い出させて……胸を締め付けた。

 ───……来るべき時は、どうしてもやってくるものだ。

 自然が自然として在るように、別れも、悲しみも。

 人生に“心の準備”が出来るものなどそうそう無いと、いつか祖父が教えてくれた。

 それはその通りだなって何度も思った。

 だって、覚悟していた事態そのものが来たのなら、全ては想定通りに終えられる筈なのだ。なのに世界はやさしくなくて、覚悟していたものとは違うことばかりを運んでくる。

 

「まったく。あなたはちっとも変わらないわね…………本当、嫌な男……」

「……俺も歳をとりたかった。みんなと……老いたかった」

「……ばか」

 

 どれほどの時を生き、どれほどの時間をともに過ごしてきたのか。

 もうそんなことさえ忘れてしまった頃。静かに、ゆっくりと。この大陸の覇王の最後の時が、近づいてきていた。

 

「……ふふ…………やっぱり、悲しい……?」

「当たり前だろ……何人見送ってきたと思ってるんだよ」

 

 ふと気がつけば二人きりだった。

 あの日から魏に尽くし、民を守り国を守り、新たに産まれる生命を歓迎しては、消えてゆく生命に涙した。

 時には病気で、時には寿命で……時には事故で。

 あんなにも輝いていた日々の名残は……俺と華琳の二人だけになっていた。

 

「……覚えているかしら……初めて会った時のこと」

「ああ、覚えてる。……華琳は奪われた本を探してたな」

「世は乱世、黄巾党征伐の真っ最中で……」

「俺は天の御遣い、なんて言われて秋蘭に引っ立てられてた」

「ええ……そうね。あなたともそれからの付き合い…………ふふっ、相当長いわね……こういうのを腐れ縁、というのかしら」

「そうだな……これだけ腐ってれば、もう離れられないだろ」

 

 思えば長い道のりを歩いてきた。

 華琳と出会って天の御遣いとして魏の旗をともに掲げて。

 乱世を渡って天下を取って。

 一年の別れを経験して、再会を喜んで…………そして…………たくさんの仲間との別れを経験した。

 全ての人に別離を告げ、全ての教えに感謝して、全ての死に涙した。

 

「本当に…………私より先に逝くなんて……不忠義な娘たち……」

 

 ……そんな俺の考えを表情から読み取ったのか、華琳がこぼす。

 俺はその言葉に苦笑いを返して言う。

 

「はは、単に華琳がしぶとすぎたんだろ。ていうかその言葉、冗談でもみんな泣くぞ?」

「……ええ、わかっているわよ。眠る瞬間まで、どこまでも忠義に溢れた娘たちだったわ」

「うん」

「けど、それも当然なのでしょうね。それくらい強くないと、きっと立っていられない男が居ただろうから……」

「………………うん」

 

 泣きそうになった。

 そう……もう、何人見送ってきただろう。

 蜀のみんなとも呉のみんなとも仲良くなって、都合を付けられればみんなで集まって、馬鹿みたいに騒いで。

 いつしか全員が真名を許し合って、“みんなが笑っていられる天下”を手に入れたことに心から喜んで、やっぱり俺の幸せはここにあった、って思えて…………

 

「…………」

 

 いつだっただろう、“本当に歳を取らない自分”に気がついたのは。

 李衣に“髪が伸びてきたから切ってー”と頼まれて、髪を切った。

 紫苑に“璃々が大きくなってきたから”と新しい服の意匠をお願いされた。

 子供が産まれ、すくすくと成長して、子供たちが走り回るのを眺めていた時に……どれだけ時が経っても、やっぱり歳を取らない自分に気づいた。確信した、とも観念した、とも言える瞬間だった。

 そんな過去を思い出して、皺だらけになっていた彼女の掌を思い出し、その手を握った。

 

「…………ね、一刀……」

「うん……?」

「……これまでありがとう、一刀……」

「どっ……! ~……どうしたんだよ、急に……」

「……あなたは本当に……魏に尽くしてくれた。願った通りに……私達のために……」

「当たり前だろ……俺は……俺の家族を守りたかったから───」

 

 いつの頃か、誓った思いを確かめるように胸をノックした。

 じいちゃんが言っていた。

 守れるほどに強くないなら守られているといい。

 けど、いつか守れるようになったのなら……全力で守ってやれ。それが恩を返すことだ、と。

 

「……やっぱり、みんなひどいよな。弱っていく姿を見せるくせに、守ってやろうとすると“お前の助けは借りん!”とか言うんだ。…………結局、誰にも恩を返せなかった」

「ふふっ……まだ本当にそう思っているのなら、あなたは本当に鈍感なのね……。そういうところまで……ちっとも変わってない……」

「……華琳? それってどういう……」

 

 可笑しそうに笑う。

 仕方のない人、と言うかのように。

 そんな笑みがしばらく続くと、華琳は笑みのままに俺を見て、ゆっくりと口を開いた。

 

「一刀……私達はね……あなたに、もうたくさんのものを貰ったの……。戦いに明け暮れていただけじゃあ絶対に手に入れられなかったものを、あなたはたくさん……本当にたくさん、私達にくれたのよ……」

「俺が……? 華琳たちに……? 本当にそうなのか……?」

「ええ……。それなのに……最後の最後に助けられたら…………逝くに逝けないじゃない……」

 

 笑顔でそう言って、華琳が弱々しく伸ばした手が……もう一度俺の頬を撫でてゆく。

 皺だらけのものではなく、あの頃の手で、けれどあの頃とは違い、ひどくやさしく、ゆっくりと慈しむように。

 

「華琳……」

「ありがとう、一刀……あなたのお陰で、本当に退屈のない生を送れたわ……」

「それはこっちの台詞だ……華琳やみんながここに居たから、ここに帰ってきたいって思えたんだ……守りたいって思ったんだよ……」

 

 そんな手を、肩から抱き締めるようにして両手で掴んで、頬に当てたままに言葉を返した。

 ……そんな手から、少しずつ力が抜けていくのを……泣き叫びそうになるくらいの悲しみと不安を噛み締めることで、受け入れながら。

 

「……ね、一刀……」

「ああ……なんだ? してほしいことがあるなら言ってくれ。こう見えても帝王様ってくらいに信頼はあるつもりだぞ? 多少の無茶は…………あぁうん、華煉のやつにどやされそうだな」

「ふふっ……ふふふふっ……」

「わ、笑うなよ……最近あいつ手厳しいんだ、やれ父様はどーのこーのって。まったく誰に似たんだか」

「間違いなく秋蘭と凪でしょうね……。生真面目さばかり受け取ってしまったし、あなたがちっとも想いに応えようとしないから」

「……でも、いい子に育ってくれた。華煉の子供は見れなかったけど、他の方面で孫も見れたし……魏の後継は“夏侯”に任せたし……他国は言うまでもない。とりあえずは安泰だよな」

 

 華煉は結局、誰かを夫として迎えることはなかった。ファザコン、ここに極まれり、である。

 なもんだから後継のことはと話し合ったんだが……“自分たちだけ好きな人と一緒になったのに、娘には望まない相手と結ばせる気か”と激怒した華煉は、それはもう恐ろしかった。

 結局、古くから華琳に、魏に貢献してくれたという理由で春蘭や秋蘭の孫を、華煉の後継として決めた。今は丁度、その孫が頑張っている頃だ。

 そんないつかを思い出してもまだ笑えるのに、目には涙が溜まる一方だ。

 ……体っていうのは、つくづく本人の思い通りにはなってくれないらしい。

 

「ええ……だから、ね……一刀……」

「……うん……?」

 

 華琳の指が……むに、と……俺の頬を軽くつまんだ。

 まるで、こんな泣きたくなるような瞬間でさえも、なんでもない日常にしようとしてくれているかのように。

 

「もう……休んでいいの」

「え……?」

「あなたはもう十分に……本当に十分なくらいに魏に、三国に尽くしてくれた。だから……」

「……ま、待て……待て待て……待ってくれ。俺は……」

「わかっているわ……誓いがあったから尽くしてくれたんじゃない……あなたはあなたがそうしたいから、そうしてきた……」

「そうだよ……わかってるなら、なんで───」

「それでもね……もういいの……休んで頂戴……。あの日から今日まで、あなたはずっと走り続けてきた……。もういい加減……足を休ませてあげて……」

「…………」

 

 手を伸ばす。

 いつかのように、華琳の頬へ。

 でも…………

 

「……いやだ」

「……一刀……?」

「いやだよ、俺……。もっと……もっと魏を、この大陸を……。まだできることがあるよきっと……だからさ……華琳……」

 

 ……抓めない。

 抓んで、引っ張ることが出来ない。

 震える手で頬を撫で、湧き出る嗚咽に震える喉で、声を振り絞ることしか出来なかった。

 

「……しっかりしなさい、北郷一刀」

「………」

「あなたは……この世界で学んだのでしょう……? 覚悟を、生き方を、信念を……。教えたでしょう……? 現状維持は大切……。でも、進む気がないのなら……それは普通ですらないと……」

「でも……でも華琳……! でも……!」

「お願い……。あなたはもう十分に頑張ったの……これ以上走り続けたら……あなたはきっと立てなくなる。そうなったらもう、支えてくれる仲間が居ないのよ……?」

「っ……」

「あなたはやさしい人……でも、同時に心が弱すぎた。全ての逝く人に涙を流すあなただから、私が逝ってしまったらどうなるか……いつも怖かった」

「華琳……」

 

 頬を抓っていた指がふっと緩み、頬を撫でる。

 ……その手には、もう力と呼べるものなんて残ってなくて……

 

「……一刀。魏も、呉も、蜀も……都も。もうあなた無しでも栄えていける……。あなたがそう育んできたから、もう立派に生きていけるの……」

「でも華琳、俺は───!」

「……天が御遣い、北郷一刀……」

「……! 華琳……?」

「我……魏の王が命ずる……。永きに渡る魏への忠義を忘れ…………ただの一刀として───休んで、頂戴……。私も……覇王ではなくなるから…………ずっと一緒って……言ったでしょう……?」

「っ───」

 

 ……力が……消えていく。

 

「そっ……そうだ……そうだよ……! ずっと一緒だ! 約束した! 帰ってきたじゃないか! ずっと一緒って───! だから───だから俺っ……!」

 

 消えていく……力強さが、気高さが、温もりが…………優しさが。

 

「一度は破っちまったけど、こうして傍に居たじゃないか! 今度はお前が破るのか!? 王は一度言った言葉を覆さないんじゃなかったのかよ!」

 

 繋ぎ止めたくて力強く握る。

 けどそんな力でさえその手が壊れてしまいそうで……行き場のない悲しさが激しい嗚咽となって喉から溢れる。

 笑って見送るなんて無理だ。我慢なんて出来るわけがない。言葉が乱暴になったって構わない、そんなことを考える余裕がないくらい、震える心で叫んだ。

 

「いやだ……華琳……! っ……置いていかないでくれ……! お前が居たから……お前と一緒だったから、俺は……! みんなに守られてたから笑っていられたんだ……! やっとわかったんだ……! 守られるってことの意味が……守るってことの意味が……! それなのに……───」

 

 まるで子供のようだった。

 今まで育んできた国の下に居るというのに、まるで荒野に一人投げ捨てられた子供のように、情けなく涙を流した。

 いや……無様でもいい、情けなくてもいい……今心を支配するこの悲しみは、曲げようの無い事実なのだから。

 でも……そんな俺の頬を、震える手が……最後に、小さく抓ってくれて───

 

「…………また……会えて…………ふふっ…………うれしかったわ、かずと───……」

 

 ゆっくりと……

 

「さよなら……天の御遣い……」

「華琳……」

 

 ゆっくりと……

 

「さよなら……涙もろい男の子……」

「華琳…………」

 

 一本一本、力が抜けていき……

 

「さよなら………………愛しているわ、一刀───」

「華琳…………?」

 

 やがて…………その手が、俺の手から…………

 

「ふふっ……わたしは───過去形になんて……して、あげない、ん…………、───」

「かっ……───」

 

 力無く、落ちた。

 

「か……華琳……? 華琳……!」

 

 涙に滲んだ視界で見た、愛しき者の顔。

 その目は閉ざされていて……その顔は、全てをやり終えたかのように穏やかに笑み……

 

「……っ……く、ぐ……っ……───!!」

 

 喉まで出掛かった絶叫。

 それを、歯を食い縛ることで無理矢理殺し、涙を拭った。

 

「まだだ……」

 

 力無く垂れた華琳の手を戻し、胸の上に整えてやり……横抱きにして立ち上がる。

 

「まだだ……!」

 

 叫び出したかった。

 いっそ気が狂ってしまえば、このどうしようもない悲しみから解放されるのだろうか。そんなことすら考えた。

 けど、そんなことをするわけにはいかなかった。

 

「返さなきゃ……!」

 

 出来ることがあるはずだ、と。

 天を仰ぎ、嗚咽の所為で荒れる呼吸を無理矢理直し、そうしてから踵を返して……いざ、最果てへ。

 

「みんな居なくなった……! みんな失った……! 仲間も部下も、楽しい日々も愛しい人も───!!」

 

 でも、だけど、まだ呉が、蜀が───魏が残っている。

 あの日から始まり、ここまで至り、王が死んだ今もまだ、旗だけは───!

 

「魏に尽くすって誓ったんだ……! 肯定するって決めたんだ……! 守れないなら、守れる時になったら全力で守るって……! みんな居なくなってしまった……なら……っ……俺がっ……!」

 

 人としての在り方を教わった。

 戦乱の世というものの怖さを教わった。

 生きることの素晴らしさ、死ぬことの悲しさを教わった。

 喜びを知った。悲しみを知った。

 進みゆく目標を……立ち上がる理由を。

 立ち向かう勇気を、振り翳す希望を、力を振るう、その意味を───!!

 教えてもらった全てを以って、今こそその恩を、この国に……みんなが愛したこの大陸に返すんだ……!!

 

「だから───、う、ぁ───あ……、え……?」

 

 そんな思いを胸に……華琳を抱いたまま歩こうとした瞬間───軽い、眩暈。

 

「な、……んで……」

 

 次いで、強い立ち眩みと、立っていられないほどの虚脱感。

 

「……、……」

 

 気を失いそうになるのを繋ぎ止める。

 華琳を腕から落としてしまわないように、屈みながら。

 ……そんな中で、俺はただただ愕然としていた。

 

  この感覚を知っている。

 

 自分の中が空っぽになるような感覚。

 そしてそれを、こんなにも強烈に味わうのは……二度目だった。

 

「消え……る……? そんな───」

 

 自分の手を見て、心臓が潰されたんじゃないかってくらいに絶望を覚える。

 その手は透明になりかけ、そこから地面が鮮明に見えていた。

 

「華琳の物語が……終わったから……か……?」

 

 震える声で呟きながら、もはや目覚めることのない愛しい人を見下ろす。

 ……途端に、自分の口から出た“終わり”という言葉に泣きたくなった。

 まだだ……まだだ、違う、終わりじゃない、と。

 だから、華琳の肩を抱いている手に力を込めて、前を向く。

 そう、まだ残っている。

 やらなきゃいけないことが、ひとつだけ。

 決着をつけなきゃいけない。

 外史ってものの連鎖に。

 そして……肯定と、否定に縛られた男の、長い長い旅に。

 

「……華琳。最後の最後まで見送ってやれなくてごめん。他の誰かに弔ってもらわなきゃいけないことを、どうか許してほしい」

 

 歩いて歩いて、二人で来た道を一人歩いて、宴の賑やかさの中に戻っていく。

 そこで俺を見つけてくれた娘に彼女の死を告げて……涙は見せたけど、「既に別れは済ませてありましたから」と言われ、華琳っていう人間に、やっぱりちょっと呆れた。

 どれだけ先を見越せば気が済むんだか、本当に。

 

「───」

 

 そんなふうにして、彼女を彼女の娘である華煉に任せた瞬間。

 どくん、と。

 心の奥で、何かが躍動した。

 まるで、自分の中にある存在理由が、敵としての何かを感じ取ったような、そんな……異様な躍動。

 途端、慌てて駆けてきた、この賑やかさには似合わない表情の兵に、状況を理解した。

 

「も、申し上げます! 許昌前方に突如謎の軍勢が出現しました!!」

「謎の……? どういうことか!」

「そ、それが私にもよくわからず……! ただ、妙な服を着た男が“北郷一刀を出しなさい”とだけ……!」

 

 華煉が声を荒げるも、兵にしてみれば急に現れた存在、としか映らなかったんだろう。

 このタイミングでの突然の事態なんて、予想がつけられるものなどひとつだけ。

 だから───

 

「その軍勢は、武器は持っていたか?」

「は、はい! 出て来なければ突撃させる、と……」

「……そっか」

 

 一度頷いて、華煉に向き直って自分の胸をノックする。

 華煉の腕の中で眠る華琳の頬を最後に撫でて、真っ直ぐに華煉の目を見て、伝える。

 

「華煉。今まで準備してきたことがようやく試される時が来た。全員に伝えろ。外に居る軍勢は敵で、俺を殺しにきたヤツだって」

「父さまを殺しに!?」

「将も兵も全員集めてすぐに戦の準備をしろ! これから始まるのは演習じゃなくて本当の戦だってことも伝えるのを忘れるな! ───武器は持ってきているな?」

「は、はい。どういう訳か母さまが持ってくるようにと。最初は模造武器のことかと思ったのですが」

「よし、だったらいい。ほんと、呆れるくらいに見通してくれたことに感謝だ。……まず俺が前に出るけど、軍勢が居るってことは相手も容赦無しに突撃してくると思う。長い目で見れば、誰かに片春屠か摩破人星で他所に増援要請をしてもらいながら、篭城戦で持ち堪えるのがいいだろうけど、相手は急に現れたりするらしいから、篭城は無意味かもしれない。相手が実力行使で来たら、遠慮せずに全力でぶつかれ」

「はいっ! 聞こえていたわね!? すぐに早馬か絡繰を用いて他国に伝令を飛ばしなさい!」

「は、はっ!」

 

 華煉が兵に命令して、自分も俺に一礼をしてから駆け、宴の中心で大音声にて大号令。

 娘達や孫達の目つき、それから長くこの国に仕えている兵の目が、一気に鋭いものへと変化した。

 

「これより立ち上がるあなた達に言葉を届けよう! 油断は敵である! 各々、全力を以って敵を粉砕するまで、一時も油断を持つことを禁ずる!!」

『応ッ!!』

「結構! ───つい先ほど、知らされていた通り母が眠りについたわ! その母の眠りを騒音にて妨げる者に、彼女達が作り上げてきた国の力がどれほどのものか、見せ付けてくれよう!」

『応ッ!!』

「平和を乱す者は敵である! 先人の教えに従い、先人に感謝し、今この地に立っている我らが、これからの大陸を守ろうではないか!」

『応ッッ!!』

「この戦を母に! そして導いてくれた先人にこそ捧げよう!! 無様を見せずに勝ってみせよ!!」

『応ォオオオオッ!!』

 

 鼓舞が終わるや、宴をしていた者の全てが一気に散る。

 その速度は全員が全員氣を行使しているためか速く、華煉が俺を見て頷くのを確認すると、俺も動き出した。

 ……わかりきっていることだが、篭城するつもりはないのかと訊いてみれば、「突然現れたのなら、それこそ何処に居ようと同じです」と。さらには「ならば守りの構えよりも、攻めの構えです」とも。

 やれやれだ。勝気なところは誰に似たんだか。

 

「……よし。じゃあ……華煉」

「はい?」

「会えるのもこれで最後かもしれない。だから───いい未来を築いてくれ。未来で、待ってる」

「最、後……、───まさかっ! 禅が言っていたことは、今この時の───!?」

 

 驚く華煉の頭を久しぶりに撫でて、擦れ違ってからは早かった。

 兵や将が乱れることなく流れるように外へと駆ける中、俺も、見下ろした拳を力強く握り締め、胸をノックし駆け出した。

 

「覚悟、完了───!」

 

 さあ始めよう。

 ずうっと続いた、否定を願った先輩の旅を終わらせる戦いを。

 そして───この歴史を肯定し続ける意志を、貫き通すための戦いを。


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