綴が獏牙と対談している頃、一輝たちは綾瀬の病室にいた。
「やっぱり黒鉄くんはすごいね。手も足も出なかったよ」
病衣をまとってベッドに横たえる綾瀬の表情は選抜戦で敗北を喫した者とは思えないほど清々しい。
対して側に腰掛ける一輝は尊敬の念を漂わせる神妙な表情で賛辞を受け止めた。
「それは僕の台詞だよ絢辻さん。正直君の実力を見誤っていた」
犯した過ちを深く恥じた綾瀬は全身全霊で挑むことが何よりの誠意だと悟り、完全なコンディションで一輝に対峙した。一切の雑念を削ぎ落とし、ただ目の前の強敵に打ち勝たんとする気迫はどんな業物にも勝る刃の如く。対面した一輝すら息を呑むほどだった。
《
負け試合だとタカをくくっていた観客たちもその威容を感じ取り、奇妙な沈黙の中戦いの火蓋が切られたのだった。
この大剣豪を相手に二分も剣戟を演じてみせたものの、その間に全ての体力と集中力を注ぎ込んだ綾瀬は一瞬の綻びを呈してしまい、それが決着となった。
観客たちは《無冠の剣王》によくぞ善戦したと賞賛を送ったが、斬り伏せた本人である一輝の内心は竦みあがる思いだった。
太刀筋が僅かに狂ったのだ。いや、正しく言えば
森羅万象の流れを把握しあらゆる攻撃を完全に受け流す奥義はまさしく絢辻一刀流の真髄。未熟な綾瀬が体得しえないはずのないそれを、この土壇場で繰り出してきたのだ。過去最高の冴えで、かつ過去に父から奥義を見せてもらっていたからこそ生まれた奇跡だった。
結局は深手を負い戦闘不能となったが、仮に奥義を完璧に極められていたら致命の一撃を被るのは一輝だったかもしれない。綾瀬の霊装《緋爪》には霊装で付けた傷を無尽蔵に開く能力が宿っている。かすり傷一つが致命傷足り得る恐ろしい異能だ。
敗北する可能性はあったのだ。たまたま綾瀬の体力と技術が足りなかっただけでもぎ取れた勝利。試合を終えた今でも心臓が竦む思いである。
自分が奥義の一端を成したと未だに信じられない綾瀬は困ったように曖昧な笑みを浮かべる。
「ボクが父さんの奥義《天衣無縫》を使ったなんて……。何かの偶然だよ」
「偶然は天文学的数字でも起こり得るから偶然なんだよ。万が一にも絢辻さんは奥義を使え得たってこと。それは日々の積み重ねがなければ絶対にあり得ない。もっと自分に自信を持つべきだ」
蔵人に惨敗し続けたことが彼女から自信を奪っていた。対戦中は一輝に報いることしか考えていなかったからそれが表に出なかったものの、今は根づいた無力感が首をもたげている。
自分に謙虚になるのは良いことだ。しかし必要以上のネガティヴはかえって本来の実力を塞ぎ込んでしまうだけだ。一輝はそれが勿体無いと思っていた。綾瀬はそんな器に収まる人じゃないと感じたから、なんとか取り除いてやれないものかと考えていた。
「絢辻さん。もう一度倉敷蔵人に挑んでみないかい」
だからこその提案だった。失った自信は取り戻すことでしか返ってこない。そういう意味では蔵人への挑戦ははまたとないチャンスだった。
これまで笑顔だった綾瀬の表情が音を立てて固まった。
「……無理だ。あいつには勝てない」
「そんなに強いの?あのチンピラ」
ステラの問いにブルブルと震えながら首肯した。ステラから見ても綾瀬の評価は変わっていた。最高に冴えていたという限定的な状態だったにせよ、あの一輝に食らいつけるだけのポテンシャルと地盤があったということだ。入学直前のいざこざの時一輝にあしらわれた身として、歯を立てられたこと自体が尋常でないことを痛感している。
だからこそ、それだけの剣術の腕ないしポテンシャルを持つ綾瀬を足蹴にする蔵人が得体の知れない怪物のように思えた。
いまいち納得のいかない心情で相槌を打つと、ステラの内心を汲み取った一輝が「倉敷君の強さはたぶんステラの思っている強さとは違う」と指摘した。
「倉敷君は剣術に関して言えば素人だよ。去年の七星剣武祭の試合を見る限り間違いない」
「それならどうしてベスト8になれたのよ?」
「彼の能力が厄介というのもあるけど、本人のスペックが桁違いに高いんだ」
そう言うと綾瀬もすかさず追従した。
「そうなんだよ。アイツ、見てから反応してくるんだ」
「見てから?」
それはおかしなことだ。剣術に精通している者は非常に機敏だ。アクションの行程に於ける無駄を削ぎ落とし、先鋭化しているからだ。その速さは迅雷に喩えられるほどで、事実達人のそれは
なぜ見えないのか。単純にヒトの反応速度をはるかに上回っているからである。つまり見てから反応できる道理はない。そんな刹那の世界を生き抜くためには一輝のように敵の呼吸を読み解き攻撃を予見したり、実戦経験から培われる勘で察知するしかない。そうやって剣士たちの攻防は成り立っている。
そんなシビアな世界に身を置いている綾瀬にとって、蔵人の戦い方は異質以外の何者でもなかった。動く剣先にピタリと目を張り付かせてくる不気味さを今でも覚えている。
その前提を嘲笑うかのような不可解な発言を一輝が繋いだ。
「彼は超人的な反応速度を持ってるんだ。それが彼を《
一輝が蔵人の才能を見抜けたのは昨日のファミレスでの一件だ。あの場に於いて蔵人は誰よりも早く綴の脅迫に気づいていた。それだけで十分だったのである。
「じゃあ、どんなに速く攻撃しても躱されるってこと!?」
「論理的に考えればそうなるね。だけど人間には、反応できても体が付いてこれないことだってあるだろう?」
意味深な目線を寄越す一輝に、綾瀬は譫言のように零す。
「まさか──」
「『後の先』を制す。攻撃した直後は必ず無防備だ。その隙を突く技術を絢辻さんは知っているはずだよ」
「もう一度《天衣無縫》をやれって言うのか!?」
絹を裂くような声で叫んだ。トラウマである蔵人の前に立たなくてはならない上に、宿敵にたまたま出来ただけの奥義を再び演じてみせろと言われれば絶叫ものだ。
さすがにステラも無茶振りが過ぎると感じ目線で引き下げるよう訴える。しかし、彼女らの思いを受けてなお一輝は退かなかった。一輝の提案の狙いはそこではないからだ。
「もちろん勝ってこいなんて言うつもりはないさ。《天衣無縫》を体得して挑めなんて言うつもりもないよ」
「だったら……ッ!」
「でも、絢辻さんは
ぴしゃりと叩きつけられた言葉に喉を詰まらせる。
「昨日言ノ葉さんは問題の解決に絢辻さんの気持ちは関係ないと言った。それは間違ってない。だけど
「……当たり前だろう。ボクじゃあいつに逆立ちしたって勝てないんだから」
言葉だけなら開き直ったように思える。しかし彼女の涙の滲んだ目が。食いしばった口元が。シーツに皺を作る手が。その言葉が偽りであることを物語る。
悔しい。死ぬほど悔しい。当たり前だ。出来ることなら自分の手で取り戻したかった。それが叶わないから過ちを犯した。
傷口に塩を塗るような言葉を投げかける一輝の考えが理解できない。蔵人を退治し道場を取り戻す。それでいいじゃないか。奴に勝てないのは仕方のないことなんだから。綾瀬は本気で悩む。
だが、だからこそ。彼女が本気でそう思っているからこそ、一輝は言わなくてはならなかった。
「『誰かに負けるのはいい。いつか勝てばいいんだから。泣いてもいい。また立ち上がればいいんだから』」
「『でも自分にだけは負けちゃいけない』」
「!!」
瞬間、ガッと少女の腕力とは思えないほどの力で胸ぐらを掴み上げられた。息がかかるくらい近い距離で睨みつけてくる眼は恐ろしい光を宿していた。
「イッキ!!」と叫び綾瀬を引き剥がそうとするステラに、一輝は無言で手をかざしそれを拒絶した。
まさに鬼の形相を浮かべる綾瀬。しかし一輝には怯え震える子供が張る虚勢にしか見えない。
これは心の奥底に閉じ込めたモノに触れさせないようにするための精一杯の威嚇だ。もう一度表に出してしまえば地獄のような苦痛を味わうから、触らないでほしいのだ。
それを正確に見抜いた上で
「あんなチンピラに見下されたまま終わっていいの?」
「良い訳が──ッ!!」
「そう!良い訳がない!!」
遂に激昂するかと思われたところを一輝が怒号で塗り潰した。柔和な彼らしからぬそれに綾瀬のみならずステラも度肝を抜かれ、ぽかんと呆ける。
「絢辻さん、あなたは本当に誇り高い人だ。相手に飽きられるほど負けても挑み続けた!信念を曲げてでも自分の力で乗り越えようとした!結果的に間違いを犯してしまったけれど、それを償うだけの誠意と誇りを見せた!」
綾瀬の中途半端に開いた口から声にならぬ吐息が断続的に漏れる。突然の賛辞の嵐を前に戸惑うことしか出来ないからだ。
だが一輝はお構いなしに叫ぶ。叫ばずにはいられない。
「そんな絢辻さんがどうして自分を諦めるんだ!!」
「なっ、なにを」
ようやく絞り出せた声に、ふと一輝は語調を元に戻した。その表情は何かを惜しむような色を浮かべていた。
「あなたは《最後の侍》の剣を手にできたじゃないか。たとえそれが完全から程遠くても、偉大な父の剣術を宿した何よりの証拠じゃないか。それがどれほど凄いことか、父の背を追い続けてきたあなたが一番よく理解しているだろう?どうしてそんな自分を信じてやれないんだ」
涙をこぼすような声音で締めくくった一輝は綾瀬の返事を待った。つかの間の沈黙が病室を支配する。ステラは固唾を飲んで二人を見守っている。
それからポツリと綾瀬が呟いた。
「ボクには父さんのような才能がない」
彼女の胸の奥に封印されていたものは劣等感だった。それは怠けた凡人が天才に抱くような下等な妬みではない。努力を怠らず天才を追い続けたからこそ理解した諦観。非情なる現実が示す理不尽の壁。
「ボクなりに頑張ってきた。父さんの修行にずっと付いて来た。なのに同い年のアイツに手も足も出なかった。年下のキミにも傷一つつけられなかった。同じ時間を過ごしているのに、どうしてここまで差が出来るの?」
ステラは下唇を噛んだ。才能を言い訳に怠けることを唾棄する彼女にとって綾瀬の言い分はいっけんバカらしいことだった。
けれど、内心を語る綾瀬の顔が。手が。その全てが彼女の歩んで来た時間に怠けは無かったことを物語っていた。
それを修行の時間が足りないからだと一蹴することは出来ない。まぎれもない天才であるステラだからこそ、そんなことを言ってはならない。
全員が同じ内容の時間を過ごせば同じだけ成長するだろうか。いや、するはずがない。全員が全員、飲み込みの早さが違うのだから。
歩幅に喩えればわかりやすいだろうか。ある人が一歩で進める距離でも、ある人にとっては二歩必要かもしれない。この歩幅の差は本人の意思でどうにか出来るものじゃない。生まれ落ちたその時に決められたものだ。
そんな誰のせいにも出来ない理不尽を、人は才能と呼ぶのだ。
狂気じみた努力をすればいつか天才に追いつけるかもしれない。けれど、それは本当に遠い未来で起こりうる可能性だ。たった十数年の歳月で埋められる差ではない。天才だって努力しているのだから。
綾瀬の劣等感はつまりこの理不尽なのである。
だからステラは黙るしかない。母国には自分に付いてこれる人は誰一人としていなかった。みんな勤勉に努力していた。けれど、それでもステラには追いつけなかったのだ。だからこそ自分は
助けを乞うようにステラが目線を上げた。そして目を見開く。才能という理不尽を誰よりも理解しているはずの一輝が毅然と綾瀬の顔を見つめ返していたから。なにも気後れするものはないと物語っていた。
──どうして!?それがどれほど残酷なことかアンタが一番わかってるはずじゃない!──
伐刀者として無能のレッテルを貼られた男は、しばらく間を置いてから口を開いた。
「二日前の模擬戦で421敗目になる」
呟かれたその言葉にステラが鋭く息を呑んだ。少し遅れて綾瀬が察し口を押さえた。
「絢辻さんの言う通り、確かに僕には剣術の才能があったかもしれない。そのおかげで選抜戦を勝ち抜けてこれたのかもしれない。けれど、そんな僕でも全く敵わない人がいる。僕よりずっと天才の人がいる」
一輝がとある《七星剣王》と毎日模擬戦を行なっていることを学園内で知らぬ者はいない。そして選抜戦で無双している者とは思えないほどの黒星を重ねていることも。それでも懲りずに挑み続けていることも。
それが今の自分にそっくりだと感じたからこそ、綾瀬は己が失言をしたことを遅まきながらに気づいた。一輝が悲痛な表情とともに訴える理由を悟った。
相手より才能で劣っているから勝てないのは仕方ない。なら負け続けてなお理不尽に立ち向かう一輝は何なんだ?身の程を弁えないバカだとでも言うのか?縮まらない差を埋めようと無駄な努力をしているとでも言うのか?
「ち、違う。黒鉄くん、ボクはそんな意味で言ったんじゃ……っ!」
「わかってる。絢辻さんに悪意がないのはわかってる」
青褪めた綾瀬を宥めた一輝は「でもこれだけは知っていてほしい」と言い聞かせた。
「格下の僕でも一回だけ勝ちをもぎ取ることが出来たんだ。それがまぐれだったとしても、それまでの積み重ねがなければ絶対にもぎ取れなかった1勝なんだ」
綾瀬の味わった絶望は去年の春に経験した。人生を捧げたと言っても過言ではないくらい努力をしてきたのに負けた。
その時ばかりは本気で己の才能の無さに絶望した。今までの努力は無駄だったのかと。何のために努力してきたのかと。
でも違ったのだ。初めから勝てるなら誰も苦労しない。努力すれば負け知らずになれる、なんてことがあるはずがない。
敗北を受け入れ過酷な現実に立ち向かい続けなければ、勝利を手にすることは絶対に叶わないのだ。立ち向かい続けるからこそ手にする権利を得られる。
「積み重ねて、積み重ねて、積み重ねる。それは本当に苦しくて逃げたくなる日々だけど、自分から逃げ続ける人生よりマシさ」
綾瀬が唇を噛む。綾瀬が蔵人に挑み続けたのは、なにも道場を取り戻すためじゃない。もちろんそれが本命だが、それ以前に一人の武人として強者に勝ちたいという本能がざわついていたのだ。
そうでなければ、あそこまで自分一人で解決することに固執することはなかっただろう。
だが敗北を繰り返していくうちに燃え盛っていた本能は磨耗していき、道場を取り戻すという使命感だけで動くようになった。そして過ちを生んだ。
「これは僕のワガママだ。だから無視してくれても構わない。けど、この機を逃したら必ず後悔することになると思う」
本能は擦り切れた。けれど死んではいない。少し息を吹きかけてやれば消し飛ぶくらいか細いけれど、ギリギリのところで火を紡いでいる。
一度息絶えたら二度と蘇らない。一生才能を言い訳にして逃げ続ける運命を辿る。今ここが分水嶺なのだ。
他ならぬ本能で感じ取った綾瀬は深く、そして長い吐息を繰り返した。
それは断崖絶壁から飛び降りようとする人のように見えた。
それは灰になりかけの炎を必死に熾そうとする人のように見えた。
綾瀬は父の教えを思い出していた。絢辻の剣は守る剣である。これが絢辻流の信念であり、真髄だと。
しかし父はこうも言っていた。
『常に虚心を心掛けろ。己に強くなれ。自分一人に勝てない輩が誰かを守ることはできん』
目先の信念ばかりに気を取られて忘れていたことだった。目先の現実に屈して目を逸らしていたことだった。
だけど今は違う。教えを思い出した。現実に向き合った。
ならば踏み出すだけだ。絢辻の名に恥じぬ生き方をするために。
顔を起こした綾瀬の瞳に炎が宿っていた。