少年は魂を抜かれたように目の前にある背中を見ていた。
みっともなく尻餅をついた姿勢で。
先程まで無様に逃げ回り、悲鳴を上げていた事も忘れて。
自分の生命を脅かしたモンスターを一瞬で切り刻んだその背中を、ただ、ただ見つめていた。
◆◆◆
周囲の建物の中でも一際大きな酒場『豊饒の女主人』。
木貼りの造りと光量を抑えた魔石が大衆的な他のお店と違い、洒落た居心地の良い空間を演出している。
だが店内は落ち着きのある内装とは逆に満席で多くの種族の客が飲み騒ぎ、ウエイトレス姿の店員達が注文取りや食べ物を運ぶなど、せわしなく動き回っていた。
ここまで『豊饒の女主人』が人気を集めているのも、ちゃんと理由がある。恰幅のいいドワーフの女将が作り出す自慢の料理だ。
料金はやや高いが女将の体を表すかのようなボリューム、それと対を為す繊細な味付けは値に一切恥じていない。
そして何よりも一番の要因と思われるのがウエイトレス姿の女性達。
種族は人間、エルフ、獣人とバラバラだが、皆、一様に整った容姿をしていた。
全員が美女、美少女だ。これで人気が出ない訳が無い。
店内の客層もウエイトレスが目当てなのか男性客が圧倒的に多い。まるで色彩鮮やかな色とりどりの花に群がる蜜蜂のように。
ロキもまた引き寄せられた蜜蜂の一人だ。店内に入るなり、だらしなく弛みきった顔を見せられては、毎回この店を打ち上げ会場に選ぶ理由など誰であろうと嫌でも分かるだろう。
エルフのウエイトレスに案内され席に着いたロキ・ファミリアは、ロキとフィンの簡単な挨拶の後「乾杯!」の掛け声とともに打ち上げを開始した。
テーブルに並ぶ料理に舌鼓を打ち、酒を飲み交わすロキ・ファミリアの面々。ウルキオラの件で思うところはあれ、主神であるロキが率先して準備した打ち上げだ。楽しまなくては勿体ないし、沈んだままというのはロキに対して礼を失する行為。酒のお陰もあり段々と周りの客と同様に盛り上がっていく。
ただ一人を除いて。
酔いも手伝い更なる賑わいを見せる宴。
ここぞとばかりに露出の激しい衣装を纏っているティオネが団長のフィンに夜の店よろしく酌をしている。一見、痴女が少年に酒を無理矢理飲ませている、ちょっと衛兵が必要なアレな行為だが、アマゾネスが露出度の高い服を着ているのは当然でありフィンもとっくの昔に成人している。大丈夫だ。問題ない。
フィンが杯を重ねるにつれティオネの目が餌を前にした肉食獣のようになり口からは涎が垂れているが、これはあくまで団員同士の大切なコミュニケーション。大丈夫だ。問題ない。
酔いが回ってきた隙をつきフィンの体を弄り始めたティオネの表情に周りが顔を引きつらせ離れ始めても、それは酔ったフィンを介抱しているだけであり、ティオネの淡い想いを知っている仲間思いな団員達の優しい気遣いと応援。大丈夫だ。問題しかない。
別の席にはフィンの貞操の危機などお構いなしにロキがリヴェリアの胸を景品にガレスに飲み比べを挑み、俺も俺もと名乗りを上げる団員達。その光景を冷ややかな顔で無視するリヴェリア。
その騒ぎの横ではアイズが、酒を飲んで晒した醜態をティオナによって後輩達に暴露され顔を真っ赤にしている。
各々が愉快な時間を過ごし最高潮の盛り上がりに達している時だった。打ち上げの最中、誰とも会話せず食事にすら手をつけず独り黙々と酒だけを飲んでいたベートの口から呟きがもれたのは。
「俺は……まだ弱ぇままなのか……?」
周囲から高々に上がる声とは反対の深く沈んだ声だった。
会話をピタリと止めロキ達は信じられないようにベートを見やる。
あのベートが弱音のようなものを吐く。有り得なかった。ましてや後輩達、想い人であるアイズもいるこの場では絶対に。
「ベート、さん……?」
アイズの声も聞こえていないベートは酒の勢いもあるのだろう、堰を切ったように続けた。
「あの頃より強くなった! もう誰からも守ってもらう必要などねぇ! それなのに……あの様だ……クソ、がぁ……っ!」
叩きつけた木製のジョッキから麦酒が零れテーブルを濡らした。
「まだ、まだ足んねぇのか? 弱けりゃ奪われ失うだけだ! 強くならねぇと俺は……。強く……もっと強くなりてぇ……っ!」
「強く……私も……」
誰よりも強さに固執しているアイズがベートの思いに共感する。
直後、椅子の倒れる音と店員の少女の「ベルさん?!」という叫び声が店内に響き一人の少年が店の外へと飛び出す。皆が呆気にとられる中、少年の顔をはっきりと捉えたアイズも外へと向かった。
突然巻き起こった展開が切っ掛けになり頭が冷えたベートは自分が何を言っていたのか思い出すと、バツが悪いのを隠すよう苛立たしげに頭を二、三度掻いた。
「……少し酔い覚ましてくらぁ」
仲間達の注目の視線が煩わしくなったのか、ベートは誰とも目を合わさず立ち上がった。
しかし、注目の対象は直ぐに変わった。
アイズの驚きの声によって。
「ウルっ!?」
入り口に殺到したロキ・ファミリアの面々に映ったのは、ローブを纏った人物の遠ざかっていく後ろ姿だったが、幾ら姿を隠していようと何年も一緒に暮らしていたのだ。ウルキオラだと直感的に理解した。
誰もが思いがけない再会に硬直してしまう中、ベートだけは違った。ベートの胸の奥で驚きを塗り潰したもの。
それは歓喜だった。
獲物がのこのこと目の前にやってきた。
敗北感を払拭するための、誇りを取り戻すための、そして──。
歓喜を起爆剤にした狼は弾丸のように駆け出した。
「待ちやがれぇぇええ!!!」
一方、固まっていたアイズ達もベートの行動で我に返るとすぐさま動き出す。
「
「っ!? アイズ魔法は──」
目立つから駄目だと続くフィンの言葉を振り切り、風を纏い空中へと舞い上がるアイズ。
「ウルを、ウルを頼む!」
リヴェリアの必死の懇願に短く頷くとアイズはウルキオラを追った。
◆◆◆
──何処までも俺に付き纏うつもりか
ベルを追っていたウルキオラは意識を集中させ、追跡者が地を駆けるベートと空中にいるアイズだと知る。
『破面』には『
本来ならば人の五感のように情報が流れ込んでくるが、今のウルキオラには意識を集中させないと使用出来なくなっている上に有効範囲も狭くなっていた。
『
掛けられた枷と追跡されている現状をウルキオラは忌々しく思う。
このまま二人を連れベルと合流すれば、何れヘスティアの元に身を寄せているのを知られるだろう。それだけは避けなければならない。
だからといって交戦は有り得ない。街中で戦闘など行えば今まで身を隠していたのが水泡に帰す。そして、それ以上にロキ・ファミリアと戦えばウルキオラの奥底でくすぶり続けている残り滓が、どのような反応をして体に作用するか見当もつかない。
「撒くか」
空中へと上がれば飛べないベートはものの数に入らずアイズと一対一となるが、そんな行動をとれば騒動となるだろう。
ベルが右に曲がった角を左折しつつ条件に合う場所へと進む。二人を撒くために最も適した場所にウルキオラは当てがあった。
度重なる区画整理で秩序が狂った入り組む地形。重層的な構造。
オラリオに存在する、もう一つの迷宮。
『ダイダロス通り』へとウルキオラは進路をとった。
◆◆◆
『最速』
現在のオラリオでは誰かを指す言葉ではない。ベート、風を使うアイズ、フレイヤ・ファミリアにも俊足を謳う者がいるが、あくまでも『最速』候補の一人に上げられるだけだ。まだ、誰もその称号を確たるものとしていない。 だが、『頂点』『最強』と言えばフレイヤ・ファミリアのオッタルを指すように『最速』もまた嘗ては一人の人物を指していた。
嘗ての『最速』ウルキオラと今『最速』に近い者、ベートとアイズの追走劇が始まった。
狼は四肢に力を漲らせ獲物を猛追する。
視界の端に映る建物が高速で後方へと流れていくなかベートはウルキオラの背中だけを見ていた。いや、睨みつけているといった方が正しいだろう。
ずっと目の前にあった背中。
突如、消えてしまった背中。
ギリッと犬歯を軋ませる。
「ベートさん、私も」
──邪魔すんじゃねぇ!!
驚く事にこれがアイズの言葉にベートが率直に抱いた思いだった。
ベートはアイズに好意を寄せている。邪険に扱うなどしない。しかし、今回は、今だけは別だ。
アイズを意識から外し、体の隅々まで神経を張り巡らせるよう集中していく。余計なものに乱される訳にはいかない。これは
足に力を込め一歩一歩、地を蹴り駆ける。
もっと速く。
疾く。
迅く。
その意志に応えようとしたのか黄金の月が雲の切れ間から顔を見せるとベートは獰猛な笑みを浮かべた。
ベートの体が変化を始める。
毛並みが蠢きながら逆立っていき瞳孔が縦に割れた。
月下のみで発動する『獣化』だ。
「テメェの負けだぁぁああっ!」
勝利を確信した狼が、鋭くなった犬歯の間から雄叫びを上げた。
◆◆◆
少年はホームの中庭で繰り広げられる戦いを不機嫌な様子で眺めていた。
無論、戦いと言っても決闘などの血生臭いものではなく訓練の一環だ。
長い金髪を舞わせ上段から斬りかかってきた少女の攻撃を刀と呼ばれる東方の武器で受け止める黒髪碧眼の青年。
真剣にそれでいて楽しそうに斬り結ぶ二人を少年は遠方からじっと見つめていた。
毎日毎日、飽きもせず剣を合わせる青年と少女を不機嫌に見続けている少年。
ある日、遂にいてもたってもいられなくなった少年は中庭に向かって走り出した。
突然、少年がやってきたのを何事かあったかと戦いを中断する二人。
少年は二人の間に割って入ると、青年の前まで近づき眼前に指を突きつける。
「俺は必ずテメェに追いついてやる! 絶対にだっ!!」
◆◆◆
地を疾駆する白い影を灰色の弾丸と金色の風が追走する。
舞台はウルキオラの狙い通り『ダイダロス通り』へと突入していた。
追うことだけに全神経を集中させていたベートが気づいた時には既に『ダイダロス通り』は目と鼻の先で、まんまと思惑に乗せられた形だ。
最もベートとしては場所が何処であろうと関係なかったが。
当初、ウルキオラは迷路のような構造を利用して、何度も進む方向を変え振り切ろうとしていたがベートは決して見失わなった。逆に徐々にだが、離されていた距離を縮めていた。
接近を許したウルキオラは次に乱雑な地形を利用してきた。
不自然に突き出た部屋。不規則に並ぶ人家。中途半端な高さの塀。それらを超加速で疾走するベートへの障害として足止めを図るが、跳ね上がった身体能力と反射神経を駆使したベートは速度を落さず全てを避けた。
「無駄だ! どんな小細工をしようがテメェは俺から逃げ切れねぇ!」
度重なる区画整理によって地盤が歪み作り出された大口を開ける穴を飛び越え勝利宣言をするベート。
ウルキオラを捕らえるまであと少し。
しかし、緩やかな下り坂に入っていったウルキオラに迫るベートに体の異変が生じる。
何よりも自信を持っている自慢の足に僅かばかりだが鈍い痛みが走ったのだ。繰り返される急激な方向転換に酷使し過ぎたのだろう。
──チッ、これが本当の狙いか!
ベートは『ダイダロス通り』へと誘い込んだウルキオラの考えを、逃げながら負荷を与え続け足を使い物にならなくさせるためと読んだ。
長時間全力疾走して負荷を与えられ続ければ流石にベートの足でも限界がくる。
時間をかけてはならない。
此方に痛みがあると分かれば、ウルキオラは更にダメージを蓄積させるべく次の手を打ってくる。だったら、それを逆手にとり全身全霊を賭け一気に畳みかける。
ベートは素早く作戦を立て実行する。
「クッ……」
苦悶に顔を歪め、少しよろめきながら速度を落とす。
ウルキオラに限界だと油断させるため。そして、次の一手を打たせるために。
下り坂を抜け区画と区画を結ぶ橋のような場所に出ると、ウルキオラは徐に眼下の少し開けた空間へと身を躍らせ落下していく。
──だろうなっ!
予想通りだった。足への止めは高所からの着地をさせるだろうとベートは考えていた。与えるダメージが大きいからだ。
欄干を飛び越え橋の壁面を蹴り、落下速度を加速させ、ベートは着地に備えた。
着地と同時に持ちうる全ての脚力を使い捕まえる。
足に止めを指した気になっているウルキオラの虚をついた作戦。確実に成功するだろう。
ウルキオラの虚をついていたのなら。
ベートは最後までウルキオラの狙いが分からなかった。
追う背中だけを見ていたベートはウルキオラが何かを探すように首を振っていたのを見逃していた。
急激な方向転換、障害物は間違った答えに辿り着かせ本当の目的から目を逸らさせるため。
ウルキオラがこの広場へ来たのはベートへのダメージなどではなく目的の物を発見したからというのも、それが何を意味しているかもベートは気づけなかった。
いや、もしかしたら無意識に気づかないようにしていたのかもしれない。
何故ならそれが意味するものは……。
「ベート、さん!」
上空にいたアイズが逸速くウルキオラの狙いを悟り一縷の望みを託し声を上げるがベートには届かない。アイズの位置ではウルキオラの方が先に其処に辿り着いてしまう。
集中しているせいでアイズの呼びかけが聞こえないベートは着地の衝撃を逃がすよう足を屈伸させるのと同時に力を溜め込んだ。
大腿部がギシギシと音を立て、はちきれんばかりに膨れ上がる。
今、まさに力を解放しウルキオラに飛びかかろうとした矢先──。
ベートの耳に鉄のひしゃげたような音が入って来た。見るとウルキオラ前方に破壊された鉄格子があった。
「地下……道……?」
今のウルキオラが使用できる『響転』は速度もだが移動距離も弱体化していた。
それでは上空にいるアイズに必ず捕捉される。であれば上空からでは追えない場所に行けばいいとウルキオラは考えた。
ベートは気づいた。気づいてしまった。それが何を意味しているかを。
全て自分の一人芝居。ロキ・ファミリアのエムブレムと同じ哀れな道化師。端から見ればどれだけ滑稽に映っただろう。
ウルキオラは最初からベートを相手にしていない。
アイズだけを警戒していた。
「ーーっ! 俺を見ろぉぉおおおおお!!!」
絶叫を上げ飛び出すベート。
だが、その視界からウルキオラの姿が消えた。
二、三度たたらを踏み立ち止まるとベートの膝が力無く地を突いた。
アイズが後方へ降り立つが反応せず膝立ちのまま虚ろな目で正面を見ている。
アイズは何かを言おうとするが言葉が見つからずベートの見つめている方向。ウルキオラの去った地下道の入り口に視線を移す。
其処にはもう追うべき背中は無い。
「強く……なってやる……」
耳が痛くなるほどの静寂のなか、ベートがぽつりと想いを零した。
「ベート、さん……」
「もっと……強くなってやる……っ!」
「私も……もっと強く……」
アイズも下唇を噛み吐露する。
『豊饒の女主人』の焼き回しのようなやり取りがなされるが、込められた想いはあの時の比ではない。
「テメェが無視出来ねぇほど強くなってやらぁっ! クソッタレがぁぁああああ!!」
夜の『ダイダロス通り』に狼の咆哮が響き渡った。
◆◆◆
ただ、モンスターの動きに反応して繰り出される技術も何もない出鱈目なナイフの軌跡。
どさり、と巨大な単眼を持った蛙のモンスターが崩れ落ちる。
思考を何処かに置き忘れたようにベルはナイフを振るっていた。
酒場から飛び出したベルはダンジョンに潜り、ひたすらモンスターを狩り続けている。
傷だらけの身体、所々破け血の滲んだ衣服。それでもベルは幽鬼のような足取りで次のモンスターと戦うためダンジョンの奥へと進む。
「強く……なりたい」
誰に聞かせるでもないベルの呟きが人の気配の無い静まり返ったダンジョンに消えた。