迷宮区では音がよく響く。言葉で表現できないほどに微細な振動も同様に。空気が揺れるのだ。ゲームであるのに、体を動かしたときに環境に与える影響はすぐには消えず、距離に応じて次第に減衰していくようになっている。
なぜ茅場はここまで精巧にSAOを作ったのだろうか。やはり初日に言っていたように「異世界を作りたかった」のか。ここまで物理法則が再現されていると、確かに異世界と言っても差支えがないのかもしれない。
総じて何を言いたいかというと、実に不思議なことなのだがSAOでは人の気配が感じられる。
―――四人……かな。
感覚を研ぎ澄ませれば人数まで把握できる。遅れて《索敵》スキルの範囲に入り、スキルが反応を示す。その数はきっちり四人。自分でもまさか《索敵》よりも高性能な感覚を得ることになるとは思わなかった。
これができるのは自分の周囲が静かなときに限るのだが、ソロの僕なら戦闘中以外であればほぼいつでもこの条件を満たすことができる。装備品が全て布製なため、移動程度では自分から音は立たない。
人の気配がしたとき、僕はすぐに身を隠すかその場を離れるようにしている。ソロというのは集団からあぶれた半端者であり、攻略組では殊更に珍妙なものだ。気性の荒い者に見つかって難癖をつけられてはたまらない――三十九層でのこともある――。もちろん、いつもいつも隠れるわけではなく例外はあるのだが。
さて、今回はそんな例外だ。気配の数は一つ。《索敵》で捕捉されたのも一人。あちらも《索敵》は相応に高めているので既にこちらも捕捉されているだろう。そう思っていると、角を曲がってその人物が姿を現した。
「よ、レント。やっぱりいつも待ち構えてるよな」
「キリト君こそ。曲がってすぐに出てきたっていうのに眉一つ動かしてない」
最前線の迷宮区に一人で潜るような阿呆は僕と彼だけだ。お互いに気づいたときにはいつも合流するようにしている。気兼ねしなくても構わない相手なら、一人より二人の方が安全だからだ――結局は方針の違いから一つの集団としてはうまくいかなそうだが――。もう敬語も使わないほどには打ち解けられており、素直に喜ばしいと感じる。
いつものように二人で迷宮区攻略を再開する。ここは四十七層。順調に攻略は進んでいた。
攻略の進行に遅れず、僕も着々とパワーアップを続けている。先述の通り気配を感じ取れるようになった。敵mobの筋肉の動きも初見で分かるようになってきた。骨格筋を見て取れる技術はプレイヤーに対しても応用でき、対オレンジプレイヤー戦ではかなり余裕を持てている。空間把握能力の成長に伴って集団戦でもレイド全員の動きを把握し、その上で最近はHPの減り具合も測っている。援助のための情報は、僕に各人の防御性能を教えてくれていた。
やはり実力者と共闘をしていると、戦闘中に余計な思考をできる程度に楽をできる。キリトもソロであり互いの動きを理解しているという点も大きいだろうが、黙々と迷宮区を踏破していく作業がまるで苦ではない。
ふっ、と視界が開ける。そこにはこちらを見下ろすように門扉が立っていた。
「これって――ボス部屋……だよね?」
「だろうな。はぁ、この情報をすぐ《閃光》様に伝えないとな」
ハハハと自嘲するような乾いた笑い声が隣から聞こえた。
キリトは数多のボス部屋を発見してきたために、「またお前か」という目を向けられるのだといつだか愚痴を零していた。それを笑ったのだろう。
《閃光》というのはアスナの通り名だ。目で追えないほどの速さの剣筋が光のようだと名づけられたらしい。
―――昔から剣は速かったからなぁ。
それにしても、ボス部屋の扉を見ると衝動に駆られそうになる。飛び込みたいという思考がどうしても止まらなかった。
******
~side:キリト~
ボス部屋を見つけたときからレントの挙動が不審だ。かく言う俺もかなりキョドッている自覚がある。男は皆、好奇心に生きる生き物なのだ。
「な、なぁレント。偵察ぐらいはしてもいいんじゃないかと思うんだが、どうだ?」
「でもアスナちゃんには飛び込むなって言われてるからなぁ……」
「それは『一人で』だろ? 今ここには『二人』いるじゃないか」
自分でも詭弁だと思うが、レントは少し迷う素振りをしてから頷いた。
「よし、行こう、キリト君!」
予想以上に目がキラキラしているのは見なかったことにしよう。
ボス部屋に飛び込んで相対したのは、両手に二本の曲剣を装備したラミアだった。HPバーは三本。固有名は《ザ・ラミアウォーリアー》。下半身は緑色の鱗を持った蛇のもので、頭髪と眼も濃緑色だ。上半身は人間の女性の体だ。胸にさらしを巻いているだけで他に衣服は身に着けていない。
ドガッ
レントに小突かれた。べっ、別に胸を注視していたわけではない! いや、良い体とか思ってないから! 全然っ!
******
~side:レント~
キリトは女性耐性がない――僕も人のことを言えるような経験値はないが――。ボスに鼻の下を伸ばしそうな雰囲気につい手が動いてしまい、もう少しでダメージが入って僕がオレンジ化するところだった。危ない。
冷静になって観察を続けると、ボスの体はヌメヌメしていて打撃攻撃が余り効かなそうだと分かる。
動かないこちらに痺れを切らしたのか、ボスが下半身をくねらせ突撃してきた!
―――速いッ!
どうやら体の粘液を使って滑るように移動しているようだ。すれ違いざまに斬りつけてみたが、鱗に弾かれてしまった。
「キリト君、どうする? 下半身は攻撃が効かないっぽいよ」
「なら……上を斬るッ!!」
キリトはボスが再度突っ込んできたタイミングで跳ぶ。そうして上半身まで剣を届かせる! HPが視認できるほどに減るが、それでもボスは止まらない! 僕が降ってきた曲剣を軽くサイドステップで躱すと、もう片方の剣が地面と平行に横薙ぎで襲ってくる。今度は軽くジャンプし飛び越え、一瞬のチャンスを逃さずに曲剣の腹を蹴って二段跳びで更に上から襲ってきていた剣を躱す。そこから連撃系ソードスキルの《ホリゾンタルスクエア》を放ちダメージを与える。技後硬直は落下中に解け、着地と同時に地を蹴って尾を避けながら距離を取る。
「相変わらずとんでもない戦闘センスだな。硬直時間があと一秒でもあったら吹き飛ばされてるぞ」
キリトが賞賛の声を上げるが気にせず、次の攻撃を仕かけるラミアに意識を集中する。今度は両方の剣で叩き潰しつつ、尾で退路を防ぐ気のようだ。
ならば、
ギリギリの見切りと体捌きで剣を避ければ、後退しなかったため尾は見当違いの所を通る。ラミアがもう一撃放とうと剣を振りかぶろうとしたところに向かって跳び、上に引き上げられる曲剣の背に乗る! そのままラミアの頭上まで昇り、頭に飛び移った。
******
~side:キリト~
相変わらずあいつの動きは異次元だ。未来が見えているのではないかと疑うほどの回避技術をレントは備えている。が、いくらなんでもあの集中攻撃に対して動かない選択肢を選ぶのは頭がおかしいだろう。未来が見えているならもっと安全に避けろと叫びたくなる。
それに巨大化しているとはいえ剣の背に乗るとはお前は牛若丸か! その変態機動のせいなのか、ラミアのヘイトがこちらには一度も移らない。
―――俺も相当ダメージ入れてるんだけどな……。
攻撃が中々向かってこないためむしろ俺の方が多く攻撃しているはずなのだが、ラミアは周辺をつかず離れず動き回るレントを叩き潰すことに執心していた。
頭上まで移動したレントが四連撃の《バーチカルスクエア》を放つ! 滑らかな三撃を終え、最後の一閃がボスに深く切り込まれた! そこで、
剣が止まった。
ラミアの髪が意志を持ったようにうねうねと動き出す! 剣が髪に絡まって抜けなくなったのだ! レントはすぐに飛び降りてきたが、その手に剣はない。声をかける暇もなく、ラミアが尾を発条のように使い上空に飛び上がった!
落下点の予測――できない! 手を広げ体をくねらせながら落ちてくるラミアは、どこに落ちるか予想がまるでつかない。
「キリト君! 左右に散開!」
レントの声に合わせ左右に散開する。ラミアは直前まで俺達がいた場所に地響きを立てて落ちた。そして間髪入れず体を仰け反らせて蛇の体を再び発条のように使い、仰向けのままこちらに飛んできた! 両手の曲剣で二人を同時に真っ二つにする気か!
避けられる隙間はなく、俺は剣で地面と平行に迫りくる曲剣を受け止めることを強いられた。そしてその勢いで背後に飛ばされ距離を取る!
―――レントは剣を持ってない……!
バッとレントを振り返れば、俺と同じように弾き飛ばされていた。その体は両断を避けたようで、さっきとは違う白い剣を構えている。あの剣を見たことはある。前に趣味で鍛えている剣だとレントが言っていた。ゆえにあの剣自体は問題ない。問題は、
SAOでは装備を変更するためにはシステムウィンドウを操作しなければならない。《
―――どういうことだ?
******
~side:レント~
変に聡いところのあるキリトの前では見せたくなかったが、命と引き換えにはできない、仕方なかった。
今装備している剣は《ソウル・ソード》という自作のものだ――自作の剣は自分で名前を決めさせてほしい――。この剣は、使っていた剣が現役落ちする度にインゴット化して合金にし融合させてきた剣だ。ある意味で思い出を詰め込んだ剣とも言える。普段は壊さないように使わないが、実は――素材が詰め込まれているためか――魔剣クラス並みの強力な剣だ。
再び突進してきたラミアをすれ違いざまに斬る。体勢を整えたキリトも攻撃を仕かけた。この剣まで使ったんだ、ラミアの一体や二体倒さなければ割に合わないというものである。
―――このまま決める!
******
~side:キリト~
ラミアはもう瀕死だ。レントとアイコンタクトを交わす。ラミアの曲剣を俺が両方ともパリィする! 剣の重さに腰が落ちた俺の背中を、背後から駆けてきたレントが踏みきって跳ぶ! レントは《ソニックリープ》で前屈みのラミアを斬りながらその頭上まで駆け上った! そして
―――は? はぁ!?
色々とおかしいだろ!!
まず! 装備してた剣はどこ行った!! どうして刺さったままの剣でソードスキルが発動できた!!!
ハァ……ハァ、そもそもSAOでは両手に武器を持つことはイレギュラー装備状態でソードスキルは発動できないはずだし、手から離れて一定時間経過した武器は再装備にタブ操作が必要だがそんなことは当然していない。訳が分からないんだよ!!!」
その内心の叫びはどうやら声に出てしまっていたらしく、レントが苦笑しながら口を開いた。
「あー、と。その答えは僕が持っている一つのスキルの効果なんだよね。――実は、僕は《武装交換》を
―――……?
言っている意味は分かるが理解したくなく、思考が止まる。
俺とて片手剣スキルはフルコンプした。攻略組の中には二、三種類のスキルぐらいコンプしている奴がいてもおかしいことではない。しかし、あの《武装交換》はとても……その……地味なのだ。
スキルの熟練度を上げるには基本的にはそのスキルを使いまくるしかない。《武装交換》ならタブをひたすら操作するということだ。退屈でつまらない作業の上に、そのスキルは大した成長もないために現在では育てている人間は皆無のはずだった。
「このスキル、フルコンプするまではまるで成長がないんだけど、コンプ特典で武器に関するタブ操作を思考操作できるようになるんだ。それの応用」
そんなものチートに近いではないか。戦士職においてタブ操作は鬼門だ。しかし、コンプ特典とは茅場め分かっている、と臍を噛む。頑張ったご褒美というわけか。
だが、それよりも、
「じゃあ、刺さったままの剣でソードスキルを発動させたのは? あれは流石にそのスキルじゃないだろ……?」
「あれは体の捻りでソードスキルを発動させたんだ。体勢がどれだけ崩れてても、上下逆であっても、規定されたポーズさえ取れば発動されるからね」
「いや、そりゃそうだが……。体の捻りだけでソードスキル起動とか、段々人間離れしてきたなお前……」
―――もう突っ込まないことにしよう。
そう心に決め、俺達は四十八層のアクティベートをしに向かった。
ちなみにこの後、二人でアスナに
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たまに、レントは同じ人間なのか不思議になることがある――まさかAIではないだろうから、流石に人間なのであろうが――。
迷宮区で会って行動を共にするときは世間話に互いの生活を話したりするのだが、あいつは迷宮区に住んでいるような生活を送っている。しかもそのために食料を
探索中もトラップを躊躇なく踏み、危なげなくそれを解決してしまう。《鍛冶》や《調合》のスキルまで備えて自給自足を徹底し、それに必要な
他にもソロプレイヤーのくせに他の攻略組への援助をアルゴを通して行ってもいる――俺は受け取っていないが――。本人に聞いたときは、「ソロプレイヤー『なのに』じゃなくて、ソロプレイヤー『だから』余裕があるんだよ」などと返されたが、同じ立場の俺からすればイカれているとしか思えない。
リアルでは何をしていたんだか。プレイヤー間のリアル事情の詮索は暗黙のルールで禁じられているが、見た目から推測するに大体十八くらいの若さだろうか。
俺に分かるのはそれだけ。俺には探偵の素質が無なのだろう、彼が何者なのか、本当に見当がつかなかった。
段々と人間離れしていく主人公でした。