まだ夏は終わってはいないと主張する様な暑さの残る八月二十日。
この日は、私の誕生日の前日で仲の良い友人達が私のために浜辺でのバーベキューを開いてくれたのだ。
夏休みも、あと数日を残すばかりになった。
今年は受験生というのもあって、この何か月、特に夏休みはひたすらに勉学に励んでいたのもあって、こんな風に一日中ゆっくりするのは随分と久しぶりだった。
こうしてゆっくりと夜の浜辺を歩くのは、なかなかに不思議な気分にさせられる。
夜の暗さと波の音。
いつもは感じることのない夜の海。
岬の先におかれた灯台から照らされる水面は、なんだか吸い込まれそうな色を、私に見せる。
光の差し具合で色を変える水面に心奪われそうになる。
昼間は刺す様な日差しでも、夜になれば、暑さは幾分か和らぎ、夏の終わりを僅かに感じさせた。
気持ちの良い潮風が私の長い髪を揺らす。
彼はそんな姿を好きだと言ってくれる。
それは、とても……恥ずかしい。
どれだけ時間が経っても、言葉を重ねても、彼からの思いを受け止めるのは心がドキドキする。心臓が爆発しそうになる。
慣れることなんて無い。
あんな真剣な眼で見られたら、私に出来ることなんてただ顔を赤くして目をそらすことしか、恥ずかしい気持ちから逃れられない。
私はとても分かりやすいらしい。直ぐに表情に出る。
友達からも素直だねって、よくからかわれる。
この近くで花火大会がやっているみたいで、時々夜空に大きな花を咲かせているのが見える。
バーベキューをやっていた所から少し離れた場所にあるこの浜辺は、地元の人でも知る人はいない程の穴場スポットだそうだ。
道路から離れているし、友達も気を遣ってくれているのか、周りには誰も居ない。
彼はのんびりと海を眺め、たまに夜空を照らす花火を見ては、おーっと嬉しそうな声を上げる。
そんな横顔を見て、私は思わず笑ってしまう。
いや、ニヤけてしまう。
彼には少し無理を言って、明日に予定を入れないでもらった。
私はもう少しで一つ歳をとる。大人に、なる。
そんな瞬間に好きな人と一緒に居られる。
こんなに幸せで、嬉しいことはないだろう。
波打ち際を一人で、にやにやしながら歩いている姿はさぞかし、乙女チックだっただろう。
私がこんな素直に感情を隠そうしないでいられるとは思わなかった。
少し、彼のが移ったのかも知れない。
でも、私は恋愛素人。彼は経験豊かな恋愛玄人。
一線の差がそこにはいつもある。
この穴場の浜辺もきっと昔、いつかの誰かと来たことのある、そんな場所なのだろう。
私は彼の過去にはなれない。
どれだけ彼との時間を積み上げても。
彼の全てには、なれない。
今の彼に積み重なっていくことしか出来ないんだ。
それでも。
わがままだとか、独占欲が強いとか。
そんなことを私は思ったことも無かったけれど、
それでもそう感じてしまうのだから、きっと彼への気持ちはそれほどに大きいのだろう。
今までで一番大きな花火が上がり、風に乗って花火大会の終了を伝えるアナウンスが遠く聞こえる。
「花火大会終わったみたいだし、私達も戻ろっか?」
そう彼に声を掛ける。
「まさか!これからが本番だよ!」
少しの月明かりと灯台の光に照らされた彼の彼の顔は、これから新しいイタズラをする子供の様な無邪気な笑顔に、眼を奪われた。
「ひゃっほー!」
そう叫んでTシャツのまま、海に飛び込んで行く。
「ええっ!?」
「ほら。気持ちいいよ!誰も居ないんだし、これなら流石に来られるでしょ?早く早く!」
「で、でも……。」
流石にこのまま海に入るのは流石に躊躇う。幾ら水着を下に着ててもね。
私が海に入らないでいると、彼が泳ぐ音で騒がしい筈の海は、少したつと静かになった。
「ね、ねぇ……。どうしたの……?」
夜の闇に飲み込まれたのか彼の姿は見えない。
慌てて私は夜の海に足を踏み入れた。
「つーかーまーえーだー」
少し海に入った所で突然、足を掴まれた。
「ひゃうっ!?」
「ひゃうっ!?なんて可愛いなぁ。」
「ねぇ。」
「……はい。」
「なにか言う事、あるんじゃないの。」
「可愛いね!」
「覚悟完了?」
「御容赦を!」
思い切り、頭から精一杯、水を掛けてやった。
「心配したのに……損した。」
「ちょっとからかってみようと思って。」
「ちょっとって……どれだけ私が心配したと思ってるの!」
「うん。」
「うんって!昼ならともかく、夜の海なんだよ!心配するに決まってるじゃん!」
「ですよねー。」
「はぁ。もうTシャツがびしょびしょだよ。下に水着を着てたからまだ良いけどさ。Tシャツ着たまま飛び込まなきゃ良かった……。」
「面目無いでーす。」
「本当にそう思ってる?」
「思ってます。」
「もう二度とこんなことしないでね。約束だよ?」
「分かった。」
とりあえず少しは反省したみたい。
このまま怒っていても仕方がないし、許してあげよう。
濡れた服を何とかしようと、とりあえず服を絞る。
中々着たまま服を絞るのは、難しい。
張り付く服に苦戦していると彼がこっちをチラチラみている。
「なにか服に付いてる?」
「い、いや。付いてないよ?」
彼の顔が赤かった。まだ8月だけど海は冷たかったのかも。
「まぁ夜の海も気持ちいいものだね。暗いからちょっと怖いけどさ。」
「だ、だろ?色んな意味で俺も怖い。」
「え?」
彼の視線は私に向かっている。灯台の明かりに合わせてチラチラと。
というか、私を見てるっていうか……下ばっか見てない?
少したってその意味に気づく。
「へ、へへ、変態!」
「仕方ないだろ!男として当然だ!!!」
「何で誇ってんの……?」
白いTシャツなんか着てこなきゃ良かった……。思いっきり透けちゃってる……。
「別に良くない?下は水着でしょ?」
「そういう問題じゃない!水着だからって恥ずかしいものは恥ずかしいの!!」
このまま彼の前にいるのは恥ずかしくて、離れた水打ち際に腰を下ろした。
水着だから。水着だから別にいいのかもしれない。
でも。恥ずかしいものは恥ずかしい。特に彼に見られるのは。
離れた私を追いかけるように彼も浜の方へ歩いて来る。
そして何事も無かったように私の隣に腰を下ろす。
ちょっとだけ離れようとすると、手を握ってくる。
夜だから暗くて、真っ赤になってる筈の顔は見られない。
でも運悪く、灯台の明かりに私の顔が照らされる。
そうしたら、手を少しだけ強く握られて、ため息一つついて、同じ場所に座り直す。
そこは、たまに波が足先までくる。
その波の冷たさは、繋いでいる彼の手の暖かさを強く感じさせてくれる。
私も彼も何も話さない。波の音だけが響いている。
ただ強く手を握り合うだけ。
……ちょっとだけずるいな。ちょっとね。
雲の中から出てきた月が彼と私も照らす。
横顔を見れば、いつもより澄ました顔の彼。
格好良く見える。いつもよりも。
少しだけ頭を彼に預ける。彼も頭を傾けた。
彼の体温を更に感じる。
ゆっくりと流れていく時間。今だけは止まって欲しい。
ずっと彼を感じていたい。
私と彼の暖かさが混ざり合って分からなくなる。
少しずつ鼓動が速くなっていくのを感じる。
何か話したい。言葉は何も浮かばない。口の中はカラカラに乾燥してる。
言葉は出ない。
心が渇く。彼を求めてる。でも言葉は見つからない。
まるで、誰かが言えないように、隠してるみたい。
「ここはさ。昔から誰も来ないんだ。地元の人も知らない。まるで世界から取り残されたぐらいの穴場なんだ。」
「ふぅん。」
気の利いた言葉すら出てこない。
「ねぇ。」
「……なに?」
「もしかして、緊張とか、してる?」
「ううん……」
嘘だ。ずっと緊張してる。ここに来た最初からずっと。
何かあるかもって期待してる。
そう考える事が馬鹿馬鹿しいことも感じてる。
「まあ、夏期講習も、模試も終わってちょっと緊張が続くのも分かるけどさ。折角の休みだし、もっとリラックスした方が良いよ。」
「大学、推薦で入れる人は良いね。」
これが合格者の余裕って奴なんだろう。
推薦と普通受験の差を感じられずにはいられない。
「ここには昔から来てたの?」
「んー。小中の時は良く来てたけど高校入ってからは中々来れてないなぁ。」
「そっか。」
「うん。友達とかと来たりしてさ。あの時は楽しくて毎日のように遊んでたよ。」
昔を懐かしむ様に話す彼。
「ここでは沢山の事があった。数え切れないくらいね。あの時ああしておけば良かったなんて思う事もあった。こうしていたら、別の人生だった。とかさ。」
「……」
彼のあの時は隣に誰かがいた筈。それは私じゃない。
胸の奥が鈍く痛む。
「こうして振り返れる思い出が増える程、人は大人になるんだなって感じるんだ。」
「じゃあ私と今居る事もいつかは、振り返れる思い出になるの?」
不意に口から出た言葉は望んだものじゃ無かった。
「どうしたの?」
「今日ここに私と来てさ。誰かを思い出した?」
止められていた言葉が流れ出す。
「なにを……。」
「とっても馬鹿らしいって分かってるっ!でも、私は君の過去のは居ないから。君の未来にしか、私を残せないから。それがちょっと悔しくって……。」
彼の言葉を遮るように私は走り出した。勝手に昔の誰かと私を比較して、一人で悲しくなって。
追いかけてきたのか後ろから彼の声が聞こえる。
どうしようもなくて、私は逃げるように走った。
昔の彼の隣に誰かがいたことなんて分かり切ってるじゃないか。
私と彼は今まで歩んできた道も違えば、経験したことも違う。
今は二人の行く道が同じなだけなんだから。
それが当たり前なのに、それが受け入れられないで。
悲しくて。苦しかった。
逃げても彼はすぐ私を捕まえてくれる。
それが情けなくて、悔しくて、悲しくて、気づいたら涙が流れていた。
「なあ。」
波の音の彼の声。耳はそれだけを聞かせてくれる。何だかズルいよ。
後ろから彼に抱きしめられて、もう逃げられない。
後ろからで良かった。こんなぐしゃぐしゃな顔は彼にはとても見せられない。
きっと私が思う以上に酷い顔をしているから。
「……やだ。」
「何がやだ?」
優しい声が。ズルすぎるもん。
「……全部。」
「そっか。」
反対だ。全部好きだ。
「……ごめんね。」
「いいよ」
彼は振り返れる思いでが多いほど大人になると言う。
だとすれば私はまだまだ子供だ。
後少しで一つ歳を取る。
それは歳が変わるだけで、中身は一瞬では変われない。
だから子供なのだ。
「意外と嫉妬深いと言うか、独占欲が強いんだね。」
「そんなこと……。」
無いとは言えなかった。
「そりゃあ俺も健全な男子だからね。
ここは友達だけじゃない、昔付き合ってた子とも来たことはあるよ。」
締め付けられるような痛みで胸がまた苦しくなる。
でもそれ以上に、彼は私を強く抱きしめる。
それはちょっと痛くて、熱くて、嬉しくて、とっても甘い感覚。
「昔のことで、苦しめたなら申訳ない。」
別に謝って欲しいわけじゃなかった。
自分が、私が勝手に苦しんでいるだけなんだから。
「……。」
何も言えなかった。
「俺の過去に君はいない。
それでも、こうやって色々歩んできた道を振り返って、一緒に歩んでいけたらって思ってる。」
やっぱり彼は大人だ。
私はまだそんな風には思えない。
いつか私にもそう思える時がくるのだろうか。
「これから先の事なんて誰にも分からない。
でも、君と一緒にこれから過ごす世界を見ていたい。
それだけは変わらないよ。」
きっと遠い未来のどこかで、彼の過去も、
こんな自分も受け入れられる日が来る。
そしてそうなれるように前を向いて生きていかなければいけない。
「変なところで嫉妬ばかりするし、とってもめんどくさい性格してるけど、
それでもいいの?」
「どんとこい!ってね。まぁそういうところ全部ひっくるめて好きになったんだ。」
好きって言われて顔が赤くなる。
「……ふぅん。ばーか。」
私を抱きしめているままの彼の腕をほどいて、彼と向かい合う。
……言葉はきっといらない。
顔を上げて、彼の目を見て、私は目を瞑る。
彼の顔が近付いてくるのを感じる
ピーッピーッピーッ。
「あ、日付が変わったね。」
帰って来て、ムード!
目を瞑っているのが何だか恥ずかしくなってしまう。
諦めて目を開けて彼の顔を見つめる。
彼の顔が間近に見えて恥ずかしい。
視線を逸らすために顔を横に向けようとすると。
彼の手が優しく頬に触れて、少し強引に。
「誕生日おめでとう。」
「え……!」
引き寄せられて……そして。
初めての味はレモン。
皆そういうけれど、私の時は違った。
涙と海水。塩辛くて、でも世界一甘い味。
誕生日、歳と共に一つ、大人になった気がした。