誰しも、心の中には扉をもつ。
心の扉とは、親しき人間には開け放ち、憎き人間に閉じてしまうもの。
閉じた心の扉は一度閉じると、王様ですらこじ開けることは難しい。
しかし、俺にはそれができる。
王様にすらできない人の心のドアノブをしっかりとつかみ、それをこじ開けることが。
我が名は錬金術師(見習い)のアドルフ=ルーベンドルフ。
偉大なる父、伝説の祖父を超えることが目標だ。
今日こそ、その目標が達成できるはずだと思ったのだが……。
「そこのちんちくりん! 私は疲れた。椅子になりなさい!」
「……はっ?」
俺は自分の耳を疑った。
俺の背の三分の二しかない眼前の少女の言葉とはとても信じられない。
ちんちくりんって何だよ……。
俺は侮辱に眉を動かしながら、彼女の父をみた。
「おおう! 我がアリーテ姫がはじめてしゃべった! おおおおおう!」
感涙する国王陛下は、しかし、俺には厳しい視線を向ける。
「……おい、せっかく我が娘が初めてしゃべったのだぞ。言うことを聞かないかっ!」
「……は、はい」
王様の命令では仕方がない。
俺は内心怒りに燃えながら四つん這いになる。
……あれ、おかしくね? これ?
いや、絶対におかしい。
俺は清楚、可憐、まるで伝説の職人が作った人形のような、完成された美を誇るアリーテ姫を眼前にしていたはずだ。
事実、さっきまで無表情に静寂を貫くアリーテ姫の美を前にして深い感動を禁じ得なかったのだ。
しかし、今、眼前にしている彼女はどうだ。
あの静寂の美は皆無になったどころか、
「うむ。我が下僕はこうでなくてはな! おーほっほっほっ!」
機嫌良さそうに俺の背中に彼女が乗った。
華奢な身体は軽いが、しかし、気分はとても重い。
たしかに錬金術師は世間から疎まれる存在だ。特に教会からはゴミくずのように扱われている。
しかし、それこそ教会以外に俺たちが人の心を救えるからだと、俺は信じている。
でも、だからといって12歳程度の少女の尻にしかれるなど……。
俺は、犬のようにアリーテ姫の尻に敷かれながら、彼女を恨めしそうに見上げることしかできない。
「ねぇ、犬! 私の手をおなめなさい!」
アリーテ姫は容赦の欠片もなく澄まし顔で俺に命令する。
今度は犬呼ばわりだぁ?!
……なんという屈辱!
いくら王女といえども、ルーベンドルフ家の名を汚す行為は断じてゆるすまじ!
「あら、まぁ……アリーテったら……。実はおてんばだったのね……。お母さん嬉しいわぁ……」
暢気で優しげな皇后陛下は、しかし、俺には厳しい視線。
「ねぇ、そこの犬さん? アリーテがお願いしているじゃない。犬なら犬らしく言うことを聞きなさい、ね?」
優しい口調そのままで、あんまりなお言葉。
しかし、皇后陛下のお言葉では仕方がない。
「う……。ぺろぺろ」
「きゃー! もっと優しく嘗めなさいよ、犬!」
「はひ……」
俺はアリーテ姫の柔らかい肌をなめながら、彼女に術をかけたことを本気で後悔し始めていた。
”言葉を失いしアリーテ姫を救った勇者を次期国王にする”
このおふれが国中に伝わってはや一年。
幾多の男どもがアリーテ姫に言葉を話させようとさまざまな策を練っていった。
笑い、脅し、恐怖、懐柔……。
しかし、彼女に言葉をしゃべらすどころか、そのお面のような表情を少しも動かすことは、誰にもできなかった。
そんななか、この俺様が颯爽と登場したわけである。
この俺が! 万の人間になせなかったことを成し遂げたのだ!
アドルフ=フーベンドルフの錬金術、その秘策をもってな!
……だというのに、この仕打ちである!
「ねぇ、パパ! ママ! わたしにこの犬をちょうだい! 座りごこちがとてもいいの」
「おうおう! アリーテの望みならなんでもかなえてあげよう。しかし、アリーテ。それはな、一応、お前の婿になる男だ」
おお!
陛下はやはり腐りきっても陛下だった!
そうだ、俺には野心があるのだ。
教会の連中に弾圧された錬金術の研究をこの国で自由に行う権利を得る。
今まで教会に葬り去られていった仲間の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。
みんな、俺は王様にな――。
「えー! 犬じゃないの?」
「そうですよ。アリーテはこれをペットとして望んでいるのです。婿としては……ね」
……おい、皇后さまよ。
優しい口調とんでもないことを言ってくれるなって。
ああ、陛下、このバカな女どもを止め――。
「うーむ。そうかのぉ。お前とアリーテがいうのでは仕方がないかのぉ」
……おい、腐りきってやがんな、このハゲ親父は。
なにバカな妻と娘の口調に乗ってんだ?
むしろ止めろよ! どれだけ妻と娘に甘いんだよ!
っていうか、よくこんなんでこの国回してこれたな!
「あの、陛下……。約束を守っていただきたいのですが……」
アリーテ姫の尻にひかれながら、恨めしげに国王夫妻を睨みつけてやる。
「おおう! そうか、そうか。てっきり、犬として新たな生を歩むものとーー」
「ありえません! 私はアリーテ姫の婿になりにきたのです!」
俺が叫んだ瞬間、場の空気が凍った。
「あ……、あ……」
アリーテ姫が立ち上がり、力なく床に座ったのだ。
「ああ! アリーテ! なんてこと!」
皇后が叫び、
「おおお! なんということだ!」
国王は慟哭した。
「……ふぅ」
俺は立ち上がり、アリーテ姫を見る。
彼女の表情は術をかける前のそれになっている。
無言のまま、人形のように静寂な美をその身体に宿していた。
「はぁ……」
俺は内心ホッとする。
どうやら保険が効いたようだ。
人に扉を開かせると、特に魔性が現れることがある。
だから、人の感情を燃え上がらせる必要がある場合でも、燃やしすぎたら消火道具を用いるのと同様、術をかける際にも、魔性が現れたときの備えをするのは当然の措置だ。
俺はルーベンドルフに受け継がれた慎重深い血に内心、感謝していた。
「すいません……。我が力が及ばず、姫は元にお戻りになってしまいました……」
実は、今でもやろうと思えば簡単に心を開かせることができる。
しかし、俺はもう犬扱いされたくはない。
そんな特殊な性癖はもっていないのである。
「おおおおおおおおお!」
「アリーテェェェェェェ!」
しかし、慟哭するアホ夫妻め、俺の話をぜんぜん聞いちゃいないぞ。
俺は呆然として傍に控えた衛兵隊長を見つめる。
「……」
彼は残念そうな表情を浮かべながら、手で‴去るように‴と仕草をした。
「では、これにて……」
俺は目礼した。
このまま城を去ろう。
ついでに負債ならぬ馬鹿夫妻のいるこの国も去ってやろう。
そんなことを考えた、その瞬間。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおお!」
城中に響きわたる少女の声。
俺が振り返った瞬間、そこにいたのは立ち上がり、赤い顔で俺を睨みつけるアリーテ姫の姿だった。
「こんのぉぉぉぉ、犬ぅぅぅぅぅ!」
刹那、姫の両足ジャンピング空中キックが俺の腹にクリーンヒット。
「ぐへぇ! ぎゃはぁ!」
床でリバウンドした俺は、気がつくと姫の右足ハイヒールで腹を踏まれていた。
「犬ッ! イヌッ! いぬッ! あんたあたしに術をかけるとき変な細工したでしょ?! そのせいでまた元に戻りそうになったじゃないの!」
アリーテ姫の言葉を聞いた国王夫妻は怒りの声をあげる。
「なんだと?! 貴様! アリーテになにをしおった!」
「あらあら……。火炙りですわね」
「おうおう! そうだとも! そうだとも!」
俺は皇后の尻にしかれている国王を内心侮蔑しつつ、アリーテを見上げる。
「わ、私はどうなるんでしょうか?」
「……あんた大したものよ。悪い魔女があたしにかけた呪いを解いてさ! しかも、あたしが暴走したときにまた元通り呪いをかけなおすなんてね!」
「あ、あ、あ……」
はい、死んだ。
これ、死刑確定じゃないの。
溺愛されている姫に小細工とかばれちゃって。
あ、ち、ちび――。
「でも、見直したわッ! すごいじゃない犬ッ! あの魔女に匹敵するなんてね!」
股間が弛緩しそうだった俺を前にして、アリーテ姫は笑みを浮かべる。
よく見れば、彼女の機嫌はだいぶいいみたいだ。
あ、これ、死なずに済む展開なの?
「そ、それは、つまり……?」
俺は深呼吸しながらアリーテ姫を見つめる。
人形のように静かな笑みはもはやなく、彼女からは生があふれんばかりの笑みが溢れていた。
「いいわよ、あなた! あたしの婿になる資格があるじゃないッ!」
「は、ぐぼへぇッ!」
言葉とは裏腹にアリーテ姫は俺の腹を蹴ってきた。
横腹にきれいに決まったんですが。
「あの、これヴぁ!!」
二段目も決められた。
一体、俺が何を……はい、しましたよ!
「……運動もろくにしてない女ごときにふっとばされるなんて、身体は柔みたいね」
俺は内心の怒気を隠さぬまま、姫を見つめた。
「ふーん。女みたいな綺麗な顔しているのは運動不足のせいかしら」
「よ、よけいなお世話です……」
そのときだった。
彼女の唇が俺の唇にふれていたのは。
「へ……?」
俺はあっけにとられた。
彼女の顔が間近に見える。
羞恥のせいか、かなり赤くなっていた。
「パ、パパが言った約束は守るわ! け、結婚してあげるんだからね!」
視線を合わすと、恥ずかしそうに顔をそむけるアリーテ姫。
彼女はドレスの裾を握りながら震えていた。
そんな仕草の彼女を見て、彼女から犬扱いをされたことなど忘れてしまった。
「は、はい……」
気付いたら、俺は頷いていた。
そして、アリーテ姫は満面の笑み。
「パパみたいに立派な男になったら、け、結婚してあげてもいいんだからね、犬ッ!」
彼女の差し出した手を俺は握る。
どうやら、心の扉を開けられてしまったのはむしろ俺のほうだったようだ。
だって、彼女の笑顔一つで、「皇后の尻にひかれる国王でいいや」なんてことを思ってしまったのだから。