再び日を跨いだ翌日。
散々揉まれ、散々休んだ桃香は健気にも仕事に復帰し、カクカク震えながらも政務に励んでいた。
本人曰く、「自分で招いた辛さを言い訳に休みたくない」だそうで、むしろ多少強引に休ませてしまった俺を怒ったくらいだ。
……便乗して、何故か魏延さんにも「そうだそうだ」と怒られたけど。俺、彼女に対して気に障ること、したっけ……?
「……ふぅ」
ともあれ、そんな翌日。
昨日に続き今日も執務室にお邪魔し、そう難しくない案件の処理を頼まれるがままにこなし、その量に溜め息を吐く。
朱里と雛里は学校建設現場に行っていて、今はここに居ない。
そんな事実に少しの不安を抱きながら、小さなことから確実に処理していっている。
そう難しくないものだからこそ数が多く、簡単に見えても相手にとっては大変なものが多いからこそ手が抜けない。
もちろん手抜きをする気なんて最初からないけど、これは本当に大変だ。内容よりも量だけで目が回る。
そう思いながらも一つ一つにきちんと目を通して、どう対処すべきかを真剣に考える。
呉に居た時は、猫の保護から作物の収穫、子供の相手から老人の相手と、どんなものでも全力で付き合わされた。
それを思えばこういった小さなことだろうと、どれほど国にとって大切なことなのかも解るってもので───それが自国のものじゃないってだけでも余計に慎重に、って思える。
「んー……うん、うん……よし」
他国から学べることっていうのはたくさんある。
それはどんな些細なことからでも、どんな大きな出来事からでもだ。
当然と言えるほど胸を張れもしないんだけど、俺からの知識でも蜀にとっての肥やしになる部分はあってくれたらしく、天の国の知識を生かしての問題改善は意外なほどに役立っていた。
「桃香、これチェック……じゃなかった、確認よろしく」
「うんっ、えーと……あははっ」
「え……な、なんだ? おかしなところとかあったか?」
「あ、ううんっ、全然平気だよっ? ただ、私だったらこうするなーって思えることを、ずばーって決めちゃうからすごいなーって。朱里ちゃんや雛里ちゃんが薦めるのもわかるかなー……って感心してたの」
「……言われても実感は沸かないかなぁ」
自分自身っていうものが見えている。
桃香たちが褒めるのは天の知識であって、俺が懸命に考えて、長い年月をかけて出したものじゃない。
俺からしてみれば、先人の知恵を我が者顔でひけらかしているようで、それを褒められると小骨が喉に刺さったような息苦しさが現れる。
だから俺は付け足すのだ。受け売りだけどね、と。
「うん、うんうん……わ、ぁあっ……!? やってみたいこととかこう出来たらってところ、全部解決してる……! お、お兄さんって本当に、警備隊長さんってだけだったのっ?」
早速任された簡単な案件の整理を預かり、確認をしてもらえば驚かれる。
そんな桃香にどう反応を返していいか、戸惑ったりもするわけで。
「ん。警備隊の隊長をやらせてもらってた。優秀な部下に恵まれて、優秀な兵にも恵まれて。俺にはもったいないくらいの役職だったけど、否定するつもりもないくらいに素晴らしい仕事だったよ」
言いながら笑う。
魏のことを思い返すと、それが悲しい思い出でもない限りは、大抵笑えるんだから凄い。
そんな笑顔な俺を真っ直ぐに見て、少し顎に手を当てた桃香が言う。
「あのね、お兄さん。ひとつ訊きたいんだけど……呉でさ、“どうして呉に降りてくれなかったの”とか言われたりしなかった?」
それは軽い質問だった。本当に、世間話でもしましょうってくらいの。
黙る理由も嘘をつく理由もない。だから俺も軽く答えた。言われたよって。
すると……地雷って何処にでもあるのカナーとか思ってしまったわけで。
「じゃあ私もっ。どうして蜀に……ううん、私達の前に降りてきてくれなかったの?」
「え゛ッ……」
こんな話をすれば、同じ質問をされる予想すら出来なかったのか? と脳内孟徳さんにツッコまれた気がした。
とはいえ答えないわけにもいかず、俺はしっかりと言葉を選んだ上、かつてのことを話し始めた。
そもそも降りる場所を選べなかったことや、あの時点で自分が生き残る術は、華琳に拾われる以外にはなかったんじゃないかってこと。
さらに趙雲さんや風や稟には華琳と会う前に出会っていたけど、たとえその三人についていってたとしても、きっとなんの役にも立てなかったと。
「え~? なんの役にも立てないなんて、そんなことないよ~っ」
で、言ってみれば怒られた。
ぷんすかという言葉が似合っていそうな……頬を膨らませてのお叱りだ。
けれど俺はそれに待ったをかけて、こうして政務を手伝えるのは魏で働いた経験と、天で勉強や鍛錬をしたからだと補足する。
たしかに以前の俺でも手伝えることはあっただろうけど、何かにつけてサボっている自分がありありと想像できるんだから……“そんなことない”と言われるのは逆に心苦しい。
「呉に居る時にも思ったことだけどさ。たしかに魏以外の場所に降りてたら、とは思うんだ。呉に降りて雪蓮と悲願達成をと躍起になってたのか、蜀に降りて一緒に頑張ってたのかな~って。華琳に認められるのでさえ一苦労だったんだから、そう簡単にいくものだなんて思えない」
想像してみても、深いイメージが出来なかったりする。
それは、どういった国かを理解した呉でさえ同じで、軽いイメージは出来ても……ど~にも自分が役立っているイメージが沸かないのだ。
そもそも蜀に降りた時点で、なんとなく鈴々や桃香とは仲良くなれそうだけど……関羽さんが心を許してくれるイメージが全ッ然沸かない。
「……でも、とは思うけどさ」
「わぷっ!? え、わ……お、兄さ……?」
蜀に俺が降りたとして、蜀全体と言わずに彼女……桃香だけにしてあげられることがあるとすれば、民のため兵のため将のためにと頑張りすぎる彼女の負担を、軽く担ってやるくらい……なんだと思う。
きっと桃香は“辛い”とは言わないから、言わない分だけ何も言わずに支えてやる。
……蜀に来て間もないから、誰がどういった性格なのかなんてのは把握しきれていないけど───彼女はやさしいから、きっと色々なものを背負おうとするだろう。
彼女が目指した理想は、たしかに眩しかった。あの乱世の頃、世界の在り方に苦しむ民たちならば誰もが望んだであろう世界だ。
そんな徳と情とを持って乱世を進み、この国に居るみんなの信頼を得た上でこうして立っている。
だからといって、俺に撫でられている彼女を見れば……威厳らしい威厳はなく、こんな小さな体にたくさんの期待や責任を背負ってここまで来たのだ。
じゃあ。たとえば俺が彼女の前に御遣いとして降りたとして、彼女を支えながら出来ることっていうのはなんだろう。
どうすれば、彼女は背負いすぎずに頑張れただろうか。
「………」
「……?」
考えてみたところで答えなんて出ないか。
“そうであった時”に懸命に考えて出した答えじゃなければ、きっと彼女は救われない。
だったらせめて───ここまでを頑張ってきた彼女を労うためにも。
「……ごめんな。きっと、桃香の前に降りてこれたなら……色んなことを支えてやれたと思う。色んなことで、一緒に悩んでやれたと思う。大変な仕事を終えるたびに、お疲れ様って労えた。悲しいことが起こるたびに、もっともっと頑張ろうって励ませた。それ以外で役に立てる自分が想像出来ないけどさ……必要な時に寄りかかれる場所があるのって、きっと……凄くありがたいことだから」
「………」
頭を撫でる。
やさしく、やさしく。
今までの道を頑張ってきたねと言うかのように、慈しむように。
纏めた案件のチェックを頼みに来たのに、座る彼女の傍に立ってすることが頭を撫でること、なんてヘンな話だけど───それでも。
雪蓮にも言えることだけど、半端な覚悟で挑んだわけじゃないんだ。
その頑張りの分だけ、目指した理想の分だけ、誰かに頑張ったねって言われないのは寂しいって思ったんだ。
それこそ下手な同情なのかもしれない。余計なお世話だって言われることだろうけど、それでも。
「……私……私、ね……?」
「うん?」
「どうして華琳さんが……お兄さんを傍に置いておいたのか、わかる気がする……」
「……うーん……あまり聞きたくないような」
「だめだよー? 国の王の頭を急に撫でたりしたんだから、ちゃーんと聞いてもらいますっ」
「……やれやれ。かしこまりました、蜀王様」
「あははっ」
苦笑を漏らすでもなく、ただ撫でるのをやめると悲しそうな顔をするので、結局撫でながらの話になる。
けれど長い話があるわけでもなく、ただ桃香は「……国の王ってね、なってみると……結構寂しいんだよ」……とだけ漏らした。
寂しい……か。
民から向けられる視線、兵から、将から向けられる視線。
それは王を見る視線ばかりであって、対等の者は居ない。
いくら仲間だどうだと言ったところで、みんな敬語で話して、やっぱりどこか一線を引いている。
慕われていることが嫌だというんじゃない。
ただ、みんなが仲良く暮らせる世界を夢見た彼女だからこそ、こんな身近にある一線が心のどこかで寂しかった。
こうして頭を撫でてくれる人もおらず、一緒に笑ってくれる人はたくさん居ても、甘えさせてくれる人なんて居やしない。
(ああ……そっか)
朱里と雛里が、撫でてもらえないことにあんなに落胆していた理由が、少しだけわかった。
あの乱世にあって、甘えを捨てなきゃ生きていけないような日々を過ごし……けれど、結局どれほど追求したところで彼女たちはまだまだ子供に近しかった。
甘えられる場所も肩を寄りかからせる場所も知らず、王が目指す理想へと邁進する……そんな日々を送っていた。
臣下は王に寄りかかれる。己の武や知識を対価とし、寄りかかっていられる。
じゃあ王はどうだ? 責任ある者として気高く立ち、臣下を不安に思わせないためにも胸を張っていなければいけない。
仲間だ友達だとどれだけ言っても、きっと桃香は無茶をする。
こういう娘は、ほぼ間違い無く。
「…………まったく」
「わぷぷっ!? お、お兄さんっ!?」
それじゃああまりに報われない。
勝っていれば、きっと報われていたんだろうが……勝ったのは華琳だ、桃香じゃない。
ああ……本当に、下手な同情だ。
こんなことをしても、ようやく落ち着いた傷口を開くことになるんだろうに、そうしようとする自分が止められない。
「───桃香」
「……ふぇ……?」
わしゃわしゃと軽く掻き乱した桃香の頭を、そっと胸に抱いた。
彼女が座る椅子の横から、軽く身を引き寄せるように。
そして、やさしくやさしく撫でてゆく。
不安も悲しさも包み込んであげられるよう、彼女を自分の氣でやさしく包み込んで。
「………」
「………」
かけてあげる言葉があるわけじゃない。
ただ、伝えたいことを行動で示し、どこまでもやさしく彼女の頭を撫でていた。
思い出されるのは趙雲さんの言葉だ。
いつか、自分の理想を実現出来なかったことに、自分の力不足に泣いたという彼女の話。
それを思うと胸が苦しくて、こうせずにはいられなかった。
ああ……本当に、彼女と俺は似ている。
やりたいことはたしかにあるのに、力が足りない自分に嘆く。
何も出来ずに歯噛みする自分が嫌なのに、どうしたらソレが出来るのかが自分にはわからない。
だから勉強するのに、必要なことはいつも自分の知識より高い位置にあって……苦しくて、涙する。
「……あの、ね……? お兄さん……」
「うん……?」
「私……王だけど……。いっつも……みんなのために笑顔でいようって決めてたけど、さ……」
「うん……」
「いい、のかな……。友達の前でなら……。いいの、かな……王なのに……」
震えている。
腕の中で、発する言葉さえ震わせて。
だから言ってやる。
親しくなったばかりの俺だろうが、こんなにも似ている俺だからこそ───
「……当たり前だよ。全部受け止めてやる。だから桃香も、背負い込みすぎないの。もっと頼って、もっと寄りかかっていいと思うぞ? というか、みんなもきっとそれを望んで、っと……」
「~っ……ふ、ぐっ……うっ……うぅう~……!!」
「……まったく。こういう時は、大声をあげて泣くところだろ? やられたらやられたで、魏延さんか関羽さんが突撃してきそうだけど」
声を殺して泣くことに、小さく怒ってやるが───それ以外に怒ることなんてない。
俺の胸に顔を押し付けて、声を殺す以外は我慢することなく、存分に泣く桃香の頭を……ただただやさしく撫でていた。
“来て早々に王様泣かすなんて”と大変なことをしてる自覚を抱きつつ、乱世の最中に心に傷を負ったのは、なにも民や兵だけではないことを改めて実感した。
関わった人全てがいろいろな傷を負って、それでも今より先を目指して生きる。
そういった人は支えがあったり、寄りかかれる人が居たりするから出来る人が多い。
でも、王っていうのは慕われている分だけ孤独だ。
対等な人は居なくて、敬語で話される分だけ、いつの間にか心に線が引かれている。
じゃあ、そんな線を軽々しく越えられる存在はあるのか、といえば……俺みたいに図々しい人が、まず挙がるんだろう。
……言ってはなんだけど、朱里と雛里が居なくてよかった。
居たら、存分に泣けなかっただろうから。