三月二十七日十二時頃。
―――ドクン。
口に含んでいた飲み物を吐き出すところだった。突然、胸に衝撃のようなものを感じた。
嫌な予感、虫の知らせ。そういった類の代物。一度激しく自己を主張した心臓は今も鳴り止まない。耳の奥で太鼓のように力強い音が聞こえる。
半ば以上終わっていた昼食をかき込み、流し台に食器を放置する。身支度を急いで調え、駅へと走った。
生命の危機が常に迫っている木綿季の元へ。頭の奥で木綿季の病室がチラチラと瞬く。
横浜港北総合病院。いくら通い慣れようとも所要時間が短くなるわけもなく、到着までに一時間以上かかってしまった。
エントランスに駆け込み、受付に向かう。いつものように簡略化された手続きが今ばかりはありがたい。
廊下を走らない程度の速度で歩く。
曲がり角を曲がり、廊下を見た僕は絶望した。
木綿季の病室のドアが解放されていた。
いつも面会のために入る方ではない。メディキュボイドが設置されている方の無菌室だ。木綿季が何かに感染しないための、無菌室。それが開いているということは、もう、無菌にする必要がないということ。
それは木綿季の『死』を嫌でも想起させた。
足音を気にする余裕もなく、僕は病室へと飛び込んだ。メディキュボイドが接続されたベッドの脇には倉橋医師と三人の看護師が立っていた。こちらを見て倉橋は驚く。
「っ翔君!? どうしてここに!?」
「……嫌な、予感がして。――木綿季はっ……?」
一瞬、目をギュッと瞑ってから、倉橋は僕の目を真っすぐ見た。
「先程急に容態を崩して、今はなんとか持ち直したけれど、もう次はない」
「ッ……。……ありがとう、ございます」
「……こちらこそ、僕じゃできない心のケアを全面的に任せてしまったからね。今までありがとう、翔君」
気づけば三人の看護師はいなくなっており、病室には僕と倉橋と木綿季だけが残っていた。
僕と倉橋は黙って木綿季の顔を見つめた。日の光に長いこと当たっていない肌は不健康に白い。全身から肉は落ちて骨ばっている。明らかに憔悴しきった身体。枕元の心拍数モニターで、心拍がかなり緩やかになっていることがやけに強調される。
木綿季の瞼が震えた。
「木綿季っ!?」
「木綿季君!!」
「――……ぇ‐……――――ぅ……ぉ――……」
その声は最早、声と言うべきでないほど弱々しかった。かなりの間言葉を発していない木綿季の咽喉では、これだけの音しか奏でることができなかった。
それでも僕と倉橋は駆ける。僕は隣室へ、倉橋はメディキュボイドの操作パネルへ。
「翔君……? 木綿季君は君を待っている。早く行ってあげなさい」
扉の前で立ち止まった僕に倉橋は不思議そうに声をかける。僕は後ろを振り向かずに、できるだけ震わせないようにして声を紡いだ。
「……明日奈ちゃんには連絡を入れておきました。彼女も隣室へ通してあげてくげさい」
「もちろんだ。相変わらず、君は仕事が早いね」
「それと、――倉橋
「…………」
何かを飲み込むような音が聞こえた。
「――ありがとう。……僕は、父親代わりになれたつもりだったけど、駄目だったみたいだ。行ってくれ、翔君。…………木綿季を頼んだよ」
「はい」
その声は僕と同じく、震わせないように全力を尽くされていた。
******
ALOにログインする。最後にログアウトした場所から目指す場所までの最短距離を即座に辿り始める。一度アインクラッドの外縁から外に出てしまい、階層を翅で直接移動する。
二十四層、以前ユウキが絶剣として辻デュエルを行っていた巨木のある小島。そこで、紫色の妖精は静かに佇んでいた。
「やあ、ユウキ」
「レント、えと、こんにちは。かな」
片手を上げる。ユウキも笑いながらそれに応える。その顔はいつにも増して白いように思えたが、夕日とのコントラストが美しい。今にも砕けそうな陶磁器のような美しさだった。
「ありがとう、レント。今まで、本当に幸せだったよ」
「それは良かった。僕もユウキといられて凄く楽しかったよ」
手が届くところまで近づく。隠し切れない震えがユウキの身体に見られた。
「実は、ユウキに最後のサプライズプレゼントがあるんだ」
「えっ。そんなの聞いてないよ!?」
「サプライズなんだから言ってるはずがないでしょ。必死に練習したんだから」
少し下がるようにユウキに手で指示する。ユウキは大人しく後ろに下がり、巨木の根に腰かけた。それを目の隅で確認し、僕は大きく深呼吸する。システムウィンドウを開いて操作する。
―――ここで失敗したらとんだ笑い者だね。
風が吹き抜ける。巨木から葉が舞う。
落ちていく葉の一枚一枚を認識する。ユウキが浅く息を吸った。波が小島の岸に届き、静かに返っていく。
その全てを把握し、僕は自分の動きを限界まで制御する。
一撃目。やや正中線よりに構えた右手の剣を、自分から見て右上に思い切り振るう。
―――ユウキと初めて出会ったのは、たしか格ゲー系のVRMMOだったっけ。
二撃目。剣に逆向きの力を加え、左下に斬り下ろす。
―――他のVRMMOでも再会する度に一緒に行動したよね。
三撃目。ほぼ地面と平行に左に斬り払う。
―――AIDSのことを知ったときは本当に驚いたよ。
四撃目。地面に着くギリギリまで一気に振り下ろす。
―――必死に遠ざけようとしたところを僕は踏み込んで行ったんだよね。
五撃目。手首のスナップを利用して左上に素早く剣を動かす。
―――和解してからは距離がかなり縮まったのを感じたな。
六撃目。弧を描くように剣先を左上に持っていく。
―――ALOに来ているとは夢にも思わなかった。
七撃目。今度は右下に向かって剣を進める。
―――余命のことを知ったときはとても悲しかったよ。
八撃目。丁度三撃目を逆になぞるように右に薙ぎ払う。
―――それでも、知らなかったら僕はどれだけ後悔しただろうか。
九撃目。右下に向かって突きながら斬る。
―――明日奈ちゃんも必死に追いかけたよね。
十撃目。最後に向けて思いきり斬り上げる。
―――一緒に沢山の想い出を作れて嬉しかったよ。
十一撃目。真上から中心に唐竹割り。
―――今まで、ありがとう。ユウキ、木綿季。
剣は大地にめり込んで止まった。同時に、限界まで感覚を働かせ、急制動をかけ続けて生み出した斬撃の跡が浮き上がる。十の剣筋が大きな斜め十字を描き、その中央を一本の縦線が通っている。その背後に巨大な羊皮紙が表示され、斬撃が写し取られた。それは縮みながらくるくると丸まり、封蝋のように紋章が現れて片手サイズの巻物となった。そしてその前にホロウィンドウが浮かぶ。
「い、今のって……。ボクのOSS……?」
「うん。斬撃にリメイクした、ユウキの十一連撃だよ」
「……凄い。こんなに綺麗だったんだね――」
「それで、ユウキにはこの技の名前を決めてほしいんだ」
これをユウキに見せるためだけに、ここ最近は必死に練習していた。
「ユウキに名づけてもらったソードスキルがあることで、ユウキのことを手放さないでいられるかな、って」
それも、ただそのためだけ。何か、証を残したかった。ユウキと僕が関わっていた証を。
「っ……。じゃあ、――《シスターズ・メモリー》」
「《
「っ、ありがとうはっ、こっちの台詞だよっ……」
ユウキがしゃくりながら、言葉を紡ぐ。
「ボクッ、ボク……ちゃんと、レントの記憶に残れたっ……?」
「うん、もちろん。ユウキは記録にも残っているし、当然僕の記憶にもしっかり刻まれているよ。これで天国まで追いかけなくて済んだよ」
「ふっ、まだそんなこと考えてたの?」
ユウキが微かに笑う。その頬には僅かに赤みが差してきたような気がする。
「さて、と。そろそろアスナちゃんが来ると思う」
「――行っちゃうの……?」
「少しだけね。ここのアミュスフィアはアスナちゃんが使うだろうから、僕は持ってきた自分のを使って入り直すよ」
寂しそうな顔をしたユウキの心配を笑い飛ばす。
「だからその泣き顔をどうにかしておきなね? アスナちゃんが来たときに驚くよ」
「……うん! 分かった」
僕は左手を振り下ろし、一旦ログアウトする。
目を開ける。アミュスフィアを外し、サイドテーブルに置く。メディキュボイドの部屋に戻ると、丁度明日奈が入ってきたところだった。何かを呟いた明日奈は、――以前使って勝手が分かっているのだろう――僕がいた部屋に入っていった。
僕も木綿季の様子を確認し声をかけ、すぐに隣の部屋に入る。機器を確認していた倉橋を含めて三人の間に会話はない。それでも、何も問題はなかった。
持参していたアミュスフィアを準備する。先程は時間が一秒でも惜しかったため置いてあった物を使っただけだ。アミュスフィアが起動してネット回線に繋がるまでの時間ですら勿体なく感じる。
僅かな時間を経て、再びALOへと意識を飛ばす。
瞼を開くと、夕陽の橙色の光の中、ユウキが糸が切れたように倒れるのが見えた。
「「ユウキッ!?」」
遅れてアスナもいることを確認する。倒れたユウキの両サイドに僕らは寄り添う。
「変だな……。痛くも苦しくもないのに、なんか力が入んないよ……」
ユウキは精一杯言葉を舌に乗せる。一音一音、しっかりと確認するように。
「アスナ……。これ、受け取って」
そう言ってユウキが持ち上げたのは、丸まった紙。
「ボクのOSS。名前は、《マザーズ・ロザリオ》。さ、ウィンドウを」
アスナが言われるままにトレード窓を展開する。
「本当に、私が受け取っていいの……?」
その言葉には僕への配慮も含まれていただろう。
「うん、アスナに受け取ってほしいんだ。それに、レントにはもう渡せたから……」
そう言いながらユウキはトレード窓にOSSを入れた。
「きっと……、アスナを助けてくれる」
「――ありがとう、ユウキ。約束するよ。いつか私がこの世界を立ち去るときが来ても、その前にこの技は必ず誰かに伝える。あなたの剣は、永遠に絶えることがない」
「うん……、ありがとう」
誰かの翅の音がした。そちらを見れば、スリーピング・ナイツの面々が駆け寄ってきていた。
「みんな……。見送りはしないって、約束したじゃん……」
「見送りじゃねーよ。喝、入れに来たんだっ……」
キリト達も小島に来る。それぞれがユウキに声をかけた頃、空をプレイヤーの集団が埋めた。
「凄い……。たくさんの妖精達……」
ユウキは今まで沢山の人とぶつかって、笑い合った。その繋がりがこの光景を生み出した。
「ボク……、生きてる理由を探し続けていたんだ……ずっと。でもね、ようやくその答えが見つかった気がするよ。――意味なんてなくても生きていていいんだ、って。だって、最期の瞬間がこんなに満たされているんだから……」
ユウキの言葉が薄くなっていく。
「私、私っ。いつか、必ずもう一度ユウキと会うから。どこか、違う場所、違う世界であなたと巡り合うからっ……」
アスナの頬を堪えきれない滴が流れていく。その後を僕が継ぐ。
「だからさ、ユウキ。そのときには教えて、ユウキが何を見つけたかを……」
きちんと発音できたかは分からない。現実なら堪えきれるはずの涙が、零れる。
ユウキが、何か呟いたように見えた。
******
~side:ユウキ~
意識が消えていく。最期に姉ちゃんが笑っていたような気がする。大好きな人達に囲まれて新しい旅に出れるのは、なんて幸せだろう。
瞼はもう開かない。
そう、思っていた。
ふと、体が軽く、動くような気がした。
瞼を開くと、先生に部屋を貰うまでのような暗闇があった。
驚愕と恐怖が同時に襲ってくる。
―――ううん。ボクは頑張らなきゃ!
首を振って、恐怖を振り払う。
「やあ、君がユウキ君かな?」
「だ、誰っ!?」
さっきまでボクは確実に一人だったはず。振り返ると、白衣の男が佇んでいた。
「その答えは後で教えてあげよう。それよりも、私は知人、いや友人の頼みを聞きに来たのだが」
「え……?」
「君に一つ、聞きたいことがある。――君は、身体を捨てたいか? ここで生きたいか?」
「それってどういう……?」
「もちろんリスクはあるが。現実の体は当然死亡する。死亡した存在ということになるから、軽々しく行動するわけにはいかなくなるな」
こっちの話を聞いているのかいないのか、話を勝手に進める男。
「どういうこと? ボクは死んだんじゃないの……?」
「それはどこを死の判断基準とするかによるが、もう時間がないことは確かだ」
「あなたが言ってたのはどういうこと?」
「簡単に言えば、メディキュボイドを通じて君の意識を電子空間に写し取るということだ」
「みんなとは……?」
「先程も言ったが、人との接触は可能な限り避けるべきだ。――信頼できる者だけなら構わないだろうが」
「…………」
「さあ、どうする? 悩んでいられる時間はそうないぞ?」
視界の隅、真っ黒で無限に続いているように思っていた空間が狭くなっている。何もない空間でも、そこにあったということが分かってくる。
「――お願い、します」
「それは、私の手を取るということかね?」
そう言って男は手を差し出してきた。
ボクは、その手を握った。
「契約成立だ、ユウキ君。さて自己紹介といこうか。私の名前は、茅場晶彦。これからよろしく頼む」
世紀の大犯罪者はそう言ってボクの手を握り返した。
「え、ええぇぇええぇえええぇぇええ!?!!??」
******
~side:翔~
今日は木綿季の告別式があった。
木綿季の家族が住んでいた家。その近くの教会にてそれは行われた。木綿季の死が近づいてから土地の利権を求めてやって来たという親戚だが、一応は故人のことを考えたのかもしれない。
その葬儀には、恐らく喪主側の予想を遥かに超える人数が参列した。木綿季は現実での繋がりをほとんど持っていなかったが、旅したVRゲームで出会った人々、最期に辿り着いた妖精の国で築いた絆、僕と明日奈を通じて得られた学友、その多くが木綿季の告別式に参列した。そのせいでオフ会のような態を為してしまったが、木綿季なら笑って許してくれるだろう。
家に帰ってきた僕は、制服を脱いだ。
そのままいつものようにアミュスフィアを手に取ろうとして、止めた。流石に今日は気分が乗らない。
代わりというわけではないが、パソコンを立ち上げた。
ピピピッピピピピピピピ
それと同時にメールの着信音が大量に鳴り響いた。
「ふぅ。…………やっとか」
木綿季が逝った日、あの後ログアウトした僕と明日奈を待っていたのはドタバタだった。木綿季の命が絶えるそのときその瞬間に病院のブレーカーが落ちたのだ――アミュスフィアにはバッテリーが内蔵されている――。すぐに予備電源に切り替わったそうだから何も問題はなかったらしいが、電源が落ちた原因は瞬間的にメディキュボイドに高圧電流が流れたことらしく、それの調査を始めなければならず倉橋はとても忙しそうだった――悲しみで潰れないようにという上層部の好意なのかもしれないが――。
僕はその停電の原因を知っていたし、原因を作ったのも僕だが、頼んだことが実現されたかの確証が持てていなかったのだ。
メールは以前僕が心当たりに送ったアドレスの全てから同じ文面で帰ってきていた。それはとても短かったが、依頼は果たされたことが分かった。
『借りは返した。 ヒースクリフ』
彼はそういう男だった。
これにてマザーズ・ロザリオ編は完結となります。.5話はスペースが余ったので最後にぶち込んでしまいました。
気づけばお気に入りが四百件超えていました。ありがとうございます。
次話はオリジナルで、最終話ということになると思います。