黒髪少女帝都奇譚 作:黒髪少女
美弥と取り留めの無い会話を交わしながらしばらく路面電車に揺られていると、車窓を流れる街並みが次第次第に『浅草の色』を帯びていくのが見える。
赤、青、黄、緑……道に沿うようにして立ち並ぶ、原色の絵の具をぶちまけたような極彩色の幟。けばけばしくて毒々しくて、それなのに何故か心のどこかを妖しく高揚させるそれらには、浅草六区にある劇場やキネマの名前が大書され広告されている。それがずっと向こう、浅草寺の辺りまで続いているのである。
浅草寺から幾分か離れた場所にある浅草橋でこうなのだ。無論、浅草寺の方に近づけば近づく程にそれらの本数も彩りも、そして人の数もどんどんと増えていく。
「どうせなら今度は六区まで足を伸ばして、キネマでも見たいわ。ねぇ、美弥?」
浅草橋の最寄の停留場に、私達が人の流れに押されるようにして電車を降りた時には、既にすこし日も傾き始めた頃であった。
先に電車を降りた私がそう首を傾げて見せると、美弥は電車から降りる足を止めて、ふるふると小さく首を振ってみせる。
「私達だけでだなんて……そんなのあぶないわ、左記子さん」
「ここもそう六区と距離は変わらないと思うのだけれど。……そうね、今度はあそこでやるような占いを探しておく事にしましょう」
美弥の後ろにいる紳士風の男性がわざとらしく咳払いする姿を見て、私は苦笑しながら彼女の手をとって電車を降りさせる。
浅草橋はまさに『浅草の玄関口』とも言うべき場所であろう。
路面電車、バス、タクシー。それらでここへと集った人々は一様にして浅草寺の方へと向かって足を向けるのである。
……それにしても、なるほど。
美弥の説明のとおり『雑多な人の通り』が橋占に重要な意味を持つのならば、これほど適した場所というのもないかもしれない。こうして人の流れを見ているだけでも、これほど帝都には多種様々な人間達が住んでいるものかとあらためて驚かされるようである。
そろそろ夕刻を迎えるこの時間帯には六区の客層の入れ替わりが起こると見えて、家族連れのような人々が浅草寺の方から帰ってくる代わりに、こちら側からは学生風の若い男性の一団などが声高に演劇論を語り合いながらぞろぞろと歩いていったりもする。身なりの良い紳士風の男もいれば、乞食同然の格好をした男もいるし、着物姿の老婆が杖をついているかと思えば、その隣を歩くモガ風の若い女が通りすがる男に妖しい流し目を送っていたりもする。
さて、そんな風景を横目にしながら私達はほどなくして、浅草橋にある『浅草橋』の袂へと立っていた。
浅草橋の『浅草橋』……こう書くとなんとも分かりづらいとは思われるのだが、ここの地名がこの橋からとられているので致し方あるまい。
「──それじゃあ、私は橋占に行きますけれど……やっぱり、左記子さんもご一緒なさればいいのに」
美弥は一人になる私を気遣ってくれてか、そう何度も誘ってくれたのだが、私はやんわりと頭を振ってそれを遠慮する。
「悪い結果が出たら怖いですもの。それに私も私で『怨霊』探しに精を出したいですし」
そんな冗談めかした私の言葉に、美弥はくすりと愛らしい微笑みを浮かべ。そして「それではまた後で」と言い残して、橋の中ほどへと向かって歩いていった。
ちなみに橋占とは、美弥の説明によると辻占の一種というか派生のようなものらしい。まじないにとんと明るくない私からすると、そもそも辻占とはなんだという話になるのだがそれは置いておくとして。橋占は人々の往来のある橋の上に立ち、深く目を閉じて胸の中で占いたい事柄の答えを『何者か』に問いかける。そして、問いかけた後は橋の上で交わされる人々の言葉にじっと耳を傾けるわけであるが、そこで『偶然』聞こえた言葉こそ問いかけの答えになるというものだそうな。
……まじないを信じない者からすると「そんなもの占っている者の気分次第ではないか」とも思えるのだが、端から占いというものはそういうものなのかもしれない。
「……私はどうしようかしら」
さて、橋占へと向かう彼女の背を見送ってしまうと、私は途端に手持ち無沙汰になってしまった。
こんな事を書くと「つい今しがた怨霊を探すのだと言ったばかりではないか」と思われてしまうのだろうけれど、実を言うとその時にはすでに、私の『浅草橋の怨霊』への興味はすっかり萎えてしまっていたのである。
いつまでもその場に突っ立っていては往来の邪魔になろうということで、私は当て所も無く橋の袂から川沿いに歩きだす。そして、袂から程ない場所にある柳の木陰に入ると浅草橋を見やった。
そこには沢山の人の往来を上に、真新しい金属の橋が無骨な姿を晒している。
──大正12年の震災。その復興事業の一つとして、浅草橋が架け変わったのは今年の事である。架け変わる前の橋がどういう姿であったかは私も見た事がないのでよくは知らないのだが、以前のものとはずいぶんと形が違うそうで、現在の姿は鋼鉄製のいかにも近代的な造りをしたものだった。
私も浅草橋が架け変わったという事は知っていたし、遠目に見たこともあったのだが、こうしてあらためて目の当たりにしてしまうと「怨霊を一目見てやろう」などという気持ちは瞬く間にしぼんでしまったのである。
まず、この橋にはそんな『雰囲気』が無い。
とかく幽霊の類が出るという場所にはそれらしい陰鬱さというものがあるそうだが、装飾も何もなくただ用途を満たせば良いとでも言いたげなお役人のぶっきらぼうさを感じるこの橋には、そんなものは微塵も感じられないのである。
それどころか……いや、普通の人にとっては当然というべきかもしれないが、橋上を渡りながらもこの橋自体に関心を持つ人はなさそうで、ここで本当に情人の自殺があったのかさえ疑わしく思われてくるほどである。無論、『怪危』などという四流雑誌の記事ゆえ出鱈目な作り話だったのかもしれないが、そもそも哀れな情人の死など、橋上を通る人々達にとっては取るに足らない話だったというだけかもしれない。
大勢の人々が渡るこの橋の下で、誰にも気づかれる事無く、首を吊った女の死体が風に吹かれて揺られている。
私は橋の全体を眺めながらぼんやりとそんな光景を想像し、何かうすら寒いものを感じて足元へと視線を落とした。
「……あら?」
そこではじめて私は、足元に変わった物があることに気づいたのである。
それは柳の木に寄り添うようにしてあり、見ようによってはとても小さな地蔵堂のようにも見える。ただずいぶんと長いこと放っておかれていると見えて、すっかり朽ち果て、今にも崩れてしまいそうな様子であった。
私は興味を惹かれその場にしゃがみこみむと、試しにその朽ち果てた物の中を覗いてみる。外の崩れ具合と同じ様に内も相当に酷い有様だったことは言う間でも無く、誰かに移されたのか持っていかれたのか定かではないが、仏像などが御安置されている様でもなかった。かろうじて形を残した堂の格子扉の奥に、破れた後ろ板の合間から浅草橋と神田川が見えるばかりである。
──これは……なんなのかしら?
「それは『橋姫』を祀っていた祠」
何の脈絡も無く背後から聞こえた声。
その声に、私は思わずどきりと身を竦ませた。それには、聞こえてきた声がまるで私の心の内を読んだようなものだったということもあるが、それ以上に、背後から体の中にするりと手を差し込まれたような奇妙な感触がその声にあったからだ。
「……橋姫?」
一瞬、薄気味の悪さにこのままずっと振り向かずにいようかとも考えられたが、いつまでも謎の声の主を背後にしている方がよほど居心地が悪いと思いなおして、私は謎の声が口にした聞きなれぬ単語を反芻しながら後ろへと振りかえる。
さて、あの時の事をこうして思い出すに。
我が事ながら、当時はよく悲鳴を上げなかったものだと感心してしまう。……たとえ驚きの余りにそのまま、どしっと尻餅をついてしまったとしてもだ。
黒い穴が二つ、私の事ををじっと見つめていた。
始めは真っ白なその顔に目玉の無い真っ黒な眼窩が開いている様に見え「ついに怨霊を見たか」と体の奥底から怖気に震えるようであったが、しかし、よくよく見るとそれが白い厚手の布で出来た覆面で、黒い穴は単なる覗き穴だと知れると私は幾らかホッとしたような気分になった。もっとも、それが逆にこの『怪人』が現実のものであるという事実となり、その不気味さにリアリティも加わって、いよいよ私は尻餅をついたままの身体を強張らせることになる。
だが、この覆面の怪人はそんな私の事などお構いなしに話を続ける。
「橋姫は現世と幽世を繋ぐ道の管理者……ずっと昔にはどの橋にも橋姫がいた」
この怪人──見た目には私とそう歳の変わらない少女のようにも思えるが、その華奢な体つきからするともう少し年は下なのかもしれない。黒いセーラーの袖口から見える小さな手は、その顔につけた覆面よりも白く透き通るようであった。
「……その口振りですと、今は違いますの?」
幾らか落ち着いてくると私はこの少女の話にすこしばかりの興味を抱き、そう問いかけてみる。少女は私の言葉にこくりと頷くと、私の隣へとやってきて浅草橋の方へと顔を向けた。
私はと言えば、自身の隣へとやってきた少女に思わず眉根を顰めてしまう。
それは素性の知れぬ怪しげな少女に並ばれた嫌悪感があったとかそういう話ではなく、単純に彼女の体から発せられる臭いがひどいものだったからだ。ここでいう臭いとは比喩的表現でもなんでもなく、そのものずばりのことである。
彼女からは獣の様な強い臭いが漂っていた。
「……ほとんどの橋姫は長い時間の中で人に捨てられ、忘れられ、消えていった。……ここの橋姫だって、そう。ずっと昔には名前だってあったのだけれど、もう残っているのは残骸だけ。ちょうど、そんな風に」
「……残骸?」
少女はつと私の傍にある、あの朽ちたものを指差してそう呟いた。私は顰めた眉根を見られぬ様にその指先の方へと振り向くようにして顔を背けたが、すぐに少女の言葉に引っかかりを感じて首をかしげる。
一体、橋姫などという守り神の一種のようなモノの残骸とは何なのか。
これについても答えてくれるのかと期待したが、少女はすでに浅草橋の方へと顔を向けなおしていて何も語ってくれず、何かをじっと見つめているようであった。
私もつられる様にして、その方へと視線を向ける。
「……美弥?」
少女の視線の先にあったもの。それは紛れも無く、私の親友こと白木 美弥の後ろ姿であった。
美弥はまだ橋占の最中と見えて、橋のちょうど中央に位置する辺りの欄干に背を預けるようにして立っていた。
「あの娘がやっている橋占、あれは決して出鱈目で生まれた遊びなんかじゃない。あれは幽世からの声を聞くための一種の交霊……あの子が幽世を覗こうとするように、向こうからもこちらを覗いているモノがいるの」
私は再びどきりとして、少女へと顔を向ける。
まるでこの少女……美弥がここに何をしにきたか最初から知っているような口ぶりをする。もしかすると、千疋屋で私達の話を聞いて、ずっと後をつけてきていたとでも言うのだろうか。
そんなことを考えている内に、この目の前にいる少女への不信感と不気味さがどんどんと私の中で膨れ上がっていくようであった。
「ほら……見つかってしまった」
疑心暗鬼の堂々巡りの中にいた私を、少女の声が現実へと引き戻す。
少女の顔は美弥の方へと向けられたままであった。何か嫌なものを感じた私は、その胸騒ぎに引っ張られるようにして美弥の方へと顔を向ける。
……私は思わず息を呑んだ。
そこには先程と変わらずに美弥の後姿が見えていたのだが、そこから橋の中央へ向かった辺りに得体の知れぬ者が立っていたのである。
それを一言で表現するならば『鬼』という他なかった。
苦悶と怨嗟に、鬱血し膨らんだ顔は醜く歪み。身に纏った色艶やかな着物には帯が無く、大きくその前が肌蹴ていた。
視線を上の方へと向ければ、その首には何か長い物が深々と食い込むように巻きついていて、まるで尻尾のようにそれをずるずると地面に引きずっていて……果たして、それが着物の帯だと分かった瞬間、私は私がここに訪れた理由を思い出したのである。
『浅草橋に情人の怨霊』
私の目の前に現れたあれこそ、私の想像していたモノであり、正しく怨霊に違いあるまいと私は確信した。
その怨霊がぎくしゃくとしたぎこちない歩みで、美弥へと真っ直ぐ向かっていくのである。
「このままでは、いけないわ。早くあの娘を、助けてあげないと」
少女の声が囁くようにして私の耳元で聞こえた。
無論、私もそうしなければと心の中では思っている。思ってはいるのだが、何故か私の体はそこに射すくめられたようにして立ち止まったままで、ただただ呆けたように美弥と彼女に近づく怨霊の姿とを言葉を発する事もできずに見つめていることしか出来なかったのである。
奇妙な事に、あれほどはっきりとした姿を現しているのだが、橋を行く人にはその怨霊は見えぬらしい。美弥も橋占に夢中なのか、もしくは他の人と同様に見えていないのか、その場から逃げる気配もない。
いよいよもって私がどうにかするしかない。
なんとか声だけでも発そうとするのだが、すっかり乾いてしまったかのような喉からは、荒く掠れた吐息が漏れ出るばかりである。
そうこうしている内に、ついに怨霊が美弥の前へと辿り着いてしまった。
腕を伸ばせば届いてしまう距離であり、事実、怨霊は怨めしそうな表情をしながらその両腕を美弥子の細い首へと伸ばそうとしていた。
──ああ、いけない。
その光景をどうすることも出来ずに眺めながら、私は酸欠に陥った者のように周りの景色がぐるぐると回転しているような感覚に陥っていた。
このまま私は昏倒してしまうのかもしれない……そんな考えが脳裏に過ぎった時である。
ぱん、と誰かが拍手を打つような乾いた音が聞こえ。
「──美弥!」
その途端に私はそれまで身体を支配していた全ての戒めから解放されたかのように、美弥の名を叫んでいたのである。
だが、時はすでに遅かったのかもしれない。
私が美弥の名を呼んだ時、欄干にあった彼女の体は大きく後ろへと仰け反っていて。
それ以上、私が彼女の名を呼ぶことも悲鳴を上げる暇さえも無く、欄干を越えた美弥の体は神田川の流れの中へと頭から吸い込まれるようにして落下してしまっていたのである。
怨霊と違い、女学生が橋から落ちた姿と水に落ちた音は聞こえたらしく、途端に橋上には人の群が集まりだしていた。
私がどうにかしなければいけない。
そんな思いに囚われ駆け出した私は、相当に気が動転してしまっていたらしい。
すぐさま胸のリボンに手をかけると、川へと飛び込む為にセーラーをその場に脱ぎ捨てようとしていた。だが、それは突然胸元へと飛んで来た衣服の塊によって静止される。
思わず反射的に抱きとめたそれはカーキ色の上着で、お香が焚き染められたような甘い香りがした。
「不躾に失敬! 僕の制服、よろしくお願いする!」
まさに『颯爽に』とかいう言葉は、ああいう姿を言うのだろう。
私の隣を駆け抜け、カーキ色の上着とそんな言葉だけを残した青年が、勢いよく川の中へと頭から飛び込んでいく。
橋の上から「軍人さんが飛び込んだぞ」等という声が聞こえてきて、私はそこではじめてあの青年が軍人であることを知った。
美弥と軍人、二人の姿が水中へと消えてどれほどの時が過ぎたのか。
私にはその間の事が、五分にも十分にも感じられたものだが、無論、それほど長い時をかけて人が潜っていられるわけもなく、本当のところは一分もかかってはいなかったのかもしれない。
ざばり、と。
水面へと現れた軍人の傍らには、ぐったりとした美弥の姿があった。陸の上からではぴくりとも動く様子が見えず、私は「間に合わなかったのでは」と目の前が真っ暗になるようであった。
軍人はそのまま美弥の身体を抱えるようにしたまま、器用に私がいる対岸の川の上がり口まで泳いでいく。私もどうしていいのか分からぬまま、その姿を追って駆け出していた。
対岸の上がり口に私が着いた時には、すでに人の群で垣根ができているほどであったが、私が美弥の名を呼ばわりながらその群の中へと無理矢理に押し入っていくと関係者だと分かってもらえたらしく、程なくして彼女とあの軍人の前へと辿り着くことができた。
「大丈夫。落ちた時に気を失ったせいか、ほとんど水は飲んでいないみたいだよ。息もちゃんとしている」
ちょうど軍人は野次馬から受け取った手拭で顔を拭いているところであったが、不安げな表情を浮かべていた様子の私を察してか、ことさら明るく屈託の無い笑みを浮かべてくれたらしい。
「よかった……」
美弥の傍にしゃがみこむと、私は彼女の頬へと手を伸ばす。
掌からはほんのりと彼女の体温が伝わってきて、私はさらに安堵の吐息を零した。
「あの……なんとお礼を言っていいのか」
「なに、気にしないでくれたまえ。もう少しやりようも……いや、当然の事をしたまでだよ」
──今にして思い返せば、その時の軍人の言葉には何事か言いかけてそれを飲み込んだ様なところがあったのだが。当時の私は、美弥が無事だった事に心底から安堵しきっていたてそれに気づく事はなかった。
「ぜひ、後ほどお礼を」
そうこちらから名前を伺いもしたのだが、潔いほどにそれを遠慮した軍人の青年は、私から上着を受け取ると一礼だけを残してその場を去っていってしまった。
後には美弥と私と、野次馬の群だけが残される形となった。
それからの事はあまりにもどたばたとしていて、私もあまり仔細な記憶は残っていない。
周りから「近くの病院へ運んでやろう」と学生風の一団などが申し出てくれて、私はそれに感謝の言葉を述べながら頭を下げたりしていたばかりである。
その時、ふと感じた視線に私は橋上へと目を向けた。
そこにはすでに怨霊の姿はなかったのだが、代わりにあの少女が覆面に開いた黒い穴からこちらをじっと見つめているのが見えた。そして、こちらが「あっ」と声を上げる間もなく、その姿は橋上の雑踏の中に消えてしまったのである。
──彼女は『何か』知っているのではないかしら。
『何か』とは私にも漠然としたものであるのだが、あの覆面の少女こそ、今日の騒動の原因を知る為の手がかりなのに違いない……そんな思いを胸中で渦巻かせながら、私は少女の消えた人の流れを見つめ続けていた。
皆様に読んでいただけるか不安でしたが、お気に入り登録までしていただいた方もいらっしゃったりで……本当にありがとうございます。
今後ともお付き合いいただけましたら幸いでございます。