と、溜め息を蒔き散らかした直後。
「桔梗様っ! そんな男に触れていては穢れが
ウソですごめんなさい、たった今から溜め息以上の何か(主に悲鳴とか)を吐き出したい気分です。
ズカズカと近寄ってくる睨んでた人(たしか魏延)を前に、俺の胃痛はすでに臨界点に。今なら血だって吐けそうな気がする。
「焔耶よ、たかだか覗きくらいでいつまで引っ張りおるか。男に覗かれる女というのは、それだけ魅力があるということ。ある種、女の誉れぞ。それともなにか、焔耶よ。お主は桃香さまには男が気にするほどの魅力もないと言うのか?」
「そんなことは在り得ません! むしろワタシが覗きたいくらいです!!」
「……焔耶ちゃん……」
「───ハッ!? い、いえ違うのですよ桃香様! ワワワタシはべつにおかしな意味で言ったわけではっ! 護衛……そう、護衛という意味であって、決してやましい気持ちなどっ!」
「……と、こやつはこういう女だ。よく覚えておけ、御遣い殿よ」
「うん……なんかすごーくよくわかった……」
知力じゃなく、武力に長けた桂花みたいなもんだね……うん。
彼女からは百合百合しいオーラがひしひしと伝わってくる。
大丈夫だよ、えぇっと魏延さん。魏で生きた俺にしてみれば、百合の花の一本くらい、野に咲く花ほどに見慣れている。……自慢することじゃないな。
違いがあるとするなら、桃香がその思いを受け取っていないってことくらいか。華琳あたりなら「いいわよ、たっぷりと可愛がってあげる」とか言って一発OKが出そうだけど。
そんな彼女も酔っ払った桃香だけは苦手とくる。……世の中、どんな得手不得手がどう引っくり返るのかなんてのはわからないもんだなぁ。
「貴様ぁああっ! なにをへらへら笑っている!」
「うぃっ!?」
困り顔の華琳を思い出して笑っていただけなんだが、どうやら自分が笑われたと思ったらしい魏延さんが、顔を真っ赤にして矛先を俺に向けてきた。
正直に「思い出し笑いをしてただけだって!」と言ってみるも、何故だか問答無用で俺を悪者にしたげな雰囲気を纏いつつ、厳顔さんに捕まっていた俺の襟首を強引に引き寄せて……お、おおぉお!? 片腕!? 片腕で持ち上げられっ……!?
(お、おぉおおお……春蘭に勝るとも劣らぬこのパワー……! まさに国宝級である……!)
って感心してる場合じゃなくて……! あ、あの、魏延さん!? 俺一応怪我人でしてっ……右腕使えないから上手く首とか庇えないし、喉が痛くて……あのぉ!?
いやいやそれよりも、顔合わせの場でこんなことしたら、いくら蜀国内でも魏延さんの立場がっ!
「元を正せば貴様が桃香様の着替えを覗くなどという最低行為をするからっ! 全て貴様が悪い! ききき貴様のせいで、桃香様からあらぬ誤解を……!」
「ええっ!? 今のってどう見ても聞いても、魏延さんが勝手に自爆しただけだろっ!? たしかに覗くって結果になったのは何度だって謝りたいけど、それで魏延さんの覗き願望まで俺に押し付けられても困るぞっ!?」
「おっ……押し付けなどでは断じてないっ! 貴様のような八方美人にワタシの桃香様への崇高な想いを語られてたまるか!」
「へ? すっ……、……崇高だから覗くのか……!」
思わず、自由である左腕で顎を拭い、片腕で俺を持ち上げる彼女を量りかねていた自分に呆れを抱く。
覗きにまで崇高さを求めるなんて桂花でもやらないことだろう。彼女の桃香への想いはつまり、そこまで出来てこその愛というわけで、ってうわ、ちょ、待っ……喉が絞まる喉が絞まる……!!
「口の減らないやつめ……! そうして口八丁に魏でも呉でもおべんちゃらを立てることで、信頼をはぴゅうっ!?」
……心が冷えそうになった瞬間、目の前でゴヅンと物凄い音が鳴った。
途端に魏延の手からは解放され、ストンとようやく床を踏み締めることが出来たわけだけど……危なかった。今のはちょっと、いろんな意味で危なかった。
「馬鹿者っ! 民や兵や将の信頼が口八丁程度で得られる物なら、誰もが労せず天下を取れるわっ! ちぃと考えれば解りそうなことを、何を血迷っておるかっ!」
冷静さを取り戻そうと努める中で聞こえる声に、俯かせていた顔をあげると……拳を硬く握り締め、魏延に向けて罵声を発している厳顔さん。
……なるほど。あの拳が唸って、あの音か……。
「すまんな、御遣い殿。こやつはどうにも桃香さまのこととなると我を忘れてな……」
「……いや。いいんです、ありがとう。こっちもその、助かりました」
……そうだ、助けられた。
危うく叫び出すところだった。
俺のことなんて、どれだけ侮辱されても馬鹿にされても構わない。
そりゃあ、ちょっとは怒ることくらい許してほしいけど───こんな俺を信じ、手を握って信頼を託してくれた人を馬鹿にされることだけは、心が冷えるくらいに許せなかった。
厳顔さんが先に拳骨を見舞ってくれなかったら、正直どうなっていたか……自分でも想像できないくらいだ。わからないくらいだけど、自分が考え無しだったことにも気づいた。冷静さが足りなかった。
崇高だと正面から言えるくらいの思いなんだ、馬鹿にしていいことじゃなかったはずだ。冷静にならないと……と、そう思いながら気づかれないように深呼吸をしていたら、ふと……頭をやさしく撫でられた。
「え? あの」
振り向いてみれば黄忠さん。
穏やかな顔で俺の頭を撫でて、振り向いた俺の目をそのまま真っ直ぐに見て……言ってくれた。
「……貴方はやさしい人ね……。誰かのために本気で怒ることが出来る、やさしい人。でも───」
「ちょ……、いつッ……!?」
やさしい言葉のあとの、やさしい行動。
何一つ痛がる要素はなかったのに、俺の左手はずきりと痛んだ。
黄忠さんの手に持ち上げられるままに左手を見てみれば、その手は赤く濡れて───!?
「え!? 赤っ……血!? なんで!?」
たった今気がついた。
原因さえ解らないままに、どういうわけだが血に濡れている俺の左手。
「気がついていなかったの……? 真っ白になるくらい、握り締めていたのに……」
「………」
全然気づかなかった。
どうやら自分の指の爪で、掌を傷つけてしまったらしい。
漫画とかでよくある表現だな~とは思ってたけど、まさか自分がやるとは思ってもみなかった。
「ふぎゃんっ!? ~っ……き、桔梗様っ!? 何故無言で拳骨を……!」
「やかましい、わからんのなら黙って受けろ、馬鹿者が」
「~…………?」
首を傾げている俺をよそに、黄忠さんは慣れた手つきで俺の手に布を巻いてくれた。
自分のを使うから───と止めにかかろうとするが、そういえば俺のハンカチは明命の手当てに使った上に、引き裂いて使ったからそのままゴミ箱直行コースの代物だった。
……困った、まるで母親に手当てされる子供のような心境だ。
しっかりと布で巻かれたあと、再度頭を撫でられるし。
振り払うわけにもいかず、黄忠さんの気が済むまで堪えよう……と構えれば、黄忠さんは「あらあら」と呟いてにっこり。何かが彼女の気を良くしたらしく、自分の頬に手を当ててにこにこ笑顔な黄忠さんは、さらにさらにと俺の頭を撫でて───って!
「ちょっ……ななななにっ!? 俺、何かした!?」
笑顔にさせるようなことをした覚えがない俺としては、それは本当に謎の笑顔。思わず頭を撫でる手から逃げ出してしまったが、黄忠さんはやっぱりくすくすと笑って、怒る様子の欠片も見せない。
それどころか申し訳なさそう……なんだけど、笑顔でごめんなさいを言われた。
「ふふっ、ごめんなさい。あなたくらいの歳の子は、頭を気安く撫でられることを嫌がると思っていたから。本当に、着飾りのない素直な人だって思ったら、止まらなくて……」
「いや、そんな嬉しそうに言われてもばっ!?」
「おうよ。威勢ばかりが強く、触れる者すべてに棘を見せる誇りだらけのボウズどもとは大違いよ」
……どっかで聞いた言葉だ。そういえば祭さんにも似たようなこと、言われたっけ───と、厳顔さんに再び首を引き寄せられつつ思った。
(前略華琳様……酒が好きな人は豪快な性格になるものなのでしょうか。もしこれで、酒を呑むとさらに豪快な性格になるとしたなら……それが絡み酒なのだとするのなら、俺は今すぐ逃げ出したい気分です、はい)
黄忠さんに頭を撫でられ、厳顔さんに首を捕まえられて。どう動けばよろしいんでしょーかと困りつつ、間近にある四つの丘から目を逸らし、目のやり場に困っていると……それすらにも気づかれてしまいまして。
「ふっはっは、今さら女性の胸などに赤面するとは。魏将相手に見飽きるほど奮戦したのだろう?」
「あ、飽きるほどとかそういう問題じゃないって……! 二人ともちょっと無防備ですよっ!? その、こんなに近くに居られると、正直目のやり場が……!」
『………』
顔に熱がこもるのを自覚しながら、なんとか離れるようにと頼もうとする。しかし大人の女性にとってはその焦りこそが心擽るものだったのか、撫でる手にも引き寄せる手にもさらなる感情がこもり……ハッとした時はいつかのように手遅れだった。
「あらあら、なんだか照れるわ」
「女として見られるなぞどれくらいぶりか……よしっ、気分がいいっ。どうだ御遣い殿、これからわしらと酒の一献でも───」
「あの……今顔合わせの最中だってこと、忘れてませんか? って運ばないでくれません!? まだ顔合わせが終わったわけじゃっ、って酒飲みながら男を引きずるってどんな力をっ……!」
有言実行が過ぎます厳顔さん!
黄忠さんもにこにこ笑顔で俺のこと引っ張ってらっしゃるし!
しかしガッチリと左腕を固められ、抵抗が出来ずに困っていたところへ救いの声があがる。
「だ、だめだよぅ桔梗さん、紫苑さんっ! お兄さんには早くこの国に馴染んでもらわないといけないんだから~っ!」
桃香である。
少しぷんすかと怒ったような表情で、他国の客を拉致しようとした二人をハッシと捕まえてくれる。
と、桃香……! ホワホワしてる天然さんかと思ったら、目上の人にもちゃんと怒れる娘だったのか……! ごめん桃香、俺……認識を改めるよ。キミはしっかりとした、蜀の王だ───!
「うーむ、しかしな桃香さま。女として褒められたのであれば、女として返さねば名折れというものでしょう。この厳顔、いくさ人として生きてはきたが、女を捨てた覚えはありませぬ」
「少しだけ、お酒に付き合ってもらうだけですから。ね?」
「ね、じゃないですっ! 桔梗さんと紫苑さんの“ちょっと”は、私達で言う飲みすぎなんですっ! あ、愛紗ちゃんも黙ってないで止めて~!」
……という感動も束の間、あっさりと関羽さんに「たすけて~」と助けを乞う玄徳さまに、笑顔のまま真っ白に燃え尽きそうな心境な自分がいた。
なるほど……たしかに俺と桃香、似てるのかもね……。
「はっはっは、良いではないですか桃香さま。どの道いつかは捕まり、たっぷりと付き合わされる破目に陥るのであれば、洗礼として受け取っておくのも馴染みに繋がるというものでしょう」
「星ちゃん……で、でも~……」
「いえ桃香様。むしろ二人に任せ、酔うだけ酔わせて醜態のひとつでも曝させれば、馴染みも深まるというものです」
「愛紗ちゃんまでっ!? う、うぅ……そう、なのかなぁ……」
いや違う、桃香、それ違う。
負けないで、お願いだから負けないで。今気にするべきところは酒のことよりむしろ、女として褒められたとかそっちのところだから。
「ねー愛紗ー、桔梗はいつ女を褒められたのだー?」
「しっ……知らんっ」
「ふふっ、見当はついているだろうに。何を焦っている、愛紗」
「なっ───焦ってなどっ!」
「にゃ? 星は知ってるのかー?」
「ふむ……女として産まれたからには、戦無き時くらいは女として見られたいもの、ということだろう。将が将として武勲を得るのが誉れならば、女は女として認められ、好かれることこそ誉れ。そうだろう? 北郷殿」
「………」
あーではないこーではないと話し合う女性に囲まれ、掴まれてるために逃げ場がない状態でソウデスネ……と呟いた。
うん……ちょっと───いや、かなりか……? 蜀の人たち、無防備かも……。というかね、趙雲さん。ニヤリと笑んでないで助けてほしいんですけど。
「……御遣いのお兄ちゃん、顔が真っ赤なのだ」
「ふふっ、いろいろと当たっているからだろう。左右に四つ、前方に二つ。大方目のやり場に困り果て、内なる獣と戦っている最中、といったところかな? 当たらずとも遠からずだろう、北郷殿」
「わかってるなら助けてくれませんっ!?」
「貴っ様ぁああ!! 貴様を庇ってくださっている桃香様のやさしさを無視し! そのお美しい胸ばかりに欲情していたというのかぁあっ!! 許さんっ! 貴様のような外道はやはりワタシが───!!」
「うわわわわやめてくれ魏延さん! また話がややこしくなるから!」
さらにここで、魏延さんという名の二つの丘が増えました……もう勝手にして。
もはや目を瞑る以外に方法は無く、俺はただただ早くこの状況から逃れたいと思うばかりだった。
安易に動けばむにゅりとこう……わ、わかるだろ? 動いたらあらぬ誤解を受けるって確信が持てる。だから動くわけにもいかず、目を開けておくわけにもいかず……ああ、動けないってこんなに辛かったんだなぁ……。
「…………愛紗よ。お主の目には、あれが嬉々として女性の肌を覗かんとする男の姿に見えるか?」
「………」
「顔を真っ赤にしながらも、よく堪えている。聞けば確かに魏の将全てと関係を持っているという。女たらしもいいところだとお主は言ったがな。生憎と私の目には、女と見たら即座に欲情するような男には見えんのだが」
「しかし星、だからといって───」
「そこに双方の同意があれば、何を咎める必要がある。無理矢理でも迫ろうものなら、魏の連中のことだ。それこそ北郷殿の首が先に飛んでいただろう」
「ぐっ……」
「私はむしろ、あの百合百合しい空気の中で全ての将を落としてみせた北郷殿に、感心の念すら抱いている。……鼻の下も伸ばさず、必死に堪えているところを見ると……なるほど? 魏の連中に操でも立てているのだろう。男だというのに生娘のように
「………」
……動かないで目を瞑るのって、結構残酷だ。
聞かなくてもいいことが耳に届いたっていうか、むしろわかってて言ってるのか。
感心しなくていいからむしろ助けてくれってとても言いたい状況なのに、言ってしまえば余計に魏延をあおることになりそうで、なにも言えやしない。
ていうかあの、趙雲さん? 今、面白いって言いそうになったよね? 今絶対、面白いって言いそうになってたよね?
「結果がどうあれ、あれが誤解で始まったのなら、長引けば長引くだけ抜けない棘になるだけというもの。……幸いにして、どうやら助けを求めようにも求められず、困っているようだ。いい加減、互いの棘を抜いてしまったらどうだ?」
「………」
……スッ、と……感じていた険しさの一つが緩んだ気がした。
次いでこちらへ向けて歩いてくる気配。
俺はおそる……と目を開けて、願わくばこの状況を打破してくれる彼女に、改めての謝罪と今贈る感謝を───
「おーっほっほっほっほ!!」
───……台無しにされた。
「そこの凡夫さん? この袁本初に生涯仕えると誓えるのなら、助けて差し上げてもよろしくってよ?」
「れれっ……麗羽さま……っ、ここはさすがに空気を読まないと……!」
「あー……ほら、あっちで愛紗が固まっちゃってますよー?」
「そんな石像ごっこなんて知りませんわ、勝手にやらせておけばよろしいでしょう?」
「うあー……ほんとこの人は……」
「文醜さん? なにか仰いまして?」
「いーえー、なにもー?」
……えーと、たしか袁紹……だっけ。袁本初って言ってたから、まず間違い無いよな。反董卓連合の時、華琳をびりっけつ呼ばわりしてたから嫌でも頭に残ってる。特にあの高笑いが。
後ろの二人は文醜と顔良で、反董卓連合の前……季衣を探しに来た流琉との騒動の時に一度会ったよな。やあ、懐かしい。
宴の時はろくに挨拶も出来なかったし───と、ほのぼのと考える余裕なんてなさそうだった。
「魏の連中、主に華琳さんとか華琳さんとか華琳さんを垂らしこんだその手練手管……その実力を手中に納めれば、もはや華琳さんなど敵ではありませんわっ! さ~ぁ泣いて喜び、この袁本初に助けを───」
「あ、結構です……」
「んなっ……! ちょ、ちょっと貴方? 囲まれていて困っていたのではなくて? 今ならこのっ、わ・た・く・し・がっ、救ってさしあげてもよろしいと言っていますのよ?」
「いや、結構です……」
「ッキーッ! どーいうことですの!? ついさきほどまで情けない顔でピーピー喚いていたというのに! 貴方、自分が置かれている状況を正しく理解していますの!?」
「いや~……理解してないのは麗羽さまただ一人じゃないかなー……」
「猪々子さん!? なにか仰いまして!?」
「いーえー、なにもー?」
……蜀っていろんな意味で賑やかなところだなー。
こんな場所で過ごして、果たして心安らぐ時間は手に入るのだろうか。
そんなことを思いつつ、心の中を落ち着かせていると、朱里と雛里が傍までやってきて、俺のことを心配そうに見上げる。
ん、大丈夫。心のざわめきは、もう起こらない。
「えっと、袁紹さん。悪いけど目的がどうであれ、華琳に……魏に迷惑をかけることに繋がるなら、俺は意地でも助けは乞わない。それにさ、そもそも俺なんかを盾にして、あの華琳が油断とか加減とかをしてくれると思う?」
「………」
「……えと。袁紹さん?」
「まあ、そうですわね。あの華琳さんがこんな下男のために戦を投げ捨てるなど、想像出来ませんわ」
「げなっ───いや……いいけどね」
こんな下男扱いでも。意味的にはあまり違わない気もするし。
けど、実際はどうなのかな……もし俺が敵に捕まったりしてたら、華琳はどういう行動に出てたんだろう。
いやむしろ……どういう行動を俺に求めただろうか。
むざむざ殺されるくらいなら、将の首を道連れにして息絶えろとか言ったかな。それとも無様を見せずに静かに死になさいと言っただろうか。
いろいろ想像するだけなら簡単だけど、しっくりとくる結末がどうにも思い浮かべられなかった。
(逆に今の自分ならどうかな……)
考えてみる。
多少武術をかじって、氣も使えるようになった自分なら……だめだな、余計にだめだ。
そもそも武でくぐりぬけるとか、自分のガラじゃない。
自分を高めるために鍛錬をして、いつかは守れるようになれればとは思っているけど……力を得たからって力で解決しようって考えが出るのは一番まずい。
鍛えるのはいい、強くなることもいいだろう。
けど、その結果、“自分”を消してしまうのは最悪だ。笑えもしない。
俺は俺のまま、自分を高めるって決めたんだから。
(……ああ、そっか)
さっき厳顔さんが魏延を殴ってくれた時、助かったって思ったのは心の冷たさ云々の問題だけじゃなかった。
なにをするかわからない、なんて……それこそ暴力を振るってたかもしれないって考えが頭の隅っこにでもなければ、浮かぶこともなかったはずなのに。
(一歩間違えれば……)
暴力、振るってたかもしれなかった。
守るためにと高めている五体で、人を傷つけるところだった。
魏や呉の信頼を、思いを守るためなんてそれこそ口八丁だろう。
あの瞬間に俺が守りたかったのは、彼女らを思う俺の心だけだったのだろうから。
そう考えたら……呉では、迫られたとはいえ高めた力で強引に避けることが多かった事実に気づいて、愕然とした。
魏のためにと高めた五体で、自分はいったいなにをしていたのかと。
以前までの自分だったら、頭突きをしたり投げたりなんてしなかったはずなのに、今の自分は……と。
……骨、折られてよかったかもしれない。じゃなきゃ、ゆっくり考えることなんて……きっと出来なかった。
そんな自分の情けなさに、ふと泣きたくなってしまった。
(……強くなりたいなぁ……体だけじゃない、心も……意思も、もっと強く……)
男なら、頭の中では最強の自分を思い描いたりする。
それは理不尽なまでの強さで、誰もが敵わないと言っている敵にだって簡単に勝ち、褒め称えられる自分だ。
褒められるのなら、強いのならそのままそれを受け容れればいいのだろう。胸を張っていればいいのだろう。
けど、俺が目指した強さは……そういうのとはちょっと違ったはずだった。
最強じゃなくてもいい。守りたいものを守れて、守った先に誰かの暖かな笑顔があれば、次もきっと頑張れるって……そんな強さが欲しかったはずなのに。
(……泣くなよ、北郷一刀。強くあれ、もっと強く……)
大きく深呼吸を───と思った途端、誰かに引っ張られ、人垣の中から救出された。
……のはいいんだが、急に引っ張られたものだからたたらを踏んで、なんとか体勢を立て直したところに……関羽さんが居た。隣には桃香も。
「愛紗ちゃん?」
「あ……いえその。失礼ながら、客を囲んで口論をするのも国の醜態を曝すだけかと。この者───北郷殿も、困っているようだったので」
「───……」
……困った。
関羽さんは俺の手を掴んだまま口早に言葉を発して、小さく息を吐いた。
……困った。
繋がれた手から伝わる温かさが、女性特有の小さく柔らかな温かさが胸に染み入る。
……困った。
自分の在り方に落胆して、弱ってしまった心に……その温かさは困る。
───道を間違わず、真っ直ぐに歩くのは難しい。
目指した場所があるのならそれは余計で、道に迷っているのに迷ったことにさえ気づけないことなんて何度でもあるだろう。
沈んだ心のままでこの国で頑張っても、いい結果なんか残せなかったに違いない。
それどころか、信頼してくれたみんなのことを悪く言われた時点で暴力を振るっていたら、自分はもう戻ってこれなかったかもしれない。
そう思ったら沈むばかりで、けど……そんな場所から引っ張ってくれたこの手は、俺のことが嫌いだったはずなのにとても温かくて。
気づけば、繋がれた手に軽く力を込めて握り返して───
「うわぁっ!? き、貴様、なにを───!」
「……ありがとう」
「っ───……え……」
……泣き笑いみたいな顔で、感謝を口にしていた。
次の瞬間には厳顔さんに引っ張られ、また騒ぎの中に連れ込まれたけど───その時にはきっと、弱い自分を殺した笑顔の自分でいられたと思う。