立教大学は、いつものように早朝のチャイムを鳴らした。
すでに廊下には生徒はおらず、みな各自の教室にいる中、田所だけは黒く鍛え抜かれた体を揺らしながら廊下を走っていた。
自分の教室を見つけ、ドアを開けたと同時にチャイムは止まる。
教室内の全員の視線が田所に集中している中、教卓にいる教師が言う。
「はい田所、遅刻だ」
「え、ちょっと待ってくださいよ」慌てて田所は返す「まだ点呼もやってない、ぎりぎりセーフってことにしてください」
教師はあきれた様子で首を振る。
「駄目だ。チャイムが終わるまでに着席してれば出席、それ以外は遅刻だ」
「お願いします、今日、遅刻にされると……」
「そうだ、今日で遅刻三回目、罰として2000字のレポート提出だ」
「そんなぁ」
「何がそんなぁだ。二回目の遅刻の時に口酸っぱく言ってやったはずだ、次はペナルティだってな」
「いや、そうですけど」
「だったら黙って座れ」
「でも」
「でももくそもない」しつこい田所に少し口調を強くして言う。「これ以上、言い訳を続けるなら3000字に増やすぞ。学校が決めたルールなんだ、黙って従え」
それを聞いた田所はしぶしぶといった様子で、席にむかうと「何がルールだ」と小さくつぶやきながら椅子に座った。
大学から駅までの帰り道、同じ空手部である先輩の三浦、後輩の木村の三人で歩いていると一人だけ自転車を押して歩く木村は田所に言った。
「それは先輩が悪いですよ」
「ええ、だってほんのちょっと遅れただけなんだぜ。ちょっとぐらいサービスしてくれてもいいじゃん」
「そんなの先生が決めることですし、そもそも2回遅刻してる時点で、ちゃんと余裕をもって学校に来ないと」
「でも2000字のレポートはないだろ、面倒くさい」
「ルールですから」
「じゃあ木村はルールに死ねって書いてたら死ぬのかよ」
「いや、そういう話じゃ」
気の弱い木村が口ごもっていると、三浦が言う。
「死ぬゾ」
その言葉に、田所は食って掛かる。
「は?絶対に嘘っすね」
「嘘じゃないゾ、実際に死刑って言われて人間はみんな死んでるし、俺も死刑になったら、しかたないから死ぬゾ。それはルールだからだゾ」
「じゃあ三浦は、遅刻三回で死ねって言われたら死ぬんっすか?」
三浦は強く首を振る。
「嫌だゾ、そんなことで死にたくないゾ」
「ほら、やっぱり死なないんじゃないっすか」
「あ、そっかぁ……俺がバカだったゾ」
「なんか話がそれてる気が」
木村が怪訝そうな表情でそう言うと、ちょうど駅に着き、木村は自転車に乗ると手を振りながら離れていく。
「じゃあ、また明日」
同じく、三浦も離れた。
「またゾ」
「おつかれっす」
田所はそう言って二人を見送ると、改札へと入っていく。電車に乗り、自宅近くの駅を降りると、あたりは薄暗くなっていた。
「ルール……ルールねぇ」
一人ポケットに手を入れながらつぶやく。
「そんな面倒くさいルール必要かね、別に授業遅れてもいいじゃん、遅れた奴は途中から参加すればいいんだし」
「そんなにルール嫌いなの?」
不意に後ろから声がして、振り向くとそこには金髪で色黒のいかにもチャラそうな男が立っていた。
「おお!」
田所は叫び、驚きながら後ずさると、男は白い歯を見せた。
「ああ、悪い悪い。驚かせちゃった」
「え……な、なんっすか」
「いやぁ、ルールがどうのって聞こえてね、嫌いなの?ルール」
「いや、まあ嫌いっすね」
「でもさ、ルールないと色々面倒になるよ」
「そうっすかね、俺にとってはある方が面倒なんで」
「へ―そうなんだ、じゃあこれ」男は右手を出した。「あげるよ」
先ほどまで何もなかったかのように見えた右手には、本があった。表紙には”世界”と書かれてある。
田所は戸惑いながら言う。
「え、なんっすかそれ」
「ん、まあルールブック」
「ルールブック?」
「うん、知らないの?いろんな規則が載ってんだよ」
「嫌それは知ってっすけど」田所はそのルールブックを手に取った。「世界って……これってどういう――」
視線を男に移したが、男はすでに消えていた。
「え?あれ」
周囲を見渡しても、男の姿はない。音もなく、忽然と消えてしまった。
「な……何だったんだ」
田所は手にあるルールブックを見る。
「世界の……ルールブック?」
自分の部屋に入ると、椅子に座りカバンからルールブックを出して机の上に置いき、静かにそれを見つめた。
突然現れて消えた男からもらったそれは、どこか怪しい匂いがした。
恐る恐る、表紙を手に取って開くと、白紙が見えた。
「へ?」
拍子抜けた言葉が口からでる。次をめくるが、同じく白紙。さらにめくっていくが、何も書いてあるページはなかった。
「プ、ハハ」気が抜けた笑いが出ると、椅子にもたれかかる「なーんも書いてないじゃん。ちょっとビビッて損した……あ、もしかしてあれか、この世界のルールは君が決める!みたいなやつかな。ハハ、くっだらねぇ」
数秒それを見つめていると、ふとくだらない考えが浮かんだ。
バックから筆箱をだし、シャープペンシルを取ると、白紙の一ページに文字を書いていく。
田所浩二は遅刻してもよい。
そう書いて文字を見つめた。
「なんつって……ハ」
田所は本を閉じると、ゴミ箱に投げ入れた。
いつものように、立教大学は早朝のチャイムを鳴らし。田所も昨日と同じように、廊下を走っていた。
今度の教師はシャレにならなかった。
少し高齢の教師で、次の遅刻したらレポート7000字だと釘を打たれている相手だった。
間に合えと祈りながら走っていたが、扉を手にかけた瞬間、チャイムが止まり同時に田所も止まる。
目を閉じて息を吸い、覚悟を決めてドアを開くとすぐに教師と目が合った。
「田所か」
教師がそう言うと、田所は小さくうなずいて返す。
「は、はい」
「そうか……席に座れ」
「え?」驚いた様子で田所は聞く。「えっと、あの、先生?」
「なんだ」
「えっと……レポートとかって」
「なーに言っとる」教師は当然のように言う。「お前は遅刻してもいいんだろうが」
理解が追い付かず、茫然としていると、後ろから別の生徒が入ってくると突然、教師が叫んだ。
「新庄!今日で3度目の遅刻だぞ」
新庄は頭を掻いて言う。
「あ、いや……すいません」
「レポート5000字、今日中だ。座れ」
「はぁ……はいーっす」
新庄が席に向かうと、立ち尽くしている田所に教師が言う。
「何してる、座れ」
「あ」ハッとして我に返った田所は聞く。「いや、あの先生」
「なんだ」
「えっと、聞きたいんっすけど……俺って遅刻していいんですか」
「当たり前だろう、そういうルールなんだ」
大学が終わって部活を適当な理由でさぼり、家に帰ると田所は一目散に自分の部屋のゴミ箱をあさった。
すぐにルールブックは見つかった。
取り上げ中を開くと、昨日、書いた自分の文字があった。
「嘘だろ……もしかしてこれ」
自分のほほを強くつねる。
痛い。夢じゃない。
興奮気味になりながら、ルールブックを机の上に置くと、筆箱を出してシャープペンシル取った。
とりあえず何かを書こうと思ったが、何も思いつくことがない。
「なんか、とりあえず何かを……そうだ」
手早く字を書く。
田所浩二はいつでも男のケツを触ってもよい。
息を荒げながらその文字を見る。
「これで……本当に?」
立ち上がり、家から出ると取りあえずイケメンを探した。
すぐに近くのコンビニ近くで、イケメンとまではいかないが悪くない顔の男が見えた。
足早に後ろまで近づくと、歩幅をあわせた。
本当に、マジでいけるのか。
半信半疑ながらも、2回、深呼吸をした後、覚悟を決めケツを右手で思い切りわし掴みにした。
男は足を止め肩を飛び上がらせると、ゆっくりと後ろを向き、田所と目を合わせた。
「何か」
田所が恐る恐るそう言うと、男は一瞬考えたそぶりを見せた後、首を横に振った。
「いや、あの……あ、歩いてもいいですか?急いでるんで」
「ああ、いいよ」
男が歩き出すと田所もケツから手を離さず、ついて歩く。
やっぱりそうだ……あの本は。
ケツから手を離すと、男は何も言わず逃げるように走り出した。その背中を見ながら、田所は肩を揺らして笑う。
やった、あの本、本物だ。そして俺がこの世界の……。
「ルールブックだ」
下北沢市民プールでは、大学生水泳大会の県予選を行っていた。
決勝、六名の大学生がプールサイドに立ち、笛の音を合図に飛び込む。
全員が一列になり一進一退の攻防を見せるかと思われたが、3コースにいる田所だけがほかの選手を軽々と抜き去り、一人独走状態となった。
その状態を保ち、そのまま壁にタッチしプールから上がると、水泳部の遠野が近づいてきた。
「すごいですよ先輩、空手部なのに世界記録ですよ!」
田所は照れた様子で頭を掻く。
「いやぁ、たいしたことないよ」
「何言ってるんですか、こんなの普通じゃあり得ませんよ。次のオリンピック金メダル狙えますよ、最小年齢での金ですよ!」
「そうかなぁ、俺ってそんなに天才かなぁ」
「天才も天才、いやもはや神様ですよ」
「クソ」
第二コースの選手が悪態をつきながらプールから上がると、チームメイトが近づいてきた。
「よお、惜しかったな。でも2位だ、よくやったよ」
「今年が最後だぞ、2位も6位も変わんねぇよ。それに」選手はフィンのついた田所の足を見る。「あんなのつけられたんじゃ、勝てるもんも勝てねぇよ」
「まあ、仕方ないさ。それがルールなんだから」
田所浩二は水泳大会でフィンをつけてもよい。
田所はコンビニに入ると籠を持ち、棚を回りながらとりあえず自分が欲しい物を全部入れていく。
籠がパンパンになると、店員の前に立って言う。
「じゃあ、俺これもらっていくから」
店員は苦笑いをしながら軽く頭を下げる。
「は、はい。ありがとうございました」
「またくるね」
田所はそう言うと、そのままコンビニを出た。
田所浩二は買い物する際、金を払わなくてもよい。
「田所くんおはよう!」
「田所先輩おはようございます」
「田所さんおはよう」
校門をくぐるや周りの生徒たちが田所を囲い、話しかける。
その中央で田所はまんざらでもない表情で皆に手を振る。
「いやー参った、みんな元気だなあ」
田所浩二は立教大学において人気者であり、みな見かけたら話しかけなくてはいけない。
授業中、田所は三つ前の席に座る鼻の高いイケメンを見つめていた。
チャイムがなるとすぐに立ち上がり、イケメンの肩に手を置く。
「君」
イケメンは不思議そうに田所の顔を見る。
「はい」
「今日、俺の家に来てくれない」
「え、い……いや」
青くなったイケメンの顔を見ながら田所は聞く。
「何、なんかある?」
「いや、何もないです」
「じゃあ、授業終わりに校門前で待ってて」
イケメンは眉を寄せてうなずく。
「は、はい」
田所浩二の誘いにはいかなる理由があれど断ってはならない。
寝ている田所浩二を起こしてはならない。
田所浩二の部屋には本人の許可がない限り、入ってはならない
田所浩二は犯罪行為を犯しても罰せられることはない。
田所浩二のテストは100点にしなくてはならない。
田所浩二は――。
幸せだった。
うまくいかないことは何もない、すべて自分の思いどおりにいく。それもそのはず、彼女はルールブックなのだから。
前々から狙っていた遠野も昏睡レイプをした挙句、無理やり恋人関係にした。大学のテストも評価も毎回満点。
田所はベッドの上で天井を見上げ、遠野へのラインの返信を待ちながら一人微笑んでいた。
次は何のルールを追加しようか。そう思っていると不意にスマートフォンがなる。
遠野からかと思って手に取ると、それは別の男からの電話だった。
少し落ち込んだ後、通話ボタンを押して耳に当てる。
「はい」
「もしもし、3年の波多野です。田所様ですか」
ルールですべての人間は田所には敬語で話し、名前の最後に様をつけるようにさせてある。
「ああ、そうだけど」
「えっと、電話しました」
意味が分からず首をかしげる。
「は?何か用事があるんじゃないのか」
「いや、電話するルールなので」
「ルール?」
「はい、田所様から話しかけられたらその晩、電話しなくてはいけないと」
「そんなのあったんだ」
「はい……もう切っても――」
波多野が言い切る前に電話を切ると、田所はルールブックをカバンから出して中を見た。
よく読めない字で数え切れないルールを書いているので、何が何だかわからない。
「そんなルール書いたかなぁ」
そう呟くとラインが来た。
「お、やっとか」
スマートフォンを確認すると、それは遠野からではなくまた別の男からだった。
清野です、ルールの通り連絡しました。
と書かれていた。
「またか、何のルールだよ」
スマートフォンをベッドの上に投げると、部屋のドアをノックする音が聞えた。
「田所様」ドアの向こうから母親の声がした。「花束とテレビと……あと家具が送られてきてますが」
定期的に送られてくる物だった。どういうルールにしたか思い出せないので、どんな頻度でどんなものが来るかも分からない。
田所は言う。
「全部処分しといて」
「え、いいんですか」
「ああ、いいよ」
「あと、男性の客人が3人ほどいらしているんですが」
ふと定期的に乱交パーティーをするルールを思い出した。こちらもいつ来るようにしたのか分からない。
今は遠野一筋だし、そんな気分でもない。
「帰らせてくれ」
「でも、顔も合わせず返すのは」
「言いから返せ!」
田所が声を荒げると、母は何も言わずドアの前から離れた。
「はあ、面倒くさい」
ため息をついて椅子に座ると、スマートフォンがなりベッドの上にあるそれを見た。
今度は誰からだ。
そう思っていると、間髪入れずに何度もスマートフォンがなる。
「ああ、もう!」
スマートフォンを手に取り通話ボタンを押して耳に当てて言う。
「なんだ!」
「あ、いや。ルールで」
相手が戸惑った様子で言うと、田所は声を荒げて返す。
「もうルールとかいい!電話してくるな!」
「ですけど、ルールですから」
「俺が命令してるんだ、俺の命令は断れないんだろ!」
「その通りですけど、ルールは絶対なんで」
「ルールは絶対?」
「はい」
「クソ!」
電話を切り、電源を落としてその辺に投げると、田所は頭を抱えた。
「どういうことなんだ、後から書いたルールが優先されるのか……はあ、面倒くさい」
田所はルールブックを机の上において、またシャープペンシルを握った。
そこに”田所浩二の電話には遠野以外、通信してはならない”と書こうと思ったがすぐに手を止める。
そんなことを書けば、色々重要な電話が来なくなってしまうかもしれない。
「あいつらを止める方法……方法は……ああ、もう!」
田所浩二にルールは適応されない。
殴り書きでそう書くと、ルールブックを閉じた。
また一からルールを書き直さなくてはいけなくなるが、とりあえず今はこれでいい。
急にどっと疲れが押し寄せると、風呂にはいろうと部屋を出て脱衣所に向かった。
服を脱いで熱いお湯にしっかりとつかり、体を洗い風呂を終えて部屋に戻ると、どこか違和感を覚えた。
なんだか小奇麗になっている気がする。
そう思ったが、特に気にすることもなくベッドに入ってすぐに眠りについた。
朝、目が覚め時計を見ると、いつも通り1限目はすでに始まっている時間だった。
そんなことは意に返さず、田所は起き上がり机に座った。
今の田所はいかなるルールにも適応されない。学校に行くのは、昨日消してしまった便利なルールを書く作業を終えてからでよかった。
そもそも学校へ行く必要もないかもしれない。
そんなことを考えながらバックの中からルールブックをだそうと中をのぞき着こむが、そこにルールブックは見当たらない。
「あれ、どこいった」
すぐに昨日のことを思い出す。
ルールブックは新しく書き込んだ後、机の上に置きっぱなしであった。だが、風呂からあがったときには――。
「なかった……あれ、なんで……あ」
すぐに立ち上がり、部屋を出て母がいるリビングに走った。
見ると母は洗い物をしていた。
「おいババア!」
田所が叫ぶと、不意なことに驚いた様子で母が返す。
「え、何」
「昨日、俺が風呂に入ったときに部屋入ったな!」
「ええ、最近掃除してなかったから」
「なんで俺の許可なく入ってるんだよ!」
「あんたの部屋入るのに許可なんて取らないよ」
「あ、クッソそうか。ルールはなくなったんだった。まあいい、昨日、机の上に置いてた本があったはずだけど、それはどこへやったんだよ!」
「本」母は首をかしげる。「さあ、そんなのあったかしら」
「あったんだよ!どこへやった」
「うーん、思い出せないわ。捨てちゃったのかも」
「捨て……」
思わず言葉を失った。
あれがなくなった生活なんて考えられない。
「ふざけんなよババア!」
田所は母をにらみつけて叫ぶと、母もにらみ返してきた。
「何よ、あんたさっきからババアババアって」
「ババアはババアだろ、余計なことしやがって」
「あんたねぇ」
「もういい!」
田所はそう言って踵を返した。
取りあえずゴミ捨て場に行こうと思い、玄関で靴を履はいてドアを開けると後ろから母の声がしたが、無視してそのまま家を出た。
「あ、ちょっと待――」
母は田所を呼び止めたが、聞こえていなかったのかそのまま行ってしまった。
「行っちゃったわ、もう」
母はキッチンに戻ると、右手に持っていた包丁を元あった場所に戻した。
クソ、クソ、クソ。
田所は心の中で何度も唱えながら、道を歩いていた。
ゴミ捨て場に行き、すべてのごみ袋の中を探しては見たものの、ルールブックは見つからなかった。
「あれがなきゃ、あれがなきゃ……クソ!どうすればいい、ゴミ収集車を探すか?」
「せんぱーい」
声がして足を止めると、数メートル先に木村が自転車に乗ってこちらに来るのが見えた。
「木村、なんでこんなところに」
木村は田所の前に来ると、自転車から降りる。
「探しましたよ先輩」
「なんだよ、何の用だ」
田所は機嫌の悪さを隠さずに聞く。
「いやぁ、実はですね、あれを見てください」
そう言って木村が田所の後ろの空を指さした。
「あれ?」
何かと思い後ろを振り向く。
特に何もない空が見えた。
何もないじゃねぇか。
そう思った瞬間、後頭部に激痛が走った。
脳が揺れ耳鳴りを起こすと、足から力が抜け膝をつく。
頭を抱えながら後ろを振り向くと、そこには血の付いたハンマーを持った木村が立っていた。
「ああ」木村は戸惑った様子無く、静かに言う。「ちょっと外れちゃったかな、一発でしとめるつもりだったのに」
あまりの突然のことと、木村の異常な行動に戸惑いながらも、田所は立ち上がって後ずさりしながら聞く。
「おま、お前」痛みで言葉がうまく出ない。「いっつ……なん、な……なんで」
「いやー、ずっとむかついてたんですよ、話し方もうっとおしいし、たいしたことしてないのに先輩風ふかすし。特になんか最近むかつくこといっぱいあったけど、よく思い出せないんですよね」
「そ、そんなことで。け、警察!警察に捕まるぞ」
「アッハッハッハ!」木村は声をあげて笑った。「先輩、何言ってるんですが」
「何がだ」
「そんなのな」木村はハンマーを振りかぶった。「関係ないんだよ」
「ひいぃ!」田所が両手を前に出して下がると、左腕にハンマーが当たる。「いぃ!」
右手で当たった場所を押さえていると、また木村がハンマーを振りかぶるのが見え、とっさに踵を返して走った。
「待てゴラ!」
後ろから木村の声と足音が響くが。田所の方が少し早いのか、足音はどんどんと遠くなっていく。
人のいない小道に入り何度も角を曲ると木村の足音は聞えなくなり、姿も見えなくなっていた。
取りあえずは撒けたようだが、まだ探しているだろう。
膝に手をついて息を整えようとしたとき、後ろから人の気配がして振り向くと、そこには知らない男が立っていた。
ほっと胸をなでおろすと、男はこちらに歩きながら言う。
「ああ、田所。俺だよ俺」
田所は不意なことに驚く。まるで友人のように話しかけてくるが、名前が出ないし顔も覚えていない。
「だ、誰?」
「おいおい、忘れたのかよ」男はまっすぐ田所の方に歩き出す。「糸井だよ、糸井」
「いや、知らない」
「あ、そう。まあ別にいいよ」
そう言うと男は懐から包丁を取り出した。
田所は息をのんで後ずさる。
「おい、ちょっとまて。何する気だよ」
「何ってオイ、俺に何したか忘れたわけじゃないだろ」
何をしたのか、まったく思い出せない。
「こ、こんなことしてタダで済むと思ってんのかよ!警察に捕まるだけだぞ!」
男は鼻で笑った。
「ハ、お前馬鹿か。人ってのは人権に守られてる、だから殺した人間は罰せられる。それがルールだからだ。けどよ、お前にルールは適用されないんだ。お前を守るルールは何もない、その辺にいる虫を殺しても罪にならないのと同じく、お前を殺しても罪にはならない」
田所は体を震わせながら、茫然として立ちつくす。
そんな、そんなことって。
「う、うわああああ!」
また、踵を返して走った。
人権はない、殺しても罪に問われない、はたしてどれだけ多くの人間に憎まれている?
考えても何もわからない。ただ、走り続けるしかなかった。
「おい!見つけたぞ!」
次々と知らない男達が現れ田所を追う。
そのつど、捕まりそうになりながらも、何とか走り続けた。
だが相手は大人数、数分もすると田所の体力も限界に近くなる。
それでも、死にたくない一心で走り続けた。
信号が見えたが赤になっていたため、歩道橋を上がっていく。階段を上がりきると突然足から力が抜け、とっさに手すりにつかまる。
血を出しすぎたのか、体に力が入らない。
駄目だ、逃げなきゃ。
そう思い前を向くと、追っ手たちは歩道橋の前からもきており、階段を上がってきていた。
田所を挟み撃ちにした追っ手たちは、もてあそぶかのようにゆっくりと距離を詰めていく。
「嫌だ……嫌だ」
震えた声でつぶやきながら、田所は歩道橋の手すりに足をかけて下を見る。
簡単な怪我では済まない高さであり、車が絶え間なく通っている。それでも落ちるしかなかった。
「先輩」
不意に右から聞き覚えのある声が聞こえ、顔を向けるとナイフを振りかぶった遠野がいた。
「うわ!」
とっさに右手を顔の前に出すとナイフが右手に突き刺さり、その拍子で手すりの外に出る。
体の右側から落下すると、激痛ともに骨の砕ける音が響く。
悶絶しながらも、何とか立ち上がろうと顔を上げると、こちらに迫る黒塗りの車が映った。
「ンアアァァーーッ!!」
知ってるか。
何が。
うちの生徒が、ヤクザの車に引かれて死んだらしいぞ。
え、マジ。
マジマジ、しかもその死体、原型とどめてないぐらいボコボコになってたって。
引かれただけでそんな風になるか?
さあ、どうだろうな。
それで、そのヤクザどうなったんだよ。
それに関しては何の罪にもなってない。
はぁ?警察も金に屈したのか。
違う違う、ひかれたのが田所浩二だったってだけ。
なんだ、そういうことか。それなら納得だな。
ああ、ルールだからな。