06/天の御遣い
念のために、もう固まっていた喉の血を川の水で洗って流す。
そうしてから森を抜けて、ゆっくりと、確実に宴の場へと戻ってゆく。
手には胴着とフランチェスカの制服が入り、木刀が刺さったバッグ。長細い布袋に包まれたそれをひと撫でして、溢れる緊張を飲み込んでゆく。
しばらく歩くと勝手口……とは言わないんだろうが、正門よりは警備が手薄な入り口兼出口へと辿り着く。
思うんだが、ここから攻められたら、あっさりと敵の侵入を許してしまうんじゃないだろうか。
町外れの小川からここまで、奇異の目はあっても特に俺を引っ捕らえようとするヤツも居ないし。
「警備体制の見直し、やったほうがいいのかな」
そう考えて、首を振る。
凪や沙和や真桜なら、俺がとやかく言うよりもよっぽど効率よくやってくれているはずだ。
だったら、と……そう考えると、これはただ華琳が“手を出すな”って言ってくれただけなのかもしれない。
「……うん。許してもらえるかはべつとしても、ちゃんと謝らないとな」
決意を新たに門の先へ。
警備兵に捕まるかなと思ったけど、警備兵は俺の侵入を黙認。
(……あ、こいつ……)
どこかしかめっ面をしたそいつには見覚えがあった。
兜を深く被っているためにわかりにくいけど、警備隊として一緒に警邏をしたこともあった。
(……そっか、まだ続けてたんだ)
久しぶりに会えたこともあって、進めていた足を横に逸らす。
小さな門の左右に立つ二人のうち、右の男へ向けて。
もう一人は新兵なのか見覚えのない男だった。多分警備の仕方とかを教えているところなんだろう。
足取り軽く、かつての仕事仲間の傍に寄ると、ギロリと睨んでくるそいつの前で、少しだけオーバーマンマスクをずらす。
「! あ、貴方はっ……!」
「しー。…………久しぶり。元気してたか?」
「はいっ、隊長もお元気そうで……!」
どうやら俺のことを覚えていてくれたらしいそいつは、一年も行方をくらましていた俺に笑顔を向けてくれる。
一方で、小さな門とはいえ距離はさすがにある左の警備兵は、難しそうな顔でこちらを睨んでいた。
「ごめんな。これからはまた、一緒に仕事が出来ると思うから」
「本当ですか!? それは楽進様や于禁様や李典様も喜びます!」
「…………?」
あれ? ちょっと違和感。
「そういえば、今の警備隊の隊長は?」
違和感をそのまま口にしてみると、目の前の男はきょとんとした顔をしてから、小さく笑みをこぼす。
「……楽進様や于禁様や李典様に言わせれば、警備隊の隊長は北郷一刀様だけであると。そしてそれは、自分らも同じ気持ちです」
「う………」
穏やかに、けど誇らしげに。
俺の目の前で、手に持った槍の石突きでドンと地面を叩き、彼は胸を張って言った。
そんな返答が嬉しくもありくすぐったくもある。
自分は確かに魏のために民のために、そして兵たちのためにも働けていたのだと。
「これで、警備隊も元通りですね。最近の警備隊は、どうも尖った印象がありましたから。こんなことを言ったら隊長代理の三人に怒られますが……自分は、隊長が居てくださったあの頃の警備隊が一番好きであります」
「…………」
苦笑を織り交ぜたような、まるで友達に向かって内緒話をするみたいに言う男。
そんな様子を見て、俺は……ああ、なんだ……と小さく納得した。
自分が気づかないうちに、自分の周りにはこんなにも自分を慕ってくれる人が居たのだと。
華琳たちだけじゃない、ちゃんと他のやつらにも自分という存在は刻まれていたのだと。
そんな嬉しさが顔に出るのがわかって、けれど止められずに笑顔になると、目の前の男もようやく安心したように……苦笑ではなく満面の笑顔で笑った。
ああ、やはり隊長ですね、と……安心したように。
そんな彼に軽く手を上げてから別れ、マスクを被り直して城の先へ。
(……うん。勇気もらった)
自分はきちんと、多少だろうが魏に貢献できていたという思いが勇気になる。
その小さな勇気を胸に、俺は………………その勇気を、覗きの謝罪をするために使わなきゃいけないことに、少し泣きたくなった。
───……。
中庭はどこか殺伐とした空気を孕んでいた。
“産まれる子供は殺戮の勇者ですか? 空気を読んでください”と、空気さんに言ってやりたい気分です。……などという冗談も、口にしたら斬首確定なくらい、場の空気は重かった。
「えっと……」
そんな中、俺を見て小さく肩を震わせる人物を発見───劉備である。
勇気が萎まないうちにと小走りに近づいて───
「止まれ」
ジャキリと青龍偃月刀を突きつけられて、ビタリと止まる俺の足。
「ア、アノ……関羽、サン……?」
「桃香様には指一本触れさせん。……構えるがいい、曹操殿の命令だ。本来ならば私の手で斬り捨ててやりたいところだが……」
アノ、関羽サン……? と、とっても怖いDEATHよ?
って、え? なに? どうなるんですか僕。謝らせてはもらえないのですか?
「貴様にはそこの中央で、あの者と戦ってもらう。桃香様の手前、宴の手前、殺すようなことはさせないが、それなりの処罰は受けてもらう」
「エ? アノ、ソレッテスデニ、戦ウコトガ処罰ニナッテルンジャ……」
と、促された先……中庭の中央を見やれば、長い斧のようなものを持った、どっかで見たような女性が、ってゲーッ! 華雄さん!?
「えぇえ!? なななんで!? なんで華雄が!?」
「ほう、我が名も凡夫に響き渡るほど有名になったか」
「凡夫!? ああいやソレは今はいいや! なんでこんなところに!? 行方不明になったって聞いてたのに!」
言いながら、説明をしてくれる誰かをキョロキョロと探すのだが……誰もが誰も、さっさと始めろ的な雰囲気を溢れさせていた。ああもう戦好きの皆様はこれだから……!
「華雄~! 必ず勝つのじゃ~っ! おぬしが勝てば、妾たちは自由の身じゃぞ~っ!」
「よっ、お嬢さまっ、他人任せの達人っ!」
「うわーははははーっ! 任せるのじゃーっ!」
「………」
袁術だ。
袁術だね。
あれ? ここ、どういった宴の場ですか?
そんな思いを込めて華琳が居るほうを見てみると、なにやら雪蓮とギャースカ言い争いを始めていた。
あ、あー……ソウナンダー、こっちは無視ナンダー。
「両者構えて!」
「関羽さん!? 俺まだ中央に向かってもいないんですけど!?」
状況的によろしくなく、慌ててバッグに刺さった長布から黒檀木刀を取り出し、中庭の中央に走って───ハッとする。
(ってなに流されてんだ俺! 来ちゃだめだろ! 中央に来ちゃったら戦うしかないじゃないか!)
武器を持って、武器を持つ者と対峙…………勝負でしょう。
そんな方程式があっさりと決まってしまう場に立って、思わず頭を抱えて空に向かって心の中で慟哭した。
「貴様のようなひょろひょろの男が相手というのはいささか不本意だが、それで罪が流されるのなら相手になろう」
そしてそんな俺の前で、フフンといった感じに自分の顎を撫でながら胸を張る華雄。
なんというか自分の武を示せればもうなんでもいいんじゃなかろうかこの人。
「両者構えて!」
「ふふ……」
「う、うー……」
流されるままに武器を構える俺は、どうにもいきなりの状況に腰が引けていた。
が、戦いの瞬間が近づけば近づくほど、意識は覚悟を決めてゆく。
……相手が俺に勝とうとするならば、俺も勝とうとする覚悟を。そう思い、大きく息を吸って、大きく吐く。
(……覚悟、完了───)
そうしてからキッと華雄を見据える。
正眼に構える体は真っ直ぐに伸び、引けていた腰など“ついさっき”に置き去りにしたように、地に足をどっしりと下ろしている。
それを見た華雄は小さく「ほう……」ともらすが、構えは変わらない。
一撃で決着をつける気なのだろう、力を溜めるように捻られた構えは、雑魚対一、多対一にはよく向いているようだった。
「───始めっ!」
目の前の敵に集中する意識の中、聞こえたのは関羽の合図。
その途端に華雄は地を蹴り弾き、戦いに喜びを見せる様相で笑んだまま、自分の間合いに入るや───戦斧を大振りに振るってくる。
「っ」
それを、まずは後ろに大きく跳ぶことで避ける。
無様でもいい、まずは一撃を躱すことが、自分の中で大切なことだった。
「はっはっは! どうした! 初撃から逃げとは、随分と腰抜けだな!」
対峙する華雄が笑う───が、それは意識を掻き乱したりはしない。
むしろ俺が狙った行動はすでに果たされていた。
まず、避けること。……たったこれだけだが、これが自分にとっては大切な行動だった。
「ふっ! はっ! せいっ!」
続く連撃を避ける、避ける、避ける───!
武器で受け止めれば力負けするのは目に見えている。
ならば極力避けることに集中し、隙が出ればそれを突く。
大切なことは初撃を避けて、“相手の攻撃は避けられるものだ”と体に教えること。
相手は乱世を生き抜いた、いい意味での怪物。
そんな武人相手に自分が立ち回れるわけがないという固定観念を、なにかで勝ることで打ち崩す。
俺の場合、それが避けだった。
「よく避けるではないか! だが逃げてばかりでは私には勝てんぞ!」
振るわれ、避け、武器を振るおうとし、振るわれ、避ける。
その繰り返しを細かく続ける。
情けない話だが、大振りだっていうのにこんなにも戻しが早い斬撃に、真正面からぶつかって勝てってのは無茶が過ぎる。
だから、ちょっと卑怯かもしれないけど……
「ふんっ! はぁっ! せやぁっ!!」
相当に重いであろう斧が振るわれ、腕が伸び切った瞬間に踏み出す。
すると華雄は伸び切った腕に無理矢理の力を込め、俺を薙ぎ払おうとする。それを再び避け、腕が伸び切ったところに踏み込み───
「ぐっ! ぬっ! こ、このっ……!」
姑息な考えだが、戦場での武人は“向かってくる敵”を薙ぎ倒すのが大体だ。
ほうっておいても敵は自分のところに来て、自分はそれを迎え撃って薙ぎ払う。
振るう一撃も、武人にしてみれば“受け止めるもの”であり、躱す、逸らすなどといった行為はあまりしない。
武を見せつけることを仕事とするかのように受け止め、弾き……これの繰り返しだ。
敵を切り捨てる際、振り切らんとする武器は敵の肉、または武器によって受け止められるし、腕が伸びきることなんて滅多にない。
そんな伸び切った腕に力を込め、重い武器を無理矢理戻そうとすれば、そこにかかる負担は倍化にも近い。
そんなことをこの速さで幾度も続けていれば───
「ぐっ……は、はぁっ……! ぐ……!」
疲労する速さだって、当然倍化する。
相手を自分より劣る者だと思うからこそ慎重性を欠き、そんな相手だからこそこういった状況に引きずり込める。
おまけに体の疲れはもちろん、無理矢理に使った筋肉が痙攣を起こすし、無理に振ろうとしても握力がなくなり、すっぽ抜けるだけだ。
……と、そうは思うものの、相手はあの華雄なわけで……
「まだ───まだだぁああっ!!」
「うえぇええっ!!?」
すっかりぐったりしていたと思っていた華雄はさらに斧を振り、襲いかかってくる。
つくづく勇猛、つくづく武人。
普通の人だったらとっくに腕が動かなくなってても不思議じゃないのに───
(……、……うん?)
そこで、また違和感。
普通の人だったら、って…………じゃあ、ここまで一撃もかすりもせずに避けられた自分はなんなのか。
半年前に浮かんだ疑問が、再び浮上してくる。
もはや華雄の気迫は対峙するだけで身が震えるほど。
だっていうのに自分は萎縮することなく攻撃を避け、目が慣れてきたためか攻撃も返せている。
それは、つまり───
「まさか……いや、でも───」
考える。
華雄は決して弱くなんかない。
普通に戦えば最初の一撃で自分は死んでいたかもしれない。
春蘭や凪との時だってそうだ。
そもそも最初の一撃を避けたり、牽制できたりする時点でなにかがおかしい。
相手は八人同時だろうが平気で薙ぎ払える武官。
それを、じいちゃんにさえ勝てない俺が、手加減されていたとはいえ……?
「はぁああああああっ!!」
「っ───!」
それは無謀な賭けだ。
振るわれた戦斧を、柄と刀背に手を添えた木刀で受け止めるという行為。
戦いを見ていたほぼ全員から動揺の声があがるが、それでも踏み込み───
ドガァアッ!!
刃の部分ではなく、速度が乗りきらない斧を支える棒の部分を全身で受け止めるようにして───止めてみせた。
「つっ……くは……!」
「……! な……に……!?」
そして……俺の体は、吹き飛んではいなかった。
途端に湧きあがる歓声。
俺は確信を得て華雄の武器を押し戻すと、一度距離を取って、乱れていない呼吸でゆっくりと深呼吸をする。
呆れる事実を、真実として受け入れるために。
「すぅ……はぁ……───」
目の前には驚きを隠せない華雄。
とりあえず安心してほしい、驚いてるのは俺だって同じだ。
元の世界の北郷一刀なら、今の一撃で空を飛んで地面に激突して勝負ありーだった。
けど、この世界の……天の御遣いとしての俺は、なんの冗談なのか普通よりも相当に身体能力が高いらしい。
思えば稟との騒動の時、華琳の命で俺を狙う魏のみんなから逃げ回れたり、風を抱えたまま季衣や流琉から逃げられたりと、能力的な意味での意外性は確かに存在していた。
あっちの世界では“出来ないこと”の方が多かった自分なのに、この世界に来てから出来ることが増えていった事実も存在する。
それが意味することは即ち、華琳の望みを叶えるために舞い降りた天の御遣い様は、どうやら無能で居ることを許してはもらえないようだ、ってことで───
「よしっ!」
違和感が確信へと変わった今、突き進む足にはなんの迷いもない。
痺れ始めの腕でもあんな威力を出せるってことは、華雄の全力は相当に重いんだろうけど───今はそんなことは横に置いておく。
疲れている相手に突撃っていうのもやっぱり卑怯かもしれないけど、相手を疲れさせるのも策ってことで納得してもらおう。
「はぁっ───!」
「くっ……なめるな!」
踏み込み走り出すと、俺の速さに合わせた斬撃を繰り出す華雄。
俺はさらにそれに合わせ、踏み込ませた足で強く強く地面を蹴り、一気に速度を上げる。
刃を木刀で受ければただでは済まない。
ならばと、肉迫する寸前に限界まで身を屈みこませることで、華雄の一撃をやりすごす。
「なっ!」
疾駆の勢いそのままに、破れかぶれにも似た一撃を出すと思っていたんだろう。
攻撃を躱された華雄の動揺は大きく、地面に這いつくばるみたいに屈んだ俺を、驚愕の表情で見下ろしていた。
直後に再び力を込め、伸びきった腕を戻そうとするが───
「っ、ぐぅっ!?」
無茶がたたったのだろう、体か腕かの痛みに一瞬顔をしかめ、動作が遅れた。
その頃には俺は立ち上がりと同時に木刀を振るっていて、その軌道は迷うことなく伸びきった華雄の腕へと───
「まだだぁああああああっ!!!!」
「ういぃっ!?」
い、否ぁあっ! この人無茶苦茶だ!
伸びきった腕を身振りで無理矢理戻して、斧の石突きで俺の顔面狙ってきた!
(避ける!? む、無理無理! もうこっちも攻撃体勢に───うあだめだ! 待っ───くあぁあああっ!!!)
覚悟を決めて玉砕戦法!!
出来る限りに顔を仰け反らせ、その上で木刀を振り切る!!
ごぎぃんっ!! ───ルフォンッ……ドガァッ!!
───そして、重苦しい音が響く。
振り切らんとした木刀は振り切った状態で俺の手にあり、華雄の斧は……華雄の手には存在していなかった。
弧を描いて飛ぶ、なんてことはしないで、勢いのままに小さく手から零れ落ち、地面に突き刺さった。
「……は、はぁっ……はぁっ……!」
「む…………」
あまりに予想外のことに息を乱した俺と、同じく息を乱しながら自分の手を見る華雄。
その手に武器が無いことを確認したのだろう、一度目を閉じると空を仰ぎ、目を開くと俺へと視線を戻す。
「……どうやら、私の負けの───…………」
「……?」
なんか俺の顔を見た華雄が、喋るべき言葉を見失ったみたいに停止する。
それは周りの人も同じようで、結構盛り上がってくれていたはずの宴の席は、急にひんやりと冷たくなったかのように静まり返って……
「あの、華雄───っと?」
わけもわからず声をかけようとする俺の頭に、何かが落ちてくる。
それを手に取ってみると………………外国人男性のマスクが微笑んでいた。
あれ? と顔をさらりと触る。
……汗をかいた肌が、そこにあった。
「……あれ?」
えっと……その、なんだ? まさかさっきの石突きがマスクに突き刺さって、弾くのと同時にすっぽ抜けた……?
……あ、やばい……───そう思った時にはもう遅い。
『えっ……えぇえええーっ!?』
魏のみんなが俺の顔をバッチリと見てしまい、大声を張り上げていた。