バイト先で、「北郷くんほど幸せそうにバイトする子は中々見ないねぇ!」と肝っ玉母ちゃん風の店長さんにバッシバッシと背中を叩かれつつ、本日もお勤め終了。
いや、そりゃね? 俺だって嬉しいんだよ? またみんなと居られて。
でもさ、仕事の時だけはそういったもの(主に魚が飛び出たチョコレート)とかを忘れられるのだから、心が自然と癒しを求めるのも仕方ないと思いませんか?
ともあれ、さあ家だ。思春だけじゃきっとバレンタインチョコレートの陰謀にまで辿り着けないし、辿り着いたとしても……ねぇ? そんなお菓子メーカーの陰謀に付き合ってやる義理はないー、とか華琳やら蓮華あたりが言って終了だ。
(なんだ、難しく考えることなかったんじゃないか)
そう思うと頬も勝手ににやけてくるってもんで、笑顔のままに元気にただいまーと言って玄関をくぐった。
そう、笑顔だったんだ。
その玄関で、気絶している華佗を見つけるまでは。
えっ……え? ぇかっ……華佗? 華佗さん!? えちょっ……華佗さん!?
「───」
どくんと心臓が鳴った。やけに耳に残る音だった。
同時に、自分の中の様々な北郷が叫んだ。“その先は地獄だぞ”と言わんばかりに。
「っ……」
一歩進んで屈み、華佗を介抱するのは簡単だ。けれども心は今すぐ逃げろと叫んでいる。
だがだ。待ってほしい。もしこうして華佗が倒れている原因が、俺が想像するものとは別のところにあった場合、俺は彼女らのことを無条件で疑っていることになるんじゃないか?
そんな、良心をつつくような言葉をどこぞの北郷が……主に三国のどちらにも降りなかった、華佗や貂蝉と卑弥呼とともに世を駆けた北郷が囁きかけてくる。
そんな北郷に、他の全北郷が返した。
馬鹿お前そんな良心で一歩進んだ先で俺達がどれだけ地獄を見たと思ってんだ馬鹿なのかこの馬鹿!
答えはそれだけで十分だったのだ。
なので俺はニコリと微笑むと足音も気配も殺して、踵を返して逃げ「おおこれは主よ、よく帰られた」終わった……。
聞こえた声に、鋭い絶望がゾブシャアと心臓を貫かんとする中で、返し途中だった踵を戻して振り向いてみれば、もはや変則ナースキャップなどつけていない、見るからに暖かそうな服に身をつつんだ星が居た。
「うんただいま。で、ちょっと用事思い出したんでもう一度外出てくるね?」
「おや、それは手間のかかることだ。ふむ、ではその用事とやら、この趙子龍も手伝いましょう」
「ヤハッ……ィャッ……た、たいした用事じゃなハぃから……! むしろ俺一人で十分っていうか……!」
「ははっ、いやなに、本日は少々主に早く腰を落ち着かせてほしい理由があるのです。ならばその面倒な用事とやら、早急に片付けてしまったほうがよろしいでしょう。手伝うのはこちらの一方的な我儘と受け取ってくれて構いませぬ。さ、主よ」
「……! ……!」
助けてぇえええと心が叫びたがってらっしゃいます。
そんな弱気北郷を他の北郷で必死になって押さえつつ、表情は凛々しい顔で保たせていた。
いや……けど待てよ? 俺、過去の様々な経験や、こうして華佗が倒れていることを事実として、最悪の状況ばかりを思い描いていたけど……もし華佗が倒れている原因が他にあったら? チョコはなんか結局作られていて、けれどもしっかり美味しいチョコであったなら?
それはやはり彼女たちへの侮辱に───だからちょっと黙ってて平和ボケ北郷! お前ほんとこれから先、様々な経験していつまでそんなこと言えるのか見物だよ!? 割と本気で!
だって見てみなさいよ目の前の星さん! 華佗が玄関に横たわって痙攣してんのに見て見ぬフリっていうか視界に映ってるのに居ないモノとして捉えてるよ!? これもうアウトじゃないか! 原因知ってて、あえて目を逸らしてるとしか思えないんですが!?
「………」
そんな彼女がオトモにつくそうです。偵察についてくるみたいです。
ここは……
1:なんとかしてついて来させないようにする
2:いや、怪しまれるのはダメだ。一緒に来てもらおう
3:むしろ今から旅に出る。(探さないでください)
4:俺より強い奴に会いに行く。(たくさん居ますが?)
5:今宵の
結論:……5はない。おい5。やめてくれ5。
というわけで僕は1がいいと思うのです。
「いや、ほんと大した用事じゃないから」
「ふむ? それはいったいどういった用向きで? 帰って早々に再び出るなど、急ぎの用でもあり重要な用事であるともとれると推察できるのですが」
「及川関連」
困ったときのタスク・オイカワ。
男の知り合いの名前を出せば、女性と密会するわけでもないし怪しい用件があるわけでもない。そう、これこそ我が逃走経路よ───! そしてごめん、北郷早速嘘ついた。
「……なるほど。ふふ、いや失礼をした主よ。男同士でなければ語れないものもある、ということですな? 不躾に聞きだそうとしたことを素直に謝りましょう」
(違ァアアアアッ!? でも否定するとややこしくなりそうだしああああもう!!)
「しかし主。我らと関係を持っておきながら、艶本の類に気を傾けるのだけは遠慮願いたい。たとえそれがあの男が一方的に主に見せるものだとしてもです」
「? いや、その心配は一切必要ないぞ? なんで艶本の話が出るのか知らないけど、俺自身興味もないし、及川だってそんなことすりゃ地獄を見ることくらい想像つくだろ(各国の皆様にシメられるって意味で)」
「……!(地獄……! よもや主自らが、我らを想い……!?)」
「………」
「……、……、……(いや。いやいやはっはっは、主だぞ? あの主だ。地獄というのはつまり、我らが“主に余計なものを見せるな”と怒る方向のことだろうに。やれやれ、乱世を駆けた将がこれほど判断を鈍らせるとは。恋とは実に恐ろしいものだ)」
「……? 星?」
「……い、いえ。てっきり慌てて否定するものとばかり予想していたのですが。まるで興味も見せずに否定されるとは……」
いや、艶本の類とか言われても。誤解だろうがそんなものを忍ばせてみろ、命がいくつあっても足りない上に、首なんて何度飛ぶかわからない。なのに艶本に興味? 他の女性の写真とか? はっはっは……死にたくないですいりませんそんなもの。
大体、いまさら心も預けられない写真の中の誰かにときめけとか無理です。隣に立ちたいし、守りたいし、笑顔で居て欲しい……そんな相手以外に手を伸ばしたいなんて思うもんか。
……や、そりゃ咄嗟の状況とかだったら手を伸ばすかもだけど、その伸ばすって意味だってそういう方向のものではないわけだし。
「星~? 語らない人の心を勝手に想像するのは自由だけど、そんな勝手を人に押し付けて理不尽働くなら、俺だってたまには怒るぞ?」
「おっと、それは困りますな。想い人に笑顔でいて欲しいのは私とて同じ。まあ、その笑顔を独占したいと思う乙女心も拾っていただけたらと思わぬでもないわけですが」
「あー……その。ごめん」
つまり。ちょっとの用事だろうと自分も連れていってくれると嬉しい、と言いたいらしい。
マジでごめんなさい。その用事、ただ逃げるための言い訳なんです。
「いやいや、困らせるつもりはございませぬ。ただ、出る前に少々訊きたいことがあるのですが」
「訊きたいこと? ん、なんだろ」
「───ばれんたいんでーとは、とどのつまり想い人に、ちょこれいとなるものをあげるもの、でよろしいのですな?」
「───(ギャーアーッ!!)」
不意打ちであった。
ニコリと微笑を見せる俺だったが、内心絶叫状態である。
そんな俺を見て、一度目を閉じた星がスゥ……と半眼のまま俺を見た。ア、この常山の昇り龍さん、人の反応見て楽しんでる時の目ぇしてる。
はっはっは、星~? お前は俺をからかい慣れて、手玉に取っているつもりだろうけどな? ……俺だってお前の反応とかもう知り尽くしてるってこと、意識の外に出しちゃあだめだぞぅ?
イエマアダカラト言ッテ、現状デ反撃出来ル手札ナンテナイノデスガ。手札ナンゾヨリサッサト逃ゲタイデス。
「主?」
「バレンタインデーっていうのはネ? 思春にも言ったんだけド、ウァレンティヌスって人のネ?」
「その辺りのことはしかと耳にしております。主が仕事に出掛けてから、妹君の助力を得て調べました故」
じゃあなんで訊いたの!? 北郷わかんない! やっぱからかってるだけじゃねぇかこの昇り龍! あんまりおいたが過ぎるとどの国にも治まらなかった野蛮北郷が火を吹きますことよ!? 負ける未来しか思い描けないけど! ていうか妹お前ぇええええ!!
「ただ、主から直接確認を取りたかったのです。女性からちょこれいとなるものを貰えぬ者は、頑なに“そんな日ではない”と否定すると聞いたので」
(OHシスター……!!)
心の中の妹がウィンクをしつつ、左手で敬礼をしていた。敬意は乗せずに叛逆の意を示すアレである。
そんな脳内劇場が繰り広げられる中、予想通りに星は“しな”を作り笑みを浮かべ、俺へとからかうような視線を投げてくるのだ。
「ふふっ、主ともあろ───」
「うん、チョコレートなんて特に貰わなかったな」
「ぅお方……が……………」
「………」
なのでからかわれる前にズバッと返した。
途端、星が頬をぷくーっと膨らませて“しな”を解く。
「主……こういう時は───」
「星、やっぱり一緒に行こうか、用事」
「───……、……やれやれ、本当に主はずるいお方だ。構って欲しいからと食い下がる女を前に、欲しい甘言をぽんと投げる」
「そうか行かないかじゃあ僕行くね」
「待たれよ」
再びしなを作り始めたので、うんもう行こうと歩き出したら物凄い速さで服の先をつままれて止められた。
「主。もはやこうなれば回りくどい問答も時間稼ぎもしておられませぬ。……主はちょこれいとが嫌いか?」
「星……よく聞いてくれ。チョコレートに魚は使わない」
「なんと!?」
期待した言葉は“当然でござろう”的な言葉だった。でも……やっぱり今回もだめだったよ。
なので俺は今こそ笑顔で、コフリと血の混ざった咳き込みを喉の奥でしつつも……なにもかもを放り出して逃げ出すつもりで走った。
「待っ、ちょ、主っ! 待っ───」
「離せ星離せマジで離せうぉおお離せぇええええええっ!!」
「誤解です主今のはちょっとした冗談で主っ、待っ、主っ! 主ぃいいっ!!」
今こそ長い年月を必死に鍛えた氣を以って、服を掴んでふんばる星と全力で格闘。黄金色の氣を隠すことなく最大解放して、驚く星の手を強引に振りほどこうとするのだが、さすがはかの趙子龍……! 我が全北郷の抗いがこうもいなされ、振りほどこう、引っ張ろうとする力が分散されようとは……!
一筋縄ではいかない……のならばどうするか? 決まっている。
様々な北郷の中でも超・自然と向き合い、サバイバルを野生に帰すことで乗り越えた野生北郷が、ウキョロキョキョーンとその一手へ即座に切り替える。
そしてそれはさすがの昇り龍先生も予想だにはしていなかったらしく、抱き締められ、ひょいと持ち上げることで全力疾走を果たせた!
「ふわぁっ!? あ、主っ!? あっ───くうっ!!」
しかし星は手と足を伸ばし、玄関を掴んでは外への逃走を妨害する。
そのくせ片手ではしっかりと俺の服を掴んでいるんだから、ええいこの英雄様は……!!
「
だが知ったことか!
勢いのままに玄関ドガシャァンと破壊して───はまずいので、丁寧に持ち上げては引き持ち上げては引きを繰り返し、玄関の引き戸を横に外してニコリとスマイル。
星は大変珍しいことに「い、いや、あの、主、これはその、桃香様の願いであり……」と行動の行方と落着を求めるような、曖昧な笑みを浮かべつつ言うが、もはや俺を縛る者なし。
「そのっ、いつかの言いつけは守っているのです! きちんと味見をするようにと各国の王らが伝えてあるので、主が予想しているであろう危険なことには───」
などと供述する星の、その声の向こうから、「姉者やめろ……姉者ぁああーっ!!」と秋蘭の悲鳴が。
その後に華佗の名を叫ぶ声や、窓開けぇやと叫ぶ霞の声、少しして漂ってくる、吸っただけでなんか涙が止まらなくなるほどの刺激臭。
「……さ、星、行こうか」
「ええ、行きましょう主。ここは人が身を休められるような場ではなかった」
星が仲間に加わった。
さあ行こう……俺達の旅は、始まったばか───
「けっほこほっ……!! まったく春蘭にも困ったものね……! どうすれば必要な材料だけを集めたもので、あんなものが───……あら、一刀?」
「助けてぇえええええええっ!!」
「なっ!? ちょ、一刀っ!? 待ちなさいっ! なによ人の顔見るなり助けてって───ちょ、待っ───速ぁああああっ!?」
現れたのは華琳だった。胸に込み上げるトキメキ。
手に持っていたのは試作したのであろう黒い塊だった。胸で高鳴るキングエンジン。
さて問題です。好きな人にチョコレートを貰うとします。一番最初に貰いたいなー、なんて思っていた人に貰えたりするとします。
その時は至福です。ええ嬉しいです。
じゃあ次は?
知りなさい北郷。誰かから貰うということは、以降のチョコレートを拒否出来ないということなのです。
そりゃ逃げます。
Q:香りだけで涙が止まらなくなるものを圧縮したようなチョコレート、食べたいですか?
A:死にたくない
それだけで十分だったのです。
そうして俺は星を横抱きにしたまま夜の外へと駆け出したのだった。