44/騒がしい日常へのさようなら
日常。
何事も続けていけばいつかは慣れてしまうように、難しかったことも、覚えてしまえば簡単なものへと変わることがある。
慣れていき、それが常となり、過ぎ行く日々の中に“在って当然”のものになると、それはいつしか一つの日常の構築要素へと変わる。
それは自覚が必要なものではなく、自覚した時にはすでに“そうであること”が大半だ。
「雪蓮っ! そっち!」
「任せて! はぁっ! ───って、わっ、逃げられた! 冥琳!」
「こちらへ追い込め! 罠は仕掛け済みだ!」
「猫一匹捕まえるのに、国王と軍師が出るなんて前代未聞だよなぁもう……! 明命は!?」
「つ、ついさっき、もう一匹を夢中で追って、民家の壁に激突して……その……」
「あぁ……いいよ亞莎……。亞莎が悪いわけじゃないから落ち込まないで……」
俺もきっと、“そうであること”を自覚したうちの一人。
最初こそどたばたと、雪蓮に振り回されるままにあちらこちらへと走っていた俺だが、そんなものはいつしか過去になってしまっていた。
雪蓮が珍しく忙しかったりする時は、俺と思春だけで遠くの町まで行って手伝いをすることなんて、“普通”になっていたんだ。
三日毎の鍛錬の時は必ず建業で鍛錬をするが、それ以外では親父を手伝ったり一日中を別の町で過ごしたりと、いろいろだった。
それが俺の“日常”を構築する一部になっていると気づいた頃には、本当にそれは“そうであること”が当然になっていたんだから不思議だ。
「御遣いのあんちゃんだー!」
「あそぼあそぼー!」
「おぉおっととと!? わ、わかったわかった、わかったから足に抱き付くのはやめてくれっ、倒れるっ!」
「はわわ、すごいです……こんな離れた町なのに、一刀さんを知ってる子供が居るんですね……」
「時間ならいっぱいあるからね。遠出が許された時はいろんな町を回るようにしてるんだ。……でもさすがにこの人数相手はこたえるかも。次来る時は祭さんをなんとか誘ってくるかなぁ……」
気づけば傍で誰かが笑っている。
なにをするにも笑顔があって、それは俺一人で動いていても同じだった。町を歩いても笑顔があって、城に戻っても笑顔がある。
それが嬉しくて俺も笑顔になって、その笑顔がまた笑顔を生む。
そうした循環が続く日常ってやつの中を駆け抜けて、自分のためと誰かのためを混ぜた意思をもって国に返していく。
「あぁ、一刀さ~ん。今日も倉に来て欲しいんですけど~」
「じゃあいつも通り、興奮したらハリセン叩き込むから」
「はい~、なんだか最近は叩かれるのも楽しくなってきたので、うふふふふ喜んで~……♪」
「……やっぱり縛ろうね」
「えぇええ~っ?」
現状維持が“進まないこと”なら、日常には変化を望むべきなのかもしれないと思ったことがある。
けれどこの国では毎日でも違うことが起こるため、俺が望む望まないに関わらず、日々変化を続けていた。
それは人の心だったり笑顔だったり、怒りと悲しみばかりだった民たちが、笑顔と楽しさを自然と出せるようになるといった変化。
けれど、いつか“お前に何が出来る”と釘を刺してくれた人や、打ち解け切れていない民のみんなは、俺に笑顔なんて向けてくれるはずもなく。変化するところがあれば、変化してくれないところもあるのだと……全ての人に笑顔を望むには、まだまだ時間と努力が必要なんだと痛感した。
「それらのことはお前だけが背負うものではないと」言ってくれた冥琳に感謝を唱えつつ、俺は俺に出来る方法で民との交流を続けていった。
殴り合いに繋がることはなくなっても、言い争いになることは何度もあって───その度に落ち込む自分と、自分の力不足に嘆くことなんてしょっちゅうだ。
「亞莎亞莎! これ、俺と明命からのプレゼン───じゃなかった、贈り物! 受け取ってくれ!」
「え……? あ、あのっ? 私、なにかを贈られるような覚えが……」
「亞莎は頑張りすぎですっ。だからこれは、その頑張りが少しでも楽になるようにと一刀様といろいろ苦労して用意したものですっ」
「苦労……?」
「こ、こら明命っ……! ……えーと、それでこれ……眼鏡なんだけど。つけてもらえるかな」
「……ふぅえええええっ!!? どどどうしてっ!? えっ、私、一刀様に眼鏡の大きさを教えた覚えがっ……」
「はいっ、ですから私が、気配を察知されないよう亞莎が眠ってるところにむぐっ!? むー! むー!」
「ぐぐぐ偶然っ! 偶然だからっ! あー! 困るなー! サイズ合わなかったら困るなー! わはっ、わははははー!?」
けれど、現状維持とはいうけど、日々はわりとあっさりと過ぎ、違う一日が来る。
“自分が何かをしなければいけないいつか”を待っているわけでもなく、望んでいるわけでもなく。どうしたって一日は過ぎるのだ。
一生を同じ状態で過ごせるわけでもなく、維持できる現状なんてものは限られている。それを自分にとってどれだけいい方向に変えていけるかが大事なんだってことを、華琳は言いたかったんだと思う。
「わあっ……見えますっ、すごい見えます!」
「亞莎、亞莎、私のこと見えますかっ? はっきりくっきり見えますかっ?」
「はい見えますっ、はっきりくっきり見えますっ」
「そっかそっか、良かった~……あ、じゃあ俺の顔は?」
「はい、くっきり見え───ひゃぁああぅううあああああっ!?」
「おわぁっ!? な、なんだ!? え……お、俺の顔、なにかついてるか!? 明命、ちょっと見てくれるかっ!?」
「はいっ、誠心誠意、見させていただきますっ! …………」
「…………」
「…………はうっ」
「あ、あれ? 明命!? どうして顔を赤くして……って倒れるなぁあーっ!!」
「すすすすすすいませっ……ここここれは私には過ぎたものでっ……!」
「贈り物をあっさり突き返さないでくれっ!!」
「でででででもでもでもっ、かかか一刀様がっ、一刀様が輝いてっ……ひやぁあぅうう……」
「倒れるなぁああーっ!!」
見知らぬ場所だった場所がよく知る場所に変わり、遠慮がちだった自分が遠慮の皮を一枚一枚剥いで、自然体を晒してゆく。
気づけば大声でツッコミ入れてたり怒られたり笑ったり。思えばこんなふうにして自分を曝け出すことが出来るのは、俺の時代では主に及川、この時代では魏の人達しかいなかった。
住めば都……とでも言うべきなのか、変わったのは周りだけではなく、自分でもあることに苦笑を漏らし、苦笑がやがて素の笑顔に変わる。
「はい麻婆お待ちっ! 親父ー! 青椒肉絲と飯一つずつー!」
「あいよ! ほれっ、餃子あがったぞっ!」
「はいはいはいはいっと!」
「おーい! こっちに酒頼むー!」
「はいよー! ……ほいっ、餃子と取り皿ねっ!」
「ああ一刀、飯追加頼むわ」
「親父ー! 飯追加ー……って自分でやったほうが早いなっ」
「おう! どんどん盛っていけっ!」
「おう! 大盛りで盛って、その分無理矢理金を取るんだなっ!?」
「ばーかやろっ! 俺ン店でそんなセコい真似したら承知しねぇぞ!」
「はははははっ、わかってるわかってるっ」
けど、日常が変わってもやること自体はそう変わらない。変わらないけど確かな変化はあって、それは自分を現状維持のままで居させてなんてくれない。
手伝うことが上達すれば新しいことを頼まれるように、鍛錬で新しいことを発見すれば、やることもどんどんと変わってくる。
それは受け容れやすい“変化”であり、自分にとって嬉しい“変化”だった。
「明命、聞いてくれ。俺が住んでいた天……日本には、忍者っていうのが居てな? こう……水の上でもスイーと滑って歩けるんだ」
「すっ……凄いですっ、それは是非一度見てみたいですっ」
「うん、俺も一度見てみたかった。常々、そんな歩法を見てみたいって思ってた。残念だけど、それらの奥義を使える人って随分前に居なくなっちゃったんだけど」
「あぅあっ!? もったいないですっ、かかか一刀様はっ!? 一刀様はできないのですかっ!? 見てみたいですっ!」
「いや……俺にも無理だ。けど明命なら……明命ならなんとかしてくれるかもしれないと思って、こんなものを作ってみた」
「……? あの、なんでしょう、この……えっと」
「忍者道具の一、水蜘蛛だ。忍はこれを足の底に付けて、水の上をスイスイと歩いたと云われている」
「す、凄いですっ! 一刀様はそんなものまで作り出せたりするんですかっ!?」
「いや、知識的なものをこう、水に浮く素材で繋げてみただけだから過信すると怖いかも───って、あ、こら明命!?」
「一刀様が作ったものならきっと大丈夫です! いえ、絶対に大丈夫ですっ! 川に行きましょう! 実は常々、水の上を歩ければと考えていたんですっ!」
「…………そ、そうかっ! よしっ、出来ると信じればなんだって出来る! 失敗してもそれは教訓になって、成功を目指すための糧となる! 行こう明命! 俺とお前とで、水を制するんだ!」
「はいっ!」
冗談を言い合える友達、悪ノリも一緒に出来る友達。変化にはいろいろなものが一緒についてきて、俺はそれを笑って受け取った。
相手にとっての自分も“ついてきたもの”だって思えるなら、それはそんなに難しいことじゃなく。手を伸ばして、伸ばされて。掴んで、掴まれて、そうして繋いだ絆の暖かさが一人一人の笑顔に繋がるなら、心の底から“受け取ってよかった”と思える。
「……? 一刀、今日も川で汗を流すの? その……必要なら言ってくれれば、毎日は無理だけど風呂の準備くらい───」
「ああっとと、蓮華か、ごめんちょっと急いでるんだっ! 風呂のことはありがとうだけど無茶は言えないし、これは勇者の体を拭くためのタオルだから気にしないでっ! それじゃっ!」
「あ、一刀っ? …………勇者?」
そう。日常なんて“そんなもの”だ。
いろんな物事が一分一秒を埋めていって、一時間が過ぎて十時間が過ぎて、やがて一日が終わる。
起きて寝て学校行って、勉強して帰って風呂に入って寝て。それを繰り返していたあの頃に比べれば、今なんて変化続きで逆に疲れるくらいだ。疲れすぎて毎日が大変だ~とか、前の自分だったら言っただろう。
それでも今の方が充実しているって思えるんだから、まったく何が大変なのか。自分の考え方が根本から可笑しくなって、笑うこともあった。
……突然笑ったことで、雪蓮に華佗に診てもらうようにって本気で心配されたけど。
「そんな理由で俺は呼ばれたのか。健康体そのものだ、治すところなんてなにもないぞ」
「だよなぁ……───っと、そういえば華佗。ひとつ訊いてみたいことがあったんだけど……ゴットヴェイドォーって五斗米道って書くんだよな。どうして“ヴェイ”なんだろうな」
「その方が格好いいからだ」
「…………なんかこう……熱いなっ」
「ああっ! 熱いともっ! ……しかし北郷、お前は不思議な氣を持っているな。以前に診察した時は微弱すぎてわからなかったが、俺はお前が持つような氣を見たことがない」
「へぇ……そうなのか?」
「治癒にも長け、身体強化にも使える臨機応変型と言えばいいのか……? 氣というのは大体、治癒か強化かのどちらかに分かれているものだが……お前の氣は普通とは違う。まるで……そうだな。お前の中に二つの氣が存在し、重なり合っているように感じる」
「二つの氣?」
「ああ。さっきも言ったように、氣には大きく分けて二つの種類がある。穏やかで争いを好まない、あ~……割り切って言えば、治癒や防御面に長けた氣。荒々しく、強化や攻撃面に長けた氣だ。お前にはその二つが一緒になって存在している───気がする」
「気がするだけなの!? あ、あー……でも心当たりがあるかも……。俺、天では凡人で、ここでは天の御遣いとして謎の力発揮してるし。……そっか、傷の治りが速かったり、無駄に頑丈になった気がするのはそれの所為だったのか。あ、そ、それでさ。華琳の性格から考えると、御遣いとしての俺の氣が攻撃タイプなんだろうか……」
「? よくわからないが、とにかくお前の氣はとても珍しい。さすがは天の御遣いと言ったところか……どうだろう北郷。その氣、その熱い意思、医術のために役立ててみないか!?」
「……ごめん。人を救うっていう素晴らしい提案なのはわかってるけど、俺にも俺のやりたいことがある。いつか……そうだな。じっくり腰を下ろせるようになったら、その時に遠慮無しに教えてくれるか?」
「そうか。だがな、北郷。病魔はいつ、何処で姿を現すかわからない。あの時に学んでおけばといつか後悔することもあるだろう。それでもお前は選択を曲げないか?」
「その時は華佗に頼むよ」
「遠方に居たら、間に合わないかもしれないぞ?」
「ははっ、その時は俺が、氣を枯らしてでも間に合うように保たせるよ。誰も死なせないんだろ? 間に合うよ、絶対に」
「……そうだな。北郷、いや一刀。お前がお前のしたいことを為し遂げるまで、俺はお前を待っていよう。俺は俺の為すべきことを全力で為し遂げる。そして俺達二人が腰を落ち着けられると判断した時。俺とお前で、“病の無い国”を作ろうじゃないかっ」
「お……おぉおおおっ! 熱いなっ! 夢が熱いっ!」
「ああっ! 熱いともっ!! この熱さを鍼に込め、俺は人々の体に巣食う病魔を滅し続ける! 三国に住まう人々よ! 大陸全土、生きとし生ける全ての者よ! 俺は誰も死なせない! この鍼に誓い! 我が意思に誓い! 我が師、我が身に伝承された技に誓い! この世の全ての者よ! げ・ん・き・にっ……なぁああああれぇえええええええっ!!」
叫ぶ華佗に、「お前の元気を周りに分けることが出来るなら、病人なんて居なくなる」って言ったのも今は過去。
振り返ってみれば全てのものが過去となり、目の前にある未来は……呉へ向けるさようならだけだった。
……。
ぐしゅり……ぐすっ……ぐしゅり……
「うぉおお~おぉおお……一刀ぉお……一刀ぉおお……! 本当に行っちまうのかよぉおお……! お~いおいおい……!」
「お、親父ぃ……みっともないからそんなに泣くなって……。というかおーいおいおいなんて泣かないでくれ、頼むから。むしろそんな泣き方を本当にされると、喜んでいいんだか悲しんでいいんだか」
「みっともねぇたぁなんだ一刀っ! 俺ぁあ……俺ぁよぉ! おめぇが居なくなっちまうことが悲しくて泣いてんだぞぉ!?」
目の前でオヤジの大群が泣いてくれていた。なんだかんだで付き合いの長い建業の男たちは、泣いたり意味もなく怒ったり、何故か説教してきたりといろいろだ。
そんな理不尽を真正面から受け取っても、頬が緩んでしまうのは……きちんと自分はこの国で、誰かの役に立てたって実感を持てたからなのだろう。
「一刀……またいつでもこの町に来るのよ? 貴方は私達の息子なんですから」
「お袋……」
「そうだ一刀っ! 次に来た時にゃあ俺の料理の技を教えてやる! そんでもって誰かいい嫁さんでも見つけて俺の店を継───」
「なに言ってんだいっ、一刀はあたしの饅頭屋を継ぐんだよっ!」
「え、えーと……」
そう……今日は呉を離れる日。とうとうと言うべきか、朱里と雛里が蜀へと帰る日が来たのだ。
もちろん以前言った通り、俺もそれに同行する形で呉を離れ、蜀へと向かうことになっている。
みんな、送別会のようなものをしようと提案してくれたが、これは俺が遠慮させてもらった。そんなことをしてしまったら、余計に離れたくなくなってしまう。
「あ~……みんな、ごめん。そろそろ城に戻らないと……」
「かっ……一刀ぉおおお~ほほほぉおおぅうう……!!」
「おっ、親父っ!? さっきまでお袋と怒鳴り合ってただろっ!? どうしてそこまで一気に涙流せるんだよ!」
「絶対、絶対にまた来いよ!? おめぇは俺の……俺達の息子なんだからなっ!? そんでおめぇっ、もしお邪魔しに来たよ~とかぬかしたらただじゃおかねぇぞ!」
「───……ははっ……ああっ、わかってる。次来る時は“ただいま”だろっ?」
「おうっ、それでいいっ! そんじゃあ行ってこいっ!」
背中をバシンッと叩かれる。その痛みの分だけ、俺は親父の言葉を胸に刻み込んで……笑顔で返す。
「ああ。行ってきます」
他の町での挨拶はもう済ませてある。建業を最後にしたのは、ここが一番お世話になった場所だから……だけではなく、恐らく一番時間がかかると思ったからだ。
実際にいろんな人が集まって、腕を引っ張られて抱き締められたり胸をノックされたり、背中をバシバシ叩かれたり号泣されたり、かと思えば泣きながらフェイスロックされたりやっぱり泣かれたりと、他の町とは比べ物にならないくらいに別れを惜しまれた。
……本当に、居心地がいい。今誘われれば、ころりと“残る”って言ってしまいそうだった。それは自分が許可できないと知りながらも。