ある日のことだった。
ようやく学校も安定を見せ始め、教える側にも教わる側にも多少の余裕が出てきた頃。
桃香や七乃と一緒に始めた書類整理も終わり、あとは軽く運動をして眠るだけって時に、部屋のドアをノックする音。返事をしながら開けてみると、いつもの“偉いですわよオーラ”をしぼませた袁紹さんが、一人そこに立っていた。
「袁紹さん? ……あれ? 文醜さんと顔良さんは?」
いつも一緒に居るのになと不思議に思っての言葉に、彼女は途端に不機嫌になった。
「……ふん、どうでもいいですわ、そんなこと。それよりも……これで最後にしましょう? わからず屋の貴方にこれ以上問うても無駄でしょうから。……さて、一刀さん? 貴方から見て、わたくしは……美しいですわよね?」
「…………?」
感じたのは違和感だろう。
いつもなら訊ねるんじゃなく、“美しいと認めなさい”って押し付けてくるのに……それがどうして、今日で最後だとか、美しいですわよね、なんて疑問系になるのか。
というか、答えを間違えたら大変なことが起こりそうな予感がひしひしと。
(あ、あれー……? 突然部屋に来訪されて、どうして急にこんな重苦しい空気が……)
どうしてといえば、多分この場に居ない文醜さんと顔良さんに関係があるんだろう。
まあその、主に文醜さんに。顔良さんは巻き込まれてばっかりだもんなぁ。
にしても……こんな状況、どうすればいいんだ?
この場合、俺がいつも言っている“華琳の方が”って言葉は無意味だ。俺から見て、袁紹さんが美しいかどうかを問われてるわけなんだし。
じゃあ……
「……、……」
「……? じろじろ見ていないで、さっさと答えてくださるかしら?」
言葉の割りに、瞳は何処か不安げに揺れていた。
ここは美しいって返すべき……なのか? そしたら“おーっほっほっほっほ、えーえそうでしょうとも!”って元気になって、“で・は。華琳さんとわたくしとではどーですのっ!?”といった流れに……。
「………」
「………? な、なんですの?」
……考えたら負けか。
彼女は俺の意見を聞きたくて、ここでこうしているんだ。
考えた末の言葉じゃなく、今の彼女を見て思ったこと感じたこと、その全てを返そう。
「───……」
「…………」
真っ直ぐに見つめる。
彼女はきちんと人の目を見て話す人らしく、その目をじぃっと見ていたら、華琳が言うほど嫌な人物じゃないんじゃないかと感じた。
美しさのことでムキになって、華琳と自分を比べるなんて可愛いなとも思う。
……そうだな、外見は綺麗で……中身は可愛い。
華琳から聞いた印象からすれば───調子に乗りやすくて、おだてられたら突っ走っちゃうような人だそうだけど、それは多分……いい意味で純粋だからだ……と思いたい。
もっと心に余裕と落ち着きを持てば、もっと綺麗に見えるんじゃないかな……。
(……軽く伝えるから、調子に乗っちゃうのかもしれない)
もっとこう、自分が綺麗だってことを周りに自慢するんじゃなく……自分が綺麗だってことを誰かが知っていてくれるならいいって、そう思えるように。
別に調子に乗っちゃうことがいけないことだとは言わないけど、高笑いをして見下してばかりの人に、好んでついて行く人は少ないだろう。
そう思えば、袁紹さんはいい部下に恵まれてる。
……袁紹さんが恵まれている分、文醜さんと顔良さんは苦労してるんだろうなぁ。
そんな風に連想してみたらなんだかおかしくなって、ついいつもの調子で……そう、まるで朱里や雛里にそうするみたいに手を伸ばし、袁紹さんの頭を撫でて───
「なっ!?」
「……うん、そうだね。綺麗っていうよりは……可愛いかな」
「は───……」
最初から“華琳と比べる”って前提がなければ、いくらでも綺麗だって認められたんだけど……えっと、それを今言うのって……多分地雷……だよな?
なので、華琳を混ぜずに今、自分の目で見た素直な言葉を届けたつもりだ。これで反感を食うなら仕方ないって諦めがつく。
(さあ袁紹さんっ、ヒステリックボイスでも見下した言葉でも、どんと来いだっ!)
頭を撫でる手を静かに引っ込めて、ジッと袁紹さんの目を見つめた……んだけど。
「………」
顔を真っ赤にして動かなくなった袁紹さんが、そこにいらっしゃった。
……。
……で……それからどうなったのかといえば。
「ねーねーお兄さん、おにーさーん」
いつもの昼、暖かな日差しが差す執務室に、ねだるような桃香の声が響く。
……周りの反応が変わり始めていることに気づいたのはつい最近。
袁紹さんが俺に訊ね、それに対して頭を撫でて返した瞬間といえるのだろう。
むしろ周囲の反応がどーのこーのよりも、地雷なんてものは自分が考えている以上にいろいろな場所にあるものなんだってことに気づいた。
「え、えーと、この書類は~っと……、……あの、恋? 今仕事中だから、服を引っ張るのは……」
「………」
「うう……」
選択肢ってものが見えるなら、きっと地雷なんて踏まずに済む道がひとつはあるんだ。
でも俺には選択肢なんて見えないし、見えたとしても、選べる選択肢の全てに地雷が設置されていたとしたら、どうすることも出来ないのだ。
俺が選んだ選択肢はまさにそれで、ハッと気づけば一部の将からじぃっと睨まれることになり……
「だからさ、その……袁紹さんのことを可愛いって言ったのはね? 美しいかどうかを訊かれたからで───」
「じゃあお兄さん、私のことどう思う?」
「……桃香サン? それ、今日で何回目の質問だと思う? ほ、ほら恋も……あんまり引っ張られると服が伸びるから……」
「………」
原因の全ては、“あの”袁紹さんを可愛いと言い、頭を撫でたことにあった。
「綺麗だーとかなら誰もが言う言葉でしょうに、あろうことか可愛いとはなんですか可愛いとは」と、どこぞの美髪公に正座させられながら詰め寄られた時は、わけもわからず怯えたりした。
しかも散々と説教をしたあとに、「で、では一刀殿? 私のことはどう思われますか?」なんて訊いてきて……もう、どうしろと?
そんな突端があったがために、みんなからはからかうように質問される始末である。
……えと、からかってるんだよね? 本気じゃないよね?
「いいなー、麗羽さんは。お兄さんに可愛い~って言われたんだよねー?」
「と、桃香ー? それ、笑顔でじりじり近づきながら言う言葉じゃないぞー? その……大体急に可愛いなんて言われて、袁紹さんだって怒ってたりするんじゃないか? ……俺だって今にして思えば、“美しいかどうか”を訊かれたのに“可愛い”はなかったよな~って反省してるんだから」
「えー? 私は言われたいけどなー」
「トウカハカワイイナァ」
「もーっ、心が篭ってなーいぃっ!」
怒り方がまるでシャオだった。
「ほらほら、そんなことよりも書類書類。七乃だってもくもくと手伝ってくれてるんだから、国の主の桃香ももっと頑張らないと。最近は特に学校についての書類が多いんだ、発案者なんだからしっかり。な?」
「うぐっ……うー……ちゃんと言ってくれたら、もっともっと頑張るのになー……」
「頑張るって……それだけで?」
うーむむ……それがわからない。
以前、冥琳を可愛いって言ってしまって反感を食って以来、そういった言葉は使わないようにと思っていた。
明らかに年下で、可愛いって言葉が似合う相手ならまだしも。
璃々ちゃん相手なら抵抗なく可愛いって言える。言えるんだけど……我ながら、どうしてあそこで、よりにもよって袁紹さん相手に“可愛い”だったんだろうなぁ。
袁紹さん、気を悪くしてないといいけど。
(結局あれから、停止状態だった袁紹さんを顔良さんと文醜さんが回収しに来てそれっきりだから……どうなったのかが気になってはいるんだよな)
出会い頭に怒られたりしたらどーしよ。
……いやいや、今はそれよりも、次から次から積まれていく書類を片付けないと。
恋は服を引っ張ってくるだけで、邪魔をしてくるわけじゃないからこのままでも構わないし。問題があるとすれば、この「ねーねー」とせがんでくる栗色の王様だ。
「あのー、一刀さん? ケチケチしていないで、頭くらいバーッと撫でちゃって、可愛いと言ってしまえばコロリとイチコロですよ?」
「あのー、七乃さん? ケチケチしてるつもりはないし、イチコロってなにが?」
「それでついでに私の頭もやさしく撫でてくれちゃいますと、なんと言っちゃいますかこう、やる気が沸いてくることもなきにしもあらずでしてー」
「うわー、にっこにこ笑顔で全然人の話聞いてくれないよこの人」
「あ、もちろん“可愛い”もつけてくださいね?」
「人の話は聞かないのに注文多くない!?」
気づけばいつの間にか、俺が座る椅子の横にさっきまで黙々と仕事をしていた七乃が居た。
いつものにっこり笑顔のままに、ピンと立てた指をくるくる回している。
……というか笑顔のまま、俺のことをじぃいいぃぃぃいぃぃ~っと見てきている。逸らすことなく。
女性は怒った顔よりも笑顔が怖い。そんな言葉を、俺はこの世界で知りました。
それでも、殺気を込めた華琳の笑顔に比べればまだまだやさしいと思うあたり、自分はとんでもない人を好きになったんだなぁとつくづく実感。
「はぁ……」
既に書類はほっぽって、俺のことをじーっと見ている桃香と七乃を見て溜め息。
そうしなければちっとも仕事が捗らない状況を確認するや、一度自分の胸をこつんとノックしてから手を伸ばす。
可愛いなんて言葉、ウソで言うもんじゃない。
だから心を込めて真っ直ぐに。その覚悟を胸に、やがて手を伸ばして───
「うわぁっ!?」
───驚いた。
手を伸ばした瞬間、桃香の目がぱぁっと輝いたと思ったまさにその時、執務室の扉が外から勢いよく開かれたのだ。
“ヒィまさか魏延さん!?”と命の危険をも感じた俺だったが、そこに立っていた人影は口元にその綺麗な手を軽く添えると、
「おーっほっほっほっほ!!」
……笑ったのでした。
それだけで相手が誰なのかがわかってしまう。
この大陸の何処を探そうと、こんな笑い方をするのは彼女だけだろう。
アア、なんだろうなぁ……どうしてか知らないけど、俺の本能がニゲロニゲロと警鐘を鳴らしている……!
伸ばしかけた手も半端なままに下ろし、それを見た桃香や恋がしゅんとしたりしたが、今はこの状況が無事に過ぎ去ってくれることをただ願うばかりで───
「あ~らやはりこちらにいらっしゃいましたのねぇ一刀さん」
「え、袁紹さん……あの、なにか用……?」
「ええ。わたくし、悟りましたの。このわたくしが、美しさでどぉ~しても僅かに、ほんのすこぉ~しだけ華琳さんに一歩及ばないというのなら、別のことで勝ればいいのだと」
「…………嫌な予感しかしないんだけど、それってまさか───」
「そう……可愛さで勝っていればいいのですわ!」
ギャアアアやっぱりぃいいーっ!!
じ、じじじ自信に満ち溢れた顔で何を仰ってるのこの人ォオーッ!!
「そうですわよねぇ、貴方がわたくしのことを可愛くて仕方がないと感じているのなら、美しいだなんて認めたくなるはずありませんものねぇ~」
「へっ!? あ、い、いいいいやっ……ちがっ……それ違っ───」
「恥ずかしがる必要などありませんわ~? わたくしのあまりの可愛さに、あんなにも気安くわたくしを撫でたのですから。今さらどう取り繕ったところで、仕方の無い照れ隠しにしか見えませんもの、ええ。それに……わたくし、殿方にあれほど気安く触れられたのは初めてでしたの」
「……お兄さん……?」
「ヒィッ!? ち、ちがっ……いや違わないけどっ! 袁紹さん!? 頬を染めながらそんなこと言わないで! あと明確に! そこは明確に言おう!? 頭だから! 気安く触れたのも撫でたのも頭だけだからっ!!」
怖ッ! 笑顔に凄みを感じる!
笑顔なのにとっても怖い! やっぱり女性って笑顔が一番怖いよ!?
「わたくしの新たな可能性を、わたくしよりも先に見抜いた人……貴方、気に入りましたわ? 華琳さんのことなんてほっぽって、わたくしのもとにいらっしゃい」
「ごめん無理」
「今なら斗詩と猪々子をつけますわよ?」
「なっ……余計にだめだっ! 自分の大事な部下を交渉材料に使っちゃだめだろっ!」
少しカッとなって、扉を開けた位置から動いていない彼女の前へと早歩きで歩み寄り、その肩を掴んで瞳の奥を真っ直ぐに見つめる。
見つめる、どころじゃない。いっそ睨むくらいに、キッと。
「………」
「………」
しばらくそのままの状態が続いたけど、袁紹さんはつまらなそうに俺の手を払うと背中を向けた。
「……ふん、なんですの? この袁本初が直々に声をかけて差し上げたというのに」
どうやら気に食わなかったようで、袁紹さんは振り向かずにそう言うと、歩いていってしまう。
(う……もうちょっと、言い方ってものがあったかな……)
そんな様子を見て思わずそんなことを思ってしまったのだが、どうしてかその、姿勢よく歩いてゆく姿がピタッと止まった。
「……? 袁紹さん?」
「……麗羽で構いませんわ。訊き忘れていたから一応訊いて差し上げますけど、貴方の真名はどういったものですの? このわたくしの真名を口にする権利を与えて差し上げるのですから、その、……そちらも名乗るのが礼儀というものでじゃありませんこと?」
「へ? あ、いや……」
立ち止まり、ほんの少しだけ振り向いた袁紹さん。
どうして急に真名を許す気になったのかを訊ねようと思ったが……えーと。さっき言ってた可能性云々の発見の報酬ってことでいいのだろうか。
でもなぁ、天には真名って風習はないから、俺だけが大切なものを許されることになるわけで、少し罪悪感が。
や、ここで“どうして日本には真名って風習がないんだよ”って愚痴ったところで仕方ないか。
「あの、ごめん袁紹さん。天には真名って風習が無くてさ。だから俺の名前は北郷一刀で全部なんだ。強いて言うなら、一刀が俺の真名ってことになってて……あれ?」
「っ!? あ、あーらそうですの…………ということはわたくし、勝手に真名を呼んでいたことに……い、いいえ? 風習がないのであれば、そう大事なものでも……いえ、けど……一度呼んでしまったものは仕方ありませんわね……これからも一刀さんと呼ばせていただきますわよ?」
「? ああうん、それは───、……?」
あの、袁紹さん? さっきからちょっと気になってたんだけど、耳……真っ赤じゃない?
完全にこっちに向き直ってないから、耳しか見えないけど……赤い。赤いよな。
もしかして今さら風邪が伝染ったのか? ……や、そもそも袁紹さんはお見舞いには来てなかったはずだから、伝染ったとはいわないか。
じゃあ普通に風邪? ……一応、休んでもらっといたほうがいいよな。俺が決めることじゃないだろうけど。
「袁───じゃなかった、えと。……麗羽さん、その」
「!!」
「……?」
少し躊躇しながらも、許された真名を呼んでみた───ら、肩が跳ね上がった。
もしかしてやっぱり嫌だったのかなと思いながらも、跳ね上がったんじゃなくて、咳かくしゃみだったりしたら大変だと歩み寄る。
回り込むようにして、ようやくその顔を見るに至るわけだが。
「………」
「………」
……一言。真っ赤っか。
さっきまで見せていた真っ直ぐな視線はどこへやら、俺と目を合わすこともなく泳ぎまくる視線。
どうやら耳が赤く見えたのは錯覚だったわけじゃなかったらしい。
ここまで見事に赤いと流石に心配になり、一言断ってからその額に手を伸ばす。
その途端にまた赤くなったような気がしたが、払われることも警戒されることもなく、手は額に届いて……熱い。熱いって。風邪じゃなかったとしても、これは確実に熱があるって。
「………」
「? 袁……麗羽さん?」
額に触れる中、どーしてか麗羽さんが俺のことをじーっと見つめる。
まるで、訪れるかもしれない何かに期待するように、じーっと。
…………えと、まさか……だよな?
さっきの桃香たちみたいに、頭を撫でて可愛いって言ってくれ~なんて……そもそもこれは頭を撫でてるんじゃなくて、熱を測ってるだけでありましてそのー……。
いや、そりゃあさ、さっきまでおーっほっほっほだったお嬢様がこんなに大人しくなって縮こまってるんだから、状況が状況なら可愛いとさえ思うだろうけど……病人かもしれない人に可愛いとか言って頭を撫でるのはどうかと。
……あ。でもいつか及川が言ってたっけ。
“お嬢様っちゅーのにはいくつかタイプがある。親に大切に育てられたお嬢様とか、厳しく育てられたお嬢様とか、両親が忙しくて寂しく育ったお嬢様、いろいろやなぁ。そないなお嬢様の中でも、おーっほっほとか笑うお嬢様タイプはこう……案外寂しがり屋なんや。せやから常に誰かを身近に置いたりして、その中心で高笑いしとんねや”
とか。
それと、なにかいいことも言ってたような───
“そーいったタイプを落とすのに必要なんはなぁ、なんでもえーから一度、自分に夢中にさせたることなんや。そーすることで今までの寂しさの分、夢中になった相手に意識が向かう。その意識全部をひっくり返すことが出来れば───!”
もうもらったもどーぜんやー、だっけ。
あんなに熱く語ってもらってなんだけど、そうしてモテていた彼は何故、特定の彼女を作らなかったんだろうなぁ。
じゃなくて。そういう話じゃないだろ俺。
“まあつまりはや。そういったタカビーなお嬢様は、大体誰かに甘えたことが無いわけや。あったとしても、それはそれが当然としてやってもらえることって思とるんのが大半。わかるな? 執事さんとかにあれやってこれやってゆーて、やってもらうのんは甘えとは呼ばへんのや”
……つまり、自分が夢中になった相手……少なくとも自分が意識した相手に甘えるってことは───
“せや。甘えになるっちゅーわけや”
と。確かそんな会話をした。
お嬢様だらけのフランチェスカにおいて、おモテになられた及川先生のお言葉だ。
生憎と俺はモテたりなんかしなかったわけだが。
でも……そっか、甘えることか。
俺も愛紗もそうだったけど、風邪の時って誰かに甘えたくなるよな。
麗羽さんが今、風邪かどうかは別にしても……大人だって誰かに甘えたくなる時がある。
こうして実際に、何かに期待する目を向けられているのなら……今の俺には、麗羽さんを甘えさせることが出来るんだろうか。
張ってばかりいる気を、少しは和らげることが───……いや、いちいち考えるな。
そうしたいって思ったなら、覚悟を決めてしまえばいい。
覚悟が決まったなら、あとでどんな報復が待っていようとも……構わない。
さあ、心を込めろ。麗羽さんの家庭事情は俺の知るところじゃないが、あんな時代だったんだ……きっと親には甘えられなかったに違いない。
だからまるで親がそうするように、やさしく、真心を込めて。
「……うん。そのまま一刀でいいから。それと、熱があるみたいだから休めるようなら休むこと。風邪なんか引いたら、せっかくの可愛い顔が台無しになっちゃうよ」
「───は、あ───!?」
「……あれ?」
及川を意識して、出来るだけ労わる声をかけたつもり……つもりだった。
しかしなんというかこう、こういうのはえぇと、俗に仰るバカップル様方がラブリーにささやくようなお言葉ではないでしょうか……!?
あ、いや、ちょっと待った今の無し! 恥ずかしい! 今のは恥ずかしい! 可愛い顔が台無しとかって……う、うぁあああーっ!!
あれ!? でも俺、今まででも結構似たようなこと言ってこなかったか!?
……あれ? じゃあ普通? 普通ってことでいいのか? それとも俺が既に、単体でバカップル様の片割れってこと……?
「あ、あの、麗羽さん?」
「~っ……」
しどろもどろになりながらも声をかけるが、麗羽さんは顔を俯かせて肩を震わせていた。
額から移り、頭を撫でていた手もすでに下ろし、どうしたらいいのかを考えていると……突如として、麗羽さんが何も言わずに走り出した。
「……エ? あ、え? 麗羽さん!? ちょっ、ホワッ!?」
慌てて追おうとするのだが、何かにがしりと左腕を掴まれる。
振り向いてみれば……栗色の鬼がおがったとしぇ。
「お・に・い・さ~ん? ちょおっとお話があるんだけどー……?」
「ヒィッ!? え、やっ、話って……!?」
あの、桃香サン!? 笑顔なのに顔がとっても怖いデスヨ!?
とか言ってる間に麗羽さん見えなくなっちゃったし!
……え? あ、あの? どうして恋や七乃まで来るのでしょうか……? あのっ!? どうして俺のこと囲んでっ……!? ちょ、待って! 俺なにかした!? 特に思い当たらないんだけど───あ、思春さん助けて!? なんだか知らないけどみんなが───って“自業自得だ”ってなに!? 俺はただ───あ、あっ、あぁあーっ!!!
……。
……その後の話をしようか。
そう。仕事そっちのけで、可愛いと言いながら延々と頭を撫でさせられたあとの話を。
あれから麗羽さんは部屋から中々出てこうとしなかったらしく、それは文醜さんや顔良さんが説得に当たっても結果は変わらなかった。
学校に関する書簡等は増えるばかりで、様子を見に行きたかった俺も、中々そうはいかない始末。
やっぱり“休日制度をつけるべきだ”と進言して、学校に初の休みが出来る頃、ようやくじっくりと話にいけると思っていた俺の前に、少々疲れた顔をした顔良さんと文醜さん。
「あ、丁度良かった。これから麗羽さんのところに行こうとしてたんだけど───」
「アニキ、それ違う。呼び捨てにしてくれ~だってさ」
「へ?」
「それとその、今は会わないほうがいいです。もう少し時間を置いてからにしてください」
「……? あの、話が見えないんだけど……」
突然の引き篭もり、突然の呼び捨て宣言、そして何故か会わないほうがいいと言われた。
これらを以って辿り着ける答えはなんだろうと考えて、考えて、考えて……答えが見つからないことに気づいた。
「いーからいーから。あ、それとあたいのことは猪々子でいいぜ」
「私のこともこれからは斗詩と呼んでください。その、これからいろいろと迷惑をかけることになりそうですから」
「えぇっ!? 麗羽さ───」
『………』
麗羽さん、と呼ぼうとしたら、じとりと睨まれた。
「うぐっ……れ、麗羽、の時もそうだったけど、いきなり真名を許されてもっ」
「細かいこと気にすんなってー、アニキとあたいの仲じゃんか」
いや……どんな仲さ、それ。
あはははーと笑いながら肩をばしばし叩く仲? って痛い痛いっ、加減っ、加減をっ!
「その、ねぇ顔良さ…………うぅ……と、斗詩?」
「はい?」
お願いだから真名で呼ばなかったからって睨まないでくれ。
じゃなくて。いや、それもそうだけども。
「迷惑をかけるって……いったいなに?」
もはや自分が選ぶ選択肢には地雷原しかないのだとなんとなく感じている俺にとって、この言葉がのちの世を知るためのきっかけとなるだろう。
無意味に壮大な覚悟を胸に訊ねてみると、斗詩は困った顔で一つの書簡をはいと渡してきた。
小首を傾げながらもそれを受け取り、カロカロと広げて内容を確かめると……
“貴方を殿方として認めて差し上げますわ”
……とだけ。
ウワー、どうしてだろう。たったこれだけの文字なのに、とっても嫌な予感が……!
「…………?」
「………」
視線で確認を取ると、申し訳無さそうに頷く斗詩さんがおりましたとさ。
一方の文醜……猪々子は実に楽しそうだ。「っへへー♪」って、綺麗な歯を見せながらお笑いになられていらっしゃる。
って、あれ? この文字が確かならそもそも俺、男として見られてなかった? 両生類? オカマ? オカ……うぶっ……貂蝉のこと思い出した……!
「いやあの、男として認められたのはいいけど……これってどう解釈すれば……? 凡夫から北郷、北郷から一刀になったと思ったら、男として認められてなかったなんて」
「やー、あたいもようやく肩の荷が下りるってもんだよー。これで誰に遠慮することなく斗詩と結婚できるぜっ」
言葉のあとに、やたら凛々しい顔で「キリッ!」とか言っている文醜……猪々子。
「いや、キリっじゃなくてさ。それに肩に荷があったのは斗詩だけな気がするんだけど」
「っへへー、大丈夫大丈夫、これからはあたいがその荷を背負ってやるんだから」
いや……話が見えないけどそれってただ、荷が増えるだけなんじゃ……。
「ま、とにかく今日はそんだけ。いろいろ迷惑かけるだろうし、そうなったらそうなったで真名で呼び合えないのは堅苦しいから」
「ん、んー……と……。つまりさ、これって俺が、麗羽に“人間・男”って認められたってことでいい……のかな」
「……迷惑をおかけします……」
「なんで!? え、ちょ……なんでいきなり謝るの!? 麗羽に男として認められるのってそんなに怖いことなの!?」
「あたいとしては曹操がどんな反応するか、楽しみではあるんだけどさー」
「───、」
しくんと、下腹部辺りが冷たさに襲われた気がした。いや、もらしたとかじゃなく。
どっ……どうしてだろうなぁああ……!? 華琳の名前が出た途端、この書簡が悪魔の契約書に見えてきた……!
うう……でも捨てちゃうわけにもいかないし、性別不明の凡夫からようやく人間・男として認めてもらった証明なわけだし……。
「……え、えぇと……うん……よくわかってないけど、一応……受け取った」
「はい。それでは───」
「これでアニキとあたいたちは普通の関係じゃなくなったわけだ」
「辛いことがあっても、一緒に乗り越えていきましょうね?」
「わあ、聞く場面で受け取り方が決定的に変わりそうな言葉だ」
嬉しいのに嬉しいって言えないのはどうしてかなぁ。
と、そんなことを考えていると、二人が俺の腕をとって歩き出す。
「え、ちょ……?」
「メシ食いにいこーぜアニキ、ここんとこ麗羽さまに付きっ切りだったから、満足に食べてないんだよー」
「せっかくこうして盟友になったんですから、ね?」
「や、ああうん、俺も食べてないからいいけど……盟友? いつの間に?」
「細かいことはいーからいーから」
「あ。ねぇ文ちゃん、これからはご主人様って呼んだほうがいいのかな」
「アニキでいーだろ、盟友なんだし」
「二人で納得してないで俺にも説明をっ……ちょっ……頼むからっ! 嫌な予感しかしないからお願い!」
……前略、華琳さま。
今日、どうしてか盟友が増えました。
一方の艶本で結ばれた同盟とは別に、こちらはなんと男として認められた途端の同盟。
もう何がなにやらなのですが、俺を引っ張る二人が楽しそうに笑うので、次第にどうでもよくなってきました。
ところで、以前送った手紙はもう届いたのでしょうか。
それともまだ届いていないのでしょうか。
どちらにしろ手紙を出してからいろいろあって、少しは強い心が持てたつもりです。
学校のことも安定を見せ始めました。
そろそろそちらに帰れるかもしれません。
もし返してくれるのなら、その手紙が行き違いにならないことを祈ります。
それでは。お互い健康の状態で出会えることを願って。
……本気で願って。
今まで普通のものとして受け取っていた“五体満足”が、とってもとっても大事なことだって、この世界に来て深く知りました北郷一刀より。