それは、変わりはしなかった。何もつかめず、すべてを感じない空間の中に放り出されている。自らが望んだわけではない。望んでもいないのにここに存在し、ここで時を過ごすのは滑稽であるが、迷い込んでしまっている。
だが、やがて指先からだんだんと感覚がせり上がってくる。さきほどまで何も感じなかったというのに、指先は感覚をとらえていた。しかし、周りの世界を満たしているのは大気ではなく、大きく腕を広げればゆったりと抵抗を与え、息を吸い込めば口内から上を目指し気泡が昇っていく――幼少のころに仕事に忙殺されながらも、父が休日に連れて行ってくれた江の島の水族館の水槽の内にいるように、閉塞された有限な世界を漂っている。
ゆっくりと目を開けば、砂が敷き詰められている底には数千の黒々とした岩礁が沈んでいる。否、岩礁ではない、流線形の形を取りながら、真っ二つに折れ分断されているもの、前方が欠けて圧倒的な暴力で全体が歪んでしまったものなど、それは、人工物の名残を見せながらも、不完全となった船であったり潜水艦であったりした。
彼を囲むもの――水はあまりにも透明で、その沈殿物を一切の偏向なく、彼に知覚させてしまう。
静謐、と表現するにはあまりにも不純物が多く、混濁というにはあまりにも純白すぎる世界を脳で処理するには、あまりにも矛盾した情報が神経を満たし、走っていく。
その世界を一つ一つ解き明かし、やがて脳がすべての処理を終え、やがて、彼はここに自分しかいないことを認識するのだ。
人も生命も一切を認めない冷酷な世界の中に一人、放り出され、漂っている。
なんとさみしい世界なのか、怯えた彼は、ゆっくりとひざを抱えて背を丸める。
しかし、その孤独に寄り添うように声が混ざっていく。
末梢の神経からじわじわと浸されていくかのように、振動をとらえる。
声だ。
ゆっくりと高く、それでいて途切れることのない声が彼を包み、卵膜を形成する。
彼にとって、その声は母の胎で眠り、嬰児となる時を控える胎児のように安らぎを齎すものだった。
そうして、目を開け――
六根清音は、目を覚ました。
・・・
『男性IS適合者の管理が不十分とIS委員会が懸念を表明』
居間の茶卓に置かれた朝刊の一面にはそんな文字が躍っていた。
実家に戻っているから、清音は起こされることもなく、定刻通りに目を覚ますこともなかったので時刻はすでに8時を回っていた。
中学二年生で、現在夏季休暇中であるから、それが普通だと余人は断じるだろうが、諸事情が異なり、午前5時前に家人が起床し、活動時間となっている六根家では本来あってはならないほどの不摂生である。
よって、起床時間を逃した身に朝食が振る舞われ、料理が卓に並ぶことはなく、キッチンの食器棚には食器が整理されて収まっている。最も、清音は朝食を摂らずとも過ごせるようにしているために支障はないのだが。
実家での時間を過ごすが、半そでの白ワイシャツに黒の学生ズボンの出で立ちという、どこか他人行儀な格好で清音は座って新聞を読むが、記事にはあまり大したことは書かれていなかったので、すぐに伏せてしまう。
記事の中には、これまでの自分たちの人生がある程度説明がなされ、そして、適正者についての現状は憶測と呼ぶしかない域の内容が書かれていたが、それはほとんど当たっている。記事には追記するようにこれからどうあるべきなのか、どう推移していくのかについても予測がなされたが、前に、内閣府と防衛省の役人が来て、これからの諸事情を説明したが、それと大差がなかった。この場合、すべての情報を統括する政府と新聞の記事が同じ内容であることを嘆くべきなのだろうか、それとも、政府が齎した内容は大衆と同様であることを嘆くべきなのか、思案に暮れたが、まとまることはない。
その時だった。
ぎしぎしと廊下をきしませながら、人が歩いている気配を感じたのは。
まず、この家に仕える使用人ならばこのような足音をたてることはない。では、現在六根家を間借りしているあの男かと脳裏にへらへらとしたにやけ顔が思い浮かんだが、毎日十時以降に起床するため、いまの時間ではかなり早朝に類する。
だから、清音は音をたてず立ち上がり、その足音が部屋の前に到達する時を見計らい、戸を勢いよく開けた。
「へ?」
まず、清音の目に映ったのは、こちらを驚愕に目を見開いて見つめる十代前半、自分とほぼ同年代の少年と呼んで差し支えない男の顔だった。顔立ちは整っており、女性をターゲットにした雑誌の表紙や番組で笑顔を振りまいていても違和感のない美少年であるが、口をぽかんと開けるさまは滑稽に思えてしまう。
初対面ではあるが、清音は男の顔には見覚えがあった。誰であるか記憶の中から名前を導き出しつつ、男が両手にもったスニーカーとTシャツとズボンのポケットに目を配り、前の男の服装と不自然な厚みはないかを確認した。
そして、
「あ? ちょっ―――」
困惑する男の片腕をつかみ、清音はそのまま男の背後に回り込み、捻りあげた。
「あぎゃああ!!」
男が激痛に声を上げて顔をゆがませ、両手に持ったスニーカーが廊下に転がった。しかし、清音はそのままの勢いで男の足を払い、廊下に低音とかすかな振動が起こる。無様に転がった男の背中に捻りあげた腕を固定したまま、清音は男を完全に無力化する。
「ぐぅ……!!」
足払いをうけ、床に押し倒される形となった男はうめき声と肺の空気を一気に押し出され、呼吸もうまくできないのだろう。ただただぜぇぜぇと呻いている。しかし、それでも背中で固定された腕を自由にしようと力を込めるが、
「――抵抗は推奨したしません」
清音が男の背に乗ったまま、耳元で囁いた。
「これ以上抵抗しようとしても下手をすれば関節を痛めるだけですので」
耳鳴りがしている頭に清音の声が響いたのか、それとも抵抗が無意味と悟ったのか、少しの間、男は肢体に力を込めようとしていたが、やがて、力が喪失した。
「では、質問です。当家に何用でございましょうか、織斑一夏さま」
男、織斑一夏は己の名が呼ばれたことに驚き、背に乗っている清音を見ようとしたが関節が固定されていたため、うめき声を上げた。
・・・
「粗茶ですが」
一夏の前に白磁のティーカップが差し出された。琥珀色の紅茶が注がれ、かすかな湯気に心地よい香りがのり、一夏の鼻腔をくすぐる。
「ど、どうも」
どこかぎこちない笑顔でそれに応じ、一夏はカップを手にとり、一口含む。ほんのりと口内を温め、甘みとも渋みとも判断のつかない複雑な味わいと香りが広がった。
「うまいな」
思わず、そう感想を述べていた。日本人としてお茶と言えば緑茶がもっぱらだし、それが健康に良いと思って積極的に摂取していた一夏であったが、これが毎日飲めるならば紅茶派に鞍替えしても良いと思える奥深さと味わいをこの紅茶は兼ねそろえていた。
それに対して、お茶を出した本人はいつも変化のない仏頂面で軽く会釈する。
「お口にあえばなによりです」
てっきり、腕を固定されたまま尋問が行われるのかと一夏は思ったが、一夏を拘束した少年はあっさりと拘束を解くと、そのまま一夏を少年がいた部屋に招き入れる。部屋はこの家と同様に立派な作りの十畳ほどの和室で、部屋の中央に卓が鎮座し、部屋の隅には和室には到底相容れないだろう、紅茶セットが置かれていた。そのことに首をかしげた一夏だったが、その卓を挟み、一夏と拘束していた相手にこうしてお茶を出されていた次第であった。
「さて、率直にお伺いしたしますが、織斑一夏さま、当家に何用でありますでしょうか? もし、先ほどのことでありましたら――」
「ちょ、ちょっとまってくれ!」
表情筋を一切動かすことなく口を動かす少年に、一夏はあわてながら手で制した。
「なんで俺の名前を知ってんだ? 俺は名乗ってなんか――」
それに対して、少年はこの部屋に入る際に、一夏が持っていたスニーカーを置くため、スニーカーに敷かれた新聞を指差す。その新聞の片隅に、一夏の顔写真が載っていた。
「むしろ、今日の日本で貴方様を存じ上げない方が珍しく思います」
それもそうだな、と一夏は言葉に詰まりながら納得せざるをえなかった。
「では、一夏さま、さきほどの質問ですが――」
「あと、さまはやめれくれ、さまは、なんだか、こそばゆい」
それに対して、少年はしばらく虚を突かれた表情をしていたが、
「でしたら、一夏さん、と。貴方様は年上でありますし」
「ん? 年上?」
「ええ、一夏さんは報道で中学三年生と伺っております。私は中学二年生ですので、一歳年上となります」
「ああ、そうなのか……え!?」
思わず、一夏は立ち上がってしまった。
「なにか?」
それに対して、少年は顔を変えることはなかった。
確かに同年代ではあると一夏も思っていたが、てっきり、その落ち着いた態度などから年上とばかりに思いこんでいたのだ。
「い、いや、年上とばっかり、そもそもこの家にいるのは――」
ふと、年下とこの家にいることであることが一夏の頭の中で点と点が結ばれ、あるひとつの結論に到達した。
言葉を飲み込み、もう一度、一夏は少年を見る。
そして、部屋の隅に置かれたスニーカーに近づき、スニーカーをどかして新聞の記事を見つめた。
「じゃ、じゃあ!! もしかして、あんたが! 第三適正者の!」
「はい」
それに少年はゆったりとうなづき、
「一夏さんと同じく、 IS男性適正試験にて適正が確認された三番目の適正者
深々と、頭を下げた。
「そして」
そういって、清音は立ち上がり、一枚のふすまの前に立ち留まると、一気にふすまを開く。
「げるぐぐっ!!」
謎の奇声をあげ、一人の青年が部屋の中に転がった。
その青年は茶髪に、上下スェットという動きやすい恰好をしていたが、どこか、引きつった笑みを浮かべていた。
「おはようございます。二代さん」
「お、おはよう、きよっち。てか、容赦ないね~」
「こちらは、海本二代さま。日本で初めてIS適正が確認された男性適正者であります。わけあって、現在、当家に在室されております」
ども~ と転がったまま、軽薄な笑みを浮かべる青年――海本二代は立ち上がり、一夏に手を差し出した。
それに応じ、言われるがまま、握手を返す。
ここに、日本で、否、世界で確認されたISへの適正をもった男性三人が一堂に会するということがなされた。しかし、それを知る者はまだ、誰もいなかった。
ご意見ご感想お待ちしております。
早くDAISと亡国企業の激闘が書きたい。