ややあって。
『負けた(のだ)……』
終わってみれば、思春の一人勝ちだった。
結局城壁の上を十週した時点で競い合いは終わり、中庭へと降りてきた俺と張飛は、けろりとしている思春を眺めつつ仲良く肩を落としていた。
「でもお兄ちゃん、なかなかやるなー! 鈴々、男の子であんなに速いの見たことなかったのだ!」
「うん、これでも頑張ってるからな。……っと。桃香ー、ゆっくり休めた───か?」
木陰で休んでいた桃香のもとへ、手を振りながら戻ってみればアラ不思議。
太線の目からたぱーと滝の涙を流し、ふるふるとゆっくり首を横に振るう桃香が居た。
「無理ぃい……無理だよぅぅぅ……私あんなに走れないぃい……」
どうやら自分が至るべき場所へのハードルの高さに泣き出してしまったらしい。
しかし否である。
「桃香、やる前から諦めちゃだめだ。誰だって、というかむしろ俺もあんなに走れなかった」
「だって、だってぇえ~……」
やはりたぱーと涙を流しながら、城壁の上を指差す桃香。
……うん。その広さ、プライスレス。じゃなくて、学校のグラウンドなにするものぞってくらい広い。
ていうか桃香、丁度指差しているところに立ってる見張り番の兵が驚いてるから、こっち見ながら適当に指差すのやめなさい。
「まずは体力作りだ。祭さん曰く、日に十里を走れるようになれば、氣を扱う下準備はとっくに出来てるって」
「じゅっ……!? むむむむ無理無理ぃいいっ!!」
「じゃあ祭さんの教えに従い、俺がやった氣の増幅法を。桃香、氣は使えるか?」
「え? えと……どうだろ。意識したことはあまりないかも」
「そっか。じゃあえっと……」
「ひゃうっ!? お、おおおお兄さんっ!?」
「ん? どうした?」
氣の感覚を掴ませようと、桃香の手をやさしく握る……と、桃香がびっくりしたように身を竦ませ、手を引いてしまう。
「氣の感覚、感じさせようと思ったんだけど……嫌か?」
「あ、ううん、嫌とかそんなのじゃないんだけど……急に触るからびっくりしたよ~……」
「───あ、そ、そっか、ごめん」
ここしばらくの出来事で、いろいろと感覚が麻痺してるのかな……。
うーん……呉王の頭を撫でたり、頭突きしたりスープレックスしたり、振り返ってみればいろいろと危険なことをしてるな。
いかんいかん、少し自分を取り戻さないと。
「じゃあ桃香。いいかな?」
「えと…………うん」
改めて差し出した手に、桃香の手が乗せられる。
そこに意識を集中させると同時に、自分の氣を辺りに溶け込ませるように散らす。
散らしてからは桃香を包みこむように集束させてゆき、少しずつゆっくりと、桃香の中にある氣を外側へと引っ張るように……。
(あ、これかな?)
桃香を包み込み、手に取った柔らかな手を通し、彼女の中に暖かい光を見た。
今度はその光の在り方に自分の氣を変化させてゆき、内側に眠っているそいつの目を覚まさせるように───
「わ、わ……? なんだか体が暖かい……?」
「うん、桃香。それが桃香の氣だ」
小さな小さなそれを、彼女の左手の先へと誘導。
体外放出とまではいかないまでも、うっすらと栗色の輝きを放つ左手を彼女自身に見せて、そう呟いた。
「これが私の……わあっ、すごいすごいっ! 鈴々ちゃんほら見てっ? 私の───あ、あぅ……消えちゃった……」
「~……ぷはっ……! はっ……や、だめだっ……誰かの氣の誘導なんて初めてやるけど、これ疲れるっ……!」
桃香の手を静かに離すと、その場に尻餅を着くようにして座りこんだ。
そうして考えると、凪の氣の扱い方っていうのに素直に感心。
魏に戻ったら是非ともいろいろと教えてもらいたい。
……などと思っていれば、輝く目をしながら顔を近づけてくる蜀王様ひとり。
「ねぇお兄さん、お兄さんんん~……!」
主語を抜いてねだる桃香さん。
ああ、わかる。その気持ちはよぉ~くわかるぞ桃香。
俺も、“自分にも氣が扱えるんだ”ってわかった時は興奮したものさ。
「だめ。さすがに連続では無理。というか自分でコツを覚えてくれ、頼むから」
しかし飴ばかりをくれてはやれない。
こういうのは自分自身のやる気の問題だからだ。
「うぅうう~……」
そんな意思が届いたのか、桃香は難しい顔で近づけていた顔を戻し……木の幹の前にちょこんと座り直すと、氣を浮上させようと……してるんだよな?
怒った顔をしてみたり、急に「はーっ!」とか言い出したり、色々やってるようだけど。
結局は自分の中の氣を感じることさえ出来なかったようで、再びたぱーと涙を流した。
「おにいさぁああ~んん……」
「こ、こらっ、一国の王がそんな情けない声出さないのっ」
「だって、だってぇええ~……」
困ったもので、俺の服をちょこんと抓んでくいくい引っ張りつつ泣かれては、まるで子供におねだりされるパパのような───マテ、俺はまだそんな歳では……そこ、経験だけなら人一倍あるだろうとか言わないっ。
「お姉ちゃん、鈴々が教えてあげるのだっ」
と、困り果てていたところに張飛からの助けが。
両手をぐっと拳にして、ニカッと笑う彼女が今は女神に見えました。
「ほんとっ!? 鈴々ちゃんっ!」
「まっかせるのだー!」
どんっと叩いた胸を張り、早速張飛先生の氣の授業が始まる……!
「まず、うーんってお腹の中に力を入れるのだ!」
「うんっ、えーと……う、うーん……!」
「次に、はーって込めた力をお腹から体全体に広げるのだ!」
「は、はー……!?」
「できたのだ!」
「できないよっ!?」
即答だった。
うん、見事な即答だったよ、桃香。
どうやら張飛は説明とかが苦手なようで……まあたしかに教えるのは難しいよなぁ。
「桃~香。急ぐと本当に痛い目見るから、まずは体を鍛えないとだめだよ。俺みたいな方法で無理矢理拡張させるってことも出来るけど……軽口で痛みを表現するなら、死ぬほど痛いよ?」
「軽口なのに死ぬほど痛いの!?」
「ああ。一度天からお迎えが来て、危うく死ぬところだったし」
「ひぃいーっ!?」
あ……また泣いた。
「うん。だから徐々にだ。体力の許す限り、教えた柔軟体操を続けてみてくれ。基礎体力がつくし、体も柔らかくなる。一石二鳥だ」
「ぇぅう~……お兄さん意地悪だよぉ~……鬼ー……」
「鬼で結構。辛くない鍛錬なんて、どうやったって糧になるもんか。一応の経験者が言うんだから、軽くでもいいから受けとってくれ」
「うう……思春さん、手伝ってもらっていいかな……」
「はっ」
少しイジケ気味になりつつも諦めないところは、さすがと言うべきか。
で、俺はといえば……
「………」
「え、あ……な、なに? 張飛」
張飛にじーっと見られていた。
なんだろう、居心地の悪さは感じないんだけど、嫌な予感が。
「お兄ちゃん、宴で華雄と戦ってたのだ」
「え? ……ああ、戦えてた、とは言えないかもしれないけどな」
なにせ、避けて避けて、疲れさせたところを武器を弾いただけなんだから。
もしもあれで、華雄が素直に私の負けだとか言わずに「まだまだだぁ!」とか言ってたらと思うと……おおうっ、寒気が……!
「お兄ちゃん、弱いとか言ってたけど華雄に勝ったのだ」
「逃げ回って相手を疲れさせて、不意をついただけ……って言いたいけどね。それじゃあ負けを認めて下がってくれた華雄に失礼か」
「そーなのだっ。だから鈴々とも戦うのだっ」
「そうだな───ってなんで!?」
「“強いやつの戦いを見たら武人として黙っておれん”なのだ!」
「なにその誰かの受け売りそのものみたいな言葉! だ、だめだぞ!? 俺まだ腕が治ってないんだからっ!」
そう言いながら、あとは痛みが引くばかりの完治待ちの腕を庇いつつ下がる。
しかしながら下がった分以上に詰め寄ってくる張飛を前に、顔を引きつらせ───
「星が言ってたのだ。戦いは終わったけど、“しげき”がないのはつまらないーって。だからお兄ちゃんは鈴々と戦うのだ」
「………」
あの。理由になってませんよね?
それ、趙雲さんの理屈であって張飛の理屈じゃあないよね?
「それはえぇと。張飛も刺激が欲しいから、ってことでいいのか?」
「そーなのだ」
「……俺、強くないぞ?」
「強くなければ強くなればいいのだ! だいじょーぶ、戦ってれば勝手に強くなるのだ!」
「無茶言ってますよね!? それ本当に無茶ですよね!?」
「腕が鳴るのだー……!」
言って、ズチャアアア……と重そうな蛇矛を構える張飛さん。
あ、あれ? 待って? 俺、やるなんて言ってませんよね? それがどうして腕が鳴るとか言われてるんでしょうか。
そりゃあたしかに、思春と剣術鍛錬をするため、木刀はバッグごと持ってきてあるけどさっ……!
「さあお兄ちゃん、構えるのだっ」
「………」
ああ……うん。もう逃げ道とか無いんですね?
だって物凄くやる気だもの張飛さん。
けどありがたいって受け取ったのも俺であって、都合がついたら鍛錬に付き合ってくれる張飛に今さら「やっぱりいいや」なんて言えるはずもなく───
「よ、よしっ! それじゃあ鍛錬をお願いする!」
「にゃはは、鈴々にお任せなのだ! それじゃあ……!」
「ぬ、ぬう! なんだこの凄まじい闘気は……! あまりの闘気にこの北郷、足が震え───ってわかってるよね!? 実戦形式じゃなくて鍛錬! 鍛錬だよ!? 気構えとかお役立ちの技法とかそういうのを教えるって意図のっ!」
「……だから、戦ってれば適当に身に付くのだ」
ウワーイ強者理論だー! 高頭脳理論と全く同じ事を返された気分だよちくしょー! これを言っちゃう人はとことん他人の“わからない”を知りません!
でも、それ以上に“教えてくれる”っていう気持ちを無下にすることを良しとは出来ない俺は、半ばやけっぱちでバッグから突き出ていた竹刀袋から、黒檀木刀を抜き取っていた。
「よしっ……っと、そうだ張飛。戦う前の心構えとかってあるか? こうすると冷静でいられるーとか、こうすると心を乱さずにいられるーとか、なんでもいいんだけど」
「にゃ? んー……と。気持ちで負けちゃだめなのだ!」
「気持ちで? ああ、それはそうだよな」
「うん、だから今から鈴々はお兄ちゃんの敵なのだっ。お兄ちゃん、敵から睨まれたらどうするのだ?」
言って、ギシリと蛇矛を構えて俺を睨む張飛。
威圧感が異常なくらいに感じられるのに、俺を睨む顔が頬を膨らませているもんだからいまいち緊張感が……。
いや、でも覚悟には覚悟を。
睨まれたのなら、その気力に負けじとさらなる気迫を以って───睨み返す!!
「それでいーのだっ。そうしてじ~っと見てたら、相手が弱く見えてくるのだ」
「……なるほど。気迫で相手に勝ってるって自分で思えば、相手もそう感じているって思えるもんな」
「なのだ。相手が鈴々のことを自分より強いって思って、鈴々も相手より自分のほうが強いって思ったら───」
「お、思ったら……?」
「倒すのだ!」
「倒すのだとな!?」
たお……えぇ!? それだけ!? 気迫で勝って、いや、勝った気になって、戦闘準備が整ったら“おぉ~りゃ~”って戦って───終わり!?
流石に唖然。
果たして同じ説明をされて戦場で勝てる人が、この大陸に何人居てくれるのやら……!
……ああ。なんだか春蘭と季衣あたりなら出来そうな気がした。案外祭さんも頷いてくれるかも。
「あ、あのー……張飛さん? これって───」
「それじゃあ早速実践してみるのだ」
「実践ですって!? え───実践!? 誰と!?」
「鈴々に決まってるのだ」
「───……」
あ。なんか今、血の気が引く音を聞いた。
実践? 実践と申したか。あの張翼徳を相手に実践と。
「ほら! 教えたようにやってみるのだ!」
さっさと構えちゃってる張飛を前に、溜め息と同時に覚悟を。
キッと睨み、もはや逃げられぬことも理解した上で……氣を充実させ、本気で睨む。
負けない、勝つ、絶対に勝つ。負けなどもはや良しとせぬ。必ず勝つ、負けるものかと。
その気持ちを目に込めるようにして、真っ直ぐに張飛の目の奥を睨みつけた。
蜀に着くまでと、蜀での生活の中でやっていた、暴走した雪蓮のイメージと対峙する時のように。
想像の相手と対峙するだけでも震えてきたんだから、雪蓮のイメージは本当に化け物的だった。
そんな相手と鍛錬をするには、まずは気迫を強くする必要があって───気持ちで負けないって意味では、想像の雪蓮に打ち勝とうとする気概はいいきっかけになったはずだ。
だから、そこで得た経験の全てを今、目の前の張飛に───!!
「───ッ!」
全力で、ぶつける! ───するとどうでしょう。
張飛の顔が、まるで欲しいものを目の前にちらつかされた犬のように輝いて───
「にゃーっ!!」
「へっ? あ、ヒョアォアァアアアッ!?」
一気に間合いが詰められ───張飛の射程まで踏み込まれ、攻撃を仕掛けられる。
振るわれた蛇矛をなんとか避けたが……え? あの、鍛錬です……よね? 鍛錬ですよね!?
今髪の毛掠りましたよ!? 張飛さん!? ちょっ……張飛さん!?
「避けたのだ! やっぱりお兄ちゃんは武人なのかー!?」
「避けたのだって……避けなきゃ顔面潰れてるよ!?」
「止める気だったのだ」
「嘘だぁああああっ!! 思い切り振り切ってたじゃないかぁあああっ!!」
やばい! この子、どうしてか知らないけどすごく興奮してる!
あの時の雪蓮と違って話は出来そうだけど、出来るからって受け取ってくれるかどうかは別なわけでして……ああもう!
「お兄ちゃんお兄ちゃん、鈴々と勝負してー!? 男なのにあんなふうに睨める人、鈴々初めて会ったのだ!」
はい、受け取るどころか尻尾をブンブン振るう犬のように、ハウハウ言って蛇矛をブンブン振るってます。
イエスと言ったらあの蛇矛が俺の首を取りにきそうです……冗談抜きで。
(……、)
ごくりと鳴る喉。
やるか……? 本気でやるのか、あの張飛と。
右腕は動かそうと思えば動かせないことはないとはいえ、痛みはどうしても付き纏う。
振るったりしない限りは華佗のお陰で痛みは無いが、振るえば痛いのはどうにもならない。
むしろこの短期間でくっついてくれたのは奇跡と言える。
ありがとう華佗、ありがとう凪。
とはいえ、だからこそここで悪化させるのはよろしくない。
よろしくないのに、せっかく英名名高き張翼徳と一戦出来るって場面を逃してしまうのは……うん、大変よろしくないとか思い始めてしまっている。
と、そんなふうに確認してしまったのが運の尽きだった。
「よしっ! 胸借りるぞ張飛!」
「……! うんっ、来るのだお兄ちゃん!」
ああ……もう引けない。この口が勝手に先走ってしまった。
しかもあんな笑顔で返されたら、今さら“冗談です”だなんて言えるわけもない。
覚悟、決めろよ……一刀。
暴力じゃない……鍛錬だ。得た力を正しく使うためのものだって、頭に刻め。じゃないと、俺は───
「すぅ……ふっ」
トンッ、と軽く胸をノック。それだけで覚悟は決まった。
決まればあとは早い。
大地に全体重を預けるように低く構え、強く踏み締めた地面を蹴り弾き、一気に詰める。
「にゃっ!? ───せやぁーっ!!」
途端、振るわれる長柄の武器が呆れるほどの速度で距離を殺し、襲いかかってくる。
張飛までの距離はまだまだあるのに、手に持つ武器の長さ自体が反則じみている。
ならばと、右真横から振るわれるそれ目掛けて駆けつつ、体勢を低くすると同時に氣を纏わせた木刀を両手で支えるように構え───張飛の一撃が直撃するより少し早く上方へと払い、真横に向かう一撃を斜め上へと一気に逸らす!!
「んんがっ……!!」
支えにしか使わなかったのに、右腕が軋むほどの衝撃。
きっちり逸らしたのに逸らしきれない恐ろしい威力がそこにある。ていうか右腕痛い。もう涙出る。完治してないのに無茶させすぎだ。
けど、それだけの振りだ。よほどに勢い良く振らなければあれほどの威力は出せないはず。
ならば逸らしてやった今こそ好機───だったはずなんだが。
「うりゃぁああーっ!!」
「う、ぇっ!? とわぁっ!?」
戻すのも速すぎ。逸らした甲斐もなく、あっさり戻ってきた袈裟の斬撃に驚愕。
これをなんとか逸らすことで一生を、続く突きを紙一重で躱すことで二生を得て、まるで竜巻のようにやまない連撃を死に物狂いで避け、弾き、逸らし……そ、逸らっ……うわああああ駄目! 駄目だってこれ! 一撃一撃が重すぎる!!
相手の武器が長柄のものなら懐に入り込むのが常套手段だろうけど、それって入り込めればの話しだって!
あれだけ重そうでいて長いっていうのに、まるでエアバットを振るうみたいにブンブンって……!
あ、だ、だめ、もう腕が痺れて───離脱っ!!
「にゃっ!? どうして逃げるのだ!」
「ふっ……ふふふ……さすが、世に謳われた張翼徳……! その武に偽り無しか……!」
「ふえ? なんか褒められたのだ」
うん、息は乱していない。
ひやひやする竜巻の中にあって、これだけ息を乱さないで居れたのは我ながら見事だ。
けど今は腕を休ませるために、それっぽいことを言いつつ休憩。
卑怯者だと笑わば笑え、あのままじゃあ首は飛ばないまでも、確実に怪我はしていた。
……ああ、補足して言うと、首は飛ばないまでもっていうのは俺の実力とかじゃあなくて、加減されるからって意味ね?
「偽りなしならどーするのだ? 降参するの?」
「いや。その武技に敬意を表し、俺も相応の技を以って応えさせてもらおう!」
痺れは落ち着いてきてくれている。
あとはまあ……張飛の気をべつのところに向けられれば。
(ああくそ……こんなことならしっかりと硬気功も教えてもらっておけばよかった)
そうすれば防御面の信頼度は相当に上がっただろうに。
「技なのかー!?」
「技なのだー!!」
言って、ヒョンッ……と木刀を回転させ、逆手に。
これに威力ってものがあるかどうかは未だにわからないが、虚を衝く行動にはなるはずだ。
ならばと、木刀を纏っている氣をさらにさらにと増幅させ、身を捻ると……どうか多少でも氣が残りますよーにと願わずにはいられない心境のままに、一閃を放つ。
「スゥウトッ───ラッシュゥウッ!!」
振るう木刀から金色の剣閃を。
鋭い金属と金属がぶつかり合ったような高音を立てて空を裂くソレは、張飛目掛けて横一文字に飛翔。
それを見て、ますます目を輝かせた張飛は逃げることもせずに蛇矛を構え、あろうことか剣閃目掛けてソレを振るい───轟音とともに、消し去ってみせたのだ。
「お兄ちゃんすごいのだ! 今のどうやって───」
けど。
それはただの囮だ。
もとより気を逸らすことしか望んでなかった上に、張飛は雄々しくも剣閃を破壊することと、剣閃自体に夢中になりすぎていた。
張飛が蛇矛を振り切り、目を輝かせたまま離れた位置に居るであろう俺に意識を向けた時には、俺はもう張飛の目の前まで駆け込んでいた。
「うにゃーっ!?」
驚いて蛇矛を振り戻すが、それも予測済み。
そのまま攻撃するでもなく、勢いのままに跳躍して張飛の背後に回った俺は、慌てて振り向く張飛を後ろから押し倒し───!!
「にゃっ!? にゃはははははぁあーっ!? ややややめるのだぁあーっ!!」
ええはい、くすぐりました。
武で勝てぬのならばやんちゃで勝ってみせましょう。
唐突に身を襲う感覚に蛇矛を落としてしまったのが運の尽き。
俺はニコリと満面の笑みで微笑み、地面に倒れ伏しながら自分の肩越しに俺を見上げる張飛を……やっぱりくすぐりました。
にゃー……───!!
……。
ややあって。
「にゃ……にゃっ……はふ……」
手入れされた中庭の草むらにて、ぐったりと動かない張飛がいらっしゃいました。
「お疲れさま、張飛」
俺はといえばそんな張飛の頭を胡坐をかいた自分の足に乗せ、頭を撫でていた。
さすがの武人・張飛もくすぐりには耐えられなかったらしく、引きつった笑みを浮かべながら痙攣してらっしゃる。
「お兄ちゃん……むちゃくちゃなのだぁあ~……」
もはや喋る言葉も弱々しい。
まあでも……決着の付け方は特に決めてなかったし、これはこれで一本……か? いや、違うだろ、うん。
「まあまあ、殺すつもりで戦ってたわけでもないんだ。こんな決着があってもいいんじゃないかな」
そもそもくすぐられてる間でも、張飛の力なら俺を払いのけることくらい出来ただろうに。
それをしなかったのは怪我をさせないための配慮か、それともそんなことを忘れるくらいくすぐったかったのか。
「………」
「……にゃ……?」
どっちもってことにしておこっか。
「張飛は強いなぁ。そりゃあ負けるわけにはいかなかったけど、もうちょっと粘れるつもりだった」
「にゃ……? 勝ったのはお兄ちゃんなのだ……」
「いや、残念ながら俺の負け。負けを認めるのは嫌だけど、だからって負けてないって言い張る自分にはなりたくないんだ。あのまま引き下がらずに張飛の攻撃を逸らし続けてたら、倒れてたのは俺だったし」
「にゃー……♪」
笑いすぎの所為か、しっとりと汗を含んだ髪ごと頭を撫でる。
まったく、この小さな体のどこにあれだけの力があるのか。
腕なんてこんなに細いっていうのに……本当にとんでもない。
「んー……残念なのだー……。戦場で、お兄ちゃんと本気で戦ってみたかったのだ……」
「その時に俺が張飛と戦ってたら、一合目で俺死んでるから」
「にゃ? そーなの?」
「そーなの。俺が鍛錬を始めたのは、三国が同盟を組んで───俺が天に帰ってからなんだ。だから戦があった頃の俺なんかが戦場に立てば、味方の邪魔にしかならなかったってこと」
さらさらと頭を撫でながら、きょとんとした顔を見下ろす。
頭を撫でられることも足を枕にすることも嫌がらずに、張飛は少し楽しげだ。
「そーなんだ。でも残念なものは残念なのだ」
「そっか。じゃあ俺がもっともっと強くなれたら、その時は思いっきりやろうか」
「……いいの?」
「もっと強くなれたらな? それまでは鍛錬ってことで」
「わかったのだ! じゃあ鈴々、お兄ちゃんが強くなるまでたくさんたくさん鍛えるのだ!」
「……エ?」
あれ? 今、なんだか光栄に思えるはずの言葉とか、地獄の一丁目が見えそうな言葉とかが同時に聞こえたような気がするんですけど?
あ、いやうん、たしかに鍛錬に付き合ってくれるって話しはしたよ? 願ったり叶ったりだよね、うん。
でもさ、けどさ、それでもさ。さっきの戦いを振り返るに、彼女……張飛さんたらどんな時でも加減が出来そうにないってイイマスカ……エエト。
「そうと決まればじっとなんてしてられないのだ! お兄ちゃん、構えるのだ!」
言うが早し。
ぴょーんと跳ねて起き上がった張飛は、落ちていた蛇矛を右手一本で拾うと“ゴフォォオゥウンッ……!”と風を巻き込むように振るい、無手の左手を俺へと突き出して構えた。
俺はといえば、「どうしよう」と本気で自然に口からこぼし、自分の言葉に自分が驚く始末。
とりあえず座っていては危険だと立ち上がり、木刀を拾った───その時には、彼女の中では鍛錬は始まっていたようで。
「にゃーっ!!」
「キャーッ!?」
地を蹴り襲いかかる張飛を前に、俺は女性のような悲鳴を上げた。
「ままままぁぁーままま待った待って待ってくれぇっ!! 張飛さん!? 目がさっきよりもよっぽど本気の目なんですけど!?」
「お兄ちゃん! 鈴々のことは鈴々って呼ぶのだ! 鈴々、お兄ちゃんのこと気に入ったから真名で呼んでほしいのだ!」
「んなっ───……いや。じゃあ俺のことは北郷か一刀で───」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんなのだ!」
「や……そう言われる予感はしてたけどね……? ってヒワーッ!?」
言葉で止められるのも多少程度。
「お話しは終わり? じゃあいくよー!」と元気良く地面を蹴った小さな武人が、蛇矛片手に再来した。
「張飛っ、いいからひとまず落ち着こう!?」
「む~……鈴々なのだっ!」
蛇矛が迫る! コマンド───どうするもなにも選択肢一つしかないだろっ!
「りっ……鈴々っ」
「はいなのだ! やぁーっ!!」
「返事しただけ!? 止まってくれぇーっ!!」
思い切り振るうためか、一度引かれた蛇矛が横薙ぎに振るわれる!
「く、くっそ……俺だって避けてばかりじゃないぞっ!」
もう破れかぶれで構わない!
せっかく鍛錬(?)に付き合ってくれるっていうなら、それを受け止めずして何が男!
今こそ木刀に氣を込めて、反撃を───……は、はん……はん、げ……ゲェーッ!!
「……あ、あはは……! 剣閃で氣、使い果たしちゃってたぁーっ!!」
もはや笑うしかなかった。
……この日、僕は再度込み上げる寒気と血の引く音を聞き、桃香が柔軟で苦しそうな声を上げる中───喉から吐き出される本気の絶叫を蜀の国に轟かせたのでした。