-_-/最近の出来事
現在より二日ほど前のとある日。蜀から華佗がやってきた~と聞いたのは、その日の夕刻だった。
日々、人々を病魔から救うために大陸を旅する彼は、あまり一箇所に留まることをせず、放浪にも似た旅を続けているそうだ。
そんな彼と顔合わせをするのは、一年以上も前のあの日、華琳の紹介で診てもらって以来となる。
相変わらずの格好と赤い髪に、どこかで聞いたような特徴のある声が目と耳に懐かしい。
思えばこの世界に降り立っての日々、男との付き合いといえば兵士や民との間だけ。こうして腰を落ち着けて話す相手なんて、個人としては初めてじゃないだろうかと少し涙した。
そんなわけで現在は宛がわれた自室にて、一応の検診を受けているわけだが。また消えたりしないかと不安が残ってたっていうのが理由だ。
「もう体にかかる違和感はないのか?」
「一応そこは解決済みってことで。すこぶる健康だよ」
「そうか。それはよかった」
顔を合わせるなり目をギンッと光らせ、俺というよりは俺の内側を診た華佗は、ニカリと笑って安堵の息を吐いた。
顔合わせの途端にすることじゃないだろう、なんて言葉も出るはずもなく。むしろ、心配してくれてありがとうって言葉を返した。
「それで、急にどうしたんだ? まさかあの日からずっと、今でも医療の旅を続けているとか───」
「我が身、我が
“だから旅を続けている”と続ける華佗に、素直に感心した。
以前から思ってたけど、本当に真っ直ぐな人だ。
「急にどうしたんだ、と訊かれれば……諸葛亮に“周瑜が来て欲しいと言っていた”と言われたからなんだが───」
「朱里に?」
そういえば少し前、蜀へ定期報告と学校についてをまとめるために戻ったんだっけ。
「書簡に纏めてそれを送ったらどうだ?」って言ってはみたけど、「その場に居ないと通じないこともありますから」と、律儀に蜀へと戻っていったのだ。
「へえ……けど冥琳が華佗に用事か。どんな用だったんだ?」
「…………いや。すまないがそれは言えない。秘密にしてくれと言われているんだ」
「秘密に……そっか」
いろいろあるのかもしれない。女性って大変だって聞くもんな。深く考えないようにしよう、うん。それに最近、咳をする冥琳をよく見るようになった。以前気になった時から風邪が続いているなら、診てもらわないと危険かもしれない。
などと、少し慌てた風情で無駄にうんうんと頷いている俺を、華佗が緑色の眼で鋭く射抜くように見つめる。
「ん……えと、華佗? どうかし───はっ!? もしかして悪いものでも見えたのか!? 困るぞそれっ! 俺はもう消えるわけには───」
「ああいや、違うんだ。ただ……北郷、氣の鍛錬をしているのか? 以前とは明らかに体の作りも気脈の大きさも違う」
「へ……? あ、ああ、なんだそっか、そのことか……」
以前の続きのように始まった診察なのだから、急に焦られれば自分が消えるんじゃあ、と思うのも仕方ない。
けれど逆に、安堵に繋がった言葉を聞いて、俺は一年前から始めた鍛錬のこと、ここ最近になって始めた氣のことを話した。
「そうか。同じく世の全てに平安を願う者として、俺も負けていられないな。しかし……そうか。氣を……」
「?」
考え込む仕草をして、華佗はぶつぶつとなにかを喋っているんだが……なんだ? “同じ氣が”とか“淀みが”とか、よくわからない言葉がぽつぽつと聞こえてくるけど。
……と、首を傾げていると、急に俯かせていた顔を上げて口を開く。
「北郷。近日中に手伝ってほしいことが出来るかもしれない。それまでに、氣の絶対量を出来る限り増やしておいてくれないか」
「ああ───ってなんで!? つい返事しちゃったけど、どうして急に俺の氣の絶対量の話になるんだ!?」
「必要なことなんだ、頼む。それから───ああ、恐らくは甘寧か周泰あたりがいい。気配の殺し方、氣を自分以外のなにかに溶け込ませる方法を訊いて、身に付けておいてほしい」
「………」
要領を得ないというか……そりゃあ、教えてくれるのなら喜んで学ぶけど。教えてくれるだろうか。特に思春。
……勘繰りを混ぜるとしたら、華佗が必要だって言うことは、誰かの病を治すことにも繋がるって考えられる。
特に……呼んだっていうのが冥琳なら、それも頷ける気がした。
「わかった、一応訊いてみるよ」
「ああ、頼む。だが、間違っても高めすぎないでくれ。気配を殺しきれないほどに高めすぎたら意味がない」
「随分とまた難しい注文だな」
そう言いながらも、そうすることを前提で鍛える気満々な俺が居るわけだけど。
少し前から冥琳がしている咳は、どうにも頭に残ってて気になっていた。もしそれを治すために必要だっていうなら、それに全力を注がないわけにはいかない。
いろいろ世話になっているし、なにより病死なんてことになったら絶対に後悔する。
「それじゃあすまないが、俺は町のほうに行ってくる。ぎっくり腰になった老人が居ると聞いたんだ」
「……ああ、あのじいちゃんか。落ち着いたふうで、結構元気な人だからな」
雪蓮が城を抜け出しては会いにいく老人だ。
雪蓮のことを雪蓮ちゃんと呼び、随分と仲良しの老夫婦。
ぎっくり腰って……大丈夫なんだろうか。そんなことを思っているうちに華佗は軽く手を上げ、部屋から出て行った。
それをボウっと見送りつつ───少しの時間が経過したのち、“ぱぁんっ!”と頬を叩いて喝を入れる。
「よしっ! 絶対量の拡張、もうちょっと頑張ってみるかっ!」
痛みが怖くてほんのちょっとずつしか拡張させていない氣の量を、ジリジリと増やしていく。すると膨張した氣の膜が氣脈を押し、全身が膨張するような錯覚とともに痛みが体を襲う。
今度はそれを我慢出来る程度の痛みに抑え、それが常になり、やがては慣れるように耐えていく。
「お、おおうっ……! 歩くだけでも結構辛い……!」
体をボンドで固められたボンド人間のようだ。足が突っ張ってて、上手く曲げられないような……ううん、なんと喩えればいいんだ?
これに慣れる、これを常とするようにってなると、一日二日じゃあ辛いかも……いやいや、弱音厳禁っ! 孫呉のため、冥琳のため、国に尽くす北郷一刀として、今はひたすらに頑張ろう!
「痛みを恐れるからこんなふうになるんだ……足が攣った時は曲げる勇気と伸ばす勇気、それが大切。瞬間的な痛みを恐れていては、逆に延々と痛みを味わうだけ───だったら!」
キッと扉を見据え、ギシリギシリとしか動かない体を無理矢理に動かしてゆく。
そして扉を開けたその先からは、長く続く通路を───一気に駆ける!!
「走るンだッ!! 祭さんスピリッツを忘れるな! 辛い時こそさらなる辛さ! キツい辛さで軽い辛さを乗り越える!」
ベキビキと筋がヘンな音を立てている気がするが、それも無視だ。
通路を駆け、中庭を突っ切り、城の端までを駆け、やがて見えてきた石段を登って城壁の上へ!
今日は鍛錬の日じゃないが、必要だと言われたからにはその高みへ! 急に起こったことに慌てるんじゃなく、準備期間があるんだったら求められるものより一歩先を目指す!
「さらなる痛みにも耐えて、守れるものを増やすことを……今ここで胸に誓う! 覚悟───完了!!」
そして走る! 広い広い城壁の上を、鍛錬の時に駆けるように全力で!
胴着じゃなく私服だが、動きづらいわけでもないからこのまま走───あ、明命。
「おーい明命ー!!」
「? ……どなたかはうわぁあああああっ!!?」
城壁の角をひとつ曲がった先に明命。
声をかけてみると辺りをきょろりと見渡し……俺を見つけると同時に絶叫。
瞬時に顔が真っ赤になり、どうしてか視線を彷徨わせるどころか首ごと彷徨わせるようにぶんぶんと視線を……泳がせるどころか豪泳させている。
「かっ、かかっ、かずっ……一刀様っ!? あぅあっ……あぅぅうううぅぅーっ!!」
しかも次の瞬間には俺に背を向け、走っていってしまう始末。
……いったいなにが? と思うより先に、もしかすると仕事中にも係わらず俺の鍛錬に付き合ってくれるんじゃあ……と、暖かな勘違いをした俺は、先を走る明命を追いかけるように走った。
(明命……いい子っ!)
拝啓、曹操様。他国の地で、僕はとてもやさしい子に出会いました。
仕事中にも係わらず、こんな僕の疾走鍛錬に付き合ってくれるのです。
え? 顔が赤かったのはどうしてだ、って? きっと猫でも見てとろけていたんだと思います。
だから走りました。走って走って、走り続けて───やがて夜が訪れる頃には、空腹と疲労と……おまけに眩暈と酸欠とで城壁の上にへたり込み、目を回す俺と明命が居た。
……。
そんなことがあっての就寝時刻。
結局、逸早く回復した明命には逃げられてしまい、俺はといえば気脈拡張にともなう痛みと無理矢理に走ったために痛みとでダウン。逃げる明命を追えず、空腹のまま今まで城壁の上でぐったりしていた。
こうしてなんとか部屋に戻ってきたのもつい今しがたであり、もうこのまま寝てしまおうと寝床へと倒れこもうとした……その時だった。
「一刀様っ!!」
「キャーッ!?」
急な来訪。勢いよく開け放たれたドアに心底驚いた俺は、女性の悲鳴にも似た声を出し、寝台の前で変なポーズをとっていた。
「え……あ、あれ? 明命?」
「は、はいっ、明命ですっ! せせせ姓は周、名は泰、字は幼平っ! すすすす好きなたべものはぁあああ!!」
「ちょ、待って! 落ち着いて! どうかしたのか明命!」
目をぐるぐると回しながらあわあわと口早に喋る明命に、さすがにただ事ではないと睡眠モードを解除。
寝台の傍から離れると、ドアは開いたものの、そこから先には入ってこようとしない明命の傍へと歩く。
「明命……ほんと、どうしたんだ? なにか大変なことがあったなら言ってくれ。俺で力になれるなら、喜んで協力する」
「…………」
俺を見上げる明命の顔は、夕刻の時と同じく真っ赤。
けれど逃げることはせず───というか逃げようとする体を強引にこの場に留めている感じがする。
いつものように胸の前で手は合わせ、俺の目を見上げては、逸らしそうになる自分を戒めている、というのか……な、なんだ? なにが起こってるんだ?
「か、一刀様っ」
「え? あ、うん。なに?」
「……っ……か、かか、一刀様っ!」
「うん……えと、なに?」
「~…………きょきょ今日はいいお天気ですねっ!」
「へあっ!? ……え、えああ……? や、そりゃあ……いい天気ではある……かな? もう夜だけど、雲ひとつなかったし……」
「はぅっ……う、ううー……」
「……?」
いや……本当になんだ?
合わせた手をこねこねとして、俯きそうになる視線を無理矢理俺の目へと向け、逸らすことなく逃げることなくこうして向き合って……いったい何がしたいのか。
「───……~……、……すー……はー……っ、かか一刀様っ!」
「……うん。どうしたんだ? 明命」
今度こそ話してくれるだろうと、たっぷりと待ってから笑顔で迎える。……と、なにやら逆効果だったらしく、明命は目を潤ませつつあわあわと慌て始めた。
……思わず抱き締めて頭を撫でてやりたくなるが、やったらやったでマリア様以外の“見ている誰か”の手によって、俺の首と胴体がオサラバしそうだからやらないでおく。
「う、うぅ……うー……一刀、様……───一刀様っ!」
「おおっ!?」
しかし今度こそはと、頭を振ってキッと俺を見上げた明命!
その口から、ついに衝撃の事実が明かされようとしていた───!
「慣れるまで傍に居ますっ、いえっ、居させてくださいですっ!」
……うん、明かされた。明かされたんだけど……いや、明かされたらしいんだが……明かされたんだよな?
あのー……明命さん? もーちょっと噛み砕いて仰ってくださると……私、北郷めにも理解できると思うのですが……。
それともこれはとてもわかりやすいことで、ただ俺がわからないだけ……だとでも? だったら大変だ、これだけ真っ直ぐに打ち明けてくるのだ、なにか大切なことに違いない……!
「───わかった。明命がとっても真剣だっていうこと、きちんと受け止める」
「ふわっ……かか、一刀様……」
とりあえずは一緒に居るとなにかに慣れるそうだ。一緒に居るだけでいいなら、いくらでも付き合おう。
そうすれば、明命とのキスのことだって少しは───…………
「…………アレ?」
キス? ……キスって……って思い出したぁああああああっ!!
「な、あぐっ……!!」
「……? か、一刀様……?」
わかった! 理解できた! 赤くなる理由も、急に走り出した理由も、目を逸らそうとか逃げ出そうとかしてた理由も、全部っ!!
慣れっ……慣れね! 必要だねうん! よくわかった、本当によくわかったよ! 確かに必要だ! 必要だけどっ……ぐっは……! 慣れるまでずっと!? ずっとこんな、ざわざわしたような逃げたくなる気分と激闘を繰り広げろと……!?
いやいや待て待て!? キスしたことに慣れるとか、それを了承したこととか、挙句の果てに“真剣だってことをきちんと受け止める”って、まるで告白を受け入れたみたいなぐあああああああっ!!
「一刀様っ!? 頭を抱えて震え出して、どうされましたかっ!?」
「なんでもないよ!? 大丈夫大丈夫!」
大げさともとれるほどに大きな声で大丈夫宣言。
でも反射的に唱える大丈夫って、大体大丈夫じゃなかったりするよね。この北郷めも例より外れることもなく……大丈夫だとは思ってなかったりもしました、はい。
(…………けど、まあ)
俺と明命に、慣れる時間が必要なのは確かだ。
けれどそれは永遠に与えられたものではなく、実に有限。俺はいつか帰るし、明命もそれを知っているからこそ、早く関係を修復したかったに違いない。
そうなれば俺が言葉を改めて断る理由なんてなく───むしろ賛成する理由しか見つからなくなっていた。
「………」
「ふわ……一刀様……?」
そうなれば自然と心も穏やかになって───気づけば、自分との時間を大切に思ってくれる目の前の彼女の頭を撫でていた。
さらさらの黒髪を指で梳かすように、やさしく……やさしく。
それから部屋の中に招いて、夜から朝まで他愛ない話の連続。
夜更かしをしていろいろなことを話し、朝が来る頃には二人ともぐったりしていて、けれどそんなことを気にすることなく、むしろハイになったかのように語り明かした。
猫のことや鍛錬のことやモフモフのことや猫のことや肉球のことや猫のことや……ああ、つまりは猫のことばかり。
結局祭さんが乱入してきて、さっさと起きんかーと怒られるまでそうしていたわけだけど……うん、寝てないんだよね。
だから乱入してきた祭さんも少し呆れた顔してた。うん、してた。
「それでは今日も奉仕活動へ……」
「……うにゅうにゅ……」
しかし国に返すという言葉を偽りにしないためにも、どれだけ眠かろうと仕事は仕事、奉仕は奉仕。
仕事だから親父たちを手伝うってわけじゃないにしろ、やることはやらなきゃこの国に居る意味がない。
だから俺は明命と二人、ゾンビのごとくン゛ア゛ア゛ア゛ア゛……と奇妙な声を出しつつ、今日も町へと繰り出した。
───長い長い、明命との一日の始まりであった。