今は二〇二三年の六月下旬、攻略の最前線は第三十七層だ。
僕は最前線より下層の全てを活動範囲として救援活動を続けていた。実力では攻略組に入れるとは自負しているが、人を救っている実感が心地良く、直接的な救命活動の方が良いなどと思っていたのだ。しかし、
攻略は予想よりも進まず――僕の考えが甘かった――、
フィールドに誰もいないときも多くなり――プレイヤーの活動範囲、活動時間帯が幅広くなりすぎた――、
犠牲者も緩やかにだが確実に増加し、フレンド登録していたプレイヤーネームが何人も灰色――死亡を表す――になり、もう限界だった。僕一人ではもう満足に人を救うことはできないと自覚させられた。
そんな折、アインクラッドの情報屋によって発行されている新聞によって《黒の剣士》のことを知った。犠牲者が最も多い最前線でソロで戦い続ける少年、あの
訂正しよう。
今は二〇二三年の六月下旬、攻略の最前線は第三十八層だ。
その新聞を見て僕は
思い立ったが吉日と言う。僕は思いきって攻略組に参入することを決めた。
良い機会だったのだ。下でちまちまと人助けをするよりも、攻略を少しでも早くできるように力を尽くすべきだとは気づいていた。自分のやってきたことを否定するようで認めづらかっただけだ。それにボス戦が最も犠牲者の多い場なのだから、直接誰かを助けるにしてもそこに参加するのは当然と言えば当然ではないか。
そう独り言ち、僕は重い腰を上げた。
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~第三十五層~
第三十五層の《ミーシェ》という主街区を僕は拠点としていた。元々少ない荷物をまとめて宿を出る。攻略組に参加するなら拠点は最前線に移した方が良いだろう。
最前線でも通用するとは考えていたが、攻略は久し振りだ、しばらくは迷宮区に籠って体を慣らそうと思う。
しかしその前に、まずは準備をしなくてはならない。僕は第一層に向かった。
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~第一層~
第一層での目的物は《石パン》だ。石パンはその硬さと味のなさから、当時非常に不人気だった食材だ。今ではもっと美味な食材が増えたことと、これすらも買えない貧しいプレイヤーが増えたことによって購入する人間はもうほぼいないだろう。しかし僕は今でも石パンを愛食している。
石パンの長所はその安さと軽さだ。プレイヤーがアイテムストレージに入れておける量は体積ではなく質量で決まっており、軽いことと大量に持ち運べることはイコールだ。加えて石パンの価格は最初期の食材ゆえに非常に廉価で大量購入が容易で、つまりこれを用いることでダンジョン籠りで避けられない食料問題が大部分解決されるのだ。そもそもこれを使わねばならないほどの長期間、ダンジョンから出ずに過ごす人間自体が絶滅危惧種ではあるのだが。
僕は二、三週間ほどソロでダンジョンに潜り続けられることを目安にスキルを育成している。職人レベルまで上げた《鍛冶》で心配される装備の耐久度問題に解決策を提示し、《調合》を用いてアイテムを合成して別のアイテムに変換すれば、ダンジョン内での獲得物で《鍛冶》に必要なアイテムを代用することが可能だ。この二つのスキルのお陰で僕はダンジョン内に長く引き籠ることができる。
《調理》を育てるだけの余裕はなかったので食料は確保できないのだが、そこを石パンで補っているのである。
また、これは予想外なのだが、スキル上げに熱中していた頃に寝る間も惜しんでいたら睡眠時間を減らすことにすっかり慣れてしまった。ダンジョン内で熟睡することは難しいから、長時間の休養を必要としないのはきっと攻略で重宝するだろう。
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~上層~
食料調達の次は装備を整えることにしよう。今まで使っていた防具類は最前線には性能が見劣りするので、これを機に新調する。
《黒の剣士》はその名の通り漆黒を基調としたカラーリングで有名であるから、それに対抗して僕は純白を心がけることにしよう。
僕の戦闘スタイルは回避重視であり、防具は以前から動き易さ重視の布装備だった。今回もチェストプレートすら排した白いコートを選ぶ。
昔から白髪に憧れがあって髪色を白く変更済みであったため、防具を変えただけで白い髪、白い服、たまたま白い剣と白ずくめは完遂してしまった。この世界では汚れが発生しないのでここまで白くとも問題ない。
これで全身余すことなく白だ、と鏡を眺めていたら黒い瞳が目についた。慎重な吟味の末、瞳色を薄いグレーへと変更する――真白にしたら不気味だった――。
防具のついでに消耗品も補充する。と言っても、俗に言う紙装甲のせいで被弾すれば大ダメージ必至、回復する余裕があるかも怪しいため、回復アイテムは本当に最低限だ。
その戦い方とは矛盾しているが、実は僕は余計な荷物を
このカーペットは中にアイテムを収納できるのだ。丸めて運搬するときだけだが、質量依存でなくオブジェクト化して置いたときに占める面積依存でアイテムを格納できる。その間も重さはカーペット分のみであり、商人達にも好評の非常に便利な能力だ。
ただ他のアイテムを格納している間は、アイテムストレージに収納できず背負って移動するしかないため、攻略への持ち込みは不可能とされている。何かを背負っているだけで行動に大きな制限がかかるからだ。
―――これなしじゃダンジョン籠りはできないんだけどね。
《鍛冶》においても《調合》においても、スキルの利用に必要な道具というものがある――《鍛冶》なら簡易炉などだ――。それがなければいくらスキルがあろうが宝の持ち腐れだ。このカーペットの中にはそれらの道具類が一式収められているのだ。
その道具類の調達も終え、ようやく僕は最前線へと足を向けた。
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~第三十八層~
僕が主街区に到着したとき、既に日が落ち始めていた。アインクラッドでは構造上太陽――これも作り物だが――の光はほとんど届かない。代わりに層の天蓋、つまり次の層の地面の裏が発光している。この光は時間によって強さが変わり、夜になると星のように光るのみだ。
何にせよ暗くなることは間違いないので、未経験の危険地帯にこの時間から行くほど僕は酔狂ではない。ひとまずは宿を取って一夜を明かすことにした。
翌朝、起きてみて仰天した。攻略組は層が解放された翌日、つまり昨日に迷宮区までを攻略したのだとか。その間にはフィールドボスという中ボスがいたはずなのだが。《攻略の鬼》と呼ばれる女性プレイヤーが先導しているらしいが、ハイペース過ぎやしないかと心配になる。僕は攻略された三十七層ではなく、開放された三十八層の迷宮区に籠ることに決めた。
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一週間ほど経ち、僕が迷宮区に籠っている間にフロアボスは突破された。
最前線の迷宮区のモンスターは、やはり強かった。しかし脅威度に反し、僕が生命の危機に陥ることはなかった。
その最たる理由はアバターにある。
この世界のNPC、モンスター、プレイヤーは全てが仮想――つまり電子情報――で出来ているにもかかわらず、動く際の
その必要はどこにもないのに圧倒的に余計な手間がかけられており、作成者である茅場晶彦の異常なこだわりが伝わってくる部分だ。
そして僕は最近、その筋肉が動く様子を
全ての動きが想像できれば、避けることは決して難しいことではない。結局この一週間で準備したポーションを使うことはなかった。次の層からは自信を持って攻略できそうだ。
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~第三十九層~
今日から三十九層の迷宮区に籠る。三十八層でマッピングの概略は掴めたので、今回は攻略組よりも早くボス部屋に到達することが目標だ。
進む、モンスターとエンカウント、倒す、進む。単調なそれを繰り返しているとたまに安全地帯――安地を見つける。安地はモンスターがポップせず、ダンジョン内でフレンドメールを利用できる場所だ。
そこで小休止。探索を一日ほど進めていれば、座り込んで武器の補修、ドロップアイテムの調合等をしてから剣を抱いて座ったまま寝る。変な寝方をしても体が痛くならないのは仮想世界の大きな利点だ。
それを五日繰り返したところで、僕は遂にボス部屋を発見した。
―――このまま一回戦ってみようかな。
ボス戦の経験は遥か昔の第一層が最後だ。力試しも兼ねて、僕はボス部屋の大きな門扉を一人で開けた。
部屋の中央でこちらを待ち構えていたボスは比較的小型――ボスとしてはだ――で、全高四メートルほどの大狼だった。灰色の毛並みを持つその狼は身を屈めてからこちらに飛びかかってきた!
しばらくは回避に徹して行動パターンを解析する。狼系モンスターは雑魚敵として頻繁に出現するため筋肉の動きは見慣れている。ボスであってもその派生形に過ぎず、解析は短時間で終わった。
右前脚の爪をすり抜け、腹側から外に飛び出しながら斜め上に斬る。下に潜り込まれると勘違いした狼が腹這いになったことで目の前に落ちてきた背中の上を駆け、誘うように背中を向けて面前に落ちれば、狼はその大顎で噛みつきを繰り出す。しかしその行動は予期していたので、振り向きもせずに剣先を後ろに突き出す。それが弱点の鼻面に当たって狼が怯んだ隙にソードスキルで畳みかけ、スタンした狼に更にソードスキルを重ねる。
向こうの攻撃が当たらずとも、一人で与えられるダメージも高が知れている。ボスのHPバーを最後の一本にする頃には戦闘を始めてから二時間半が経過していた。
―――このまま押しきる!
ボス特有の形態変化で体を膨張させた狼はそれに反して動きも素早くなったが、行動パターンに大きな変化はなく、無事にボスのHPの最後の一ドットを消し飛ばした。そうしたとき、
「ん?」
「――へ?」
後ろの扉から飛び込んできたプレイヤー達は、ポリゴン片――ボスの残滓――を浴びている僕を見て硬直した。その様を面白そうに眺めていれば、いつか見た栗色の髪の少女が集団の中から一歩を踏み出した。
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~side:アスナ~
私たちは第三十九層のボスを倒すために迷宮区に乗り込んだ。情報によればボスは大狼。行動パターンは比較的簡単で、HPバーも最少の3本。攻略レイドも二十人と楽勝の予定だった。三十七層のボスを一人で撃破してしまった《黒の剣士》に対しても、ボス部屋に一人で飛び込むことを禁止してある。やる気に漲った状態でボス部屋の扉を開けると、
ポリゴン片が降ってきた。
部屋の中は明るく、降り注ぐポリゴン片の下にはプレイヤーカーソルのついた白い背中があった。
「ん?」
振り向いたその人物の顔は、色合いは違くともかつて出会ったものに相違なかった。
「――へ?」
我ながら間抜けな声が出た。しかしそれも仕方ない。見当たらないボスの姿。部屋中に降り注いでいたポリゴン片。開いた次の層への扉と明るい部屋。そして一人で佇む青年――その青年は風の噂でソロプレイヤーだと聞いていた――。
これらから導き出せる答えは一つ。また、ボスがソロ討伐された。しかも
痛み始めた頭を押さえて、こちらの様子を楽しそうに窺っている青年と会話するために列を抜けた。
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~side:キリト~
アスナの背越しにボス部屋を眺めて驚いた。それは俺以外にボスのソロ討伐をできる人間がいると思っていなかったのもあるが、その白いプレイヤーのHPがほとんど減っていなかったからだ。
アスナがそのプレイヤーに話しかける。
「貴方は、レントさんですよね? ボスを一人で討伐されたんですか? なぜ、今更最前線に? どこかのギルドに所属されていますか? あと――」
いや、問い詰めるといった感じか。段々とヒートアップしていくアスナを遮り、その白い青年は一つ一つ回答し始めた。
「まま、落ち着いてください。僕はレントです、久しぶりですね。ボス討伐は一人で行いました。死者はいません。今までは下層で救援活動をしていたのですが、少しでも早く攻略した方が全体の助けになるかと思い、この度攻略に参加することにしました。現在はどこのギルドにも所属していません」
ギルドに入っていないという台詞が、この光景を静観していた一人の男を動かした。アスナの横に踏み出しながら片手を広げる。
「それは本当かね。レント君……と言ったか、どうだろう、私のギルドに入ってみるつもりはないかな? 君なら即戦力になりそうだ」
奴は《ヒースクリフ》というプレイヤーだ。最強ギルドと目される《血盟騎士団》の団長だ。攻略等の実質的な指揮は副団長のアスナに任せきりだが、ユニークスキルと噂される《神聖剣》の使い手で、最強プレイヤーと呼ばれている。
そんな奴の誘いを、しかしレントはにべもなく断った。
「お誘いは嬉しいですが、お気持ちだけいただいておきます」
「それは……理由を聞いてもいいかな?」
「僕にはとある目標がありまして。《血盟騎士団》に入ることはその目的に反するのです」
憧れの団長直々の誘いを断った彼に、《血盟騎士団》の面々が不満げな顔をする。
―――少し、マズいことを言ったかな。
《血盟騎士団》は攻略組の中で幅を利かせてきている。彼らに睨まれるのは喜ばしいことではない。
レントはそんな団員達を眺め、何を思ってか軽く肩を竦めた。
「それに僕、貴方に余り良い印象を持っていないんですよね」
ピキンと空気が凍る音がした。団長を嫌いだと公言した彼に、先程よりも明確な悪意が向けられる。《血盟騎士団》の一人が彼に食ってかかった。
「てめ、調子乗ってんじゃねぇぞ、おい! 団長馬鹿にしてんのか! ふざけんなよ、あぁ!?」
「ふざけてなどはいませんよ。本音を言っただけです」
当の本人は涼しい顔をしている。しかし、その言葉は詰め寄っていた重装備の男の火に油を注いだようだった。
「てんめぇ! ぶち殺すぞ!!!」
今にも攻撃を仕かけそうな剣幕だ。この世界での『殺す』という表現は、実現可能性が高い分
「――そこまで。止めなさい、見苦しいですよ。レントさんもです」
アスナが呆れた声で仲裁に入らなければ刃傷沙汰にでも発展しそうな勢いだった。本来止めるべき立場のヒースクリフはそれを面白そうに眺めているだけだ。俺もこいつが嫌いな点に関しては彼と同意見だった。
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~side:レント~
敵対意識を向けられるとついそれを跳ね返してしまうのは悪い癖だ。アスナは仲裁した流れで場を締める。
「戦力が増えるのは嬉しいことですので、レントさんも次の層からは他の攻略組と連絡を取り合ってください。そうでないと今回のようなことになってしまいますので」
「分かりました。これからは一人で飛び込むのは止めることにします」
「そうしてください。他の皆さんも、レントさんは新しい攻略組の一員です。歓迎しましょう」
副団長の言葉に、燻ぶっていた《血盟騎士団》のメンバーも首を縦に振った。
―――これで受け入れられた、かな。
そのまま攻略組と混じって開放された四十層へと足を向けた。
第四十層は全体的に牢獄がテーマとなっているようだった。物資は未だ十分にあり主街区に行く必要がなかったため、僕は早々に攻略に取りかかることにして隊を離れた。団長と副団長を除いた《血盟騎士団》の団員から憎々し気な目線を背中に感じるが、アスナの言葉もあり、彼らとてオレンジになる気はないだろうから気にする必要はないだろう。
SAOのシステムでは、盗みなどの犯罪を犯した者のプレイヤーカーソルはオレンジに染まり――システムの抜け道は多々あるが――、オレンジプレイヤーと呼称される。カーソルがグリーンのプレイヤーにダメージを与えてもカーソルはオレンジ色になるのだが、オレンジプレイヤーになると主街区への立ち入りが禁止されてしまうのだ。転移門は主街区内部にしかないため、《転移結晶》というレアアイテムを使うか、迷宮区を通る以外に階層を移動する手段がなくなってしまう。オレンジを解消するにはカルマ回復クエストという七面倒なものをクリアしなければならず、望んでオレンジになりたがる者は一部を除いていない。
だから彼らのことは一旦頭の隅に追いやって、素直に目標を達成できたことを喜んでおこう。
今日から僕の最前線での暮らしが始まる。
ハーフポイントの第五十層は目前に迫っていた。
実はこれ書き溜めしていた分で、特典小説から書き直したんですよね。まあ、数字を変えただけですけど。